見上げる俺の視界は、一面の星空だった。
 静かな静かな星空。
 だけれども、耳が痛くなるような静かなじゃない。
 心が安らぐ静かさだ。
 その星空の真ん中に光の線が生まれた。
 僅かに弧を描く、冷たい光を放つ線。
 僅かだったその光の線はやがて面となる。
 星空に浮かぶ面となった光はやがて弓なりとなり、半円へと姿を変える。
 そう、これは月だ。
 夜空に浮かぶ月である。
 月の放つ光は強く、周りに浮かぶ星々の存在を次々と幽かにしてゆく。
 月は半円からさらに育ち、冷たい光は強くなる。
 暗い夜空は光の下にさらされ、星達は何も言わずに消え行く。
 そうして―――静かな夜空に浮かぶのは満月ただ一つ。
 自らの姿を完全にさらした、隠し事のない月だ。
 たった今まで、至る所で輝いていた星々のために狭ささえ覚えていた夜空。
 今はやけに広く感じられる。
 何故なら眩く輝く月一つだけだから。
 心安らぐようだった静けさは、今やどこか不安を感じさせるものとなり、耳に痛さをも感じる。
 それ以上に。
 輝く月自体に言いようのない寂しさが満ちていた。
 自らの姿をさらした故に、一人きりになった寂しさ。
 孤独は、無人の夜空の中では耐え難い苦痛。
 俺の胸に言い様のない息苦しさが襲う。
 いくら深呼吸をしても取れることのない。
 その時、風が吹いた。
 丸い月が一杯に映っていた俺の視界に変化が訪れる。
 まるで覗いていた望遠鏡がズームアウトするような感覚。
 風に揺れる草原の海の上、満月は蒼天に輝いている。
 草原の真ん中には一人の乙女。
 月光を透過する長い髪が風の中に揺れていた。
 身に纏うは異国の衣装。
 音のない世界、天の月と同じ表情で彼女は異国の言葉を紡いだ。
 その意味は俺には分からなかったが、気持ちは伝わる。
 俺は彼女へと手を伸ばした。
 孤独なこの世界から連れ出してあげたい。
 だから俺は手を伸ばす。
 けれども、月の乙女は黙って俺を見つめるだけだ。
 まっすぐな視線だった。
 手は届かないけれど、交わった視線から分かったことがある。
 寂しい――この感覚は彼女にはあるけれど、その意味を知らないのだと。
 だから俺は手を伸ばす。
 精一杯、手を伸ばす…………………


月齢


 「おはようございます、太助様」
 目を開くとそこには月はなかった。
 代わりにあるのは、穏やかな微笑を浮かべるシャオの顔。
 暖かな陽だまりを思わせるシャオは、俺の夢を緩やかに溶かして吹き消してくれた。
 「お、おはよう、シャオ」
 顔が僅かに赤らんでしまったのを隠す為、上体を起こす。
 ぽて
 拍子に俺の胸から小さな人形が布団の上、足のところに落ちた。
 「あ、離珠?」
 俺の膝のあたりで寝息を立てているのは、手のひらに乗るくらいなサイズの女の子。
 「あら、太助様のところにお泊りしていたんですね」
 「あー、そういや昨日の夜に潜り込んで来た覚えが……寝返りが打てなくて肩がちょっとこったな」
 コキコキと俺は肩を鳴らす。
 「だからでしょうか。太助様、うなされていましたよ」
 「え?」
 「嫌な夢でも見ていらしたんでしょうか?」
 「嫌な夢……」
 何か夢を見ていたような。
 嫌な夢というわけでもなく、どちらかというと何とかしたい夢だった気がする。
 でも。
 「起きたら忘れたよ。ありがとう、シャオ。起こしてくれて」
 「い、いえ、そんな」
 わたわたと立ち上がってシャオ。
 「朝ごはん出来てますから、早く降りてきてくださいね。遅刻しちゃいますよ」
 「ああ。すぐ行くよ」
 シャオは小さく頷くと一礼して俺の部屋を出て行った。
 俺はぐっすりと眠っている離珠を起こさないようにベットから這い出て制服に着替えを開始。
 シャツのボタンをかけながら、一つの疑問が持ち上がる。
 「そういや何でシャオは俺を起こしに来たんだろう?」
 別に遅刻しそうな時間でもないし。
 もっともシャオがこうして優しく起こしてくれるというのは、それだけで幸せな気分になれるので。
 「なんだか分からないけどラッキー、だったのかな?」
 カバンを取り、部屋を後にする。
 この時の俺は一緒に居過ぎるあまりに気づいていなかったことがある。
 離珠は守護月天とその主とを結ぶ、伝心の能力の持ち主であることを。


