距離(Distance)
……くん、丁度社員寮に一部屋空いていてね。どうかね?」
「社員寮、ですか?」
「ああ。とは言っても借り上げのマンションみたいなモノだけどね。2LDKとやや手狭だが、会社から近いし」
「バストイレ付きですか?」
「……今時それは当たり前だろう?」
それはお昼過ぎの、3時休みがほどほどに迫った頃の会社の上司との会話。
今の会社にようやく慣れて、仕事が軌道に乗ってきた本日の会話だ。
「うー、どうしようかな」
お湯に口元までつかり、ぶくぶくと言葉を水に沈めて呟く。
かぽーん、と桶が響く音をBGMに私は悩んでいた。
今の住まいを出て、住み心地の良さそうな社員寮に移るかどうか。
「回答は早めにね。部屋のオーナーとの契約が切れちゃうから」
そう、上司は言っていたっけ。
「悩むなぁ」
ぶくぶく
見渡せば広い浴槽。それもそのはず、ここは近所の銭湯だから。
時間が遅いのか、はたまた大抵の家にはお風呂が備え付けてあるために来る必要がないのか、お客は私の他に3人くらいしか居ない。
「やっぱり部屋にお風呂があるのは便利だろうなぁ」
あとトイレも。
今の住まいはトイレは共同。お風呂はこうして近所の銭湯に足を運ばねばならない。
「うー」
ぶくぶく
「うー」
ぶくぶく
気が遠くなってきた。
「……のぼせちゃう」
ざばぁ
私はぼーっとした頭で広い湯船から出てそのまま浴室を出た。
着替えを入れた籠からタオルを取り、そのまま備え付けの扇風機の前までふらふらと歩く。
扇風機に向かって、
「あーーー」
声を出しながら息を吹きかけると、途切れ途切れに聞こえる。
涼しい風と、己の声とで次第に意識がはっきりしてきた。
背後に呆れた感じの番頭のおばあちゃんの視線を感じつつ、私は体を拭いて着替えて外へ。
ざーー
「あれ?」
外は、雨が降っていた。
結構本降り。これでは、
「濡れちゃう、どうしよう」
星一つ見えない空を見上げて、そこに切れ間がないことを確認。
「どうしよう……」
繰り返す言葉。
「どうしたの?」
そんな独り言に、背後からの応えがあった。
振りかえればタオルを肩にかけたお隣さん。
その手には広げられた折りたたみ傘が握られていて。
「梅雨だしね」
静かな笑顔で言う彼は、
「帰ろうか」
「はい♪」
思わず私も笑顔で応え、傘に入れてもらう。
「なんだ。悩むこと、なかったかな」
「ん?」
私の一人言に彼は首を傾げる。
「なんでもないっ」
帰り道、彼との距離が近いのは傘が折りたたみ故に小さかったからってことで。
この距離を広げる必要なんて、ないよね。
了