君の名は…
「こんなものでいいかな?」 俺はベビーグッズを買い物籠に山のように積めてレジへと向かう。
いっぱしの中学生が学ランを着てデパートのベビー用品売り場に足を踏み入れている,この光景を知り合いにでも見つかったら当分学校へは行けまい…。
実は今日辺り、俺の姉貴に子供が生まれるのだ。サザエさん一家のような大家族の我が家では今頃、待ちに待ったお祭り騒ぎが演じられる準備が整っていることだろう。
あの外面は女だが中身は男の姉貴が結婚したことと身ごもったことには目が飛び出るほど驚いたが、いざ生まれると聞くとどうしても信じられないのが本音である。
もっともこんな事を言おうものなら、逆さ釣りにされてしまう。
そんな姉貴が、しかし難産の模様を見せているらしい,との旨が授業中の俺の元へ電話があった。
そして帰ってくるついでに買い忘れたベビー用品を買ってくるようにと、これまた鬼のように恐ろしい親父は付け加えた。
「全部で2523円になります」
「あ、23円あります」 支払い、品物を受け取った俺はエレベーターへと向かう。
なおこのデパートには通称、表と裏の2つのエレベータがあり、表は外が見える高所恐怖症の奴にはたまらない代物,裏は奥まったところにあるあまり人が利用しないような空いているエレベーターである。
当然、俺は裏のエレベーターへと足を向けた。と、その足をひっぱる感触に動きを止める。
「お兄ちゃん,そっちいっちゃ駄目だよ」 5〜6才位であろうか,可愛らしい女の子が俺のスラックスを掴んでいた。
「…迷子か?」 ついていない,そう思いながら俺は子供に尋ねる。
「君のお母さんかお父さんはどこにいるんだい?」
「ここにはいないよ,でも迷子じゃないよ」
「迷子は皆そう言うよ…え〜と迷子はどこに連れて行けば…」
「もう、迷子じゃないって言ってるじゃない。だから人の話はちゃんと聞きなさいって、学校の先生にも怒られるのよ」
「う、うるさい,大体何でお前が俺の担任を知ってるんだ!」 実は図星を突かれ、俺は大人気なく声を荒げて言った。
「知ってるよ,お兄ちゃんのことなら何でもね。良い,そっちのエレベーターは行っちゃ駄目! 分かった?」 そう、俺に注意するとその子供は人込みの中に走り去って行った。
「親を見つけたのか? ったく、近頃のガキは偉そうだな」
しかし何か引っかかる,俺はその考えを思考の奥へと追いやり、エレベーターへと再び足を進めた。
7Fから乗った俺は、他の客に混じって1Fを押す。扉がイライラするほどゆっくりと閉じ、そしてゆっくりとした浮遊感が訪れる。
下へと下りるに従って乗って入る客が減って行き、3Fに着く頃には俺ともう一人の客の2人になっていた。
「お兄ちゃん,このエレベーターに乗っちゃったね…」
「ん? って、何でお前がここにいるんだ!」 声に顔を向けると、もう一人の客はさっきのガキだった。
「結局、私がついてないとお兄ちゃんは駄目ね」 一人、腕を組んで納得する子供は俺の言葉を無視していた。
「俺はお前の兄貴じゃねえよ,次の階で迷子センターに連れてってやる」 手を掴んでエレベーターの現在位置を示すランプを見上げる。
「え?」 ランプは3Fのところで点滅していた。そう言えば先程からあの浮遊感がない。
「エレベーターが止まってるの」
「言われなくても分かっとるわい!」 俺は常備してある呼び出しマイクのスイッチを押す。しかしうんともすんとも言わない。
「ま、しばらくすれば店員が見つけてくれるだろう」
「見つけられるのは私達が真っ黒に焦げてからだよ」 やれやれと言った風に子供は言った。それに俺が何かを言う前に独特のその音が聞こえてきた。
「消防車のサイレン? それに妙に向こう側が騒がしいな」
「火事が起きたから避難してるのよ。だからこのエレベーターに乗るなって言ったのに」 それが言い終わるか終わらないかの内に、足下の隙間から黒い煙が侵入してくる。
「マジか…くそっ!」 俺はエレベーターの扉の隙間に無理に指を入れて抉じ開けようと試みる。しかしピクリとも動かない。
「少しは体,鍛えなさいよ」
「うるせ〜,はぁ、駄目だ!」 妙に冷静なガキを横目に頑張るが、どうやら無理そうだ。
それを眺めながらガキはエレベーターの呼び出しマイクのあるパネルをいじりだす。
「駄目ね、電力が来てないかぁ。お兄ちゃん,上から脱出よ!」
「お、おう」 子供の意味するところを理解し、俺は肩車をする。
