Valkyria


 剣戟が交錯する。
 耳に響く金属音がそこかしこ。
 それに混じって覇気,絶叫が木霊する。
 戦場、であった。
 切り結ぶ戦士達の命の火を、馬上から剛槍で吹き消すは一人の男。
 「このオレを満足させるヤツぁ、いねぇのかぁ?!」
 叫ぶ彼の前に、彼の敵軍と思われるやはり馬上の将軍クラスであろう,男が現れた。
 槍の男はニヤリ,微笑む。
 そしてその彼の背後では、一人の娘。
 甲冑に身を包み、槍を構えた戦乙女が対する敵将軍の背後を睨みつけていた。
 白い羽のついた天駆ける兜から溢れるは金色の長い髪,青い瞳には敵意がこもる。
 だが彼女の姿は半透明。
 そぅ、人間には知覚することが出来ぬ、神の意志。
 「お相手致そう!」
 抜刀する敵将軍。
 彼の背後にもまた、戦装束の乙女が浮かんでいた。
 槍を持った彼女とほぼ同じ,しかし唯一異なる色の黒い瞳には遥かに強い意思。
 「オレの槍を存分に濡らすが良い!」
 馬を駆る男,槍を脇に構えて突撃する!
 『英雄の槍は全てを貫く』
 彼の背後の乙女はそう唱える,僅かに男の持つ槍の先に運命を調節するかのような淡い光が灯ったかに見えた。
 だが、
 「私に傷を負わせることが出来るとでも思ったか!」
 敵将軍は嬉しそうに叫び、迎え撃つ!
 『真の英雄は傷を負うことはなし!』
 彼の言葉に、黒い瞳の戦乙女の言葉と,想いが重なった。
 騎は互いに交錯!
 槍の男が貫き、その槍の先に突き刺し掲げるは敵将軍の兜。
 対する剣の男の剣は真っ赤に塗れていた。
 どぅ…
 落馬する槍の男。
 勝利した男は血塗られた剣を掲げて戦場にこう、叫んだ。
 「討ち取ったり!!」



 青き瞳の戦乙女は、命を落した英雄の魂を喜びの野へと導く。
 死した英雄はしかし、悲観に暮れる。
 この敗北は本望ではない…と。
 戦乙女はそれをうっとおしそうに聞きながら、彼を生の世界から死の野へと送り出した。
 「ヒルド,また英雄を死なせたのか?」
 陰鬱な面持ちで帰還した彼女を迎えたのは一人の男。
 老齢ではあるが、がっしりとした体格に、何よりえも言わぬ威厳を撒き散らしている。
 「父上。しかし私は職務は果たしておりますわ」
 ヒルド…そう呼ばれたワルキューレは、父であるオーディンにきっぱりと言い返した。
 オーディンは苦笑いを浮かべつつ、娘に告げる。
 「そうだな、職務だ。英雄を喜びの野へ送ることがお前達、戦乙女の職務」
 溜息一つ。
 「だが、それだけではないのだぞ。何故お前はスケグルに負けたか、分かるか?」
 スケグルとは敵将軍に憑いていた戦乙女である。
 彼女は盾を司る、戦乙女の長女だ。
 「だってスケグル姉は私より経験長いし…」
 対するヒルドは槍を司る四女。
 そんな彼女の答えにオーディンは首を横に振った。
 「どういうことです?」
 「お前は英雄から何を学んだ?」
 質問を変えるオーディン,今度はヒルドが首を横に振る。
 人間などから何も学ぶことなどない。英雄に類する者の魂を導くことが彼女の仕事だ。
 志し半ばで死に至ろうが、それは運命。それはそれで彼女の仕事が早く終わったに過ぎない。あくまでヒルドにとって人間とは『見護られる者』であり職務の対象でしかないのだ。
 「ではお前は英雄に何を与えた?」
 次の父の言葉に困惑の戦乙女。与えるものなど存在しない,人間への極度の介入は禁止ではないのか? 彼女は眉をひそめ、心の中で批判する。
 それを気付いてか、はたまた気付かずか、オーディンは諦めとも悲しみとも取れる笑みを浮かべてヒルドにこう言い聞かせた。
 「スケグルの護る英雄にあって、お前の英雄になかったもの。それこそお前が英雄に与えなかったものであり、英雄から得なかった物だ」
 「分かりません、父上」
 開き直ったかのように居直るヒルドに、オーディンはそのいかつい手を開く。
 球状の鏡が現れ、そこには年端も行かない少年が映っていた。
 「何です?」
 裏も表も今はまだ形成できないほどの純粋な少年。
 笑顔が見る者の心をついほころばせてしまいそうだ。
 「この少年は彼の住む国を変えることとなる英雄となろう」
 「歴史の道標,というわけですね」
 目を輝かせてヒルド。
 英雄には2種類いる。
 勇敢な戦士であるところの英雄。
 そして歴史を変え得る力を持った、より強き英雄。歴史の道標とも呼ばれている。
 ヒルドは戦乙女達の中で末っ子の為に、今まで扱った英雄はほとんど前者だ。
 後者は彼女の姉達が主に扱っている。
 「この少年をお前に託す」
 「ええ?!」
 思わず驚くヒルド。
 歴史の道標を託されるということは、オーディンに一人前の戦乙女と認められたのと同じだ。
 しかし何故?
 さっきのは私を叱っていたのではないの? 彼女は内心思う。
 もっともどうして叱られていたのかは分からなかったが。
 「ヒルド」
 「はい」
 気を取り直し、神妙な面持ちで父に向き直るヒルド。
 「この少年を英雄として導くのだ。もしも失敗したら…この仕事から身を退くが良い」
 試すということ…?
 鋭い視線で射止められ、ヒルドはゴクリ、息を呑む。
 大丈夫。
 彼女は思う。
 今まで仕事は馬鹿馬鹿しいと思いつつも、完璧にこなしてきた。
 今まで通り、英雄を見つめるだけで良い。
 彼の人生における戦いで、彼の思いと同じような声を合わせるだけで良い。
 英雄自身の判断こそが、彼にとって悔いのない選択なのだから。
 そこに彼女,戦乙女たる人外の者の意識を介在させてはいけないのだから…
 そして彼女は、
 コクリ
 頷いた。