 今日は木曜日。
 いつもの通学路はしかし、木曜日だけはちょっと違う。
 まずルーアンがいない。
 木曜日は早朝職員会議なのだそうだ。
 改めて「ああ、そういえば学校の先生なんだよな」としみじみ思う。
 次に出雲は絶対に現れない。
 毎週木曜日は神社の方で特定のお勤めがあるとのこと。
 いつもなら良いのに。
 そしていつも必ずどこかで待ち伏せをしている花織ちゃんもいない。
 木曜日は6チャンネルのニュース番組で人気の占い師による占いコーナーがあるそうだ。
 放映時間が遅刻ギリギリの時間なのである。
 遅刻の危険を冒してまで見る価値があるとは思えないが…。
 たかしや乎一郎は学校をはさんだ逆側に住んでいるし、キリュウに至っては木曜日どうこう言う以前に朝弱いので一緒になることはない。
 山野辺は遅刻常習なので論外だ。
 すなわち、何が言いたいのかというと。
 「太助様、モミジが散ってますよ」
 街路樹を見上げてシャオは手のひらをかざした。
 その上に赤いモミジの葉が一枚、止まる。
 「日曜日にでも紅葉狩りに行こうか?」
 「はい。お弁当は任せてくださいね」
 葉を指でくるくる回しながら、シャオは嬉しそうに頷く。
 そう、木曜日の登校はシャオと二人きりなのだ。
 ……そりゃあ、シャオと一緒に居る時間は長い。
 けれど、2人きりというのは実はほとんどないんだ。
 学校に行けば花織ちゃんや山野辺やたかし。
 外に出れば出雲やルーアン。
 家では姉貴にキリュウ、ルーアンもやっぱりいるし。
 ああ、星神達も終始どこかで顔を出してるしなぁ。
 だから本当の二人きりな木曜日の朝は俺にとっては大事な時間なんだ。
 もっともシャオは特になんとも思ってないのだろうけど。
 「そうだ、太助様!」
 ぽんとシャオが手を打った。
 「ん? どうしたの?」
 「太助様は」
 「せんぱーい!」
 元気な声がシャオの言葉をぶった切った。
 数瞬遅れて俺の後ろから抱きついてくる感触。
 拍子に仄かなライムの香りが漂った。
 「か、花織ちゃん?」
 首を後ろに向けて腰にしがみついている子を見る。
 それは紛れもない、花織ちゃん。
 円らな瞳で俺を見上げていた。
 「きょ、今日は早いね」
 「いつも通りですよー」
 「あれ? 占い番組は?」
 「よく知ってますね、先輩」
 目をキラキラさせて花織ちゃん。
 「先週で最終回だったんです。もー、残念ですよねぇ」
 「へ、へぇ、そうなんだ」
 がっくりと俺は肩の力を落とした。
 「あれぇ、先輩、そんなにあの番組が好きだったんですか?」
 「あー、いや、そうじゃなくて」
 「代わりにアタシの占い雑誌貸してあげますから」
 クスリと笑って花織ちゃんは俺の腕に手を絡ませる。
 「さー、いきましょう」
 「あ、引っ張るなって」
 俺は半ば引きづられる様にして残り少ない通学路を進んでいったのだった。


 「太助様…」
 私の手は宙を切ります。
 太助様は花織さんと腕を組んで先へと行ってしまいました。
 木曜日なのに。
 今朝は太助様と一緒の日なのに……
 「どうして…」
 言葉が漏れてしまう。
 ”どうして?”
 なんだろう、これって。
 自問します。
 どうして、どうして今の太助様と花織さんを見ていると、こんなにも胸が苦しいのでしょう?
 思えば今に限りません。
 いつも。そう、いつも太助様に花織さんやルーアンさんがこうしてくっついているのを見ると、胸が苦しいんです。
 「なん、だろう?」
 私は前を見ます。
 2人が私をおいて遠くなっていく気がして、私は小走りに後を追います。
 でも今だけは、なんだか太助様から離れていたい、そう思うんです。


