シャオリンと鏡のお話
「お届け物でーす」
和やかなインターホンの音色に乗って、『それ』は七梨家にやってきた。
布地でしっかりと梱包されたそれは、大きさは荷を受け取ったシャオリンの背と同じくらい。
幅は彼女の肩幅ほどあるかどうか、厚さは薄い。
そして差出人は、七梨太郎助――太助の父であった。
「何でしょうね、これ」
シャオリンの問いに、太助はおっかなびっくりに梱包を解いていく。
最後の漢字ばかりで書かれた新聞紙の包装を破りとったところで、それは姿を現した。
「ほぅ」
感嘆の声を上げるのはキリュウ。
「あらら」
やや落胆の感想はルーアン。
「まぁ」
素直に驚くのはシャオリンだ。
そして太助は。
「鏡?」
やや薄汚れたそれは、姿見の鏡だった。
鏡を収める額は、きらびやかではないにしろ、龍が鏡を抱くように象った精巧なものだ。
そんな鏡の表面に一通の手紙が無造作にテープで止めてあった。
「父さんの手紙?」
太助は手紙を剥ぎ取り、紙面を見つめる。
そこにはこう書かれてあった。
元気か、太助。父は今、チベットにいる。
チベットはいい。空気が澄んでいる。
生まれたばかりの朝日が体に染み渡るようだ。
それはそうと、先日まで滞在していた街一番の
豪商のオカミさんが亡くなってな。
形見としてこの鏡をもらった。
なんでも由緒ある古いものだそうで、聞いて驚くな。
かの西太后が使っていたそうだ。
さらには小野小町や果てはクレオパトラまでこいつを
愛用していたという。
しかし父は旅烏、こんな大きなものを持っては動けない。
だから太助、コイツを大事にしてくれ、頼んだぞ。
それではサラバだ、はーっはっはっは!
「へぇ、由緒ある鏡、ねぇ」
紙面を横から読んでいたルーアンはまじまじと改めて鏡を見つめる。
「……また精霊とか出てきたりしないだろうな??」
「そのような気配はない」
心配げな太助の言葉をキリュウが一刀両断した。
「しかし…」
「しかし?」
キリュウは鏡を見て、そして一度ルーアンに視線を移し、シャオリンまで移動させ、そして太助に戻す。
「古い物には違いない」
「古い物には命が宿るといいますね」
キリュウに続いて何気なくシャオリンが言い、太助は鏡に伸ばしかけていた手をびくりと止めた。
「たー様、大丈夫よ。でもアタシはそれ、いらなーい」
ルーアンはそう言ってソファに戻り、テレビの電源を入れた。
流れてくるのは今流行りと言われている外国のドラマだ。
ちょうど始まった時間らしく、独特のオープニング曲が聞こえてくる。
「私もいらない、割れたら危険だしな」
ルーアンに続いてキリュウもソファに座り、画面から視線を動かさなくなる。
時々テレビを見つめながら思いついたように、
「ベタね」
「軟弱な男だ」
と、好き勝手な感想を漏らしている。
2人の様子を眺めて溜息一つの太助はシャオリンに視線を移した。
「鏡か…とりあえず倉庫にしまっておこうか?」
「そうですね」
シャオリンの頷きに梱包を戻そうとする太助だが、その手が不意に止まった。
「そういえばシャオの部屋、鏡あったっけ?」
問いにシャオリンは「んー」と考え、
「那奈さんが置いていった手鏡を使わせてもらってますけど」
「じゃ、シャオ。これ使う? 拭けばきれいに写るしさ」
「…そうですね。しまってしまうのでしたら使わせていただきます」
こうして太助父によって送られてきた古い鏡は、シャオリンの部屋の片隅に鎮座することとなった。
『それ』が来てから3ヶ月ほど過ぎた。
家のものはすっかり『それ』の存在を忘れ、『それ』もまたすっかりこの家に溶け込んでいた。
そんな中で今朝もまた、部屋の主のシャオリンは鏡に映る自分を見ながら髪を結う。
今日は昨日よりも心持ち、後ろに結った髪は上がり気味だ。
シャオリンはそのことには気付いてはいないが、『それ』は気付いていた。
自分を見つめる彼女は、今日は機嫌がいい。
