山頂に吹く冷たく清らかなる風に身を洗い、いにしえより伝わりし施術者の呪力を高めるという礼服にその身を包む。
 茶色の素地に白色の文様が所狭しと描かれた、人の手にあらざる長衣。
 片手には僅かに燐光を放つ未知の金属で出来た三叉の杖。
 ヒカリゴケで視界は保たれるものの暗く深い洞窟の中、青年は目の前に横たわる巨大な獣を見つめていた。
 南国の大河に潜むと言われるクロコダイルと同形状の装甲車を思わせるうろこに覆われ、犀よりも鋭く太い二本の角,そして百獣の王ライオンすら遠く及ばない鋭く大きな牙。悪魔を思わせる背から垂れる翼。
 巨大なその獣は、頭から尻尾の先まで全長7mはあろうか。
 竜
 この世界ではそう呼ばれている。
 曰く、恐怖の対象
 曰く、破壊の権化
 曰く、諸悪の象徴
 そう呼んでいるのは、もっとも人間だけであるが。
 そしてそれを倒す者はこう呼ばれ、最上級の尊敬と名誉が与えられた。
 竜殺し
 青年は横たわる竜の額をそっと撫でる。
 岩のような感触だ。
 しかしこの竜は地を這うクロコダイルとは明らかに異なっていた。
 大きさだけではない,そのうろこの色である。
 白銀色
 ヒカリゴケの僅かな明りを照り返して竜自体が輝いている様にも見える。
 「さすがに眠っているな」
 竜を撫でる右手を止め、青年は小さく微笑んだ。
 「何せ象も3日3晩は寝込む眠り薬だからな」
 竜の瞳は深く閉じられ、規則正しい息遣いが空気を振動していた。
 青年は懐から長細い布切れを取り出す。極彩色の、まるで混沌が凝縮したような布だった。
 彼はそれを己の首に巻く。喉仏を完全に隠す様に。
 キュ!
 首の後で結び、彼はキッと竜を睨みつけた。
 三叉の杖を竜の額に軽く触れる。
 「……………………」
 青年の口が、動く。
 キィィ!
 彼の足元をネズミが驚いた様に走り抜けて行く。
 人類には知覚出来ない、高域振動数を使用した『力ある言葉』だ。
 それをこの青年が己の身体をもってして行使している。
 「………………」
 複雑な術式を解凍していくように、青年の目には力が灯り額には玉のような汗が浮かび始めた。
 対する竜は、
 「ぐぉ…おお…」小さく、唸る。
 それを眺めながら、青年は小さく笑った。
 ”そう、貴方と出会ったのはホント、つい最近の様で昔の事だな”
 遥かなる想いが、術式を解き続ける彼の脳裏に蘇っていた。


Dragon Heart



 ガタタン、ガタタン……
 車内が揺れる。
 家財を積んだ馬車が一台、とある村を目指していた。
 時は15年前、二つの大きな国が刃を交え、主要都市に戦火が及んでいた,そんな混沌とした時代だった。
 「うわぁ!」
 「ラーズ,窓から頭出しちゃ、危ないでしょ!」
 5,6歳であろうか,ラーズと呼ばれた少年が馬車から半身を乗り出し目の前にそびえる鬱蒼とした山を見上げていた。
 「ねぇ、お母さん」少年は山の頂上を見上げたまま、車内の母親に尋ねる。
 「いいから中に入りなさい!」母親の叱咤。
 「あれ、なぁに?」
 「もぅ!」
 少年の指差す方向。
 山の頂上,岩山の地肌が見えるそのてっぺんに、それはいた。
 白く輝く翼を広げ、蒼く穢れのない瞳は世界を見つめる。
 咆哮は風に溶け、果てしのない青空を駆け巡る。
 白銀の竜。太陽を背に、鋭く遠くを見つめていた。
 「い…いや…ラーズ!」
 「うわぁ!」
 少年は母親によって無理矢理中へと戻される。
 「ちょっと、アナタ! どどど、どうして竜がいるのよ!」少年を抱き締めたまま、彼女は御者をする夫に抗議。
 「…知らん」振り返ることなく、彼はそう掠れた声で呟く様にして答えた。
 まるで彼の心の中を顕わすかのように、馬車の速度が上がる。
 「お母さん?」
 「見ちゃダメよ、食べられちゃうわよ!」
 少年を無理矢理抱き締める母親。
 彼は困った様に山の頂きに構える竜を見つめる。
 ”キレイだな。どうして恐いって思うの?”
 そんな彼の質問に答える者は、いない。