 「たーさまぁ、一緒にお弁当食べましょうよぉ」
 「だーから、離れろーー!!」
 お昼休み。
 太助様の首にルーアンさんがしがみついています。
 「あ…」
 私の胸が苦しくなりました。朝と同じ気分です。
 「もぅ、照れないでさぁ」
 「邪魔なだけだって」
 「ひっどーい!」
 そう言ってルーアンさんはますます力いっぱい太助様にしがみつきます。
 私は横目でルーアンさんを見つめます。ルーアンさんは私と同じ精霊、太陽の精霊です。
 なのに、どうして…
 「ルーアンさん」
 「なぁに、シャオリン?」
 剣呑な目でルーアンさんは私を睨みます。
 「どうして…」
 心に浮かんだ疑問を伴った声は、掠れて出なくなりました。
 「なによー、シャオリン?」
 「いぇ、なんでも…ありません」
 「ふーん?」
 ルーアンさんは言葉が続かない私を一瞥。
 「く、苦しい」
 「あ、ごめーん、たーさま♪」
 太助様に抱きつきを再開です。
 どうして…
 どうしてルーアンさんは太助様にそんなことができるんですか?
 私は声にならなかった問いを心の中で呟きながら、ルーアンさんを見つめます。
 ルーアンさんは不意に私に振り返ります。
 ”そんなことって、どういうこと?”
 「え?!」
 慶幸日天ルーアンの瞳は私にそう、問いかけているようでした。
 それは一瞬。
 「もー、たーさまったらぁ」
 「いい加減、離れてくれよ」
 「あー、ルーアン先生! 七梨先輩にくっつかないでくださいよ!」
 「うるさい小娘登場ね」
 花織さんもやってきて、いつものお昼休みが始まります。
 けれど私はその光景を見つめているだけです。
 ”そういうことって、どういうこと?”
 私になくてルーアンさんにあるもの。
 それが私にあれば、ルーアンさんのように私も太助様に見つめてもらえるのでしょうか?
 私にないものって、いったい何なのでしょう?
 答えが分からないまま、今はただ胸に生まれた苦しさが大きくなるだけでした。


 放課後になりました。
 帰り道、私は太助様と登校の時に歩いた道を逆に行きます。
 「先輩、帰りましょう」
 「たーさま、かえろー♪」
 校門のところで待ち構えていた様に、花織さんとルーアンさんが現れました。
 そのまま太助様を引っ張り合う様に両側から抱きつきます。
 「は、はなせぇぇ」
 「先生、太助くん苦しそうだよ」
 「嬉しそうって言ってね」
 乎一朗さんの忠告も、ルーアンさんには無意味の様です。
 「まるで宇宙人のグレイですね」
 「まぁ、俺たちは俺たちで帰ろう」
 太助様の時と同じように、今度は私の右と左からたかしさんと出雲さんが現れます。
 「シャオさん。実はとても良い感じ喫茶店を見つけたのですが」
 「お、それは良いな」
 「たかしくんは学生でしょう? 寄り道はいけませんよ」
 「シャオちゃんも学生だろ?」
 お二人が口論を始めていますが、私は前を行く太助様の背中を見つめるだけです。
 「たーさま、どっか寄って行きましょう!」
 「面白いお店を見つけたんですよ、先輩!」
 「く、くるしい……」
 太助様はルーアンさんと花織さんに引きずられながら、どんどん先へといってしまいます。
 「あ……」
 私も足を速めました。
 「どうですか、シャオさん。美味しいクレープがあるんです」
 出雲さんがそう言って私の肩に腕を回します。
 私の歩速が遅れました。
 「シャオちゃんに馴れ馴れしく触るんじゃねぇよ」
 たかしさんが出雲さんの腕を振り払ってくれます。
 「シャオちゃん、それよりもさ」
 今度はそのたかしさんが私の腕を掴みます。
 「太助様……」
 行って、しまう。
 「あいつなら大丈夫だって」
 「いつも一緒では太助くんも息が詰まってしまいますよ」
 たかしさんと出雲さんはそう言って私を引き止めました。
 「…太助様」
 小さくなる背中を見つめながら、思います。
 私はそれでも、それでも一緒にいたい。
 守護月天だから?
 そう、それが私のなすべきこと。
 主を守り、ともにあることが私の義務。
 けれど、主が危険な世界にいなかったら?
 守る必要がなかったら?
 私の存在の意味はないのではないでしょうか?
 それでも、一緒にいたい。
 それって。
 それって、守護月天だからという義務だからでは、ないですよね?
 じゃあ、いったい何なんでしょう?
 私は。
 私は太助様のことが……
 『いけませぬ、シャオリン様!』
 「南極寿星?」
 遠く、南極寿星の声が聞こえたような…気がする。
 「じゃ、シャオちゃん。私達は私達でどこかに寄っていきましょうね」
 「さんせー♪」
 出雲さんとたかしさんが私の背中を押して、進む道を変えてしまいます。
 「あ、だ、だめです」
 私は我に返って、
 「いいじゃん、ちょっとくらい」
 「たまには寄り道も良いものですよ」
 太助様達はすでに見えなくなってしまっていました。
 私が太助様のいらっしゃる方へ進路を戻そうにも、出雲さんとたかしさんが立ちはだかります。
 ”もぅ!”
 太助様を見失ってしまいます!
 私は支天輪を懐から取り出し、
 「来々、軒轅!」
 「さ、早く早く」
 「行こう行こう」
 私は二人にそのまま背中を押されました。
 支天輪からはいつもの軒轅の姿が……
 現れません。
 私の呼びかけに、何も答えがありません!
 「どうしたの、シャオちゃん?」
 「ら、来々、軒轅!」
 「いかがいたしました?」
 「来々、軒轅、軒轅!」
 何度呼びかけても、軒轅からの答えはありませんでした。
 まるで、何でもないわっかに呼びかけているような、そんな錯覚に陥りながら。