きっと昨夜、ちょっとした何かがあったのだろう。
よくよく見れば、頬が少し緩みがちだ。
『それ』は彼女になり続けて、しかし未だ完全に彼女になることができずにいた。
歯痒く感じると同時、彼女のためにも早く彼女にならねばならない。
シャオリンは自身と他人には非常に鈍感だ。
鈍感であろうとすることは、深いところにある本人の意図ではあるが、普段の彼女の意図ではないことは分かった。
また彼女が「主」とする男に対しては、特定の感情以外は反動のように敏感であることも知っている。
それに故に、今の彼女は『それ』に対して歪んで映ってしまっている。
”ワタシガ、『ワタシ』ヲ直サネバ”
こうして『それ』は生まれて初めての意志を持った。
「ふぅ」
制服姿のシャオリンが部屋に戻ってきたのはまだ夕方よりもずっと前だった。
手には普段は持たない手提げ袋が一つ。
トサ、畳の上に置かれたそれは、シャオリンの手によって中身が明らかにされる。
数冊の書籍だ。
題名は――青より藍し――恋愛マンガである。
「どうして翔子さんは私にこれを読めなんて言ったんだろう?」
呟きながらおもむろに第一巻を手にとって開く。
あまり乗り気ではなさそうだったシャオリンだったが、次第にページをめくるスピードが上がっていく。
やがて2巻を手に取り、3巻を、そして最終巻に手が伸びた。
内容は翔子がシャオリンに読ませようとしたものであるのだからベタなものである。
家柄が大財閥の少女が家を飛び出し、そこへ幼馴染みで婚約者の少年が追いかけてきて同棲生活を始めるという、ありえないストーリーだ。
さらにその同棲生活に筋肉キャラや弟キャラ、兄貴キャラが絡んでくるというハーレム物語である。
もっともありえないと言えば、今のシャオリン達の生活もありえない訳で、それを考えれば彼女にとっては常人よりも身近に感じるところがあるのかもしれない。
パタン
最終巻の最後の見開きページ。
主人公の少女と幼馴染みの少年が、とうとう誓いの口づけをかわすシーンを読み終え、シャオリンは一つ嘆息。
そして。
「どうしてこの2人は唇を合わせるんだろう?」
本を膝の上に乗せて、彼女は小さく首を傾げた。
この後、2人は南の島で2人きりの幸せな生活を送るらしい。
それがシャオリンには分からなかった。
「どうして幸せになるんだろう?」
幸せの契機となる誓いの口づけ。
それにどんな意味があるのか、シャオリンには分からなかった。
だから。
「もしも私が太助様と同じことをしたら……」
ふとシャオリンは姿見の鏡を見る。
窓から差し込む夕焼けの赤い光の中、制服姿の自分が映っている。
不安そうな表情をした自分の姿がある。
そっと鏡に手を伸ばす。
鏡の中の自分も、こちらに手を伸ばしてくる。
赤い光の中に映る、自身の小さな唇。
小さなそれに、そんな力があるとは思えない。
唇にあたる部分の鏡の表面をそっと指でなぞる。
だが当然叶わず、同じ行動をする鏡の中の自身の指にぶつかるだけだ。
「同じことをしたら、太助様も幸せそうになるの?」
鏡の中の自分に問うシャオリン。
鏡の中の自分もまた、同じ質問をこちらに投げかけている。
「花織さんやルーアンさんや…キリュウさんが口づけをしても、太助様は幸せになるのかな?」
シャオリンは想像をして、そして首を横に振った。
「なんだろう?」
鏡の中に問う。
「どうして胸の辺りに嫌な感じがするんだろう?」
「じゃあ、私が太助様にキスしたら、どんな感じがするんでしょう?」
鏡の中の自身の問いに、シャオリンは思い、
「…分かりません」
「やってみたい?」
「……」
答えはない。だから、
「やってみたら?」
「できません!」
ハッと顔を上げるシャオリン。その時にようやく気付いたのだ。
すでに遅く、彼女の手は同じ手によって強く掴まれた。
鏡の中の自分の手に。
そしてそのまま中に引き込まれる!