 トール=エクセリオンは5歳の少年。
 昨年に戦争によって両親を亡くし、現在は前に住んでいた首都トライアルより遠方,祖父の住む田舎町アーライルで暮らしている。
 “彼の者の名はトール,国を変える英雄となる”
 人間の世界で言うところの深夜、ヒルドはそんな父の言葉に従い、あどけない顔で眠る少年の上へと降り立った。
 『こんな子が英雄に…ねぇ?』
 英雄を一から見守るのは彼女にとって初めてのことだ。
 人々に英雄と呼ばれるようになった者を見守ってきたのが常だった。
 『しばらく暇だな』
 困った顔で彼女。
 戦乙女の役目は戦いに於いて英雄の精神に同調し、その心を奮い立たせること。
 このような子供が戦いを起こすとは到底思えない。
 もっとも近所の子同士の喧嘩くらいはあるだろうが、そんなものに彼女は手を貸すつもりはない。
 すなわち彼女の言うしばらくとは十数年ということだ。
 ヒルドはこれから過ごさなければならない退屈な時間の長さに思わず溜息。
 「お母さん…?」
 ややソプラノがかった綺麗な声に、ヒルドは我に返る。
 少年の目が、彼女に向いていた。
 無論、人でないヒルドの姿など少年に見えるはずなどないのだが…
 「お母さん?」
 彼は上体を起こしてヒルドを見つめる。
 ヒルドは訝しげに辺りを見まわし…何もない,物置のような部屋だった。
 窓から月明かりが漏れてくるだけで、何もない。
 少年は明らかに彼女を見ている。
 『? 私?』
 まさか,思いながらもヒルドは自分を指差す。
 少年・トールはコクリ、頷く。
 “どうして見える?!”
 内心驚きを隠せないヒルド,と、昔に姉のスケグルの言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
 ――幼き者は我らを知覚する
 「お母さんなの?」
 トールは三度、尋ねる。
 『違う』
 ヒルドは多少の戸惑いを浮かべつつも即答。
 「…そっかぁ」
 残念そうに少年は再び横たわった。興味を失った,そんな感じだ。
 ヒルドはそんな彼の態度にいささか憮然とし、続ける。
 『私はヒルド,英雄となる貴方を見守る為にやってきた』
 「ふぅん…」
 少年は眠そうに尋ねる。
 「英雄って何?」
 『それは、貴方…ええと…』
 純粋なその問いに、ヒルドはうろたえた。
 『英雄っていうのは…』
 果たして何だろう?
 武勇を有する者?
 人々の目を惹く者?
 歴史を変える者?
 人間であればきっと分かるのだろうか,しかし人間でない彼女には英雄とは何か? 分からない。
 英雄とは人に何をもたらすのだろう?
 そして…戦乙女にとって英雄とは何なのだろう??
 「ねぇ?」
 『あ…え?』
 「どうしたの?」
 『いや…ちょっとな。今の問いの答えだが、待ってくれないか?』
 「うん」
 『夜ももう遅い、英雄は無駄に時間を使わないものだ』
 「僕はトールだよ」
 ヒルドは思わず眉をしかめる。
 『英雄と言うのは名前ではない,お前がなるものだ』
 「僕がなるの?」
 『そうだ』
 「どうして?」
 “知るか!”
 「僕はお医者様になりたいんだよ」
 子供の割には意外な答えに、ヒルドは首を傾げた。
 『医者…だと?』
 「うん」
 『何故だ?』
 「僕がお医者様になれば、お父さんとお母さんみたいに死んじゃう人がいなくなるんだ」
 真っ直ぐに飾りのない少年の言葉に、戦乙女は逡巡。
 「お姉さんも、お父さんとお母さんが死んじゃったら、悲しいでしょう?」
 トールはさも名案とでも言いたげにヒルドに尋ねた。
 彼女は胸の内に知らない感情が生まれ出るのを感じる。思わず己が胸を押さえる。
 「だから僕、お医者様になるんだ」
 屈託のない明るい笑みで答えるトール。
 次の瞬間、ヒルドは無意識にトールを強く、強く抱きしめていた。
 「な…に?? どうしたの??」
 戦乙女の行動が分からずに戸惑う少年。
 ヒルドは瞳が濡れている己を知る。
 己の行動が理解できなかった,腕の中の彼以上に困惑し、そして見知らぬ感情が怖かった。
 だが、考えるよりも先に答えが自然と生まれる。
 “愛しい…”
 想いは単語となり、暖かいものが彼女の全身を満たす。
 護りたい、と、初めて思う。
 『トール…』
 「ん?」
 『医者なんかより、ずっとずっとたくさんの人を助けることが出来るものを知ってるか?』
 「え…それってなに?」
 好奇心に溢れた両の瞳が、戦乙女に注がれる。
 『英雄さ』