 竜の横たわる地面に光の文様が描かれて行く。
 今や死んだ文字で描かれる文様。
 現在使われている魔方陣の原型とも言われる、神鳴る力の灯った図形だ。
 やがてそれが青年の聞こえない声に従い、完成。
 柔らかな燐光を噴き出し、竜の体を包み始めた。
 「ぐぉぉぉぉぉ!!」
 竜が目覚める。蒼く鋭い目が開かれ、ギンと目の前の青年を捉えた!
 「ラーズ,お主…」苦しげに、竜は人の言葉を放つ。
 青年はやや驚きながらも、呪を紡ぎ続けた。



 「あんな竜の住む山の麓に住むなんて…」
 「いや、どうやら人には目もくれないらしいぞ」
 夫婦はお互い顔を見合わせると、はぁ,大きく溜息を就いた。
 「これだったら戦争の起きてる元の町の方が安全だったかも」
 「…それは言うなよ」
 小さな村だった。特産物があるわけでもなく、肥沃なわけでもない。
 普通の村だ。
 しかしすぐ近くの山林には一匹の竜が棲み付いていた。
 正確に言えばここに人間達が棲みつく以前から居たわけであるから、文句が言える立場ではないが…
 竜は村を襲う事は、少なくとも村で一番年老いた老人の話では、ない。
 しかし人を襲う事はある。
 これまで何人もの名立たる騎士達が、『竜殺し』の名誉を得んと,また魔力の宿るその牙を得んと、そして永遠の命を得る事が出来るというその心臓を得ようと挑んだ事はあった。
 だが、誰一人として戻ってきた者は、いない。
 「食われたのじゃよ、竜は人間を食うのじゃ。頭からが〜りがりとな。特に悪い子の肉が大好物だそうじゃ」
 老人はそう言って子供達を怖がらせたものだ。
 少年・ラーズは山を見つめる。
 時々しか、竜は姿を現さない。彼はその勇姿を見つめるのが好きだった。
 何故って?
 子供達は新しく越してきた彼に尋ねたことがある。
 「分からないよ。でも…キレイだと思わない?」
 そうしてラーズは変わった子として、見られていた。
 そんなこんなで、彼の両親がようやく生活に慣れ始めた、ある日の事。
 「おい、ラーズ! 知ってるか?」
 「何を?」
 彼は10歳になっていた。小学5年生である。5人しかいないこの学級,もっとも腕力が強くリーダー格の少年が、楽しげにラーズに話しかけた。
 「今、宿屋に軍隊の人達が来てるんだぜ」
 ラーズの身が,こわばる。戦火の恐怖を彼は唯一この中で知ったいたからだ。
 「お? ほら、見ろよ!」少年は窓の外を指差す。
 丁度、学校の前を10名弱の正規兵達が列を成して通りすぎて行く所だった。
 彼らは砲矢台,純銀製の盾等、まるで攻城戦でもやらかすような、そんな重装備である。
 「この村を安全にする為に竜を倒してくれるんだってよ。スゲェよな〜」
 少年のその言葉に、ラーズは戦慄。
 ガタン
 「お、おい、ラーズ,何処行くんだよ!」
 少年の声を背に、ラーズは教室を飛び出していた。