入れ替わるように、鏡の中のシャオリンが中から現れた。
「それならば」
シャオリンは鏡の中の自分に向かって、小さく微笑んで告げた。
「私がやります」
鏡に映るシャオリンは、現実の自身と同じ顔をして、じっと鏡の向こうを見つめるしかなかった。
何事もなく、いつもの通りに七梨家の晩御飯の時間が過ぎ、軽いお茶の時間も過ぎた頃。
「太助様」
あくびを一つ、部屋に戻ろうとしていた太助にシャオがそっと囁いた。
「ん? どうしたの、シャ…んぐ?!」
陽気な声で答える太助の口を手でふさぐ。
シャオリンはリビングルームに注意深く視線を向ける。
そこには未だ深夜テレビを観て笑っているルーアンがいた。
気づかれてはいないようだ。
「あとで」
シャオリンは太助の耳にささやく。彼女の吐息が太助の耳をくすぐり、思わず彼の頬が赤くなる。
「あとで私の部屋に…来てください」
「シャ、シャオ…?」
立ち竦む太助にシャオリンは一礼し、自分の部屋に戻って行った。
ルーアンが深夜番組に飽き、キリュウが翌朝の目覚まし装置を作り終えて七梨家にようやく眠りの時間が訪れた頃。
「シャオ?」
扉の向こうからのくぐもった小さな声に、待っていた彼女はガラリと開ける。
「どうぞ、太助様」
白い夜着姿のシャオリンが太助の視界に飛び込んだ。
僅かに覗く襟元の白い肌は、着こんだ夜着よりも僅かに体温の赤みを帯びていた。
小さな微笑を浮かべたシャオリンは彼を部屋へと誘う。
しかし太助は、ぼぅっとシャオリンを見つめているだけでその場から動かないでいた。
「太助様?」
僅かに頬を上気させたシャオリンに、下から顔を覗かれるようにして見つめられて、太助ははっと我に返る。
「う、うん。おじゃまします」
「おじゃましますなんて…おかしな太助様」
「そ、そうかな」
乾いた笑いの太助。
「どうぞ」
2人はすでに敷かれている蒲団の上に座る。
「で、シャオ。オレに用って?」
そわそわとして落ち着かない様子の太助は、何故か視線をシャオリンに合わせないように部屋のあちこちに向けていた。
やがてその視線が姿見の鏡にぶつかる。
そこに映ったおろおろした自分の姿に、太助は苦笑い。
「ごめん、なんかオレ、一人で舞い上がっちゃってて」
佇まいを直し、太助はようやく視線をシャオリンに向けた。
向かい合うシャオリンは穏やかな笑みを彼に向けている。
「それで、どうしたの?」
「最近、太助様と全然お話できてなかったので。ゆっくり2人でお話したいなーって」
「そういえば…そうだね」
太助は一瞬回想した。朝は朝で集団登校に近いし、帰りはキリュウの試練が待ち構えている。
そんな中でシャオリンは他を押しのけて話しかけてくることは少ない…というよりは滅多にないので、
2人だけの話というのはここ最近は全然なかったように太助にも感じられた。
「じゃ、今日はゆっくりおしゃべりしようか」
「はい!」
満面の笑みを浮かべたシャオリンに、太助はここまで放っておいてしまったことへの罪悪感を感じる。
「ごめんな、シャオ」
「? どうしたんです?」
突然の太助の言葉に、シャオリンは首を傾げる。
「あ、いや。なんでもないんだ。そうそう、これはなに?」
話を変えようと、鏡の前に置かれたマンガ本を一冊手に取る太助。
それは『青より藍し』という少女マンガだ。
「……こんなの読んでるの?」
「翔子さんからお借りしたんです」
「そっか。また面妖なものを貸すなぁ、あいつは」
パラパラと太助はそれをめくる。最終巻だった。
たまたまめくって現れたページが、最後の主人公達の誓いのキスのシーン。
「太助様」
「ん?」
