平穏は嵐の中に
夜よりも暗い空間に二つの光が灯っていた。その灯は見る者に、孤独と寂しさを与えて止まない。
だが、その不可思議な光に心を奪われてはならない。その灯の回りには日の下では目にできない惨状が広がっているのだ。
光に近づいたら最後、この仲間に入ることだろう。
「惨いことをするな,と言ってもお前には当然のことか」二つの灯に声が掛かった。
少し高めのその声の後、小さな光る球が灯の上に浮かび、異臭漂う辺りを照らす。
「力ある者か,我を滅ぼすとでも言うのか?」照らされた二つの灯,鬼の頭に大蛇の体を持つ怪物は声の主に言い放つ。
「…・・」声の主は無言でその右手を怪物に向けた。ゆらりとその手に風が纏う。
「我を呼び出したのはそなた達であろう。どういうつもりだ?」鬼の目が光り、問い掛ける。しかし声の主は答えない。
「お前達は我々を使い捨ての道具としか考えておらぬのだろう。しかし我々もそれなりの強さがある」
「ならばその強さとやら、見せてみるが良い」
「見るが良い!」鬼の口から幾つもの衝撃波が走る。しかしそれらは声の主の右手に纏った風に散った。
そしてその風は唸りを挙げて、鬼の頭を持った大蛇を包み込む。
「例えこの身、封じられても貴様の顔を名前はしかと心に刻んだぞ!」
断末魔をあげて、妖魔は風の中に溶けて消えていった。
「お前が封を破る頃は、良い時代であるといいな」言い残し、霧散した風に背を向ける人影一つ。
その影は、暗い路地裏からネオン瞬く大通りへと姿を現した。
「どこ行ってんだよ! あれくらいの酒で吐いてたのかぁ?」すっかり出来上がったサラリーマン達の1人がその影,20代後半のOLのの肩を思いきり叩く。
「よぉ〜し、もう一件行くぞ!」彼らは再び、覚めることのない夜の繁華街に消えて行った。
遥かなる太古より戦いが続いている。
それは人間同志の戦いも然る事ながら、必ずと言って良いほど人間には理解しえないものが絡んでいる。
人の恨み、憎しみ、悲しみを糧とする者達。彼らの力は人間などでは足下にも及ばない。
が、しかし最も恐ろしいものは、そんな者達の力を利用してしまう人間達であろう…。
今日も何処かで不可思議な事件が起きている。ほら、すぐそこで…。
…今朝午前四時未明、新宿区,歌舞伎町の裏通り八百二番地で五人の会社員風の変死体が発見されました。警察は捜査を続けていますが、今朝の発表では猛獣のようなものに襲われたような傷を受けていたとのことです。
「近頃、変な事件ばっかだなぁ。おい,姉ちゃん、会社遅れるぜ!」
「き、気持ち悪いよぉ〜」テーブルに長い髪を乱し、うつ伏せのまま動かない女が唸りをあげる。
「酒はほどほどにしろって言っといただろ。俺、先に行くかんね! 戸締まりはしておいてよ!」
学ランを着込んだ少年は、パジャマ姿の寝ぼけた女性に言い残し、カバンを片手に部屋を出て行った。
…次のニュースです。村川総理はコンピューター素子に用いているICの輸入自由化を認め、日本時間午前6時にアメリカのペンタゴンで調印した模様。これにより、日本経済に大きな波紋を呼びそうです。
サク○ンを無理に飲み下してから、女性は眠気まなこをこする。
「全く、どうなってるんだろうねぇ。近頃は愁くんじゃないけど、変な事ばかりだよ…気持ち悪いから会社休もうかな?」
俺はアパートを出て、自転車でいつもの学校への道をひた走る。
新学期もすでに一週間が過ぎ桜が風と供に散り、その柔らかな春の雪が疾走する俺に降り掛かる。
