鋼鉄の怪物達によって木々は倒されて行く。
ギャァギャァ!
鳥達の悲鳴,同時に彼らの羽ばたきの音。
メキメキ…
木々の倒れ行く過程の軋みは、森の悲鳴。
ザン、ザザザン!
拓けて行く…太古より人の犯さざるこの森もまた、かつての盟約を忘れた人間達によってその姿を変えて行く。
「クソ! どうして俺達が尻尾巻いて逃げなきゃなんねェんだよ!」
景気の良い声が、鋼鉄の怪物達を見下ろす森の高台から響いた。
「………」
無言。
若い彼に答える者はいなかった。そう、彼は若い。
数十の獣の瞳が、愛した故郷の変わり行く姿を黙って見ている。
「おい、親父! 俺達のこの牙は何の為に付いてんだよ! 戦う為にあるんだろ! 大切なものを護る為にあるって教えてくれたのは、アンタだろうが!」
「…」若い彼を黙って見つめる一対の鋭い瞳。
若い彼のそれがナイフだとするならば、老いた彼の瞳は研ぎ澄ました日本刀。
光の交錯は一瞬,ついと先に逸らしたのは若い彼。
「もぅ、俺は我慢できねェ! 俺達はあんな人間達なんて軽く捻り潰せるはずだ,俺のこの牙の切れ味、あいつらにたっぷりと教えてやるぜ!」
プイと背を向け駆け出す彼。
「待て,炎牙!」老いた彼の鋭い声。
「待って,行っちゃダメよ、炎牙!」少女の声がそれに続き、彼の後を追った。
ズズン…
森の悲鳴は、果てることなく彼らの鋭すぎる耳へと届く。
其牙在誰為也
そのやいばたがためにあらんや
固い地面だ。
人間達はどうして大地の温もりを忘れてしまったのだろう?
かつては俺達ともうまくやっていたと聞いていた。
いつの頃からだろう?
人間達が仲間以外に目を向けなくなったのは。
森の息吹、風の調べ、水の尊き恩恵と、そこに住まう者達への意識を閉ざしてしまったのは。
固い地面だ。
俺はその上をひたすら歩き続ける。
森の中では群れ一番の俊足を誇っていたこの四つの足は、この固い地面の上では本来の力は発揮できない。
だが俺は行かなきゃいけない。
俺達の森を奪う人間達を倒す為に。
人間達のリーダーをこの俺の牙で倒し、再び森を元の姿に戻す為に。
そう、俺のこの牙は守る為にあるんだ!
親父の様に戦う前から逃げるなんて事はしない。そんなだから俺達はまるで流浪の民宜しく全国を転々としなきゃいけなくなるんだ。
やがて俺の進む眼下に幾つもの明りが見えてくる。
あの光の下に、人間達がいる。
それにしてもなんて数だろう…
街明り、とでもいうのか,延々と明りの絨毯が地平線の向こうまで続いているような錯覚。
「これだけ手に入れて、まだ奪おうとするのか…」
ウォォン!
俺は怒りを噛み締めて、明りに向かって吠えた。
厚ぼったい雲に三日月は遮られ、道路脇の街灯だけが俺の姿を映していた。
見えない月に向かって吠える、ニホンオオカミである俺の姿を。
ブロロロロ…
ブォンブォン…
ガゥゥゥゥ…
固い大地の上を次から次へと鋼鉄の化物達が走り抜けて行く。
そいつらはまるで俺のコトなんか見向きもしない。
俺がよく仕留めるイノシシとその行動が良く似てはいるが、こいつらからはまるで生命の息吹というものがない。
まぁ、近づかなければ害はなさそうだが…
しかし人間の住みかというのはどうしてこんなに空気がマズイのだろう?
俺はひたすら歩く。
人間達とすれ違いもするが、奴等は別に俺のことをちらりと見るだけで気にも止めない様だ。
だがしかし…
人間達のリーダーというのはどこにいるのだろう?