 12 Years later …
 「複葉機か,なかなか面白いもんだな」
 トール=エクセリオンは笑ってその機体を軽く叩いた。
 17歳の彼は士官学校2年生。
 空軍を目指す若きパイロットの卵である。
 世界的に戦いの激化する昨今、軍人は常に不足していた。
 戦いは新たに導入された航空機によってさらに規模は大きくなっている。
 すでに戦いの発端は分からない。
 どの国も我こそ正義,と謳っているのだ。
 「おい、トール!」
 仲間の学生の輪の中にいた彼を呼ぶ声一つ。
 声の主は男装の少女。
 今以って男性の多い軍隊だが、圧倒的な人手不足も手伝って女性の士官も徐々にではあるが現れ始めている。
 彼女は整った面に険しいものを浮かべて人の輪を押し退け、トールの前に出た。
 「どした? アルナ?」
 アルナ=ハイアード,軍人の家系である彼女は、陸軍参謀を目指している。
 女性と言う立場の為か、常に周囲から煙たがられているが原因はそれだけではないことをトールは知っている。
 常に彼女は正しいのだ。
 成績は言わずもがな,戦略やその全てにおいて学生の域を抜きん出ているのである。
 ともあれ、
 「何があった?」
 トールの顔もまた険しくなる。アルナの持つ重大さを感じ取ったかのようだ。
 「ハイトが研修で従軍に出たのは知ってるな?」
 「ああ」
 おもむろに、アルナは懐から地図を広げる。
 囲む様にして見ていた若きパイロット達は一歩、後ろへ下がった。
 ハイトと言うのは陸軍を目指す彼らの同期である。
 トール,ハイト,アルナの三人は昨年までルームメイトとして,そしてチームとしてこの士官学校で学んだ仲であった。
 そんな三人もそれぞれの道を志し、足を踏み出したのである。
 「ハイトの所属する陸軍はこの山地を越えて」
 彼女は厳しい目で、地図を指差す。
 「こちらの丘に駐留する敵国軍に総攻撃をかける、が,だ」
 向かいの山地を指差し、
 「ここに長距離砲が備え付けられているという情報を入手した,新開発のカノンだ」
 アルナはその山地と、ハイトの所属する軍を指差した。
 その距離は20km。
 「そのことは上層部には?」
 「分かっているはずだ,しかし…」
 アルナはかぶりを振る。
 「しかし手を打っていない。まるで敵の新兵器の威力を見るかのように、な」
 その言葉にトールを除く全員がギョッとする。
 言葉の内容にではない,アルナの問題発言に,だ。
 上層部批判として処罰されるには充分の内容である。
 トールはおもむろに複葉機のエンジンを回転,プロペラが唸りを上げた。
 「お、おい、トール!」
 「何やってんだ、お前??」
 パイロット仲間が突然のトールの行動に慌てた。トールの性格をすでに彼らは把握しているのだ。
 そしてそれは当然、アルナにとってはより良く知り得る。
 「そこのアナタ,機銃に弾薬を用意しなさい! それとアナタ,G02型の突撃爆雷をさっさと装着!」
 てきぱきと指示を下す。
 若きパイロット達はうろたえながら…しかし
 「身勝手な行動はできない!」
 「責任は全て私が持つ!」
 アルナは気迫を込めて即答,押されて、反論したパイロットは呆然と立ち竦む。
 「頼むぜ,みんな。俺の単独行動ってことでさ…な?」
 機上のトールに告げられ、仲間達は躊躇いながらもセッティング。
 「何をしている、貴様ら!」
 突に野太い声が響いた。
 「きょ,教官…」
 パイロットの一人の声。
 「教官!」
 機上から陽気に声をかけるは、
 「お前…トール=エクセリオン,何を勝手にフライトの練習を」
 彼は笑って教官の言葉を否定。
 「実戦ですよ、教官!」
 「ま、まてぇぇぇ!!!」
 動き始める複葉機。
 追いかける教官。
 未だ動きの遅い複葉機に、教官の手が伸び…
 『英雄の行動を阻む者は存在しない』
 ゴーグルを装着したトールの背中で、戦乙女が呟いた。
 トールの浮かべる微笑と同じ表情を浮かべて。
 途端、教官はあるはずのない石に蹴つまづいて転ぶ。
 そして、
 複葉機は大空に舞った。