俺の名は、樹 愁一。受験を間近に向かえた中学三年生だ。
特技は家事一般,これは事のできない姉と二人暮しのために身に付いたもの。姉と言っても俺の母親の妹なので叔母なのだが、本人がそう呼べと脅迫するために姉となっている。
名は樹 冷香,歳は今年の七月で28だと言う。
「愁,おはよ!」疾走する俺の自転車に、後ろから追いついてきた少女が声を掛ける。
「よう、理恵…って何だ? その格好は?」並走するその少女の姿に、俺は溜め息をつく。
「何よ、その溜め息は。何か言いたそうね?」
「危ないから、パンをくわえながら髪をといて制服を着替えないでくれないか?」
「曲芸の理恵ちゃんと呼んでちょうだい」呼ばれて嬉しいか、と突っ込みをいれてやろうと思ったが、朝から交通事故を目にするのは気分がすぐれないので止めておく。
この少女,天地 理恵は小学校時代,いやそれ以前からの腐れ縁の仲だ。きっかけは俺の両親と彼女の両親が親友同志だったことだと聞かされている。
「しかし高校3年にもなって相変わらず色気がないな、お前は」手放し運転のまま黄色いリボンで髪を結い上げる理恵にわざとらしく溜め息をついて言ってやる。
「うっさいわね! あんたは冷香さんを見慣れてるから、私のような隠された色気に気が付かないだけなのよ!」パンを食べ終えた理恵は、自転車のスピードを上げて俺の前に出る。
「そういうことにしておいてやるよ!」俺は負けじと彼女の前に出る。 かくしていつもの、負けず嫌い同志の競争が始まった。
…円筒内壁における流体の流速はこれらの理由によって次式で表される訳だ。ようするに…
…ようするにこの式が表しているのは、お前の死だ! 樹 愁一!」
「は、はい!?」俺は反射的に返事をする,瞬間、世界が一変したような気がする。
「この問題をやってみろ」俺の一番嫌いな物理教師が黒板に書かれた問題を指さした。
「はい…」俺は席を立ち、黒板の前に向かう。
やばいな、居眠りこいてたせいでさっぱり分からん。夢見るくらい寝ぼけてたからなぁ。チョークを渡され、俺は黒板の問題を睨つける。
「むぅ…」俺はそっと振り返り、教室を見渡す。教師は自分のノートを眺めて、次に教えるところを確認している。そしてクラスメート達は自分達のノートにこの黒板の問題をそれぞれ解き始めていた。
「頬にシャツの跡が付いてるよ。寝てたでしょ?」一番前の席のショートカットの似合う少女が、誰に気付かれることなく俺に小声で話掛けた。
「ああ、藤崎,解けたかこの問題?」
「ほら、これが解答。もう寝ちゃ駄目よ。樹君,特にこの先生に目を付けられてるんだから」
「サンキュ!」
俺は彼女から借りたノートを元に黒板に解答を書き写す。
「樹,まだできんのかぁ?」
「今、出来ました」自分のノートから顔を上げ言う物理教師に、俺は藤崎から借りたノートを後ろ手に隠し答えた。
「どれどれ…・・うむ、やれば出来るじゃないか。戻ってよし」俺は胸を撫で下ろし、席に戻る。そして物理教師は俺の解答を元に授業を進めて行った。
俺は席から藤崎を見る。彼女もまた何事もなかったかのようにつまらない授業を聞いている。
藤崎 律子は理恵の親友だ。性格は理恵と違い、真面目の一言で片付けられるほど素朴だ。その真面目さから、この生徒会長を引き受けている。
控えめでおとなしく、成績も常に上位でお嬢様と言う言葉が十分に合う娘だ。分厚い眼鏡と洒落っ気のない姿から、軽い男の眼中には入っていないが、理恵など足下にも及ばないほどの美人であることを俺は知っている。
