おてんとさまが かくれたよ
 あめがざぁざぁ ふってきた
 おひめさまが ないたから
 すべってころんで いたくてないた♪



 山口県岩国――
 二月の冬枯れた山々に囲まれるようにして街が広がる。
 街を見下ろす山の一つには戦国時代に建立されたという岩国城跡があった。現在は僅かな観光客を招く為のスポットでもある。
 お昼を過ぎた、のどかな時間。
 そんな僅かな観光客の部類なのだろう,2人の若い男女が茶屋の店頭にあつらえてある長椅子に腰掛けて緑茶を啜っていた。
 「歌?」
 年の頃は17,8。茶色のコートを羽織ったロングヘアの女性は目の前を通り過ぎて行った2人の園児の口ずさむ歌らしきものに耳を傾けて首を傾げる。
 「ねぇ、今のはこの辺の民謡かな?」
 湯のみを持たない右手で彼女は、隣に腰掛ける男の黒いロングコートの裾を引っ張った。
 こちらも彼女と同年代くらい。短めの黒い髪に、ややキツめの瞳が一点を見つめている。
 彼は茶屋の隅に広げられているみやげ物コーナーに視線を向けたままだった。
 彼女は彼の見ているものに関心を向けてみた、そこには……
 「おばあさん,ここの名産って、どうして石人形なんですか?」
 彼は店の奥から姿を現した、このみやげ物兼茶屋の主人である老婆に声をかけた。
 みやげ物のコーナーには名産として拳大の石人形と書かれている不恰好な石が多数置かれていたのだ。
 彼の言葉に老婆は微笑んで店頭までやってきた。
 穏やかな日差しを細い瞳で一瞬、見上げる。そして何年も変わることのないような優しげな表情で2人を見つめて言葉を綴った。
 「この岩国の石人形は持っている人に降りかかる不幸の身代わりになってくれると伝えられているんですよ」
 「不幸の身代わりに? 何かの言い伝え??」
 少女の問いに老婆はゆっくりと頷く。
 2人の若者は顔を見合わせ、そして首を傾げた。
 「もし宜しければ……教えてもらえませんか? その言い伝えって」
 青年の言葉に老婆は「長くなるよ」と前置きしてから、2人の向いにある長椅子に腰掛ける。
 「その前にお茶のおかわりでも?」
 「あ、はい」
 「いただきます」
 老婆は3つの湯のみに温かいお茶を注ぐと視線を彼らの背後,いや、遥か遠くを見つめながら語り始めた。
 「とてもとても昔の話だよ。まだ人が草木に意志が宿り、山を恐れ、大地を愛した頃の話さね――――
 ―――それは、人々が全てに祈る心を忘れなかった時代のお話。


キクリヒメ



 未だ日本は部族ごとに暮らし、大和朝廷が生まれる遥か前の時代。
 この地は穂妻の国と呼ばれる小さな部族の街であった。
 周囲を山に囲まれたこの地は他部族の侵攻もなく、隣国とも友好的に過ごしていた平和といえば平和な地である。
 無理に脅威を探そうとするならば、国の東の山に住むと云われているキクリヒメと呼ばれる白い大蛇の化物くらいであろうか。
 もっともそのキクリヒメにしても人々が畏怖を覚えはすれど、水神として祭られる神様であるので恩恵はあっても危害はなかったはずだった。
 しかしこの永遠に続くかと思われた穏やかな土地に、異変が起きた。
 流行り病で人が死に、火事で家々が燃え、今までは生息していなかった狼が人と家畜を襲い、そして荒れたことのなかった水源である白蛇川が氾濫して人を流し、田を潰す。
 人々は飢え、心は荒み、盗みが横行する………
 この時、この国を治めていたのが齢20の青年・倉石の純友である。
 純友は全力でこの元凶を調べた……が、調べるまでもなかった。
 人々は知っていたのだ。全ては東の山に住まう大蛇・キクリヒメの仕業であると。
 流行り病で死んだ一家の元に白い蛇がいたし、狼の襲撃の際にも多数の白蛇が見つかった。
 火事にしても、水難にしても、全ての災難でキクリヒメの眷属たる白蛇の姿があったからである。
 そう、全ては妖怪キクリヒメの仕業なのであった―――


 ”討つべき……か?”