 トールは無線を回す。特定周波数でセッティング。
 「あ〜、聞こえますか? どうぞ?」
 「聞こえてるわ、どう?」
 アルナである。
 先程とは打って変わった柔らかな声が、雑音に乗せて聞こえてくる。
 「もしかしたら…」
 トールは遠く、見える遠距離カノンの金属的な光の照り返しを見つめて答えた。
 「間に合わないかもしれん」
 操縦桿を強く握る,次第にその全容が見えてくる。
 「G02突撃爆雷は投下の後に、付随された炸薬で瞬間的に速度を発するわ。高度2000,10km手前まで来たら投下して!」
 「ああ」
 カノンが見えた!
 銃身30mはあろうかという細長い砲が一基、東に向いている。
 その方向は…トールの友のいる山地。
 トールは投下ボタンを…
 「今だ!」
 『英雄は狙いたがわず!』
 ゴゥ!
 複葉機の下から飛び出す一発だけの爆雷,自重が軽くなり複葉機は一瞬、大きく揺れる。
 爆雷がまっすぐにカノンに向かった、その時である!
 ズドン!
 カノンが鳴動!!
 打ち出されたのは一発のミサイル…
 真っ直ぐにハイトのいる山中,トールの複葉機のさらに上を通る軌跡だ。
 「くそっ!」
 『やるのね!』
 トールは操縦桿を力任せに引き倒した!!
 ほぼ90度で急上昇する複葉機。
 その向こうで、
 ガガン!!!
 カノンは大鳴動,銃身は中ほどで折れ、付近の爆薬を類爆させる。
 トールの放った爆雷が命中、である。再起は不可能。
 トールの複葉機が、ミサイルの高度に飛び上がった。
 「よしぃ!」
 操縦桿を戻すトール,目の前にはミサイルが迫る!
 『英雄は仲間を見捨てず!』
 飛び降りるトール,臓腑を寒いものが撫でて行く。
 頭を抱え、彼は遠い地上を見つめながら背中からの衝撃に備えた。
 それは狙いたがわずに直後、襲う。
 ごごん!!!
 ミサイルと、複葉機の衝突,爆発。
 パラシュート・ボックス越しに落下速度を速めるトール。
 思った以上の衝撃波に、彼は意識を失い…
 『英雄は危機を友とする!』
 「おっと!」
 意識を覚醒,パラシュート・ロープを引く。
 ぐん!
 落下速度が急速に減退。
 白い花が、青空に咲いた。
 「…ふぅ」
 散らばり、落ち行く複葉機とミサイルの破片を眺めながら、トールはふと、肝心な問題に気が付く。
 「…ど〜やって帰ろうか」
 『英雄は後先を考えない…』
 パラシュートの上で、ヒルドは呆れてそう呟いていた。



 『見出さるるは英雄…か』
 ヒルドは彼の背で事の成り行きを見つめている。
 彼が自分自身を、僕から俺と呼ぶようになった頃から彼女に自然と気付かなくなった。
 そして俺から私に変わる今、彼は何を見つめていくのだろう?
 ヒルドは確実に強く、大きくなって行くトールを誇らしく思うと同時に、何処か一縷の寂しさを感じていた。
 “私は戦乙女なのに…何を考えているんだか”
 一人、失笑。
 より広い世界に踏み出そうとする彼を引き止めておきたい,置いて行かれそうな錯覚すら感じた彼女の思いに対して。
 『立ち止まらぬが、英雄也』
 「トール=エクセリオン,出ろ!」
 「はいはい」
 額に大きなこぶを作った教官の指示に、トールは腰を上げた。
 士官学校の独房にて謹慎処分を受け、今後の処罰を待っていた彼には、この国の空軍選抜部隊への入隊チケットが待っていたのである。
 大抜擢、だ。
 その栄光の影で、アルナ=ハイアードもまた参謀本部へと抜擢されたことを知るのはごく少数である。