いつしか授業終了のチャイムが校内に鳴り響く。
…と言う訳だ。では次回は次章の数値解析に入る。予習しておけよ,特に樹」そう締めくくって物理教師は教室を出て行った。嫌な奴だ。
「災難だったね,樹君」4限目が終わり、昼休みに入った教室は弁当組と食堂組の移動で喧噪に満ちている。その中、藤崎が俺の席に前にやってきた。
「ああ、まったく,俺が一体奴に何をしたって言うんだ? ま、ともかく助かったぜ,藤崎。ノートありがとな」言って、俺はノートを彼女に返す。
「あの人は周期的に樹君を当てるからね。多分、2週間後のこの時間にまた当たるわよ」ノートを受け取って、忠告する藤崎。
「…そこまで観察してるのか、お前は。藤崎は弁当なのか?」
「何、いきなり?」
「食堂組なら昼飯おごるよ。さっきのお礼にさ」
「嬉しいけど遠慮しておくわ。そんな所、理恵に見られたら嫉妬されちゃうもの」笑いながら彼女は自分の席に戻って行った。何だよ、嫉妬するってのは。
「愁,藤崎にまで手を出すのか? 天地に殺されるぞ」
「だからどうしてそうなるんだ? それにいつ手を出そうとした?」後ろからの声に俺は非難を浴びせる。
「取り合えず飯食いに行こうぜ,藤崎におごる分、俺におごってくれると嬉しいなぁ」狐目をしたひょろりと痩せた男が言う。
「お前におごる金があったら、物理の参考書を買うぜ」言って席を立つ。
「ひでぇこと言うな」そういう返事をすること事体も、ひどいことだと思うが。
この男、金田はこの高校2年とちょっとの間,つまり3年間クラスが同じだ。パソコンオタクの根暗ボーイとして皆に親しまれ、特に女子の間では人気者なのだ。
「さて、昼飯は何にするかな」
「選択の自由があればの話だ」混雑する食堂に俺と金田は他相いのないことを話しながら向かう。
食堂に向かう階段を降りたときのことだった。
「…見えるもの,見えざるもの,そなたは…」辺りを行きかう生徒達の雑踏の中、男とも女とも思えない声が俺の耳に届いた。
「金田、何か言ったか?」
「…で、そのボスキャラが…」1人でゲームの世界にトリップしてしまっているらしい。受け流しすぎたようだ。
「で、何か言ったか?」お、戻ってきた。
「何か言ったかって、俺はそれを聞いたんだって」
「何だ、あのボスキャラ…」
「違うってばよ」再び彼方の世界に飛んだ金田は、一人食堂に向かって行った。
「…そなたは見えるのか,見えないのか?」
まただ。直接耳元で囁かれているような,そんな感じだ。
「見えるのか?」右の耳元で囁かれる。今度はそいつの吐息まで感じ、思わず右を振り返った。
「何だ、これは…」
俺は階段の途中にいた訳だが、その階段の壁側に見たことのない木の扉がはまっている。
今までこんな物はなかったはずだ。それに階段の途中にこんな扉があるなんてことは建築をした奴が狂っているとしか考えられない。
何より、階段を行き交う他の生徒達はまるで気がついていないのか、無視しているのか,気にも止めている様子はない。もっとも先に行ってしまった金田は別だが。
「どうしたの,階段でつったっちゃって!」いきなり背中を思いきり叩かれる。おそらく奇麗な紅葉が2枚、俺の背に描かれていることだろう。
「何しやがる!」
「そんなに怒ることないじゃない」叩いた手を痛いのかこすり合わせながら、黄色いリボンの似合う少女,天地 理恵が不敵に笑っている。
「手が痛くなるほど叩くんじゃねぇよ!」
「泣くことないでしょう? どうでもいいけど通行の邪魔よ,そんなところで壁を叩いてちゃあ」