 彼は竜を眺めるのが好きだった。
 皆が恐怖しか感じない竜を、どうして好きに思えるのか分からない。
 彼はその姿から恐怖など微塵も感じ取れないでいた。
 ただ感じるものは? と訊かれたら、今はこう答えるだろう。
 「漠然とした孤独と諦め…」
 ラーズ少年は駆けていた。
 大人も立ち入る事が許されていない、禁断の地へ。
 蔦を掻き分け、茂みを進み、無我夢中で駆けていた。
 ”これ以上、これ以上好きなものを壊されたくないよ!”
 子供の足で、いかほど走っただろうか?
 急に視界が拓けた!
 露出した岩肌に、大きな洞窟が口を開けている。
 ラーズは迷うことなく、そこに突っ込む。
 薄い明りが岩肌から放たれていた。ヒカリゴケと呼ばれる発光性の植物だ。
 「はぁはぁ…はぅ!」
 コロリ
 駆ける彼は急に壁にぶつかり転がった。
 「あたた…」ぶつけた鼻を押さえて、壁を見上げるラーズ。
 二つの蒼い宝石があった。
 それはいつも遠くから見つめていたモノ。
 「何か用かぇ? 人の子よ」人の言葉が、洞窟に響く。
 ラーズがぶつかったのは白銀の竜の首元だった。そして今まさに彼の目の前に、竜はいる。
 「食われに来たのかの? フフフ…」
 「あ…」一瞬の空白がラーズの頭の中を支配した。
 しかしそれもホンの一瞬。
 「逃げて!」幼い声が、洞窟に響き渡った。
 竜は彼の大声に顔をしかめる。
 「そんな大声を出さないでおくれ。何から逃げるというのじゃ?」
 務めて優しく、竜は少年に問う。
 「軍の正規兵が貴方を討伐しようとここに来てるんだよ!」
 「だからそんな大声出さんとも,耳が参ってしまうわい」宥める様にして竜は言った。
 「あ、ごめんなさい…」用件を済ませて少しは落ちついたのか、ラーズは肩の力を抜いてそう答えた。
 竜はおそらくそんなラーズ少年に笑っているのだろう,人には分からない笑みを見せて軽く前足の中指で彼の頭を撫でる。
 「素直で良い子だのぅ。ワシは大丈夫じゃよ」
 「でも…」
 「どんな人間が束になってこようとも、ワシに勝てる者などおらんわい」安心させる様に竜は言う。もちろんそれは虚言に他ならない。『竜殺し』は明らかに存在しているのだから。
 「しかし坊やは、どうしてそれをワシに知らせてくれたのかの?」
 興味深げに竜は人の子に問う。
 「もぅ、壊されたくないから…」ボソリ、小声でそう呟いた。
 竜の蒼き瞳に少年の黒い瞳が映る。
 黒い瞳の中に、竜は短い目の前の子供の人生を見た。
 壊される町、消えて行く人、なくなって行く自分を取り巻く全てのモノ。
 竜はラーズから目を逸らす。
 「坊や。しかし壊れた後には必ず新しいものが出来るのだよ」
 「??」首を捻るラーズ。
 「今はでも、お主に破壊は望めないのぅ」言いながら、竜はその身を起こした。
 洞窟の入り口が騒がしい。
 「坊やはそこにいるのじゃよ。なぁに、すぐに片を付ける。何も壊さずに、のぅ」
 「あ…」ラーズの小さな手が伸びるが、届かない。
 竜は洞窟の出口に向かって歩き…
 ゴゥ!
 「?!」
 蒼い閃光が、彼の視界を覆った。ラーズは慌てて出口に向かって駆ける!
 そこにあったものは…
 無人だった。
 鎧や剣、盾等が無造作にその場に転がっている。
 「…殺しちゃったの?」
 ラーズは背後の竜を見上げた。しかし竜は首を横に振る。
 「飛んでもらったさ、ハダカのぅ。今頃、街中でストリーキングやらかして警官に追われている頃じゃろ」
 「??」言葉の意味が分からないのであろう。ラーズは不思議そうに首を横に傾げる。
 純銀製の盾が、うららかな昼に日差しに鈍い光を返していた。




 竜は身体を動かさんとする。
 しかし…動かない!
 「ラーズ,よもやさっきの茶の中に眠り薬以外にも…」
 人間如きの束縛の法に負かされる竜ではない。
 薬の影響と、そしてラーズの竜魔法。彼に竜の魔法を仕込んだのは紛れもなく自分自身。
 ニヤリ,ラーズは口端を軽く吊り上げる。
 「………………………」
 魔法が第二段階に入ったのか,魔方陣から放たれる淡い燐光が、血の様に赤い光に変わった!
 「お主には無理じゃ,止めるのだ!」苦しげに叫ぶ竜。
 呪文の詠唱はしかし、続く。