 3 Years later …
 「死ね、と言っているんだな?」
 「そういうことになるな」
 15名からなる空軍選抜『イーガー』隊の隊長・トール=エクセリオンの下に特殊任務を携えた参謀部長が現れたのはある朝の早朝だった。
 軍服に身を包む参謀部長・アルナ=ハイアードの眼は険しい。
 「本日15:00,イーガー隊は隣国カッツェ空軍本部基地リージュへ突撃急襲を行うべし」
 「了解した!」
 アルナの差し出す書類を受け取り、トールは敬礼。
 書類の入った封筒には国王直々の印が押してある。すなわち国王が立てた作戦なのだ。
 アルナはトールが書類を受け取るのを確認すると、
 「ふぅ」
 肩の力を落す。
 「トール,ごめんなさいね」
 「謝るなよ、まるでお前が悪いみたいじゃないか」
 トールは苦笑。
 カッツェの空軍は近接諸国で一とされ、保有機数も300余りとされている。
 その本部がリージュ。湖の中に埋めたてられた巨大な軍事空港だ。
 そのカッツェ空軍は現在、3国と戦乱の中にあり空軍も3分割されていた。
 参謀本部の得た情報によると今日の昼、4/5の空軍が出動し、リージュは今までにない手薄になるのだ。
 しかしそれでも残るは50機強。
 トールの率いる15機などでは幾ら百戦錬磨であろうと話にならない。
 「貴方の戦功が今回は仇になったわね」
 トールの立てた功は大きい。
 空軍の中では撃墜数はトップ,また指揮能力にも長け、20と言う若さで部隊長というのは異例の昇進だ。
 「まぁ、俺は英雄になりたいからな」
 「またそれ? 確かに貴方は英雄と呼ばれつつあるけど…」
 トールの功は国民の知るところとなっている。もっともメディアは戦争を奨励する国王の思惑が絡んでいるのでそれもまた一端ではあるのだが。
 「ねぇ、教えてくれる?」
 「何を?」
 「どうして英雄になりたいの?」
 アルナは何度目かの、決して答えのなかった問いを放つ。
 トールは一瞬戸惑い、そして困った顔で頭を掻く。
 「訊くのはこれが最後になるかもしれないから…ね」
 「そだな」
 彼女の言葉に苦笑いのトール。
 「俺は…たくさんの人を救いたいんだ。それが出来るのは英雄なんだよ」
 恥ずかしそうに言うトールに、アルナはきょとんとした顔。
 やがて…何かを考える様に頷いた。
 「…そうね,確かに英雄は多くの人を一定の方向に導くことが出来る…もっともそれが必ずしも救いになる方向とは限らないけど、ね」
 「??」
 首を傾げるトールに、アルナは優しく笑いかけた。
 「もし万が一、貴方がこの作戦から生きて戻ってきたら…英雄としての選択をあげるわ」
 「アルナ?」
 「戦うだけが英雄じゃない。英雄とは…」
 『民衆より生ずるもの』
 ヒルドは呟く。
 「導く者…か?」
 ボソリと、トール。
 「そう。私は貴方の取るべき道を用意して待ってるわ,この戦いで生還すれば…貴方は確実に英雄になれるでしょう」
 クスリと微笑み、アルナは自然な動きでトールの脇に歩み寄る。
 「取るべき道って…アルナ、どうして君はそんなことまでしてくれるんだ?」
 首を傾げる彼に、アルナは不意に背伸び。
 彼の頬に唇で触れた。
 「英雄ってのは決まって馬鹿よ。だから冴えた頭を持った補佐が絶対不可欠なの」
 あっけに取られるトールに、背を向けたまま手を振って彼女は部屋を出ていった。
 ヒルドは何故かそんな彼女を憮然と睨んでいた事に気付き慌てて首を横に振ったという。



 空港で彼は居並ぶ14人の同志に作戦を告げる。
 「私からの指示は一撃離脱だ。敵に叩きこんだら即撤退,必ず生きて戻れ」
 対する隊員達の表情は…明るい。
 「隊長,ズルイですよ」
 若いパイロットは言う。
 「一人で撃墜数上げようなんて」
 「そうですよ、隊長!」
 彼らは口々に笑って非難を上げた。しかしトールは気付いている。
 彼らの手足が僅かに震えていることに。
 「…ったく、バレちまったらしょうがない,お前らに的は渡さないからな!」
 トールは笑って言い返した。
 彼の声は先天的に力を内包する。
 部下の心を鼓舞するのだ。恐怖の震えを武者震いの変換させる、英雄としての力を。
 『英雄の声は猛き者の心に届く』
 ヒルドは彼の背から、一同を一人一人見つめる。
 『英雄の下に集いし戦士に、幸あらんことを』
 そして15:00のサイレンが、空港に響き渡る。