 私は傍らに置いた剣を握る。
 しかし討てるのであろうか、この剣で神を?
 遥か東方ではヤマタノオロチを狩ったという人間がいるそうだが、どうやらこれも神であったらしい。
 私は人間だ、神を討てるほどの力もなければ武器もない。
 しかし、このままにしておく訳にはいかない……私は王なのだから!
 ピシャ!
 天が光った,家の外ではしとしととした細い雨が降り始めていた。
 ”また川が荒れる……か?”
 そうだ。今、出来る事をしなくてはいけない。
 まだ川岸に住んでいる者達がいる,彼らを安全な場所へ導かないといけない。
 私は剣を腰に結び、立ちあがる。
 同時であった。
 狼の唸りのような音を響かせて、細い霧雨が大粒の雨へと変化した!
 私は外へ飛び出す。雨で髪が頬にへばりつくのにも構わず、厩に走りそのまま裸馬に跨って白蛇川を目指す!
 頬が当たる雨に痛い。ほどなくして揺れる視界の中に遠く、荒れ狂い始めた川が見える。
 馬のままで、築き上げたばかりの堤防を駆けあがり、そして私は見た。
 思わず馬を止める。
 川の上流―――そこに横たわる一匹の大蛇の姿を!
 「キクリヒメーーーーーーー!!」
 思わず暴雨の中で私は怒りに吠える。
 雷光が天を覆った。
 眩しさに、私の瞳に白い光りが残像として残る。
 「くそっ!」
 視界が戻る頃、すでに蛇は消え、代わりに顎を大きく開いた白蛇のような濁流が私のすぐ眼下にまで迫っていた。
 「しまっ…」
 遅かった,獣と化した濁流は、目の前で河川敷に住まう人々を建物ごと呑みこんでのた打ち回る。
 「くそぉぉぉぉ!!!!」
 膝を地に付き、足元の土を思いきり叩きつける!
 荒れ狂う濁流を前に、私はただ己の無力を痛いほど感じるしかなかった。
 目の前の光景と正反対に乾ききった私の心に、キクリヒメへの怒りがじわじわと染み込んで行くのを感じながら。
 「一体,一体、我々が貴女に何をしたというのだ、キクリヒメよっ!」
 答えはなく、ただ雨と濁流の立てる水の音だけがこの世界を支配していた。


 雨は降り始めた時と同じく、唐突に止んだ。
 すでに日は山の向こうに消え、空は群青色に染まり始めている。
 私は水の引いた河川敷を一人、歩く。
 先日あつらえた堤防のお陰で田畑は無事であったが、避難の遅れた幾つかの家族が流されていた。
 「くっ!」
 私がもう少し早く出ていれば、避難を促せたのに。
 私が無理矢理にでも彼らがここに住むことを阻止していれば、誰も死ななかったのに。
 私がもっと早くキクリヒメを退治していれば、誰もがこんな目には会わなかったのにっ……。
 悔しさに歯を噛み締める。
 目の前に転がる、流された家の残骸を見つめた。
 泥にまみれたそこに生命の息吹きはない。薄暗く弱々しい日の光にどんよりと不気味な影を河岸に投げかけ、黒と灰色の2色の無彩色で染め上げられていた。
 目の前の死の光景に向って足を一歩、踏み出した。踏みつけた湿った木材が鈍い音を立てて折れた。
 あるはずのない光を求め、私は逃げる様にして残骸の向こうに視線を移す。
 「っは!」
 その瞬間、私は目の前の光景に心臓が止まりそうになった。
 惨劇の起こったばかりのこの場所で、私は人にあるまじき感情を覚えたからだ。
 人が、いた。
 真っ白な着物を着た、長い黒髪を持つ美しい女性。
 彼女は声なく、天に向って泣いていた。胸に溺れ死んだと思われる幼い子供を掻き抱いて。
 死の漂うこの場所で溢れる、名も知らぬ彼女の飾りのないまっすぐな怒りと悲しみ。
 それが、その純粋な感情が、私にこの光景を美しいと感じさせた。
 同時に彼女に泣かれる事に、言いようのない安堵感を覚える。
 思ってはいけない、人にあるまじき感情だ!