「壁?」振り返るとすでにそこには扉などなく、いつも通りのコンクリートの壁になっていた。
「あれ? 扉は?」
「あれじゃないわよ,何よ、扉ってのは。寝ぼけてんるんじゃないの?」
「さっきの物理の時間にしっかりと寝たわい! 確かにここに木の扉が」壁を叩いて俺は理恵に振り返る。理恵は一変して心配そうに俺を見上げていた。
「俺の見間違い…だな」まずいことを言った,そう思いながら俺は適当に言葉を濁した。
理恵との付き合いは物心が付く以前にまでさかのぼる。その為か、彼女には俺はふざけているのかそうでないのかくらい判断するのに、そう時間は要らない。
真剣に心配されるとこれはこれでふざけられているより、大変である。
「…大丈夫?」ふざけた表情は消え真剣に心配する理恵に、俺は振り返らず食堂の金田の下に急いだ。
日は落ち、風が冷たくなってきた。時間は午後6時を過ぎようとしている。
「おかしいな、理恵の奴,何してんだ?」誰もいなくなった校庭で、俺は理恵を待っていた。
今日は俺も理恵も部活動で遅くなるので一緒に帰ることにしていたのだが…。
ちなみに俺も理恵も陸上部だ。女の着替えは長いと言うが、陸上部の他の女子達はすでに帰っている。
「遅い! どうしたんだ? まさかもう帰ったとか」そもそも一緒に帰ろうと言ったのは理恵なのだ。夜道を一人で帰るのは危ないから護衛しろと、人をガードマン扱いしている。
昇降口から一人の人影が見えた。それは何か足下がおぼつかないように学校を出てくる。
「藤崎じゃないか、こんな遅くまで部活か?」
「…樹君?」暗くて良く分からないが、様子が何か変だ。
「変だぞ、何かあったのか?」俺は彼女の側まで来て、尋ねる。藤崎の顔色は真っ青だった。
「う・・ん。何か私疲れてるみたい」眼鏡を外して、彼女は手で目をこする。
「言ってみな。すっきりすると思うよ」何かを必死に否定しようとしている藤崎に嫌な予感を感じ、俺はできるだけ優しく尋ねてみた。
「変な幻覚を見たの」
「幻覚?」
「理恵が壁に吸いこまれて消えた幻覚。でもその跡に理恵の鞄が落ちてたの」震える手で鞄を俺に見せる。やけに大荷物だと思ったら2つも鞄を持っていたのか。
待てよ、壁?
「藤崎、壁ってのは食堂に行く階段の壁の事か?」それに藤崎の体がビクンと震える。
「どうして分かるの?」その答えを聞く前に、俺は校内に向かって駆け出していた。
「…見えるもの,見えざるもの。そなたは見えるか,見えざるか? 遠き日の叫び声に、そなたは答えるか,答えざるか? 見えざるものをそなたは信じるか,信じまいか?」昼間に聞いたあの声が、また俺の耳元に聞こえる。それを俺は無視し、例の階段まで走ってきた。
「理恵…」俺は昼間にあったはずの扉の壁に何度も拳を突き出す。しかし手にくるのはコンクリートの衝撃だけだった。赤い液体が俺の手を濡らす。
「信じるか,信じまいか?」耳元に語り掛けてくるそれに俺は無意識に答えていた。
「信じる。だから理恵を返せ!」
そして再び木の扉がゆらりとその姿を見せた。きっと理恵もこの扉を見たのだろう。そして開けたに違いない。
俺は扉を開けた。
「樹君!」背中から女の声がしたような気がした。しかしそれはいつしか忘却の彼方へと消え去る。
扉の中は闇が支配していた。上も下も分からない。それは不安と同時に妙な安心感を与えていた。まるで母の胸に抱かれているような…。
このまま眠り続けたい。そんな気持ちが俺を支配していく。このまま眠り続けて何かいけないことがあるだろうか?