 16:02 リージュ上空
 まるで雲霞のごとく、15機の前に機体が立ちはだかっていた。
 新技術のレーダーというものによりイーガー隊はリージュに近づいた時点で捕捉。
 しかし50機強と聞いていたが…ほぼ全軍の300機はいた。
 『隊長! 情報とは全く…』
 「おそらく…戦況が変わったのだろう。しかしもう後には退けん!」
 無線を通じて隊員の声が伝わってくる。
 『後に退く訳、ないじゃないですか』
 『こんなチャンスに、なぁ?』
 軽口。
 トールはニヤリと微笑む。前面の敵大隊接触まで、あと60秒。
 「気合入れていくぞ!」
 『オ〜〜!』
 14人の声が、無線から聞こえてきた。
 トールは苦笑い。
 ありったけの機体を投入するという敵のこの手口に対して。
 イーガー隊の武勇は確かに広く響き渡っている。
 しかしここまで万全を期して、という指揮官は一人しかいなかった。
 「クラウド…だな」
 カッツェ空軍司令官が一人であるクラウドの名を知らぬ飛行機乗りはいない。
 芸術的なまでの航空技術,鉄壁の指揮術,そして周到なまでの先見の明。
 カッツェの英雄、だ。
 そんなクラウドとはトールは何度も相対している。その度に引き分けではあるが。
 クラウドは確実にトールの息の根を止める為に全軍を出撃させたと考えて良いだろう。
 そんな無茶な、作戦とも呼べないものを通した一端は、己の武勇にあることにトールは笑うしかない。
 接敵まであと40秒。
 途端、である。
 ゴゴゥ!
 前面の敵大隊のあちこちに紅蓮の花が咲いた!
 落ちる花は新たな花を咲かせ、その新たな花も次なる花を咲かせる。
 「なんだ??」
 『よぉ、トール!』
 プライベート回線にコール,その声は彼のよく知るものだ。
 「これはこれはハイト陸軍総長,如何なさいましたか?」
 『わざとらしいなぁ、トール。まぁ、これでいつかのカリの一部は返したからな』
 青年の声だ。
 「ところでどうしてお前がこんなところに?」
 トールは地上を見る。
 そこには3基のカノンが森の中から伸びていた。銃身の紋章は自軍の物だ。
 『アルナ参謀部長から情報をリークしてもらってな』
 「個人行動は軍法会議物だぞ、お前…」
 『命令無視のスタンドプレーが十八番の貴様に言われちゃ、俺もおしまいだよ』
 「ははは…確かに」
 3基のカノンが唸る,その大空に放たれた刃は確実に戦闘機を貫いて行く。
 『本当はな、アルナの奴が泣きついてきたんだよ。あの鉄の女がだぜ』
 「どういうことだ?」
 『国の方針だとよ。英雄は必要なきもの,抹殺すべし、とな。実際、アルナはこのリージュには50機くらいしかいないって言ってただろ? それは上層部の作った真っ赤な嘘さ。彼女もそれには気付いていた』
 言葉に眉をしかめるトール。
 『国王は恐れてるんだよ、お前をな。真の英雄となることを…な』
 トールはハイトの苦々しい言葉に、一言。
 「そうか」
 言葉には特に恨みは、ない。
 ただ生きる意思のみが彼を満たす。
 ハイトはそれを感じ取ったか、口調を軽いものに変える。
 『ところでアルナとは進展したのか?』
 「は?」
 『…すまん。なんでもねぇ』
 無線の向こうでは、まったくやらなにやらと愚痴が聞こえてくる。
 『英雄はにぶい』ボソリとヒルド。
 『そろそろ俺もズラかるとするぜ,トール…必ず生きて帰れ』
 「了解、陸軍総長殿」
 そして、
 電源を切り忘れた無線の向こうから轟音,ブツリと切れた。
 「みんな、聞こえるか!」
 トールは無線を取り、前を睨む。
 敵機は陣形を乱し、ハイトの持ち出した新鋭カノンによってその数を半数近くに減じていた。
 「勝機は我らにあり! リージュ空港にありったけの爆雷を投下の後、必ず生きて帰ること! 厳命だ!!」
 『了解!』
 『Yes,Sir!』
 『必ず…』
 隊員達の最期の声を聞きつつ、トールはとうとう接敵した。



 雲霞の如き双翼の機体群を、短翼の15機が矢じり型の陣形で切り裂いた!
 突き抜ける頃、その数は7機に減じる。
 7機は眼下のカッツェ空軍本部にありったけの爆雷を投下。
 リージュ空港は爆ぜ、散じる!
 残る機体を逃すまいと、敵指揮官・クラウドの指示であろう,回復しつつある伝達系統を以ってして囲み始める。
 「さて」
 トールはニタリ、微笑む。
 目指すは敵編隊の向こうにいる指揮官機。
 クラウドの乗る機体だ。
 クラウドの前には30機余りが壁の様に立ちはだかっている。
 トールは脇を、見る。
 同じように並ぶ隊員達が目視でこちらを見、ニヤリ、微笑んだ。
 トールは…
 エンジン全開!
 『英雄とは』
 風切る機体の上で槍を構え、ヒルドは前を睨む。
 『唯一、蛮勇を手懐けし者也!!』
 7機は槍となって、クラウドの壁に突き刺さった!
 トールの前に現れるのは赤い機体。
 カッツェ空軍は総じて青い機体だが、クラウドは好んで赤を用いる。
 短翼の戦闘機と双翼の赤い機体が向かい合う。
 超高速の中で、トールは,クラウドは視線を交わしていた。
 伴に負けじとせん、挑戦の眼光。
 ヒルドは見た。
 クラウドの機体で盾を構える戦乙女の姿を。
 『スケグル姉…』
 前に相対した時は、圧倒的な敗北を受けた。
 それだけ、だった。
 彼女自身、負けるのが運命と受け入れていた。
 だが、今回は、
 「クラウド将軍,勝たせてもらう!」
 トールは叫ぶ。
 『絶対負けるわけには行かない,トールは必ず勝つ!』
 彼女の槍が、光を放つ。
 全てを貫く戦乙女の槍,グングニル。
 「我が武功の礎となれ、トール!」
 機銃を乱射し、クラウド。
 『ようやく戦士の顔になったね,ヒルド』
 スケグルの持つ盾が強い輝きを放つ。
 全てを弾く戦乙女の盾,イージス。
 機銃を打ち合いながら、交錯する二機の戦闘機!
 「トールぅぅ!」
 『英雄は天命を振りかざす者也!』
 「クラウドぉぉ!」
 『英雄は立ち向かう万物を粉砕する!!』
 瞬間の刹那。
 輝く鉄壁の盾を、意志の力のこもった槍が粉砕した。



