一人になりたかった。
人と話すことが苦手だったのもあると思う。
人に嫌われるのが嫌だった,それもある。
他人とのふれあいが億劫に感じ、一人の時間こそ誰にも左右されない安息の時間。
心で、彼女はそう思っていた。
思っていただけ。
でもそれは、
知らぬ間に自分の周りに見えない壁を作っていた。
その壁はいつしか、1人、また1人と彼女に関わる人を避けて行く。
そうしてついに、彼女は見えなくしてしまった。
気付いたのはいつの頃だっただろう?
彼女は思う。
やっと入った高校の一年の5月。
語り掛けてくるクラスメート達の視線が自分を通り抜けているのに気付いたのはつい最近。
家族の会話がないのはいつものこと。でも家族の意識が彼女を通り抜けているのに気付いたのも最近。
“そうか…私、見えなくなっちゃんたんだ”有り得ないはずの事象。
何故かそう分かった時、諦めと安堵が彼女の心に去来した。
やがて『見えない』ことを自覚したまま、彼女の高校生活は続けられる。
Invisible Love
6月,教室の窓の外はしとしとと細い細い雨が降る。
歴史の講義をBGMに、気だるさを抱きながら彼女は外を眺めていた。
「ではこの問題を、次の舞原!」
「は〜い」背後の声。
席順に当てていく教師は彼女を飛ばして後ろの生徒へ。
いつものことだ。
“なんか…”
彼女は目線だけを窓の外から廊下側へ。
“つまんない”
心で虚ろに呟く彼女の視線は一人の男子とぶつかる。
“青山君…?”
クラスの女子に密かに人気のある男子。
彼女とはまるで反対の性格,いつも彼の周りには人が、仲間がいる。
明るく利発な青年。
その彼がこちらを見ている。
“いえ、外を見ているのね”
苦笑。
彼女は顔を向け、彼の視線をそのまま受け止めた。
“?!”
同時に彼は慌てて視線を黒板へと戻す。その態度はまるで彼女が見えているかのよう。
“まさか…ね”
2度目の苦笑。
彼女は彼のことは嫌いではない,いや、むしろ好きだった。
入学して始めて彼女に声を掛けてくれたのは彼。
確かあの時は机の上に置いた筆箱を落として、床にペンをばら蒔いてしまった時。
『手伝うよ』
一緒に拾ってくれた。
『青山っていうんだ、よろしくね』
続いての言葉。その時、彼女は、
何も言えなかった。
ありがとう,とも、よろしく,とも。
言いようのない恥ずかしさで、口が動かなかった。
声を掛けてくれた時、嬉しかった。
同時に、何も言えない自分が嫌だった。
“そうか…”
彼女は気付く。
一人でいることが好きだったんじゃない,人と話すことが苦手な、自分が嫌いだったんだ。
人と話すのが億劫だったなんて嘘。不甲斐ない自分を見たくなかったの。
自分が嫌いなところを見たくないから、一人でいたいんだ!
流れ落ちる雫。
“あれ?”
彼女は頬を手でなぞる。
“私…寂しい…の?”
彼女の心の声は、誰にも聞こえない。
終業のチャイム。
いつもの通り、彼女は一人で帰路に就く。
放課後の賑わいは彼女には無縁。
やがて、まだ帰宅者のまばらな校門に差し掛かった時だった。
グッ…
“?!”
右手を捕まれ、彼女は驚いて振りかえる。
“青山君?!”
真剣な面持ちをした彼が、彼女を引き止めていた。
“私のこと,見えているの?!”僅かに喜びの混じった驚き。同時に当惑。
「宮内,話がある。ちょっと来てくれないか?」
彼の瞳には、彼女の姿がはっきりと映っていた。
コクリ,彼女は黙って頷く。
青山は宮内を校舎裏のフェンスへと誘った。
“何だろう? それに何で青山君は私が見えてるの??”
彼は周りに人がいないのを確認すると、一つ大きく深呼吸。
そして思い切ったように切り出した。
「宮内,俺、君のことをずっと見てた」
“え…どうして? 私を見てたって…”彼女の鼓動が、早やる。
「もし良かったら…その、付き合ってくれ…ないかな?」
ためらいがちに,しかしその瞳にははっきりと彼女の驚きに満ちた表情を映し、彼は尋ねる。
“何で、どうして? どうして私なの? 私よりずっといい子がいるじゃない!”
彼女は混乱の中、クラスの噂を思い出す。
青山にプロポーズした女子は何人かいた,しかし「決めた人がいるから」と皆一様に断られたという。
“決めた人って…私なの? 私の何処がいいの?!”