 ”何故だ、いや……誰だ?”
 彼女はゆっくりとこちらに振り返る。
 涙に濡れた両の瞳は、紅い……?
 「貴女、は……?」
 ”この街に、こんな女は存在しない!”
 しかし私は彼女を知っている,私の本能が知っている。
 「いや、そんな馬鹿なことは……いや、しかし」
 存在を目の前にして初めて知りうる感覚。
 父より偉大で、母より近しく、血族より深く広い存在。
 目の前の彼女は立ち上がる。すでにその顔には表情はない。
 「……」
 何も言わずに、彼女はその場から姿を消した。
 まるで狢の如く。
 私は穏やかな死に顔をした幼児を前に、その場で声なくいつまでも佇んでいた。


 その戦士が訪ねてきたのは翌日の事だった。
 狼の皮を羽織った、見慣れない戦士。
 彼は使者だった。そして彼の言葉を聞き、私は会合を開く事とする。
 夕方にはこの街の実力者達を一同に会した席を設け、彼の言葉をそのまま私は紡いだ。
 「隣国が消えた」
 事務的な私の一言は、ざわつく一同を鎮めるには少々刺激的過ぎたらしい。
 「東より羅狼と呼ばれる国が支配を広げている。先日、隣は降参したそうだ」
 ざわめき始める一同,それはそうだ。これまで戦などほとんど行った事がないからだ。
 それ故に、残念ながら我々の戦闘力はきわめて低いものと思われる。
 「羅狼の国は使者を送って寄越してきた。次の二つのどちらかを選べ、と」
 しんと静まり返る場。
 私は息を一つ飲んで、続けた。
 「全力で闘うか,もしくは従属するか、だ」
 「従属だ」
 すぐに声が飛ぶ,そしてそれにほぼ全員が頷いた。
 「しかし……」
 遠慮がちな声が聞こえてきた。
 「従属とは奴隷という事だ、耐えられるか?」
 「だが戦って勝てるか?」
 「勝てぬであろうな」
 「分かっているのなら、初めから無駄な事はせぬ方が良い!」
 悲痛な声で交わされる言葉。
 確かにそうだ,羅狼の国の噂は私にも聞き覚えがあった。良くはない噂だ。
 闘いを好む野蛮な一族であり、支配される者達は家畜の如き扱いを受けると。
 私はしかし、従属の選択をする際の条件も話さねばならない。
 「ただ従属するだけでは皆殺しにするといっている」
 「「何故だ?!」」
 「キクリヒメの首を取って来い,それが従属の証だ」
 一同に衝撃が走る。
 キクリヒメを敬う事からではない,それが出来るのならば、とうにやっているからだ。
 沈黙が続く。
 「……キクリヒメを討とう」
 誰かが言った。
 「どの道、奴隷となるにもキクリヒメがいては災害が続く……そのキクリヒメを討てば、安心して暮らせるし、皆も羅狼に殺される事なく済む。一石二鳥ではないか」
 「そう、だな」
 「キクリヒメを討とう!」
 「討つぞ! 恐れるな!!」
 一同が立ち上がる。
 ”そう、だな”
 私もまた立ちあがった,キクリヒメは羅狼がどうであろうと、我々が生きて行く為には討たなくてはならない存在だ。
 「討つぞ、キクリヒメを!」
 私は宣言する,同時。
 脳裏に蘇る光景。昨夜の紅い瞳の女の光景だ。
 ”何故?”