森を飛び出して3日、さすがに飲まず食わずにここまで着たので視界が歪んできた様な気がするし。
「チッ,少し休むか」
歩き通しで体に無理がきている,それにこの薄汚れた空気。
俺は人間達の言う所の公園とやらの空き地を見つけ、足を踏み込んだ。
途端、そこは異様な雰囲気に包まれている事を知る。
「野犬どもか」
街中にある広めの公園、僅かばかりの緑の覆う偽りの自然の中に、2,30の犬達がいた。
人間に捨てられた者,あるいは捨てられた親から生まれた者、それぞれだろう。
しかし連帯感などないはずのこいつらが、どうしてこの場所にこんなに集まっているのか?
「関係ない事だな」
今はそんな事を詮索している時ではない。
俺はやつらの視線を受け流しながら草むらの一つに忍ぶ。
「ふぅ」
小さく生きを吐く。腹は減ってはいるが今はとにかく休む事を考えよう。
とは思うのだが…
俺は目の前に気配を感じ、面倒くさくも身をもたげる。
「おい、若造,人のテリトリーに入っておいて挨拶もなしか? コラ」ドスの効いた声に俺はそいつに視線を向けた。
「う…」狼たるこの俺が、初っ端のガン付けで一瞬怯むとはな。
しかし俺はソイツを真っ向から睨みつける。
大きい犬だった。
外来種,セントバーナードとか言う奴だ。だが体が大きければ強いわけじゃぁない。
目だ。
奴の目は分厚い瞼で見えそうに見えないふうに感じるが、そんなことはない。
ギラギラと抜き身の良く切れる刃物。それがまるで俺の首元に突き付けられているような錯覚を覚える。
よくよく見ると、この野犬の後に従う様に他の犬どもが俺達を見守っていた。
”て、ことはこいつがここのリーダーか”
俺は内心ほくそえむ。コイツを倒せば俺がここのリーダーとなることが出来る。
不慣れな人間の町,その町に住まう犬どもを手下に出来れば人間のリーダーの居場所などすぐに分かることだろう。
「なんか言ったらどうだ? 若造」
重々しく言い放つセントバーナード。歳は大分行っているのではなかろうか,俺の親父以上に老いの空気を感じる。
俺はコイツを睨みつけたままゆっくりと立ち上がり…
先手必勝! 俺の牙が光る!!
「ウォン!」短く、腹の底から響く力強い奴の声。
本能的に俺の足が竦む。
ギロリ,俺を睨みつけるセントバーナードがいやに大きく見える。
「テメェ…」俺はまるで小悪党の様にそう呟いていた。
「フン」鼻で俺を笑うセントバーナード。
途端、張り詰めていた殺気が嘘の様に晴れて行った。
そう、俺は奴の気迫にあっさりと負けたのだ。
”情けねぇ…犬なんぞに”自分が急激に小さくなって行くのが分かる。
何なんだ、俺は狼じゃないのか?
犬なんかに負けて、人間のリーダーなんて倒せるのかよ。
ちくしょう
ちくしょうちくしょう!
「「わん」」
「「「わわん」」」
野犬達の視線が急に一方向に向かって行くのを感じた。
思わず俺はそちらに目を向ける。
人間…の娘?