世の中に俺を必要としてくれる人はいないのではないか? ならばここで眠り続けても…
激しい風が吹き荒れている。風は明らかに敵意を示していた。目の前の男とも女とも言えない,ピエロの影に対して。
2人は月明かりに照らされていた。足下には固い地面の代わりに柔らかい雲がある。
「私の領域で好き勝手なことしてくれるじゃない。何者だい,あんた?」肩のはだけたパジャマにコートを羽織った女性が人影に問う。
「…捜しているのですよ」
「何言ってるんだ? 近頃、あちこちで妖魔の封印を破っているのは、あんただな?」
「…」
「だんまりかい? 取り合えず私の領域で好き勝手なことはさせないよ」女は右手を振り上げる。するとそれに応じて風の刃が人影を切り裂いた。
だが人影はまるで煙のようにゆらゆらとたゆたい、何事もなかったかのように元に戻る。
「…幻影か,ちっ」
「貴方の力,いずれ貰い受けに来ますよ」不気味な笑みを湛え、影は言う。
「そんな余裕,あげないわよ」憮然と彼女は言い返す。それに幻影は苦笑。
「ではこれで。今は他の力を頂く事にしていますので」人影はそして、風に溶けて行く。
「愁,それに理恵か。手遅れかもしれんな」女は溜め息をついて、下降して行った。
眠い、このまま眠ってしまおう。しかし何でこんなに眠いんだ? 俺には何かやることがあったはずじゃ。
「樹君! 何処!」声が俺を正気に戻した。藤崎の声だ。
何がこのまま眠ってしまおうだ,俺は青春を堪能したい! 寝ている暇などあるものか! それに俺を必要としてくれる人だって? そんなものいなくて何が悪い!
「理恵! 何処だ!」闇の中に俺の声が響く。先程までやすらぎを覚えていた闇も、今では何か安っぽく感じる。
「君は眠らないのか? 僕の闇の中でさえ」後ろからのしわがれた声に振り返る。そこには闇の中にも関わらずしっかりと姿を捕らえることができた。
ピエロがいた。肩に大鎌を担いだ、少年とも老人とも区別のつかないピエロが。
「誰だ、お前は!?」
「さぁ、誰だろうね? 君は眠るんだよ,僕の闇の中で。気持ち良いよ」
「何が気持ち良いだ。寝心地が悪くて起きちまったぜ」
「でもこの娘は寝ているよ。全てを闇に委ねて、ね」ピエロは言うと、その片腕に寝息をたてる理恵を見せる。
現れた理恵は表情なく、死んだように見えた。身じろぎ一つしない。
「理恵!」
「無駄だよ。この娘はもう起きることはない。幸せな夢の中にいるんだ」
「俺がその幸せな夢とやらから理恵を引きずり出す!」俺は不敵に微笑み続けるピエロに向かって駆け出す。しかし…。
「あれ? 全然近づけない」
「だから無駄だと言ったろ,この闇は僕自身なんだよ」呆れたようにピエロは言った。
「…お前の目的は何なんだ? 俺達をどうするつもりだ?」俺は走るのを止め、ピエロに尋ねる。
「目的だってぇ? 決まっているだろ,そんなこと。俺達妖魔の目的はお前達人間の悲痛を聞く事さ」
「悲痛…」どう言うことかよく分からない。何だ,妖魔って言うのは?