 頭を軽く振って考えを振り払うと、私は討伐隊の編成を考え始めたのだった。


 「ゆくぞ!」
 「「おーー!」」
 雄々しいとも思えない声を背後に、私はキクリヒメ討伐隊として選び抜いた街の若者50名を連れてキクリヒメの住まいし山に向って歩を進めた。
 キクリヒメの住む白蛇山は、猟師も足を踏み入れる事はない。
 鬱蒼とした木々に覆われたこの山は決して高くはないが、大きな岩が常にむき出しで存在しており足を踏み外せば転倒して怪我は免れない。
 そんな足場の悪い野山を、私は隊を五つに分けて捜索を開始した。
 「長、キクリヒメって、どんな化け物なんでしょうかね?」
 渓流を上へ上へと進んでいた時だ。私の後を行く青年が恐る恐る尋ねてくる。
 「やはり白い蛇の大きいやつ、ではないだろうか?」
 「う……苦手なんですよ、蛇は」
 「白蛇には毒はないぞ」
 笑って私は答える。この地に住む白蛇は小さくおとなしい。また毒もない蛇だ。
 青年は小さく首を横に振った。
 「違いますよ,俺、白蛇を殺すのがどうも…ダメなんですよ」
 恐いとか、そういう意味ではないのか?
 そう私は思っていたのだが、どうやら違うらしい。
 「小さい頃から白蛇は俺達を守ってくれる守り神って聞いてましたから……だからどうもね」
 苦笑いの青年にしかし、他の若者達も頷いていた。
 「守り神、か。確かにそう言われていたな」
 私も幼い頃から聞かされてはいる。しかしこれまでの被害を聞くとその認識は記憶の隅に追いやられるのだ。
 と、隣を進んでいた若者がおずおずと私に告げる
 「長。僕はキクリヒメが白蛇だったら…殺せないです」
 「何故?」
 「僕の妹が流行り病で倒れた時、熱冷ましの薬草を白蛇がくわえていたんです。だから……」
 困った顔の彼に付け加えるかのように、先程の若者が続けた。
 「俺の家の家畜が狼に襲われそうになった時も、逃げる狼に白蛇が噛み付いてました」
 「……それではまるで守ってもらっている様ではないか」
 私は苦笑。しかし彼ら2人は……いや、他の若者達もまた2人の言葉を否定する様でもない。
 「でも真実がどうであれ、倒すしかないですよね,こうなってしまったら」
 悲しげに若者の一人が呟いた。
 その漂うやるせなさが、私の心から一瞬力を抜く。
 足が、滑る!
 「「長!!」」
 「しまっ!」
 私の体は宙に浮く。
 目に映る景色はこちらに手を伸ばす若者達から、そして真下に見える渓流とごつごつした岩み移っていった。
 強い衝撃と伴に、私の意識は闇に消えた。


 「っは!」
 私は身を起こす,胸に引きつるような痛みが走った!
 あまりの痛みにすぐに元の態勢に戻る。息をつくことすら困難だ。
 目を閉じ、歯を食いしばって痛みが立ち去るのを待つ。
 と、胸に何者かの手が触れた。そこから痛みが急速に引いていく。
 「?」
 目を開く。
 紅い瞳と目が合った。
 「貴女は……」
 先日幼児を抱いて泣いていた美しい女の姿がある。表情には何も映っていない。
 無論、私の言葉にも答えない。
 私は己が布団に寝かされている事をその時に知った。そして体には所々包帯が巻かれている。
 私の胸のところには大きな赤い染みが広がり、細い白い指が置かれていた。
 「助けてくれたのか?」
 ウォォォ、ウォォン!