「はい、ちゃんと今日は人数分持ってきたからね」
笑いながら人間の娘は野犬どもに食べ物を与えていた。
野犬どもはまるで統率が取れているように、行儀良く順番に食べている。
「おい、若造」
「?」
その声に俺は振り返る。
先程のセントバナードだ。
「腹、減ってんだろ」
「誰が!」
ぐぅ…
腹が鳴った。
「人間のモノなんて食うものか!」
キッパリと言い放つ。
途端、ギロリ,奴は俺を睨みつける。
「あの子は俺のファミリーだ。テメェは俺が食えって言ったものが食えんのか? あ?」
「…チッ!」
仕方なしに俺はセントバーナードの後に付いて人間の娘に向かって行く。
野犬どもは食べ物を与えられ、果てはこんな人間の娘に撫でられて喜んでいた。
”犬族の誇りもないな”心の中で唾を吐く。
だが彼らは俺が人間の娘に近づくと瞳の色を変えて警戒する。
まるで同じ群れの仲間が襲われやしまいかと言わんばかりに。
”人間と共存しているつもりかよ,バカな奴等だ”
「ジョニー,良い子にしてた?」
そんな人間の娘の声に、俺は思わず振り返る。
セントバーナードのボスが彼女に抱き締められていた。
”おいおい、尻尾振ってるよ,コイツ…”半ば呆れる。
これがガン付けで俺を負かした奴か? 情けないぜ。
そして娘は俺に視線を向け…
「あら、新入りさん?」
手を伸ばす。
「触るな!」
「ウォン!」
さっと、彼女は手を引っ込めた。
同時に騒ぎ立つ野犬達。
「テメェ!」
「なにしやがる!」
「ウォン!」
…
セントバーナード・ジョニーの一喝で場は静まる。
そう、もしもコイツが先程俺のことを睨まなければ、
まるで心臓を掴むような勢いで俺を睨まなければ、俺はこの人間の腕を噛み千切っていたはずだ。
「ごめんね、脅かしちゃって」
人間の娘は俺にそう謝ると、食べ物を俺に投げてよこした。
「…」俺はそれを口にくわえる。
食べ物でつられる訳じゃない。
狼と人間,対等な立場として、礼を言わなくてはいけない。
俺は娘に前に座る。
「どうしたの?」
俺は小さく頭を下げた。
これが人間の挨拶だったな、確か。
と、俺の頭に何か暖かい感触が伝わる。
「ありがとう」
人間の声。俺の毛を撫でつける。
それはこそばゆく、恥ずかしく、それでいて遠い昔を思い出すものだった。
”俺が生まれる遥か昔、人間と俺達は巧くやっていた…そうなんだろうな”
苦笑いして俺は彼女を見つめる。
人間にしては凛とした意志の強そうな少女だった。
彼女もまた、俺をジッと見つめている。
「綺麗な瞳ね、貴方」クスリ、彼女は微笑む。
思わず俺は顔を背ける。
「照れてるの?」言いながら、喉元を優しく撫でられた。思わずそのまま眠りたくなる。
基本的に人間には俺達の言葉は伝わらない。
だが、俺達には人間の言葉が分かるのだ。俺達は自然を忘れてはいないから。
人間達は、自然の上げる悲鳴から耳を塞ぐ為にあらゆる『声』を聞くのを止めた。
正確に言うと忘れたのではない、本能的に拒否しているのだ。
俺はそう親父から聴いている。
だが、思う。
この人間にはある程度、俺達の声が聞こえているんではないだろうか?
自然の悲鳴を聞く事が出来るのではないだろうか?
「それじゃ、またね」
暖かな感触が去り、俺は顔を上げる。
少女が立ちあがり、公園を去って行く所だった。
野犬達はその後姿を愛しそうに見送る。
”ハッ!”
俺は頭を横にブンブンと振った。危うくこいつらと同じ事をする所だった。
最後にもう一度だけ、優しい手の感触の人間を見る。
フラリ…
力なく、彼女はよろめいた。
「!?」
「イカン!」叫び、ジョニーが彼女に向かって駆ける!