 竜の時間はひどくゆっくりしたものだった。
 流れ行く時の中で、その時間に自分自身が埋まってしまいそうな,そんな感覚に囚われる事もある。
 ほぼ永遠に近い時を生きる生命力。その永遠故に、竜は命を失う。
 そしてこの竜はまさに永遠の時間の重さによって、その輝ける命を失う直前であった。
 救ったのは、人の子である。
 「名前、何て言うの?」
 「訊く方からいうものじゃぞぃ」
 「僕、ラーズ!」
 「ラーズか、強そうな名前じゃのぅ」
 しかし少年は寂しそうに俯いてしまう。
 「強くないよ、見てる事しか出来なかったから…」ボソリ、呟いた。
 「ラーズ?」
 少年は不意に元気良く、顔を上げる。
 「貴方は?」先程までの笑顔だった。竜は少し安心し、そして迷う。
 「ワシはの,名前はないのじゃよ」
 「ない…の?」
 「正確に言うと人の子には発音できぬのじゃ。竜の言葉と人の言葉は違うからのぅ」
 「ふぅ〜ん…じゃ、僕が付けて上げる!」
 「ラーズがか?」
 「うん!」嬉しそうにラーズ。
 「えっとね、えっとね〜」
 小休止
 「えっと〜,ルナ!」
 「ルナ? 月のことかぇ?」
 「うん! だって夜の蒼い月に瞳が似てるから」言って少年は竜の二つの宝石を見つめた。
 「そうかのぅ。ルナ…ルナか,ふむ、気に入ったぞ!」
 竜は豪快に笑った。
 ラーズ,幼き人の子。竜を恐れぬ心を持つ少年。
 そもそも恐れとはなんであろうか?
 「ねぇ、その翼は何処まで飛べるの?」
 「どこまでも」
 「リーガル国の向こうまで?」
 「大地を一周しても、まだまだ飛べるぞ」
 「一周?」
 「そうだよ」竜は目の前の少年に言う。
 「大地は丸いのだ」
 大切なものを失う事、それが恐れの一因。
 ラーズは多くのものをすでに失っていた。僅かながら麻痺していたのかもしれない。
 だから、同じ寂しさを持った者を見つける事が出来たのかもしれない。
 このラーズとの出会いこそ、竜が初めて恐れを知る一因になる。
 「大地が丸い?」
 少年は首を傾げる。天動説が主体のこの世界,地動説は遥か先史文明では知られていた。
 「それはのぅ」竜は楽しげに語り出す。
 少年がここへ駆け込んできたあの日以来、毎日の様に夕方になると少年はここへ遊びに来ていた。
 そして竜はいつしかラーズが来るのを楽しみにしている自分を知る。
 ”まぁ、良いやも知れぬの”
 竜の時間が動き出す。重たい、自我が埋もれそうになる時間が時を刻み始める。
 モノトーンだった世界が急にサイケに変わる。
 「乗ってみたいな」少年は言った。
 「え?」
 「空の彼方まで、行ってみたい!」ラーズの期待に満ちた目。
 竜はそんな彼に戸惑い、そして…
 「すまぬ」
 「?」
 「お主を乗せる事は出来ぬのだ」
 「どうして?」
 「ワシはこの山に束縛されておる。この山から出る事が出来ぬのじゃよ」寂しそうな瞳の竜。
 その蒼に、悲しげな少年の黒が混じった。
 「かわいそう…」乗れなくなったからではない,理由は分からないが、竜の言葉を理解したラーズは目に涙を溜めてそう呟いた。
 竜はこの山に束縛されていた。
 遠い昔のことである。
 人間が強い力を持って竜をも傅かしづかせていた遠い幻日。
 この山に眠る金の鉱石を守らせるために、竜は魔術によって守護者とされ束縛されたのだ。
 そしてその魔法は、未だに解けない。
 「どうやったら…」
 「ん?」
 「どうやったらジユウになれるの?」
 ラーズの問いに、竜は優しく微笑む。それが全ての原因だったのかもしれない。
 「ラーズが古き日の人の魔法でワシを解呪してくれれば、今一度何処までも羽ばたけるぞ」
 少年の元気のない顔を見たくないだけだった。それだけの理由で、彼は真実を語ってしまった。
 彼の思惑通り、少年の顔に笑顔が戻る。そして、
 「じゃ、僕頑張るよ! その翼で空をまたジユウに駆けられるように、ルナをジユウにしてあげる!」