 遠く狼の遠吠えが聞こえてきた,同時に彼女の後ろから小さな白蛇が現れる。
 「あ……」
 私が注意を促す事はなかった。彼女は私の前で、腕に巻きついてきた白蛇から耳元に何かを聞くと音もなく立ち上がる。
 「ま、待ってくれ……」
 白い着物の彼女はしかし、私の制止の声などまるで聞こえないかのように、白蛇を連れて部屋を出ていった。
 部屋――二方を襖、残りを障子で囲まれた部屋だ。
 私は深呼吸。ゆっくりと身を起こす。
 不思議な事に胸の痛みは先程に比べ遥かに引いていた。
 立ち上がり、ややおぼつかない足で障子を開ける。
 外は、美しい庭だった。
 桜が咲き、梅がほころび、紅葉が赤く色付いている。
 鯉の跳ねる池の隅には向日葵が、傾きかけた太陽に頭を下げていた。
 「なんだ、ここは?」
 四季の全てを含んだ不思議な場所だ。そして清浄な空気が辺りを満たしている。
 ウォォーーーーン
 まただ。また狼の遠吠えが聞こえてきた。今度は近い。
 私は庭に足を踏み出そうとして、しかし止めた。
 気が付いたからだ。
 庭にはそこかしこに白蛇の姿が見受けられた。そして『彼ら』は私を見つめている。
 そこには獣にはない、知性が感じられた。
 ここは、やはり……
 ウォォーーーーン
 狼の遠吠えが遠く去って行く。
 しばらく庭を眺めていた私の視界に動くものが入った。
 「?!」
 私は駆け寄る、それは赤い瞳の女性だったから。
 駆け寄り、私は絶句した。
 薄汚れた白い着物は所々引き千切れて破れ、力なく下がった右腕からは青い血が流れている。
 彼女はジロリ,私を見て初めて声を発した。
 「……お主はまだ寝ていろ,怪我が治らぬぞ」
 やや低めの、良く通る声だ。しかし今は何処か弱さを感じる。
 「治療しましょう」
 私は彼女の手を掴む,彼女は私の手をとっさに振り払った。
 「いらぬ,わらわの傷など放っておけば治るものだ」
 「そうは申されても、やはり手当てはしておく方が治りは早いものですよ,姫様」
 唐突な声は彼女の背後から。
 こちらも白い着物を羽織った美しい、中年の女だった。
 わずかに背の高い彼女に見つめられ、姫様と呼ばれたおそらく私の恩人は渋々頷く。
 「では腕だけじゃぞ、緋蓮。他はすぐ治るからのぅ」
 「はいはい」
 中年の女は緋蓮という名らしい。彼女は私に目配せして部屋に戻って行った。
 「さ、姫様。お手を」
 「うむ」
 畳の上に座り、姫と呼ばれる女は力の入らない右腕の袖を捲り上げた。
 そこには大きく肉を抉られた痕と溢れる青い血,そして……
 「乙女の柔肌をじろじろ見るでない」
 「はっ、申し訳ない」
 私は慌てて視線を彼女の隣の緋蓮に。治療にあたる彼女は苦い笑みを浮かべていた。
 姫と呼ばれる彼女の腕には古いものから新しいものまで、無数の傷跡があったのだ。
 そのどれもが何かに『噛み付かれた』かのような痕だ。
 新しい彼女の傷を、緋蓮が恭しく包帯で巻いてゆく。
 「一体、その傷は?」
 「お主のような人間が気にする事ではない」
 「終わりました」
 姫の一蹴と緋蓮の言葉は同時。
 気まずい沈黙が私達を包む。
 「……お食事の用意が出来ておりますわ。お二人ともこちらへどうぞ」
 緋蓮の言葉に私はほっと溜息をついたのだった。


 囲炉裏にかかった鍋からは芳ばしい香りと暖かな湯気が立ち昇っていた。
 「何の鍋ですか?」
 問う私に緋蓮は優しく微笑み、
 「これは……」
 ウォォーンン
 すぐ近く、再び狼の遠吠えが不意に聞こえてきた。
 姫が立ち上がる,体の調子の戻った私もまた今度は彼女に付いて行こうと立ちあがり……
 「うっ」
 姫に睨まれる,その赤い視線は私から力を奪い、立ち上がる気力を失わさせた。