遅れて野犬達もそれに続いた。思わず俺もつられる。
車道に向かって倒れ込みそうな彼女を、セントバーナードは己の巨体で背負う。
間一髪、目の前を車が駆け抜けて行った。
「う…」呻き声を上げてジョニーの背中で彼女は目を開く。
それを心配そうに見つめる野犬達。
「私ったら…ゴメンね、今日はちょっと運動しすぎちゃったみたい」小さく笑って人間の娘。
「由紀,由紀!」そんな人間の男の声が俺達に届いてきた。
少女に駆け寄るは人間の中年男。
「お父さん…」
「由紀、病院抜け出して何をやってる! それもこんな…」俺達を見渡して男。
「ノラ犬から別の病気でも移ったらどうするつもりだ!」
「そんなこと、ないわよ!」一変して激しい剣幕で返す彼女。その勢いにか,再び体が揺らめく。
「…犬のことを良く知る私に反論はせんことだな」
彼女を抱きかかえ、中年男は俺達を見る。
「よくもまぁ、こんなに集まったものだ…」ボソリ,そう彼は呟くと、力が抜けたような娘を抱きかかえてこの場を去っていった。
「イヤな臭いだ」
男から流れる匂いに、俺は自然と顔をしかめていた。
俺はジョニーと向かい合って食べ物を胃に収めていた。
「若造、何か用があってここに着たんじゃないのか?」
「…」俺は無言。
「ま、森を荒らされたとか、そんなところだろう? ニホンオオカミの坊ちゃん?」
「んな!」俺は慌てて顔を上げる。
「何で分かった!?」
俺の声に野犬達は面倒くさそうに一瞥するが、やがて各々視線を泳がせて行く。
「俺も長い事生きているからな。犬と狼の区別くらいつくわな」苦笑のジョニー。
「だがな、若造。今は人間達の世の中だ。お前に、いや,誰にも森を守ることはできねぇよ」悟り切ったようなセントバーナードの言葉。
キッ、俺はジョニーを睨みつける。
「俺の牙は森を守る為に在る!」
「ハハハハハハ!」豪快に笑い出すジョニー。
「何がおかしい!」
「滑稽だよ、お前」ギロリ,深い藍色の瞳はしかし、笑ってはいなかった。
「殺すぞ、貴様!」そんな自分の言葉がこれほど軽く感じた事はない。
そうでも言わなければ逆に殺される,そんな深い深い瞳だった。
「じゃぁ聞くがな、若造。一度だって良い。お前は護れたのか? 森をよ」
「?!」絶句。
「守れて初めて、守る為に在るって言えるのさ。守れもしなかったものを守るだと? これを滑稽と言わずしてなんという?」
「クッ!」
「分相応も知らない若造めが。理想と現実を履き違えおってからに」
「守ることも出来ないものに言われたくはないね」唾を吐いて俺は言い返す。
ところが、
「守っているさ」
ジョニーは誇らしげに言った。
「何をだ?」
「ここにいる仲間たちと、そしてあのお嬢ちゃんをだ」
「そんな事と…」
「比べるなってか?」俺の言葉尻りを取ってセントバーナードの老犬。
「俺は守るぜ,この命に代えてもな。ここが俺達のいる場所だし、あの子は俺達が必要だ。そして俺達もあの子を愛している。だから守る。それがお前の『森を守る』っていうのと何処が違うんだい?」
ジョニーは実際に守っている,俺は守ろうとしている。
実行する奴と、理想論を振りかざすだけの俺。
重さが、違う。
「そんな関係、続くものかよ」
先程の人間の中年を思い出して、俺は話を変えた。
あの男は人間の娘の父親だろう。
そして奴はここの野犬達をその内、排除しようとするだろう。
「どうしてそう言えるんだ?」
そんなあっけらかんとした言葉が返ってきた。
「変だぜ,お前達」
「余所者から見たら、そうかもしれん。だが、俺達は非常に良くやっているさ。当事者がそう言うんだから間違いないだろう?」
「だがしかし」
「しかし、何だ?」
「…」言葉に、詰まる。
「変に思う周りの連中が、得てして関係を壊していくんだよな」
遠い目でジョニーはそう呟いた。
「だが関係なんてどうでも良いんだよ。例え形を成していなくても、俺達とあの子の心は繋がっている。俺達が困っている時にあの子は助けてくれた。あの子が危ない時、俺達は命を賭ける。だってファミリーだからな」誇らしげに、彼は言った。
「…わからねぇよ」