 とんとんとんとん♪
 包丁の奏でる規則正しい音は、シャオの「痛っ」という呟きに途切れた。
 「シャオ?」
 「だ、大丈夫ですよ、太助様」
 声だけがそう帰ってくる。
 夕方、シャオはいつものようにキッチンに入って夕飯を作ってくれている。
 食べるだけのルーアンや、手段のために目的を選ばないという逆の思考を持つキリュウとは大違いだ。
 もしも…もしもシャオが俺の前に現れた、その前の生活に戻れと言われても俺はきっと戻れない。
 ご飯の準備とかそういうことではなく、シャオという存在が俺の心にはなくてはならないものになっているからだ。
 今は守護月天という義務で彼女は俺の傍にいてくれているけれど、できればそんなものなしに普通の女の子としてこの世界に居てもらいたい。
 その為に、俺は万難地天キリュウの試練を受けることで自らを鍛えている。
 ”いつになったら一人前になれるか分からないけどなぁ”
 一人苦笑いしながら、俺はTVの前のソファから立ち上がり、戸棚へ向かう。
 「絆創膏持っていこうか?」
 「いえ、舐めておけば大丈夫なんです」
 ちょっと焦ったような、そんな彼女の声。
 「そか」
 ”見られるのが恥ずかしいんだろうな”
 思い、俺は戸棚の前からリビングルームのソファに戻って思う。
 TVは夕方のニュースの後半に突入していた。
 思えばこの時にちゃんとシャオの手を取ってあげていれば、おかしなことにならなかったのだと、今更気付いても仕方が無いことだった。


 じわりと私の人差し指から血が浮き上がります。
 それはやがて指から溢れ、流し台にポトリポトリと雫となって落ちました。
 血です。
 これは太助様と同じ、人と同じもの。
 でも私は人ではなく、精霊です。
 ”どうして”
 私は傷口を舐めました。鉄の味が、します。
 どうしてこんなところまで似ているのでしょう?
 そして今、私は守護月天としての資格を失ってしまったようです。
 軒轅だけではなく、離珠も、虎賁も、軍南門も、みんなみんな私の呼びかけには応えてくれなくなってしまいました。
 ”どうして”
 私は包丁をまな板の上において、懐から支天輪を取り出します。
 出雲さんとたかしさんから別れた後、私は何度も何度も呼びかけました。
 今まで息をするのと同じように支天輪とつながっていたのに…私自身もこの中へ戻ることもできなくなってしまったんです!
 「これじゃあ…」
 これじゃあ、太助様を守れない。
 ただの人になってしまった私が、ここにいる必要もない。
 私は…
 「私は一体、どうしたら良いんでしょう」
 私の呟きはしかし、自分でも聞こえないように蛇口をひねって水を出すことで雑音の中に消えたのでした。