「ここ、かな?」 子供は天井の一角を思い切り押し上げた。するとよく映画で見られるような脱出口が開いた。
俺はガキを押し上げ、自分も苦手な懸垂で上に上がる。
丁度目の前には3Fのエレベーターの扉の裏があった。
「ガキのくせになかなか頭良いな」
「ガキですって?! 私にはレイミっていうちゃんとした名前があるの! それにこの姿は6才よ,子供じゃないわ」 力一杯反論するレイミと名乗る少女。やはり子供だ。
「はいはい,とにかくこっから早く出るぞ」 聞き流しながら俺は、扉を力一杯開く。今度はゆっくりとではあるが開けることができた。
3Fは紳士服売り場だが、辺りには当然のことながら人はいない。
「階段だな,しかし火はエレベーターの中の様子だと下からだし…」
「何やってるの! さっさと動く!」 お尻を押されながら俺は階段の方へと向かった。
黒い煙と轟火の音が階段の下からやってくる。それに伴う熱が俺達2人を陽炎のように揺らした。
もうすでに避難は終わっているらしい。外からの雑踏が虚しく響いて耳に届く。
「だからあのエレベーターに乗るなって言ったのに」
「悪かったよ! ともかく下には行けそうもないな。となれば火の来ないところで消防隊が消してくれるのを待つか」
「火事の熱によって鉄筋が疲労し、崩れるってことが考えられるわ。屋上で救助ヘリを待つべきだと思うな」 この状況で冷静に分析するガキ。
「レイミちゃん,とても小学生の発言とは思えないな,俺は」 近頃の子供は皆こうなのか? そう考えながら俺は少女の手を引いて階段を上って行った。
上がりきってやっとこさ屋上の扉を開ける。風が突風のようになって俺達に吹きつけてくる。そしてTV局のヘリ一台,上空で旋回していた。
「手、振ったほうが良いんじゃない? 気付いていないかもよ」
「それもそうだね」 俺達は屋上のただっ広い広場に駆け出して、叫びながら必死にアピールした。それに答えるかのようにヘリは3度旋回してその場を飛び去って行く。
「おいおい、行っちまったぞ!」
「素人パイロットがこの風の強い中、下りられる訳ないでしょ。救助隊に連絡して邪魔だから退いたのよ」 その言葉通り、自衛隊らしきヘリが飛んできた。
「助かったようだな,レイミちゃんのおかげだよ。ありがとう」 実際、この子供の判断がなかったら、おそらく命が危なかっただろう。
頭を撫でる俺を見上げて、レイミは軽く微笑んだ。そして…
「やっぱりお兄ちゃんには私がついていないと駄目ね」 レイミの姿が薄れて行く。まるで今までの彼女が蜃気楼であったかのように…。
「え? おい,どういうことだ!」 まるで着陸したヘリの風にかき消されるかのようにレイミの姿が消えて行く。
「すぐに分かるよ」 微笑みを残してレイミは消えた。
「怪我はないか,君!」
「よほどこわい目に合ったんだろう,放心している」 俺は2人の救助官に連れられて、ヘリに乗る。その後の記憶は覚えていない…。
「まぁ、怪我がなくて良かった。それはそうとびっくりしたぞ,テレビに出てたぞ,お前!」 気が付くと隣に親父が座って、俺はベビー用品の入った袋を持ちながらタクシーの後部座席に揺られていた。
「テレビ…それってどういう場面だ!」 レイミの事を思い出し、俺は親父に食ってかかるように尋ねた。
「どうって…お前が一人で馬鹿みたいにあのデパートの屋上で騒いでるシーンだよ」 驚いて親父は答える。
「一人で…か」 あの記憶は全て何だったのか,レイミは一体?
「だがな、お前がテレビに出たくらいで今日は驚かないぞ。生まれたんだ,お前がテレビに出た直後な!」 まるで自慢するように親父は言う。
「ほ、本当?」 俺は手にした袋を強く握りしめた。
「ああ、元気な女の子だ。名前は祖父さんが考えたもんで怜美って付けられた」 その言葉に俺の呼吸が止まった。
「怜美…そうか、そう言うことか…」 俺は可笑しくなって笑い出す。
それに親父どころかタクシーの運ちゃんまでもが変な目で俺を見る。しかしそれでも俺の笑いは止まらなかった。
「まったく,兄想いの妹だよ」 俺は窓から後ろへと流れて行く景色を眺める。
”お兄ちゃんには私がついていなくちゃ、駄目ね”レイミの大人に背伸びをしたような言葉が頭の中で繰り返される。
「しかしあの言葉が聞けるのは、もう少し先になりそうだな」 ガラスの向こうにある、愛しい妹に俺は微笑みを漏らしていた。
「そう、君の名は…
End...