ページから目を上げた太助は、そのまま覗き込むようなシャオリンとの視線とぶつかった。
「太助様は、幸せになりたいですか?」
「??」
「キスをすると、幸せになれるんだそうです」
シャオリンはマンガのページを一瞥して、太助に言う。
太助は開いたページと、前屈みになって一歩彼に寄るシャオリンを交互に見つめながら、
「多分、全部がそういう訳じゃないと思う…よ」
「そう、ですか?」
「…多分」
困った顔の太助に、シャオリンは続ける。
「それじゃあ、花織さんとキスしたいですか?」
「へ?」
思いもよらなかった問いに、しかし太助は首を横に振る。
「ルーアンさんとは?」
これにも首を横に。
「それじゃ、キリュウさんとは?」
苦笑いを浮かべつつ、太助はこれにも首を横に振る。
シャオリンはその答えに、ほっとした表情を浮かべる。
そして、
「それじゃ、それじゃあ…私、とは?」
意を決したように問うシャオリンに、太助は。
首を横に振ることはなかった。
「太助さま?」
だが縦に振ることもなく、そっとシャオリンの頬に手を伸ばす。
シャオリンの右頬を、太助の左手が触れる。
触れた左手を、その上からシャオの右手が包んだ。
何かを決めた表情で、太助の顔が近づいてくる。
やがて2人の距離は息の触れ合うところまで近づく。
シャオリンの瞳が細くなり、閉じる。
その時だ。
「ダメーー!!」
2人の間に何かが割り込んできた。
「へ?!」
唖然とする太助の前には、驚きに瞳を見開くシャオリンと、そして鏡の中から半身を飛び出したシャオリンの2人の姿があった。
「ダメです、いくら太助様に口づけをするのが私でも、ダメなんです」
鏡から這い出してきたシャオリンは、もう一人の自分と太助を交互に見ながら叫ぶようにして告げる。
「するのでしたら『私』じゃなきゃ、ダメなんです!」
「シャオ?」
「!」
太助に見つめられ、鏡から出てきたシャオリンは顔を真っ赤に染めて俯いた。
「そう、ですか」
同じ自分に言われ、もう一人のシャオリンはしかし、満足そうな笑みを浮かべて立ち上がる。
「それでは続きはしっかりとお願いしますね。太助様も」
「「え??」」
硬直する2人の前で、シャオリンは鏡の中へと消えていく。
後に残ったのは呆然と鏡を見つめる2人と、そのままそっくり鏡に映る2人だけだ。
「えーっと、シャオ」
困った顔で声をかけた太助に、シャオリンはわざとらしく時計を見る。
時間は深夜1時を過ぎた頃だ。
「大変です、太助様。朝、寝過ごしちゃいますよ!」
「え? あ、ああ」
急かされるようにして太助はシャオリンによって部屋から追い出された。
パタン
部屋の扉を閉じて、そこに背でもたれるシャオリン。
扉の向こうでは太助の足音が遠ざかって行くのが分かった。
「はぁ、びっくりした…」
胸を押さえ、動悸を鎮めながらシャオリンは鏡を見つめる。
そこには畳にへたり込んだ自身が映っていた。
鏡の中の自分は、少し怒っているようにも見える。
「私、いったい何を…」
しばらく考えた後、
「寝ましょう」
思考停止、シャオリンは蒲団の中で眠りについたのだった。
「お、おはよう、シャオ」
「おはようございます、太助様」
何も変わらない朝だった。
しかしながら太助の目の下にはクマができている。
「どうしたんですか、太助様。眠れなかったんですか?」
「いや、まぁ。シャオは良く眠れたみたいだね」
「はい!」
爽やかに応えられ、太助は「あー、うー」と言いつつも朝食をとり始める。
それを横目で眺めていたルーアンが一言、ポツリと呟いた。
「ダメだ、コリャ」
おわり
これはdaic氏の2005年冬コミ用に寄稿したものです。