 食卓にはいつもの通りに料理を並べ、太助様は美味しそうに食べてくれています。
 その様子を見ているだけで、私はとても幸せな気分になっていました。
 「シャオ殿?」
 「あ、おかわりですか?」
 キリュウさんに声をかけられて私は彼女の茶碗を見ます。
 ご飯はまだ入っていました。
 「いや…なんでもない」
 キリュウさんは私の顔をじっと見つめたかと思うと、再び食事に戻ります。
 その拍子に私の脳裏に支天輪の力が使えなくなった事実がよぎりました。
 ”今、一瞬忘れて…いましたね”
 力が無くても、こうして太助様の傍にいることが出来ているから?
 だから私の作ったものを美味しく食べてくれている太助様を見て、幸せな気分になっていたの?
 はっと、ある考えが閃きました。
 私が支天輪の力を使えない訳を、守護月天としての力がなくなってしまった理由を。
 ”もしかしたら”
 いえ、もしかしたらじゃない。きっと。
 私が守護月天としてとか関係なく、太助様と一緒にいたいと思ったから?
 私がここにいるという存在の意味を、自ら忘れてしまったから?
 手にしたカップの水面は小刻みに揺れています。
 私の手が、震えているからです。
 怖いんです。
 守護月天でなくなったら、ここに居ることが出来なくなることが怖いんです。
 「あ…」
 「ん? どうしたの、シャオ?」
 「あ、いえ、なんでも、ないんです」
 違います。
 逆なんです。
 自分自身の考え方がまるっきり、逆になっていることに気付いて私は自分自身も怖くなってしまいました。
 私は守護月天であるからここにいるんです、ここにいる為に守護月天をやっているのではないんです!
 そう思ってしまうほどに、ここは私にとって大切な場所。
 太助様のお傍にいることが、それほど大切だということを。
 私は改めて気付いて…
 不意に私の額に暖かいものが触れました。
 「え…」
 「顔色が青いぞ、シャオ?」
 太助様の左手が私の額を覆っています。
 「熱はないみたいだけど」
 「ちょ、ちょっとぼーっとしてしまいました」
 私は慌てて頭を振って、太助様の手を払ってしまいました。
 「ルーアンもー!」
 「どーして元気なルーアンの熱をはからにゃならんのだー!」
 案の定、太助様に抱きついてルーアンさんが騒いでいます。
 この時ばかりはそれが助かりました。
 今の私は顔が真っ赤に変わっていたから。
 『月がとても綺麗ですね』
 つけっぱなしになっているTVから、そんな音が聞こえてきました。
 私は自分を落ちつかせるために、そちらに視線を向けます。
 TVでは各所の観光名所を紹介しているようです。
 ブラウン管に映っているのは、隣町の海岸公園。
 女性レポーターの後ろには高さ50mの崖の上から見える風景です。
 そしてそれは一面の海。
 深く静かな蒼い海を足許に、水平線の向こうにはまんまるなお月様が青白く輝いていました。
 「行ってみる?」
 思わず見入ってしまった私に、ルーアンさんを黙らせた太助様が笑って尋ねてくれます。
 「あ、キレイだなぁって思って」
 「シャオは月の精霊、だったよね。俺とはまた違うように見えるのかな?」
 そう、私は月の精霊。
 太助様をお守りするためにここにいる、守護月天。
 「ルーアンも行くー!」
 「だーかーらー、しがみつくなーー!!」
 「アタシは太陽の精霊だから、明日は学校サボってどこかにいきましょうよー」
 「仮にも先生がそんなこと言っていいのかよ。それにどーしてそういう話になるのか意味が分からん!」
 再び太助様とルーアンさんがいつものスキンシップを始めます。
 「違うように…見える?」
 私は太助様の言葉を小声で反復。
 ”そう、かもしれません”
 私は席を立ち、窓を開けて庭へと出ます。
 夜空には遠く私を見下ろすまあるいお月様。
 私は月の精霊。
 もしかしたら、月の力の強いところへ行けば…力を取り戻せるかもしれない。
 「そんな都合の良い話、ある訳ありませんね」
 私の気持など知らず、天空のお月様は変わらぬ冷たい光を放ち続けていました。
 この時、私のことをキリュウさんはいつもの静かな瞳でじっと、じっと見つめていたことには気付きませんでした。