 操縦席から飛び出すトール。
 全身を襲う浮遊感。
 ごごん!
 頭上で自機が爆ぜ散った。
 同様に赤い機体もまた、爆発の中に消える。
 トールは見た。
 機銃の一撃が、クラウドの額に突き刺さるのを。
 指揮官機を失ったカッツェ空軍は程なくして混乱に陥る。
 パラシュートを開いたトールは向かい来る戦闘機群をただ、見つめる。
 その機銃は明らかに彼に向いていた。
 『英雄とは良き仲間に護られし者』
 ヒルドは折れた槍を捨て、パラシュートの上で静かに祈る。
 機銃の炸裂音が響く…その直前だ。
 ごごん!
 カッツェ軍の戦闘機が次々に炎にまみれて行く!
 背後を振り返るトール。
 「な…ガーグ隊にナッシェ隊,それにシュワルベ大隊まで」
 自軍の空軍の半数が出現していた。
 ゆっくりと落下するトールに、シュワルベ大隊の隊長機が一瞬、駆け抜ける。
 親指をグッと立てていた。
 「…みんなして独断行動かよ,今回の軍法会議は大変だな」
 足下で飛び交う銃弾を眺めながら、トールは溜息。
 「運が良ければ、着地できるかな?」
 『英雄は流れ弾には当たらず』
 笑ってヒルドは呟いた。



 トールは彼女の持つ資料を読んでいた。
 怒りに、手が小刻みに震えている。
 この近隣諸国との戦争の発端は王族同士の確執にあった。
 現在では主に兵器産業のもたらす恩恵の為に、王族同士の趣味で戦争を起こしている,そんな感がある。
 事実、弱体化した国に対して追い討ちをかけずに滅ぼすことがないことがその証明だ。
 攻めて攻められ、その繰り返しが半世紀以上続いている。
 「そして英雄は民衆を指導し得る力を有する。王族が恐れるのは無理ないな」
 トールの隣に腰を下ろしたハイトは苦笑い。
 帰還したトールは部下を2人残すのみとなりながらも、リージュ壊滅の功,そしてわずか15機で果たしたことによって空軍総司令の地位を得た。
 もっともその地位は彼を自由な空から地上へ縛り付けるための、国王の放つ呪縛の鎖でもあるのだ。
 しかし国王の誤算はここにあった。
 トールはあくまで空に執着していなかったこと,何より優秀な補佐役が彼の周囲にはいたことである。
 「さぁ、私は貴方に約束通り、選択する道をあげる」
 そしてアルナは道を示した。
 「このまま国王の下で英雄を名乗るか?」
 パサリ,トールはテーブルに書類を戻した。
 「もしくは…国を治す民衆の代表になるか?」
 ハイトが続ける。
 トールは虚空を見つめ、立ち上がる。
 『英雄は選択する』
 ヒルドは彼の背を見つめている。答えは彼女にはすでに分かっていた。
 アルナにも、ハイトにも当然分かっている。
 「英雄とは幸せを作り上げなきゃいけない」
 両の瞳に確たる自信を備え、トールは力強く言葉を放った。



 一月後。
 王政は英雄の煽動する無血革命により転覆。
 この瞬間に、選挙による民衆の政治が始まろうとする。
 煽りを食った近隣諸国もまた、まるでドミノが倒れる様に同様の道をたどることとなる。
 トールはしかし、自ら政治の舞台に出る為の選挙には出馬しなかった。
 それに首を捻る民衆は多く、出馬を促す意見や疑問が投げかけられたが、英雄は最後まで首を縦に振ることはなかった。
 その彼の態度は、戦乙女であるヒルドにも様として知れず。