 キィィィン
 耳をつんざく高周波が、洞窟の中の空気を振るわせている。
 額に玉のような汗を流すラーズを、ルナはギロリを睨みつけた.
 「お主に竜魔法など教えなければ良かったわ!」
 その言葉も、苦痛の中に消え失せる。



 「おい、ラーズ,何読んでるんだ?」
 クラスメートの言葉に、彼は顔を上げる。
 彼がこの村に来てから13年が経過していた。今は村にある賢者の学院と呼ばれる識者養成所に通っている。
 ラーズの読んでいたのは魔法書。ルナの元から借りてきたものだった。
 悲しいかな、竜魔法のほとんどはラーズには生まれついての適性が弱い為に改良しなくては精が尽き果てて施行中に命を落としてしまう危険なものとなっている。
 「何だ、それ??」クラスメートが開かれた内容を見るが、理解できなかった。
 すでに失われた言葉で書かれているのである。
 「ちょっと、ね」ラーズは苦笑。
 彼はこの時までに竜魔法の基礎をすでに習得し、応用として現在の魔法との融合を考えていた。
 もっとも知識が広い分、浅く、学院での成績はイマイチではあるが。
 「その本、何処で手に入れたのかね?」
 突然のしわがれた声に、ラーズとクラスメートは慌てて後ろを振り返った。
 頭からすっぽりとフードを被った老魔術師が、立っている。
 「貴方は?」
 「マーリン」
 クラスメートがぎょっとして、そしてラーズから離れる。
 マーリン,この国の宮廷魔術師の長であり、魔法の最高指導者でもある。
 賢者の学院は彼の立案で全国に創設されており、全てにおいて彼は学長を務めてはいるのだが…
 こんな田舎町の学院に出現するとは、ラーズは露ほどにも思ってもいなかった。
 同時に目の前の老人がマーリン本人であると本能的にも感じ取っている。
 ”すごい圧迫感だ”内心、汗する。
 「家の物置にありまして」
 「その文字、読めぬであろう?」そう問う老人の表情は、読み取れない。
 「それを解明しようと頑張っています」
 「そうか。勉学に励むのはよい事だ」
 「はい」ラーズは背を向けたマーリンに軽く頭を下げた。
 と、老人の足が止まる。
 「その書物の182ページ目は押韻が1つ抜けておる。気を付けるが良い」
 「!!」
 マーリンはそれだけ言い残すと、教室を後にして行った。



 竜は老人と向き合っていた。
 「ワシを脅すつもりか」
 竜は苦々しく老人に言う。
 「さぁのぅ…」フードの奥の表情は知れない。
 竜は奥歯をガリッと鳴らし、何かを老人の前に吐いた。
 牙が一本。
 老人はそれを拾う。
 「満足であろう、さっさと立ち去るが良い」
 「そうじゃのぅ。もう一つ聞きたい事があるのじゃが」
 老人は竜をヒタリと見つめる。
 「不老不死の法についてじゃ」
 「はっ!」竜は苦笑。
 「人というものはいつの時代も変わらぬの!」
 「それが夢というものだからのぅ」老人・マーリンはクククと喉の奥で笑う。
 「いずれお主の大切にしている若者も、それを求めるようになる,お主の心臓をな」
 「バカな」竜は言葉を吐き捨てる。
 「無限なる時間を己を失わぬ様に生きて行く事、それがどんなに辛いものか,分からぬ者ではないわ」
 「ほほぅ…」マーリンは納得したかのように微笑んだ。
 「あの若者が求めるでもないか,お主自らが彼を不老とするか…」
 ゴゥ!
 炎が、洞窟を駆け抜ける!
 『さらばだ、竜よ。狩られぬ様に気をつけるが良いぞ』
 マーリンの声だけが、その場に響く。
 竜は怒りに瞳を赤く燃やしたまま、虚空を睨みつける。
 ”ラーズに限ってそんなこと、ないわ!”
 思うと同時に、『恐怖』を感じる。いつまでも今この時は続くものではない。
 ラーズにとっては一生でも竜にとっては長い時の中、瞬きほどもない一瞬の時間が、今だ。
 ”失いたく、ない…”
 竜はそんな気持ちを投げ捨てるかのように頭を大きく横に振った。