「結局、守るって言うのはそんな大層なことじゃぁない。もっと身近の、なくなった時に初めて気付くそんな大切なものを守れれば、それで十分なんじゃねぇのか?」彼は頬を軽く緩めてそう言った。
「大切な…もの?」
「お前の親父…群れのリーダーか? そいつは立派に守ってるじゃねぇか」
薄笑いを浮かべて、ジョニー。
「何をさ!」まるで子供の様に、おれは突っかかる。
「お前達をだよ」
「?」その言葉に唖然とする俺。
「お前が森を追われて憎む気持ちを、リーダーである親父さんが抱かないでも思うのか? お前以上に思っているさ。しかしな、守らなきゃならんのさ、お前達をよ。どんなに屈辱的な事であっても、一番大切なものを守る,それを即に決断した立派なリーダーじゃねぇかよ」
「そんな…そんなことが何だ! 俺達の牙は森を守る為に!」
「森を守る為に牙を振りかざしても、それこそ犬死さ,勝てると思っているのか? お前は本当に人間達によ!」
彼の言葉は、俺に深く突き刺さる。
そう、きっと勝てない。
いや、おそらく俺達が牙を振るう理由すら、人間達には伝わらないだろう。
そして俺達は狩られるに違いない。
それは想像していた事だ、しかし認めたくなくて見ない振りをしていた事だった。
「お前の牙は届かぬ理想を守るためではなく、身近の幸せを守る為に振るわれるべきだ」
「………」
「と、守れなかった奴の言う言葉じゃねぇな」
「え?」苦笑するジョニーに、俺は顔を上げる。
「守れなかったんだよ、俺はさ。一番大切なものをよ」遠い星空を見上げて、彼は続ける。
「だから今度は必ず守るさ。あんな辛い気持ちは経験するもんじゃねぇ」
深い深い藍色の瞳。
様々な感情の入り混じった老いた瞳。
その奥に、俺は親父の瞳を見た様な気がする。
ふぃと、俺は目を背けた。
そして、立ちあがる。
「帰るよ、森に」
俺は呟く。
「そうか」静かにジョニー。
と、その時である。
「炎牙,炎牙!」
遠く、俺の名を呼ぶ声がする。
弱々しい声。
これは?
「氷牙!?」
「うぉぉ〜ん!」
俺は、雄叫びを上げる。
カカッ!
遠くから駆け寄ってくるのはやはり…
「氷牙!」
俺の後を追ってきたのか? 従姉妹の氷牙だ。
彼女は俺の姿を捉えると、疲れているにもかかわらず駆け出した。
「いかん!」叫ぶジョニー!
氷牙は一直線に公園へ,車の走る道路に飛び出していた。
キキィィ!
「氷牙ぁ!」コマ送りの様に、彼女と鋼鉄の化物が衝突する様が目の前に広がった。
ドン!
車が氷牙を跳ねる。彼女はまるで糸の切れた人形の様に宙を舞い、公園脇にドサリと落ちた。
「氷牙!」俺は走る。
車から人間が二人出てきた,彼らは車の凹んだ部分を見て何やら、ぶつくさ呟いている。
そして倒れる氷牙を…
「犬コロが!」
蹴った!
「うぉぉ!」俺はその人間に向かって疾走,牙を光らせその喉を狙う!
「な、なんだ?」
「犬か?」
戸惑う人間、しかし遅い!
俺は飛びかかり…
ドッ!
「んな!」俺は横から突き飛ばされた。
「我慢しろ!」叫ぶジョニー。
「何故だ!」
「おい!」
「ああ!」
人間二人は慌てて車に乗り込む。俺はさせじと飛びかかろうとするが、しかしジョニーが前に立ちはだかった。
その間に人間を乗せた車は走り去って行く。
「そこまで人間の犬に成り下がったのか! テメェ!」
「俺が…こんなのを見せ付けられて怒っていないとでも思うのか…」声を絞り出すようにジョニー。俺ははっと我を取り戻す。
瞬間、森を切り開かれた時の親父とその姿がダブった。
俺はともかく、氷牙に駆け寄る。
彼女は荒い息を吐いていた。腹部から血が滲んでいる。
「内臓をやられたな」苦々しくジョニーは呟く。
「どうすれば…」明らかに生命を減らして行く幼馴染みに、俺はどうする事も出来なかった。
幼い頃から共に過ごしてきた彼女。
いつも暴走しがちの俺を止めてくれたのが氷牙だ。
そして今回も…原因は俺だ。
俺が人間の世界に来なければこんな事には…
”お前の牙は届かぬ理想を守るためではなく、身近の幸せを守る為に振るわれるべきだ”
先程のジョニーの言葉が重く俺にのしかかる。
”くそ、くそ、くそっ!!”