 翌日、学校で授業を終えた後、太助様がお買い物にお付き合いくださいました。
 だからちょっと多めに買ってしまった訳で。
 その帰り道のことです。
 「あの、太助様」
 「ん? なに、シャオ?」
 太助様は私に微笑みます。
 いつもと変わらない笑顔。
 そして今は私にだけ向けてくれる笑顔。
 花織さんにでもなく、ルーアンさんにでもない、私に向けてくれる笑顔です。
 「あ、えと…重く、ないですか?」
 私は太助様が両手に提げるスーパーの袋に目を向けました。
 「全然。一応、男の子だからね」
 違います、私はこんなことを言おうとしていたんじゃない。
 でも。
 「シャオのも持とうか?」
 「いえ、太助様一人に持たせるわけには」
 太助様のこの笑顔を失うのは、私には耐えられません。
 だから言えない、言えないんです。
 私が力を失っただなんて。
 守護月天として、貴方をお守りする力を失っただなんて。
 ”この時代は平和だから…”
 そう、太助様を襲う敵なんていません。
 こうして普段通りにしていれば、太助様に気付かれることもないし。
 だから私はとにかく今は力を取り戻す方法を考えなくちゃ。
 離珠達がいないこともそろそろおかしいと思われるでしょうし。
 「シャオ!」
 「え?」
 太助様に名前を呼ばれて、私ははっと我に返りました。
 太助様は両手の荷物を放り出して、私を抱きかかえて飛びます!
 どん
 「きゃ」
 「くっ!」
 一瞬遅れて、
 どがん!
 なにか重いものが歩道のコンクリートに炸裂する音が響きます。
 突然のそれに、道行く人たちすべての動きが止まりました。
 道の上に倒れた私は太助様に抱きかかえられながら、音の方を見ます。
 今まで太助様と私がいたところに、大きな鉄骨が落ちていました。
 それは頭上から、ちょうどビルの建設中だった上から落ちてきたものです。
 「だ、だいじょぶか、あんちゃん!」
 工事の作業員達があわてて太助様と私の方に走ってきます。
 「た、太助様!」
 怪我は? と聞く前にすりむいた太助様の肘が目に入りました。
 「怪我はない、シャオ?」
 「はい。太助様は、太助様は?!」
 「んー」
 太助様は自らを見回し、
 「すりむいた位だよ。日頃からキリュウに鍛えられてるからなぁ」
 しみじみとおっしゃいました。
 私はハンカチをポケットから取り出して、太助様の右肘にそっと巻きつけます。
 「大丈夫だって」
 「ダメ、です」
 私は震える手できゅっと結びます。
 「良かった、大きな怪我はないな」
 「大丈夫?」
 「申し訳ない!」
 工事の当事者達と野次馬達に私達は助け起こされます。
 太助様は面倒なのはお嫌いなのでしょう、荷物を受け取ると私の手を取って人の輪から一気に抜け出しました。


 俺達は公園まできて、ようやく一息ついた。
 日頃からキリュウの試練を受けている俺にとっては、あれくらいの事故は日常茶飯事なのでどうということはないのだけれど、普通はやっぱり騒ぐよなぁ。
 「私、太助様をお守りするどころか助けられてしまいましたね」
 「え?」
 俯いて、シャオはボソリと呟いた。
 「その上、お怪我までさせてしまって…私、確かに守護月天失格です」
 「シャオ!」
 俺は荷物を落として、両手でシャオの肩を掴んだ。
 シャオは俺を見上げる形になる。
 その両の瞳は濡れていた。思わず俺の手の力が緩んだ。
 シャオはするりと俺から逃れ、二歩分の距離をとる。
 「ごめんなさい、太助様。私…」
 「シャオ?」
 「私、星神を呼べなくなってしまったんです。守護月天としての力を、力を失ってしまったんです!」
 叫ぶようにしてシャオは告白した。
 間髪入れず、彼女は俺に背を向ける。
 「…ょぅなら」
 小さくて聞こえない言葉だけれど口の形で分かった。
 「え…ちょ、ちょっと待て、シャオ!!」
 俺はシャオを追いかける。
 星神が使えない…どういうことかよく分からないが、それならばシャオに追いつくことはたやすいはず!
 「待たれよ、主殿」
 「?! どけ、キリュウ!」
 どこから湧いたのか、キリュウが俺の前に立ちふさがる。
 俺は彼女の制止を振り切り…
 すれ違い様、キリュウに右腕を取られる。
 下方向に引張られ、駆けていた俺の力のベクトルが無理矢理変更される。
 俺は右腕を支点にくるりと中で一回転。
 どすん!
 「ぐは!」
 背中から落ちた。合気道かっ?!
 「何するんだよ、キリュウ!!」
 俺は咳き込みながら、見下ろしてくる彼女を非難。
 「シャオ!」
 視線をキリュウの後ろに向けるが、すでにシャオの姿は見えなくなってしまっていた。
 「主殿。シャオ殿は守護月天だぞ」
 感情の無い声でキリュウは俺に当然のことを告げた。
 「そう、だな」
 俺は立ち上がり、キリュウの視線をまっすぐ受けとめた。
 背中の痛みと呼吸の乱れは早くもひいた。
 「ではその力を失ったシャオ殿は…果たして主殿とともにある必要はあるのだろうか?」
 「なっ?!」
 「驚くことだろうか? シャオ殿は主殿を守るために伴にあった。その手段が失われた今、主殿にとってシャオ殿は…」
 俺はキリュウの脇を通り抜ける。
 「答えられよ。主殿にとってシャオ殿は何だ?」
 その問いに、俺は俺なりの答えを持っている。
 けれど、それはまだはっきりと言葉にならないもので…だから俺はキリュウに背を向けてシャオが走り去った後をとにかく追った。