 トールは王城の一部を改装した仮の自室へハイト,アルナを伴って戻った。
 「お疲れ様」
 アルナは疲れの中に笑って告げる。
 「これで一段落ついたな」
 ほっとした顔でハイト。
 「ああ。私達の役目もこれで終わりだ。あとは明日の選挙が始まるのを待つだけ、だ」
 トールは明日にでもここを引き払い、軍の寮へ戻るつもりだった。
 現在は軍部による軍政が仮に敷かれている。それも明日の選挙が終わり次第、民主制に移ることだろう。
 真の英雄としての仕事を終えたトールに一握りの空白が、生まれた。
 その空白を見逃すことなく貫くものがあり!
 『英雄は凶弾にのみ倒れる』
 ドム!
 「ぐ…」
 トールは突然の左胸の衝撃に、仰向けに倒れる。
 『トール?!』
 「トール!」
 駆け寄るアルナ,カーテンの影からの黒装束の男は銃口を今度は英雄を抱き上げるアルナに向けた。
 “いかん…”
 トールは本能的に懐から短銃を,アルナの肩越しに構えた。
 戦乙女は声高らかに言葉を発する。
 「去ね!」
 『英雄は常に武を有す!』
 ドン!
 「グッ!」
 うめき声と散る血潮。
 『しかし、もうその男は終わりだ』
 ニタリ、その影で微笑む者があった。
 それは暗殺と混沌の化身…常に英雄を狙い、その命に終止符を打つことを目的とする戦乙女の敵。
 『悪魔ネルガルか!』
 背中に悪魔を有した、肩口を貫かれた黒装束の男は銃を落しながらも、窓から身を投げた。
 「貴様!」
 それを追うハイト,アルナはしばし呆然、しかし思い出したかの様にトールの容態を確認。
 胸から鼓動に合わせて赤い命が溢れ、白い絨毯を赤く染め上げて行く。
 「これは…」
 唖然の中に絶望が生まれるアルナ。
 その彼女にトールはゆっくりと首を横に振り、優しく微笑んだ。
 「この辺りが俺の引き際…かな」
 「トール…」
 『嘘…でしょう?』
 ヒルドはトールに訴えかける。
 『英雄は死なず,威光を以って全てを乗り越えん!』
 彼女の言葉は空を切る。
 彼は彼女に賛同していないのだ。
 『どうして!』
 聞こえないはずの彼女の言葉に答えるかのように、トールは小さく呟いた。
 「あとはこの国に住むみんなで解決することだ。俺の役目は終わったんだ」
 「そうね…お疲れ様、トール」
 血に濡れた彼の両手を、アルナは優しく包み込む。
 彼女は涙を見せない。誰もがほっとする笑みを浮かべている。
 「ありがとう、幸せにな,アルナ………」
 トールは彼女の膝の上で、まるで眠る様に息を引き取った。



 「どうして? どうして彼が死ななきゃいけない! あんなに頑張った彼に、歴史は何もしてあげないの?!」
 ヒルドは天上にいる父に訴える。
 答えは、ない。
 ただ…
 彼女は肩を叩かれた。
 振り返る。
 トール、だ。
 戦乙女である彼女は、英雄たる彼を喜びの野へと連れて行かねばならない。
 「やっと、会えた」
 微笑む彼に、ヒルドは強く訴えかける。
 「どうして…」
 肩を掴む。
 「どうして死を受け入れたの! 貴方は英雄なのよ!!」
 「見てください」
 トールは彼女にやんわりと足元を示す。
 不意に城の外の景色が広がった。
 人々の姿がある。
 たくさんの人々だ。
 その中にアルナも、ハイトの姿もある。
 「後は彼ら、一人一人の出番です」
 満足げに、トールは言葉を噛み締めて言った。
 「英雄の役目は、終わったのですよ。英雄は、もぅ要らない」
 「貴方は…貴方はそれで満足なの? トール?」
 ヒルドの問いに、トールは答えない。
 ただその顔には全てをやり遂げた,そんな色が浮かんでいた。
 ヒルドは小さく首を横に振る。
 信じたくないのだ。
 戦乙女である頭ではすでに分かっていた,だが『彼女』は理解したくない。
 「私は貴方に幸せになってもらいたかった…」
 彼を息子,もしくは弟のように、いつからヒルドは思ってしまったのだろう?
 “関わりすぎてしまった…私の失敗だ”
 ただ、悔しかった。
 そう思うことが間違っていたことに思えて、なお悔しかった。
 トールと歩んでいたこの月日,間違っていたと思いたくない。
 だからこそ、悔しい。
 「ヒルド,僕は医者くらいには役にたったのかな?」
 唐突に、少年の目でトールはヒルドに尋ねた。
 「貴方は…国を治した。自信を持って構わない」
 「そっか…良かった」
 嬉しそうに、微笑む。
 「僕はそれで幸せだよ」
 “ああ…”
 ヒルドの頬に流れ落ちるは一筋の涙。
 “だから私は彼を好きになれたんだ…”
 ヒルドはトールの為に最後の言葉を紡いだ。
 彼の想いと、彼女の願いを表したその言葉を。
 『英雄は消え行く。ただその名を歴史に遺して』



 父たる主神を彼女は前にしていた。
 「ヒルド」
 「はい」
 オーディンは娘である戦乙女に久方ぶりの質問を与えた。
 「英雄から、何を学んだ?」
 「………私は彼に、何を与えることが出来たのでしょう?」
 答えずにヒルドは父に問う。
 「…分かっておるのだろう? ヒルドよ」
 そこにあるのは優しい、父としての顔だった。
 「選ぶが良い。戦乙女を続けるか,もしくは止めるか」
 オーディンは始めに問うた。
 トールを英雄として育てることに失敗したら、戦乙女を止めさせる、と。
 選択。
 それは己で成功か、失敗か,けじめをつけろ。ということだ。
 「私は…」
 戦乙女・ヒルドは顔を上げる。
 凛とした眼光が、オーディンに向かっていた。
 そして、
 彼女はその一歩を踏み出した………


End...