「ジョニー,呼んで来たぜ!」野犬の一匹がセントバーナードにそう耳打ちする。
「まぁ!」人間の声、聞き覚えのある雰囲気。
俺はそちらに振り返る。
由紀,先程の人間の少女。
真夜中にもかかわらず寝巻きの上にであろう,ジャンパーを羽織り、野犬数匹に先導されて現れた。
”呼んできた? 来てくれた??”
「大変!」
彼女は俺を押しのけて氷牙を抱上げる。
「クゥ!」氷牙から苦痛の声が漏れた!
「ガッ!」俺は敵意の視線を由紀に向け…
そして小さく頭を下げた。
人間の彼女は狼の血に汚れるのを気にする事もなく、氷牙を優しく抱上げて早足で元来た道を戻って行った。
「お前達はここで待っていろ」
「「はっ!」」
ジョニーは野犬達を公園に戻らせて、俺を伴って由紀と氷牙の後を追った。
> 辿りついたのは薬品の臭いのするいやな場所。
そう、由紀の父親と同じ香りのする場所だった。
入り口に立てられた看板には、意味は分からないがこうあった。
『伊藤動物医院』
「お父さん、起きて!」玄関を開け、由紀は中に向かってそう叫んだ。
数瞬後、ドタドタと奥から慌てた様に一人の男が寝巻きのまま駆け出してくる。
先程、由紀を連れて行った中年男だ。
「何だ、由紀? こんな時間に! 発作が再発したらどうするつもり…」
そこまで叫ぶ様にして言った中年男の言葉は、娘の姿を見て唐突に止まる。
血を流した獣を抱いた彼女の姿にか、もしくはその獣が犬ではないことにか。
「お父さん、この子を治してあげて!」由紀は嘆願。
「…」一方、無言の男。
「お父さん,この子は車にはねられたの。人間の手によって傷つけられたものを人間の手で治さないで獣医と言えるの?!」必死に、由紀は訴える。
確かに氷牙をはねたのは人間だ。
だが由紀じゃない。
どうしてそんなに必死になってくれるのか?
人間というものは、分からない。
”いや、違うか”
由紀の横顔を眺めながら、気付いた。
人間じゃない,そんな枠じゃない。由紀なんだ。
俺も氷牙も狼じゃない。炎牙と氷牙だ。
そしてジョニーもまたジョニーであり、野犬じゃない。
だから人間が嫌いでも、俺は由紀は嫌いじゃないのではないか?
人間…もしかしたらそんなものはいないのかもしれない。
「…分かったよ、由紀」
力で押された様に男は力なく呟く。
「そいつを診療台へ。寝かせたらお前はもう寝なさい。身体に響く」
「でも…」
「少しは自らの心配をしなさい! それと…」
ギロリ、男は俺とジョニーを睨みつける。
「…この犬達を外へ。衛生上、影響がある」
「はい…」
由紀は俺達を伴って診療台に氷牙を寝かせる。
俺は荒い息を吐きつづける氷牙の乾いた鼻面を舐めた。
”助かる…必ず助かるよな”
手袋を嵌め始める中年男の背に全く信頼は置けないものの、祈るような気持ちで氷牙を託し、俺達は診療室を後にした。
異様に長く感じた数時間後…
朝日が昇る一歩手前。
ガラリ,診療室の扉が開く。
「終わったよ」疲れと呆れの混ざった声で中年男。
呆れには由紀が結局一睡もせずに診療室の前で俺達と待っていた事に対して、であろう。
「それで、どう?」
「完治には一週間くらいかかる。まぁ、打ち所が良かったな。骨は折れていないし、内臓を少し痛めていただけだ。縫合しておいたから安心なさい。しばらくは麻酔で眠りつづけるだろうが」
「良かった…」大きく溜息の由紀。俺とジョニーを優しく撫でる。
男の言葉は由紀と違って良くは分からないが、彼女の態度から氷牙は助かったと言う事だろう。
「それと由紀」
「はい?」顔を上げて由紀。
「あの犬は…」
「?」
中年男はそこまで言って言葉を止める。
そして俺を一瞥。
「いや、何でもない」
そう言い残して診療室前を後にして行った。
3日後。
俺とジョニーは由紀に連れられてようやく診療室にやってきていた。
そこには胴体を白い包帯で巻いて寝そべる3日ぶりの氷牙の姿がある。
「氷牙!」思わず叫ぶ俺。
生きている,間違いなく彼女は生きている!