「宮内…俺のこと、嫌い?」
慌てて彼女は首を横に振る。
「じゃあ…」
“どうしよう…”返答に困る。
嬉しかった。見えないはずの彼女を見ていてくれたのだから。
好きだった。憧れに近いものもあったが、話掛けられると嬉しかった。
恐かった。自分を好いてくれている人に、いつか嫌われてしまうのではないかということが。
恥ずかしかった。何を言ったら良いのか分からない。他人と、それも男子と話す時、何を言ったら良いのか分からない。
様々な色を持った感情が、彼女の心で舞い踊る。
「宮内,返事を」
期待と不安,青山の表情に浮かぶ感情。
宮内は耐えられなかった。どうしたら良いのか、分からなかった。
だから…
“消えてしまいたい!”
願う!
やがて青山の瞳に映っていた彼女の姿は…
消えた。
「あれ? 俺は一体??」
青山は頭を掻きながら見えない彼女をその場に残し、去って行く。
“私,私は…”
完全に見えなくなった彼女の、その流す涙すらこの世には存在しない。
彼女の心を満たすのは絶望と不安。
虚ろで空白な世界が彼女を包む。
ただ生きているだけ。誰の目にも止まらず、誰に干渉されることもない。
安息の世界であったはず。
しかし彼女は気付く。
安息は忙しさの中にあってこそ、安息なのだと。
人の中にあって、初めて自分が認識できるのだと。
人が苦手ということだけではなく、傷つけるかもしれない自分から逃げていたということ。
逆に傷つけられることを恐れて、初めから逃げていたということを。
“結局、何もせずに逃げていたのね”
理由は幾らでも後から付けられる。しかし、結果は一つだ。
“青山君…”
彼は真っ直ぐに自分の気持ちを彼女にぶつけた。
その気持ちに対して、彼女は逃げただけで何も返していない。
彼は傷つけること、傷つけられることを覚悟して、彼女に問うた。
“貴方のその勇気、私も分けてもらいたい…”
彼女の視線の先には、帰り支度をする青山の姿がある。
“ごめんなさい”その彼の背中に謝って、彼女もまた鞄を手に教室を出た。
と、教室の扉の所で青山が一人の女子に呼び止められているのが視界に入る。
“あれは…”
隣のクラスの女子だ。男子の間で人気のある子だった。
人通りの多い廊下のこと,冷やかしが幾つか入る。
「青山君、あの…私と…」ためらいがちにいう女子。
「ごめん…」言葉を遮って、青山は言った。
“え?”
彼女は耳を疑う。
すでに彼には彼女は見えなくなっているのに。
「俺、忘れちゃいけない人がいるんだ」
「忘れちゃいけないって…?」当惑して女子。
「その人は自分に自信がないんだ。人が好きだから,傷つけたくないから、自分を出せない優しい人。傷つけない言葉を選ぶのに戸惑う、ちょっと不器用な子なんだ」
「…誰なの?」
“それは、私じゃないよ…私、そんな良い子じゃない!”
「分からないんだ。でも彼女は今、近くて遠いところで悩んでる。どうしたら良いのか分からずに。俺はそれが解決するのを待っていたいんだ」
彼は微笑を浮かべて女子に言う。
その言葉に女子は他ならず、ギャラリーも当惑の表情。
“待っていなくていいよ、貴方に迷惑をかけたくないの!”
「青山君、でもその人がその何かを解決できないで,いえ、それ以前に青山君のこと、好きじゃなかったらどうするのよ?」
彼は女子の言葉に苦笑。
「彼女はきっと解決する。あと、彼女が別に僕のことをキライだって構わないんだ。僕が彼女を好きだって気持ちは変えられないことだしね」
胸に手を当てて、彼は穏やかにそう呟いた。
いつしか野次馬が輪を描いて二人と見えない一人を囲んでいる。
“そんな、そんな、そんな…私は貴方にそこまで思われる良い子じゃない! 優しくもないし、強くもない。解決なんて出来ないよ!!”
「…そぅ、忘れてしまっても、気持ちは変らないんだ」
女子から視線を背け、見えない彼女の方を見て言う青山。その瞳には野次馬だけが映る。
「あ…」
見えない彼女の胸の前に組んだ両手が小さく震える。ゆっくりと小さな唇が動く。
「ありがとう、青山君。私、貴方のその気持ちに応えたい…」
鈴を鳴らすような小さな声。勇気を持った、生者の声。
青山の瞳に、涙ぐむ少女の姿が映り始める。
「ああ…」
微笑む彼。
「初めて、君の声を聞いた」
「うん…」宮内は俯く。
「よろしく、ね」
「よろしく…」出された青山の手を握り返し、宮内は涙目で微笑んだ。
やがて彼女の見えない壁は霧のように晴れてゆく。
取り巻く生徒達の瞳には、明るく微笑む少女の姿が映っていた。
END...