 太助様はキリュウさんのお陰で強くなられました。
 もしも、もしもご自身の力でも切り抜けられないようなことがあっても、ルーアンさんもいます。
 「だから、大丈夫です」
 太助様は私なんかがいなくても、大丈夫です。
 大丈夫でないのは、私。
 これまで何人もの主様に仕えてきましたが、こんな苦しみは初めてです。
 「どうして私は、守護月天なんでしょう?」
 潮風が私の長い髪をさらって行きます。
 頭上に輝く大きなお月様は、ただただ冷たい光を放つだけでした。


 「一体、どこに行ったんだ!」
 最初の公園に戻ってきてしまった俺は一人、そう叫ぶ。
 何時間走りまわっただろう、シャツは汗を含んで倍の重さになってしまっていた。
 「良いじゃないの、たー様はアタシがこれからも守ってあげるから」
 そんな声は公園の電灯の下から。
 「ルーアン?」
 「だから、ね。帰りましょう」
 自転車を従えた彼女は、優しく微笑んで俺に手を差し出す。
 俺は、その手を振り払う。
 「シャオじゃなきゃ、守れないっていうの?」
 挑戦的に問うルーアン。
 「どちらかと言うと、シャオがたー様を守ったことよりも騒動に巻き込んだことの方が多いと思うんだけど?」
 「いいや、守ってもらってるよ」
 俺は、ルーアンをしっかりと見つめて答えた。
 「今でも守ってもらってる。それが俺の答えだ」
 ルーアンの背後にいるキリュウに先程の答えを告げた。
 「まったく」
 ルーアンの呆れた溜め息と、
 「そうか」
 キリュウの声。
 「慶幸日天としての力は貸さないから」
 ルーアンは憮然と言って自転車を俺に転がして寄越す。
 「シャオ殿はおそらく隣町の海岸公園だろう。試練だ、行くが良い」
 「サンキュ!」
 俺は礼もそこそこに自転車にまたがって一路、隣町を目指す!