 「緋蓮,こいつをここから出すな」
 「はい」
 座った姿勢で動けない私に彼女は、最後に一瞥をくれると部屋を後にした。
 途端、私の体に気力が戻る。
 「駄目ですよ、純友様」
 「?! 私の名を?」
 穏やかな緋蓮の言葉に、私は立ちあがりかけた体を止める。
 「いや、そもそも貴女達は一体何者なんだ? そして彼女は一体何と戦っている??」
 緋蓮に私は問う。がしかし、彼女は何も語ろうとせずに鍋の蓋を開けた。
 「緋蓮、さん?」
 「私達が何者か、もぅ分かってらっしゃるんでしょう?」
 どこか微笑むような、からかうような緋蓮の言葉。
 私は言葉に詰まる。
 「姫様が戦ってらっしゃるのは、外からの敵ですわ。貴方達、人間に関係のなく、そして最も関係のある存在」
 矛盾したことを言う彼女。私の詮索を誤魔化すつもりだろう。
 「私は……」
 告げなくてはならない。私のやるべき事を。
 「私は東からの侵略に対し、降伏しようと思っている」
 まっすぐに緋蓮を見つめ、私は続ける。
 「その条件がキクリヒメの首を献上することだ。我々の生活を天災を以ってして脅かすキクリヒメは、どのみち討つつもりでいたが」
 「きっとキクリヒメは」
 私の言葉を聞いて、緋蓮は笑みの表情を崩すことなく呟いた。
 「討たれても何も言わないでしょう。ですが私は主君を守る身,黙って静観するつもりはありませんわ」
 すなわち、やはり彼女が姫様と呼ぶあの紅い瞳の女性は。
 「純友様、貴方にはお見せしておきましょう」
 緋蓮は囲炉裏で火のかかる鍋に向って両手をかざした。
 途端、湯気と香りが一蹴する。
 「中をご覧下さいな」
 私は促されるまま、鍋の中身を覗いた。
 そこにはまるで窓であるかのように景色が映っているではないか。
 紅い瞳の女の姿があった。無数の狼を目の前にして一歩も引く様子がない。
 息の詰まるような両者の間で、彼女は白い大蛇に化ける。
 その瞬間に食い付く狼達。
 大白蛇は振り上げた尾で狼を蹴散らし、狼は蛇の体に食いつき、赤と青の血飛沫を辺りに撒き散らす。
 いつまでその戦いが続いていただろう?
 激戦の末、狼達は撤退していった。
 「この狼達も化物なのか?」
 人の姿に戻った、鍋の中の彼女を見つめながら私は問う。
 「……今、起こったことは貴方達の世界ではこうなっております」
 緋蓮はそれには答えず、鍋の中身の景色が変わった。
 「うっ!」
 村に火事が起こっていた,燃え盛る火の勢いは止まらない。
 しかし唐突に降り始めた雨でどうにか消しとめられた。
 「……これは一体?」
 私は口の中が乾いて行くのを知る。
 「私達は土地神。姫様が戦っておられるのは侵入しようとしている他の土地神。姫様はこの土地を守っておられますの」
 「守る…だと?」
 「しかしながら姫様に言わせるのなら、決して守ってはいないとおっしゃるでしょうが……そういうことです」
 鍋の景色が、具材に変わる。
 「これ以上は私は何も言いませぬ,ただ貴方には知っておいても良いと思っただけですわ」
 緋蓮の言葉は最後まで聞かなかった。この館の入り口に人の気配を感じたからだ。
 すでに私はそこに向って歩を進めていた。
 ガタン
 幾つめかの障子を開けると、庭に出た。そこに冷たい月明かりの下、彼女が立っている。
 白い着物を青く染め、憔悴した表情で。
 「貴女が……キクリヒメですね?」
 「……そうじゃ」
 憮然と答える彼女。
 そぅ、彼女こそが我々が全ての元凶と考えている化け物、キクリヒメ。
 「貴女は我等を守っておられるのか?」
 「そんなつもりはない」
 「我等は貴女を憎んでいるというのに、どうしてそこまで傷ついて守ろうとするのです?」