彼女はゆっくりと首を俺の方に廻す。
「炎牙…私は…」消え入りそうな声で氷牙。
「良かった…生きているんだな」俺は駆け寄り、その額を舐める。
「ええ…ごめんなさい」彼女は言って目を逸らす。
「バカ,謝るのは俺の方だ。巻き込んじまって…」
「…ごめんなさい」
「謝るなって!」
氷牙は俺に振り向く。
悲しそうな、嬉しそうな顔。間違いなく、それは氷牙だった。
そんな彼女をこれまでになく愛しく感じ、思わず頬を寄せる。
「炎牙…」安心したような氷牙の溜息。
「ジョニー,若いって良いわね」
「ウォン!」
由紀とジョニーのそんな声が聞こえてくる。ジョニーはともかく由紀は若いだろうが!
ガラリ
四人の診療室の扉が開いた。由紀の父親だ。
相変わらず好きになれない雰囲気を放ってはいるが、氷牙を助けてくれたのはこいつだ。
奴は俺を一瞥。
「由紀,この狼はどこで見つけた?」
「え…」
そう、彼は俺達のことを狼と呼んだ。
「この狼と、お前の連れている狼は間違いなく絶滅したはずのニホンオオカミ,大スクープなんだよ!」
「お父さん…?」
「もぅ玄関口に捕獲員を呼んである。一応警官もな。何処でどう漏れたか分からないが、マスコミも嗅ぎつけていてな」
ザワザワ,外から人間の気配が数多くする,気付かなかった!
”コイツ、俺を捕まえる気か?”俺は由紀の父親を睨む。
「動けるか?」ジョニーが氷牙に尋ねた。
「うん…野生の狼を舐めないでよ」
氷牙は小さく笑ってよろめきながらも身を起こす。
ダッ!
俺達3人の前に、庇う様に両手を広げて由紀が父親の前に立ち塞がった。
チラリ、俺達の方を見る。
「裏口からお逃げなさい,さぁ!」
「由紀!」中年男の叱咤。
「お父さんのバカ!」返す由紀。
「これは素晴らしい発見なんだよ,絶滅したはずのニホンオオカミが,それもつがいでこんな街中で発見されたなんて!」
「だから何よ!」
「何って…」
「この子達をどうするつもりよ,実験? 解剖? それとも動物園送り?」
「当たり前だろう?」当然とばかりに男。
「そんなこと、私がさせない!」目で診察室の裏口を俺達に示しながら彼女。
「由紀!」
「お父さんだって一生檻の中や実験台に去れたら嫌でしょう?」
「ニホンオオカミの保護の為なんだよ」諭すように男は言う。
「檻の中の自由のないニホンオオカミなんて、そんなのはニホンオオカミじゃないよ!」
「ウォン/由紀…」俺はそう言ってくれた彼女の手をペロリ、舐める。
「?!」
由紀は俺に振り返り、ギュ,彼女は俺を強く抱き締めた。
別れを惜しむ、純粋な気持ちが伝わってくる。
「さぁ、行きなさい!」俺を放して由紀。
「その娘を大切にね!」
「行くぜ!」ジョニーが先頭に裏口に向かって走る!