「つまりこういうことさ」ピエロは口の端を吊り上げて、長く伸びた右手の人差し指の爪で理恵の頬を浅く切り裂く。
「貴様!」殴り掛かろうと俺は走るが、全く近づけない。
「感じるよ,君の悲痛を」ピエロは嘲笑をあげて言った。理恵の右頬には赤い線が走り、それが赤い雫となって零れ落ちる。
「しかし今はそれよりも君自身に興味があるな。何故僕の闇に飲まれないのかね」その言葉を合図にして、俺の体が強く闇に締めつけられた。
「あの女と同じの風の力を持っているとしても気付いていなければ意味はない。気付いていないのに飲まれないとは、よほどの力を持っているのかな?」
「さぁな」俺は苦痛の中答える。
「お前の言っていることがさっぱり分からんし、知っていても教える気はないね」
「…まあいい。この女の後にすぐに私の力にしてやるよ。その間、君は闇につぶされて見ているんだな」ピエロの言葉に俺は呼吸できなくなった。
「樹君! 一体何処にいるのよ!」藤崎の声が聞こえる。そういえば今俺は一体何処にいるんだ? この俺を締めつける闇はピエロ自身だと言っていた。
ということは俺は今、このピエロの中にいることになる。この闇を消すことができればピエロにダメージを与える事ができるのかも知れない。
闇を消す…薄れようとしている意識の中、俺は学ランのポケットを探る。
「これでもくらえ…」手にしたそれを動かす。
「グッ! 貴様、何をした!」ビシッと言う音と供に、闇にヒビが入った。同時に闇に締付けがなくなる。
「もういっちょ!」俺は再び手にしたもの,ライターの火を付ける。その火は闇に中で唯一の光を放ち、炎の周りの闇を消す。
「ギャアァァ!」ピエロが頭を抱えてうずくまる。闇にできたヒビも大きくなり、外の景色,食堂の前の階段が見えてきた。
俺はすばやく理恵のところへ駆け寄り、彼女をかつぐ。もちろんライターの火を付けたままだ。
耳元に理恵の規則正しい息遣いが聞こえ、俺は取り合えず安堵する。
「もう少しだ!」闇のヒビが次第に大きくなる。藤崎の姿が見えるが、彼女からはこちらが見えないらしい。
ふと、辺りが暗くなった。
「あれ?」俺はライターを付ける。が、スパークするだけで火は付かない。ガス欠だ!
そして闇に生まれたヒビは次第に塞がっていく。
「詰めが甘かったね。封印されていて力のまだ戻っていない僕には結構痛かったよ,その光は」闇に生まれたヒビと同じく、全身にヒビの入ったピエロはその傷を再生させながら近づいてきた。
「ゆっくりと苦しませながら殺してあげるよ、君は。良いことを思いついたんだ」言ってピエロは何かを呟く。
いきなり誰かが俺の首をしめた。
「え? 理恵…」かついでいた理恵が俺の首を信じられない力で締めつける。
「さぁ、その娘に殺されると良い。ははは」ピエロはそう言い残して闇の中へと消えた。もう闇のヒビはなくなっている。
「やめろ、理恵」俺は彼女を振り落とす。しかし理恵は俺の首をつかんだままうまく着地した。俺を見るその目には何も写っておらず、ただ辺りの闇を反射しているだけだった。
「光が…どこかに…」思考を巡らす,だが、次第に考えがまとまらなくなって行く。
“くそ、くそ、くそ!!”叫ぶ,心の中から。
ぴしぃ
暗転して行く視界の中、その暗黒にひびが入ったような気がした。
ドッ!
ピエロの背中に銀色の刃が生える。
「…??」
「愁一,ご苦労だったね」ピエロの背の闇が崩れ、1人の女性が現われる。
「貴様、何故ここが」
「叫びが聞こえたのさ,それだけ」手にした剣を捻る。
「!! ぐぁ,くそぉ!!…」断末魔を残し、ピエロは消え去った。
「道化師が,くだらないことばかり…」剣を虚空に消し、彼女は彼らに視線を移す。
後には階段の踊り場に倒れた愁一と理恵の姿が残されていた。
「…すまないね,2人とも。貴方達には普通の生き方をさせてみせるから…,姉ちゃん,頑張るからね。だから愁一、あんたは理恵ちゃんをしっかり守るんだよ」
「ねぇ、ねえってば」
揺り動かされ、僕は重たい目を開けた。
目の前には涙に濡れた藤崎がいる。
「? あれ?」
「よかった!!」抱き着く藤崎。
バキ!
同時に頭を殴られた。
「元気そうじゃない」
挑戦的な理恵がジト目でこちらを睨んでいる。
「ええと、夢?」
「…ったく、どうしてこんな所でアンタと寝てなきゃなんないんだか。帰るわよ」背を向ける理恵。
「立てる? 樹君?」
「ああ」カバンを持ち、僕は立ち上がる。
階段の踊り場,その窓から見える夜空には眩しいほどの月明かりが差し込んでいた。
END