 「守るつもりなどないと、言っておろう」
 私は思い出す、動かなくなった幼児を抱いて泣く彼女の姿を。
 今まで表情を見せていない彼女だが、あの時の悲しみの叫びは大変失礼ながら死者に対して嫉妬したくらいだ。
 死して、これほどまでに悲しんでもらえるのならば,と。
 「では何故戦うのですか?」
 キクリヒメは私の問いに、まるで愚問であるかのように呟いた。
 「好きだからに決まっておろう,好きなものを目の前で壊されて黙っている者などおろうか?」
 全く以って簡潔な答えだ。
 守っている訳ではない,自分の好きなものを壊されたくないから、あくまで自分の為に壊す者を倒している。
 そう言っているのだ、この人はっ。
 私を睨むキクリヒメの視線が不意に弱くなった。小さい声が漏れる。
 「嫌われてもいっこうに構わぬ。しかし……好きでいることくらい許しておくれ」
 私は無意識に拳に力を込める。怒りが涌いてくる。
 どうしようもない、己が壊れてしまいそうな怒りだ。
 彼女は背後にある庭石に腰掛け、私に向って何処から取り出したのか、剣を投げた。
 それは私が彼女を倒すために提げていた得物だ。
 キクリヒメは天を仰いで大きな、大きな溜息一つ。
 「これ以上、わらわの好きなものを狼なんぞに壊されるのは嫌じゃ。……もって行くが良いわ」そう言うと目を閉じるキクリヒメ。
 私は剣を手にして、そして抜いた。腕が怒りの為に震えている。
 私は声を絞り出して剣を振り上げた!
 「どうして……どうして貴方はそんなにも優しいのだっ!」
 振り下ろす!
 澄んだ音を立てて、剣はキクリヒメの脇,彼女の腰掛ける庭石に当たって真ん中から折れた。
 「我等は戦っていない,今度は我等の出番だっ!」
 首を傾げる彼女に、私は宣言。
 「貴女が我等を守るのならば、私が貴女を守ろう,いや……好きなものが目の前で苦しんでいるのに、黙っている者などいるものか!」
 キクリヒメは微笑む。
 とてもとても寂しくも、苦く幸せを噛み締めるかのように。
 私は月に誓う。彼女の笑みが慟哭よりも多くなる事を。
 その為に、自らの為に戦うことを。


 私は東からの使者――羅狼の国の戦士にこう伝えた。
 『月が満ちる晩にキクリヒメを国境付近の山に拘束する。あとは好きにされよ』
 立ち去る使者を見送り、私は細工師を呼んである物を手配させた後、国の人々を集めて全てを話した。
 それを信じる者は信じ、信じない者は信じない。
 それで良いと思う,だが、これだけは伝えたかったのだ。
 だから、私は己の言葉を張り上げて、気持ちを一部で良い,皆に手渡したかった。
 自分自身に対する怒りと伴に。

 ――彼女は戦っている,ただ己を貫く為に。
 私達は私達のことなのに、戦いもしていない。逃げる事ばかり考えている。
 いつからだろう?
 私達はこんなにも、他人任せで情けない存在になってしまったのだ?
 彼女の様に誰かの為に、何かの為に傷つけとは言わない。
 せめて、自分の為に戦ってみよう。
 自分を守るために、そして大切な者達の為に戦おうじゃないか。
 それができないようなら、私達はいつまでたっても子供のままだ。
 だが、いつまでも彼女に甘えていられない。
 いや、我々が彼女を守ってやるくらいになろうじゃないか!―――


 月が満ちる晩、国境の山に巨大な狼が一頭、姿を現わしていた。
 白銀の毛を持つ巨大な魔狼だ。
 『彼』は一際大きな木に縛り付けられた女を見下ろす。
 身動き一つしない女に、魔狼は嫌らしい笑みを浮かべて言葉を放った。
 「ようやく観念したか、キクリヒメ。お主に代わってこの地も我が支配してやろう」
 大きな口を広げ、彼女を縛る木ごと思いきり噛みつく魔狼。
 がきっ!