 赤い光がやがて収束する。
 ラーズの呪文の詠唱が、止まる。同時に喉仏を覆う極彩色の布が放たれたように粉々に千切れて舞った。
 「僕はこの為に、今まで竜魔法や神具について勉強してきたんだ」
 肩で息をして、ラーズは満足げに動けない竜を見つめた。
 「危険なのは知ってるよ。ルナが僕の事を想ってくれているから言ってくれている事もね」
 「…ならば」苦しげに竜は呟く。
 「でもね、僕も同じくらい君のことを想っているんだよ。子供の時に決めたんだ,君をジユウにしたいって」
 三叉の杖を構え、ラーズは鋭く言い放った。
 「そして君と一緒に空の彼方まで飛ぶんだ」
 赤い光はやがて、竜の右足に収束。
 それは竜の右足に赤い形を作り上げた。
 巨大な南京錠。
 地面から太く赤い鎖が生えている。
 ラーズは小さく呪を一言、唱えるとその鍵穴に三叉の杖を突き刺した!
 ガチャ…
 「ぐぁぁ!!」
 全身を何かに吸い取られるような感覚に教われながら、しかし彼はゆっくりと三叉の杖を右に廻して行く。
 廻す度に、彼から活力そのものが吸い取られて行くのが目に見えて分かった。
 「やめろ、止めるのだ,ラーズ! 命が吸い取られ、死んでしまう! ワシはお主のいない世界など、見たくはない!」
 「人はいつかは死ぬのさ」苦しげに、ラーズはルナに吐いた。
 「要は時間の中でどれだけ納得して生きていけるかだ。身勝手だけど、自分さえ良ければ良いものだ!」
 「ふざけるな!」ありったけの声で叫ぶルナ。
 「ふざけてるのは貴方の方だ!」切り返すラーズ。
 「僕は貴方の望み通りに動く人形じゃ、ない! 僕のいない世界が嫌なら、勝手に死んでしまえば良いさ!」
 最後の力を振り絞り、杖を廻すラーズ。
 「…やめてくれ…死んでしまうぞ,ラーズ」力なく、ルナは呟く。
 「はぁぁ!!」
 ラーズは最後の間隙を、全ての力を込めて回し切った!
 パキィィン!!
 南京錠が澄んだ音を立てて外れた。
 赤い鎖は消え、そして新たにラーズの胸が破れ勢いよく深紅が飛び、爆ぜた!
 「ラーズ!」
 魔方陣が白光と共にルナを包み、そして消え去る。
 「ラーズ!」
 竜は倒れ伏す青年を見る。左胸が割れ、心臓が破れていた。
 青年はすでに意識はない。しかしその表情は満足げなものだった。
 「どうする,どうしたら良い?!」
 竜は焦る。
 何か治療法はないか,息を吹き返す方法は?!
 その間にも、ラーズの身体は冷たくなって行く。
 方法は…一つだけあった。
 「しかし!」
 生きる事は拷問だ。
 終わりがあるから、精一杯生きる事が出来るのではないか?
 長い長い竜の時間の中で、こんなに悩んだ一瞬はなかった。
 これまでにない恐怖が、ルナを襲っている。
 大切な人を失うという恐怖。
 大切な人を苦しめるであろうという恐怖。
 そのどちらかを選ばなくてはならない。
 ”身勝手だけど、自分さえ良ければ良いものだ!”
 先程のラーズの叫びが、ルナの心に鳴った。
 そして竜は…