「ああ」
「ええ」
俺と氷牙はお互い頷きあって、その後に続いた。
「「ォォン!」」
最後に一言、俺と氷牙は人間の彼女の背に向かってそう叫ぶ。
「ありがとう、由紀さん」
「俺はいつかきっと、お前の力になってやる!」
路地に飛び出た俺達は、しかしあっという間に人間達に見つかった。
「おい、あれは…」
「捕まえろ!」
動物園からの派遣員,マスコミ、警官らといった人間達が押し寄せる。
「おい、ヤベェ!」
「ウォォン!」不意にジョニーが吠えた。
途端。
「任せな、若造!」しわがれた声。
「その子を大事にしろよ」
「捕まったら承知しねぇからな!」
電柱の影,路地裏,塀の上などなど、現わるるはジョニーのファミリーの野犬達。
「俺達が引きつけてやる、その間にお前の牙で守ってやりな」俺と氷牙に背を向け、人間達に立ちはだかってジョニーは吠えた。
「そんな無理はさせられない…」
「俺達はファミリーだろう?」野犬の力強い声。
「え?」俺は言葉が止まる。
「違うとはいわさねぇぜ!」しわがれた犬の声。
「どうして…」
「由紀さんの心、お前も知っただろ」また他の野犬の問い。
「…」最後にほんの少し、抱き締められて知った,人と犬との自然なあり方を。
「それで十分、俺達のファミリーだよ!」野犬達は俺と氷牙に笑顔を向ける。
「行きな,炎牙!」満足そうにジョニー。
「…ジョニー,しかし!」が、彼は背中から発する雰囲気だけで俺の言葉を止めた。
「お前の牙は口先だけのなまくらじゃあるまい。どんなに汚されても叩かれても、僅かな勝機を見出すまで常に研ぎつづけているものだろう? 違うか?」
「ありがとう」
「礼はいらねぇ,ファミリーがファミリーの一員を守るのは当然の事だからな!」
それを合図に、
襲い来る人間達に、ジョニーを先頭に野犬達は飛び掛って行った!
突然の数10匹の犬の来襲に、人間達は大混乱。
「この犬は何だ?」
「わ、くるなぁ!」
「どれがニホンオオカミだ?」
「とにかく全部捕まえろ!」
「うわ、シャツを掴むなぁ!」
ジョニー達は決して人間に噛みついたりはしない。傷つける事でいずれ己も廻りまわって傷つく事を知っているからだ。
「炎牙!」
「ああ、行くぞ!」
俺と氷牙は背後の混乱にファミリーの無事を祈りつつ、振り返らずに駆けて駆けて、とにかく駆けた。
彼らの心遣いの為にも,そして俺はジョニーに教わった通り、いずれは氷牙だけではなく親父の様に群れ全体を、この牙で守らなくてはいけないのだから…
次に会う時には、若造なんて呼ばせないぜ。
俺は心の中でこの地で出会った由紀と野犬達のファミリーに感謝を送りながら、そう誓った。
俺達は人間と共に生きて行くことは出来るのだろうか?
人間達が全て由紀の様であれば、それは可能だ。
だけど、そんなはずはない。
無理、と言ってしまえればどんなに楽だろうか。
可能性は0ではない。俺はそう信じる事にした。
だって俺と人間に近しいジョニー達,そして由紀は離れた今でもファミリーなのだから。
いつかお互いに分かり合えるその日を、俺は天に輝く月に向かって祈り、吠える。
今度は決して見失う事がない様、大事な人を傍らに置いて。
俺は俺の牙で、守れるべき大切なものを守り続ける。
強い日差しを森の木々は受け止める。
緑色を透過した弱々しい涼しい光が、彼ら群れをゆったりと包んでいた。
「おい、親父!」静寂を破る激しい声。
若い息子のその声で、彼は視線を向けた。
「炎牙、あれ…」
続いて壮年の女狼が彼に驚きを伴った声で視線を促す。
「「ううう…うぉん!」」群れの警戒と怒りの咆哮。
血気盛んな若い彼の息子が単身、木陰の向こうに一人佇むその影に向かって走り出す!
「まぁ、こんにちは」
変換
狼の放つ敵意に対して、その人影は優しい声と笑顔でそう応えた。
若き狼の足が、その人影の前で思わず止まる。
「そっくりね」そう言いながら人影・人間の女性はノーモーションで狼の頭を撫でた。
若い彼は戸惑いと恥ずかしさ,ほんの少しの嬉しさを浮かべる。
「時が、来たか?」
「行ってらっしゃい」愛する妻の声を聞きながら、彼は群れをその場に残し息子と彼女に駆け寄った。
木陰から木漏れ日が落ちる。
強い日差しに、一人と二匹が照らされた。
「おひさしぶりね」踊るような、力強い女性の声。
「うぉん」彼は自信を持って彼女に頷いた。
「??」そして首を傾げる彼の息子。
自然な、なだらかなファミリーの再会。
そう、分かり合える日は、きっとくる…
おわり