 鈍い音が、した。
 同時、
 「ぐおぉぉぉぉぉ!!!!」
 魔狼が哭く,牙を折った魔狼は痛みにのた打ち回った。
 彼の口から零れ落ちたのは、キクリヒメ――の石人形だ。
 「うぉぉぉ、謀ったな,キクリヒメ!!」
 「やはりお前のような神にこの地を任せたくはない」
 唐突に出現する大白蛇,よろよろと立ち上がった狼の首筋に食らいついた。
 二柱はもみ合いながらお互いに噛み付き合う。
 だが牙の折れた狼に、白蛇を倒す力はすでに失われている。
 やがて魔狼はピクリとも動かなくなり、そして消えて行った。
 「不思議なものだ。一人にでも信じられると、こんなにも力が湧く」
 魔狼を打ち倒した大白蛇は鎌首をもたげて山の麓を見下ろす。
 視線の先には、野営中の羅狼の国の軍に奇襲を成功させつつある純友らの一軍の姿があった。
 一方、夜襲を行った戦士達は見たと言う。味方には安堵を、敵には恐怖を与える白い蛇の姿を。
 これを期に狼の威を借りた東の勢力は撤退し、やがて消えて行った。伴いこの地にも元の平和が戻ったとされている。
 以来、人々はキクリヒメを以前よりも親しみを込めて敬うようになり、白い蛇を守り神として崇めるようになった。
 そしてこの地にみやげ物として伝わる小さな石人形は、厄を代わりに負ってくれる物として扱われているのである。
 これはそぅ、皆の心に祈る心があった時代のお話――――


 ―――みやげもの屋の老婆の話に、青年は思い出した様に尋ねた。
 「あの、そのキクリヒメの山は今何処に?」
 老婆は寂しそうに微笑んで、下を指差した。
 指差す先にはアスファルトがあるだけだ。
 「??」
 「ここですよ」
 「え?」
 少女は絶句。老婆は小さく頷いた。
 「すでに山は消えたんですよ,一緒にキクリヒメを知る人も消え、白蛇は博物館へ。そして山は開かれ、溢れた人がこのように住んでいるんですよ」
 「……そうですか」
 青年は苦い顔で呟く。それは冷え切ったお茶を飲んだからではなさそうだ。
 すなわちキクリヒメの山は開発により、その存在を消していた。
 「貴重なお話、ありがとうございました、お婆さん」
 「いえいえ。きっと彼女も知って貰えて嬉しく思っていますよ。もしも良かったら、ここをしばらく真っ直ぐ行ったところに小さいけれどお社があるからお参りしてあげてくださいな」
 「はい♪」
 少女は頭を下げ、青年の腕に絡んで立ち上がった。
 「それでは」
 「良い旅を」
 青年もまた老婆に頭を下げて、彼女を伴いみやげ屋を後にした。
 やがて二人は、道端の隅に設けられた小さな小さな社――というよりは祠を見つける。
 「これ、かな?」
 「これだな」
 青年は何も言わずに柏手を打つ。
 少女も彼に習って同じ仕草。
 「でも、キクリヒメも可哀相だね。みんなを守ってきたのに、こんなところに追いやられちゃって」
 「そうだな。しかし、彼女はそうは思っていないと思うよ」
 「え?」
 少女は青年の祠を見つめる視線に気付く。彼が他者に対して滅多に見せる事がない優しげな表情がそこにはあった。
 「どういうこと?」
 「彼女は人が,土地がどう変わろうと愛している。きっと何があっても愛し続けるだろう。彼女が好きなのは存在そのものだから……つまりはそういうことさ」
 「……分かんないよ」
 「そ、か」
 少女に彼は穏やかに微笑むと、祠に向って一礼。
 「ちょ、待ってよ!」
 立ち去る彼の姿を少女は慌てて追いかけた。
 そんな二人の姿を、祠の上で『彼女』は笑って見つめている。
 『彼女』を信じる者が一人でもいる限り、その力は衰えずに彼女はこの地を今でも守り続けているのだ。


 おてんとさまが かおだした
 なないろきいろ にじさして
 おひめさまが わらったよ
 にらめっこして げんきにわらった♪