 天空の月は何も答えてはくれません。
 私は支天輪を取り出します。
 やっぱり、何もそこからは感じませんでした。
 「どうしたら守護月天として戻れるんでしょう?」
 私は両手を広げて潮風を受けながら、低いフェンスの向こうに出ました。
 すぐ真下――50mほどあるとTVでは言っていました――には青黒い海が波音を立てて岩にぶつかっている音が聞こえます。
 海の黒は夜空の黒と似ています。
 支天輪の中にいたときの様に夜空の中にいる錯覚を受けました。
 ”このままもしも後一歩、踏み出したとしたら”
 海に飲み込まれず、そのまま星空に戻れるような気がします。
 頭上に輝く月へ届く様な気がします。
 無意識のうちに地面の無い一歩先へと足が動き…
 「シャオ!」
 「?!」
 声に、私は我に返ります。
 誰かが駆けてくる気配。
 振り返ると同時、私は右腕を強く掴まれました。
 痛いほどに強く。
 その痛覚が私自身がこの世界にいることと、目の前の人の存在感を鮮明にさせてくれました。
 「太助様…」
 「帰って来てくれよ、シャオ!」
 私はまっすぐな太助様の視線から目を逸らし、首を横に振りました。
 「守ってくれるって言ったろ!」
 「星神の力を何故か失ってしまった私には、太助様をお守りする力がありません。守護月天でない今、お守りできないんです。一緒にいる理由が、ないんです!」
 「できる!」
 「?!」
 太助様の言葉に、私は顔を上げました。
 太助様の優しい瞳が私の心を見つめています。
 「シャオは言ってくれたろ、俺の心を守ってくれるって」
 「あ…」
 それは太助様と最初に出会って、そして別れた後。
 一人で過ごす太助様に、私は守ってあげなくてはと思った、その時の言葉。
 『あなたの中にある「孤独」や「寂しさ」から、あなたを守ってさしあげたいのですが』
 「現に今、シャオがいない俺は自分が保てないよ」
 「太助、さま?」
 私は一歩、太助様の方へ。
 ガラリ
 「え?」
 不意に、足元の感覚が無くなりました。
 浮遊感が私の体を包みます!
 「シャオ!」
 私の右手を掴んでいる太助様もまた、前のめりに。
 ”足許が崩れた?!”
 丁度一歩分の岩が崖から落ちていくのが分かりました。
 私はそのまま崖の下へ…
 「ぐっ!」
 崖のすぐ傍で、膝をついた太助様が右手一本で私を繋ぎとめていてくれました。
 でも
 「う…くっ」
 苦しそうに太助様は唸ります。
 右手一本ではとても引き上げられるものではありません。
 残る左手と両肘で、頼りない足許に踏ん張りを入れていました。
 私は全身を潮風に吹かれながら、どうすることも出来ずに太助様を見上げるだけです。
 からん
 太助様の踏ん張る左手あたりからも石が落ちてきます。
 また崩れる!
 「手を、手を離してください!」
 私は叫びました。
 「離さない、絶対に。離すくらいなら一緒に落ちる!」
 同じようにして太助様は叫び、ゆっくりとですが私は持ち上がって行きます。
 「私、守護月天を完全に失格ですね」
 視界が涙に歪むのが分かりました。
 主を不幸から守るはずなのに、こうして心配をかけて不幸にしてしまっている。
 「そんなこと、ない! 例えシャオに精霊の力がなくたって、俺はシャオが傍にいてくれるだけで、守ってもらっているんだから」
 「太助さま…」
 力を失った私だけれど、
 ”でも”
 守ってあげたい、太助様を。
 悲しいことすべてから。
 こんな私で護ることができるのなら!
 「こんな私で、よろしければ…」
 私は揺らぐ視界の中、私を引き上げ様と必死になってくれている太助様に頷きました。
 貴方の悲しみを、その気持ちを、私が全て受け止めることができるのならば、私も一緒に悲しみたい。
 そうすることで貴方の苦しさが紛れるのなら、喜んで受け止めたい。
 そして、もし貴方が喜びを分かち合いたいと言うのなら、私もともに喜びたい。
 貴方とともにこの先を歩んで行きたい!
 「シャオじゃなきゃ、駄目なんだ!」
 「太助様!」
 私は太助様に引き上げられる。そしてそのままその胸に飛びこみました。
 これは使命だからとか、そんなものじゃない。
 私は、
 そう、私は太助様を…好…
 ガラリ
 太助様と私のいた地面、いえ一個の岩だったそこが、それごと落ちました!
 宙に、舞う。
 「あ」
 呆気に取られる太助様。
 私達は夜の海に向かって落ちて行きます。
 この高さから落ちたら、助かりません!!
 私は…守りたい。
 例え、この身がどうなろうと。
 太助様を御守りしたい!
 「私は!」
 懐の支天輪から光が迸りました。
 私は太助様の腕をぎゅっと抱いて、支天輪に向かって訴えます!
 「来々、軒轅!」


 月の光の下、俺は浮いていた。
 いや、彼女に腕を抱かれていたのだ。
 彼女は深く静かな、初めて会った時と同じ穏やかな微笑みを浮かべていた。
 「私は守護月天シャオリン。天に浮かぶ月のように、主から離れることなく守り続けましょう」
 月明かりを背後に軒轅に腰を下ろしたシャオはそう、俺に告げる。
 神々しいまでのその笑みは、しかしどこか無機質で。
 先程までのシャオから大きく何かが抜けていることを、俺はなんとなく感じていた。
 そしてそれはきっと、俺を救うために失ったものなのだろうとも…


 「主殿」
 そう声をかけられたのは翌日の朝。
 いつもは朝は滅法弱いはずのキリュウからだった。
 「…なんだよ、キリュウ」
 玄関にシャオを待たせていた俺は首を傾げて振り返る。
 彼女は肩の力を落とし、俺に背を向けると「ふー、やれやれ」と脱力のジェスチャー。
 「だから何だよ、そのアクションは!」
 すると彼女はクルリとこちらに向き直ると、
 「詰めが甘いぞ、主殿」
 「そんな哀れんだ目で見ないでくれー!!」
 俺は玄関に向かって逃げる様にして駆けた。
 「でも」
 そうさ、でも。
 でもきっと、シャオが普通の女の子のように笑っていられる時が来ることを。
 俺は信じ、頑張り続けると。
 玄関で待っていたシャオに内心、誓ったのだった。

Fin