 彼は目を覚ました。
 「あれ? 生きてる…?」不思議そうに、己の体を見まわす。
 ”心臓破裂なんてゆ〜、とんでもないのは憶えてるんだけど…どうして生きてるんだ?”
 「ワシも身勝手ながら、自分さえ良ければ良いと思うことをさせてもらったよ」
 「?!」
 その声に、ラーズは振返る。
 竜が寂しげに笑っていた。
 「どういうことだ?」訝しげにラーズは問う。
 「お主を救いたかった,結果的にワシの心臓を半分与える事になってしまったのだ」
 その言葉に、呆然とするラーズ。
 「それって…」
 「ワシの時間とお主の時間が重なった、そういうことじゃよ」
 「ふ〜ん」なんだ、とでも言う風にラーズは頷いて立ちあがる。
 「良いのか?」心配げに、竜は首を傾げた。
 「時間が重なっているのはさ」
 洞窟の出口に向かいながら、青年。竜もまた彼の後を付いて行く。
 「昔から重なってるじゃないか、僕達はさ」
 視界が拓ける。
 外の光に、一人と一匹は目を細めた。沈み行く夕日に、空が赤く染まっている。
 「さて、ルナ?」
 「ああ、そうだな」
 竜は頷き、青年を背に乗せてその白銀の翼を大きく開く。
 バサリ…
 力強い羽ばたき音とともに、夕日に向かって白い矢が放たれた。



 「ほぅ、これが人間の街というものか」
 『彼女』は銀色の長い髪をなびかせて天下の往来を歩く。
 大通りには数々の露天商が開き、数え切れないほどの人々が行き来していた。
 その中を何かを探すように彼女はキョロキョロ見渡しながら歩く。
 20代前半であろうか,切れ長の蒼い瞳に、整った美しいその面はすれ違う人々を振り返らせるが、刃物のような冷たさと、そしておのぼりさん丸出しのその行動に慌てて目を背けるものが多い。
 「あ…」
 彼女は探していたものを見つけたのか、それに駆け寄った。
 旅装束の青年だった。三叉の杖を持ち、魔術師のようないでたちをしている。
 「探したぞ」麗嬢から刃物のような冷たい雰囲気が僅かに溶けた。
 しかし…
 青年は首を傾げる。
 「どちら様でしょう?」
 空気が、凍る。彼女の目に怒りの炎が灯った。
 「街の外に置いてけぼりにした上に、ワシがわからんのか!?」美しい顔が激怒に歪む。
 青年はしばし考え、そして彼女の蒼い瞳を見つめる。
 「ああ! ルナぁ?!」
 素っ頓狂な声を上げて、彼は呆然とした。
 「ワシの顔を忘れるとは失礼な奴だのぅ!」
 「ど、どうして…一体何が?!」
 「何がじゃ?」わなわなと彼女を指差す青年・ラーズに彼女は頬を膨らませて腰に手を当てた。
 「どうやって人間に?! というか、どうして女装を!?」
 「もともと女じゃぁ、ボケェ!」
 すぱこーん!
 鉄拳制裁のラーズ。危うく気を失いかけるほどの力だったようだ、足に来ている。
 「人化の術くらい心得ておるわ。もしもワシが人間だったら、という姿じゃよ、これは。美しいじゃろ?」クルリ,身を翻してラーズに見せるルナ。
 『美しい』とは言っても竜であるルナには人間の美醜は分からない。おそらくすれ違った人間の反応から推測したのであろう。
 対するラーズはいまいち納得がいかないような顔をしていた。
 「ともあれ」
 ぐい…
 彼の腕を胸に抱いて、人込みの中に歩き出すルナ。
 「お、おい! 引っ張るなって!」
 「ようやくジユウになれたのだ。色々見せておくれ。常に時間を感じるように、色々なものを見て歩こうではないか」
 楽しげなルナの顔。ラーズはそれを見て、負けた様に微笑む。
 「そうだね、『今』を見て行こうか」
 『彼女』と一緒に見るのなら、また違ったものが見えるかもしれないな。
 彼はそう思ったりもする。
 やがて二人は人込みの中に完全に溶け込んでいった。



This road is never ending ...