赤の敷布


 「民自党の腐敗政治をこれ以上野放しにしておくわけには行きません!」
 中規模なベットタウンの駅前,ワゴン車の屋根の上に登った男の声が響く。
 朝、通勤者達は一歩、立ち止まりそして過ぎ去って行く。
 「入江洋一,入江洋一に清き一票を宜しくお願いいたします!」
 選挙前の、定例通りの駅前演説だった。
 しかし台上の男はまだ若い,それ故に声には訴えかけるものがあり、力強さがあった。
 もっともだからこそ、実直すぎるという欠点もまた補わなければならない点である。
 惜しむらくは、彼がこの世界をしっかりと把握していなかったと言うのが全ての始まりなのかもしれない。
 さらに優秀なブレーンがいなかったこと。
 一番の皮肉は、彼の存在そのものが人を惹きつけ得るという政治家として最も重要なものを持っていたからなのかも知らない。
 だが残念なことにこの話は彼,入江洋一に関するものではない。
 我々、取材班が追いかけたのは、彼のこの時点での政敵である田波省三の変死に対しての報告である。


さて、心の準備はできましたか?



 田波省三は古参の民自党議員である。
 今年で30年目に当たる衆議院総選挙に対し、彼の勝利は実際は危ういものであった。
 新人候補・入江洋一の存在だ。
 だが、これに関してはすでに彼は手を打ってある。
 この世界に長い彼にとって、新人など手に取らぬ存在なのだ。
 無人かと思われるほど静かな夜の事務所,70という域に入る彼の髪は未だに黒いものが混じっている。
 ソファにその太い体を静め、上座に供えられた当選祈願の神棚を見つめた。
 直径1mはあろうか,片目のないダルマが数え切れない花束と一緒に飾られていた。
 「これまでこのダルマに何度、目を入れてきたものかのぅ」
 ぼそり、誰かに告げるかのように呟いた。
 「入江の若造の所にも、やはりこれはあるのだろうな,矢島」
 それに応じるかのように、闇の中から人影が現れる。
 黒スーツに身を包んだ、中年の男だ。険しい眼光と頬の刀傷がまっとうな道を歩んできた者でないことを示すかのような…
 「…今回指示の通り行いました」
 取り合うことなく、端的に彼は血から響くような声で告げる。
 「ほぅ,そうか。で?」
 ニタリ,老人は頷き、TVのリモコンを手にする。
 「入江洋一の娘を地元の若者達を使って八番倉庫に監禁,入江には警察に口外しないよう直接伝えてあります」
 「なるほど、な」
 リモコンでTVをON,某バラエティ番組が流れる。
 と、そのテロップに臨時ニュースが入っていた。
 『入江洋一,出馬を辞退』
 「良い手筈だ,矢島」
 「慣れておりますゆえ」
 入江は立ち上がり、机の横に置かれたアタッシュケースを彼に手渡す。
 矢島は確認することなしにそれを己の後ろに収めた。
 「確認しないのか?」
 「田波先生が規定以下の額を私にお渡しになったことはございますか?」
 「フッ」
 田波はソファに戻ると、シガレットケースから葉巻を一本。
 先を噛み千切り、口にする。
 矢島は横からライターで火を灯した。
 紫煙が一筋、立ち昇る。
 「娘は如何致しましょう?」
 矢島の問いに、田波は葉巻の煙をもう一息。
 「好きにさせろ」
 一言。
 「まぁ、死なぬ程度に,な」
 思い出したように付け加えた。
 夜の怪しい風が事務所を包み、吹き抜けて行く。



 田波は耳の傍で何か呟きが聞こえるのに気が付いた。
 彼の自宅,敷地300坪の邸宅の、彼の畳敷きの寝室には彼一人しかいないはずだ。
 「…が………に…の…で」
 「いや…が……で…だ」
 「あれ…気を………に……なる」
 「悔…で…殺…き………」
 それも複数,だがその内容は聞き取れない。
 まるで話し合うかのような、そんなひそひそした声。
 “近所のガキどもか? ったく,ワシを誰だと思っている。大事なこのワシの睡眠時間を…”
 心の中で愚痴り、田波はふとんをはだけて身を起こす。
 そしてその動作で天井から下がるライトの紐を一回引いた。
 ブゥン
 蛍光灯の光を放つ、くぐもった音。
 同時に冷たい白い明かりが部屋の中に満ちた。
 「?!」
 田波は、目の前の光景に絶句。
 赤い。
 赤い赤い。
 赤い赤い赤い…
 一面、赤かった。
 大きい赤、小さい赤、それらは不規則。
 部屋一面に、天井にも壁にもまるでその面に重力でもあるかのように、赤い球状のものが張り付いているではないか!
 それは…
 “ダルマ?!”
 部屋一面に,布団の上以外にびっちりと隙間なく、大小のダルマで埋まっていた!!
 それもそれぞれ隣り合うダルマにぼそぼそ、ぼそぼそと何かをささやきあっている。
 「ななな、何だ、コイツらはぁ!!」
 人生最大のうろたえで叫ぶ田波。
 と、その声で始めて気が付いたように、無数のダルマ達は一斉に彼に向いた!
 しん…
 水をひいたように静まり返る部屋。
 ただ田波の息遣いだけがやけに大きく響いていた。
 田波は混乱と、何より恐怖の中である一つに気付く。それは、
 “こいつら…皆、片目だけしか…”
 部屋を埋め尽くすほどのダルマ達はその全てに左目がなかった。
 そぅ、全てに、だ。
 「この人、左目があるよ」
 子供のような声が、彼の右手から聞こえた。
 思わず振り向くと小さなりんごくらいの大きさのダルマからの声だ。
 「本当だ、両目がある」
 「んな?!」
 応えるような声は田波の記憶に新しい声だった。そぅ、入江洋一の声である。
 「両目があるぞ」
 「両目がある」
 「本当だ」
 「両目だ」
 ざわざわ、ざわざわ…
 情報が部屋中のダルマに伝播して行く。
 その情報はやがて、こう変わっていった。
 「俺も欲しいぞ」
 「欲しい」
 「欲しいな」
 「奪え」
 「早い者勝ちだ!!」
 田波は我に返り、ふとんをはだける,しかし間に合わない!
 「うわ、うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
 彼に向かって次々に飛び掛るダルマ達,ダルマにまみれ、もだえる老人はやがてその動きを緩慢にし、そして動かなくなった。


 『臨時ニュースを申し上げます。昨夜2時40分頃、民自党候補・田波省三さんが自宅にて出血性のショック死にて死亡致しました。不明な部分が多く、警察は自殺・他殺の両面から調査を…』


 田波省三は、部屋に置かれていた個人用に買ったと思われる今回の選挙用のダルマの前で倒れていた。
 それも己の左目を自分自身でくり出し、ダルマの左目に押し付けて倒れていたのである。
 血の赤は確かにダルマの左目を入れていた。
 検察が頭を捻ったのはこれが明らかに自分自身で行ったと思われる点である。
 そして解剖医によれば、彼の死は左目からの大量出血によるショック死ではなく、何らかの心的衝撃による心臓の緊急停止。
 すなわち恐怖によるショック死なのだ。
 この事件は結局は迷宮入りとなり、『現職国会議員,選挙による心身疲労か?』というゴシップ誌で取り上げられるに過ぎない事件となる。
 もっともそれで良かったのかもしれない。
 だが、今回の我々の調査は100%の事実に基づいていると私自身、確信する。
 何故? ですか?
 それは…我々が望みを果たせなかったダルマを持つ一人だから,そういう説明ではいけませんでしょうか?