名もなき天使の詩


 柔らかな風が私の頬を、髪を、そして一枚の翼を撫でてゆく。
 降り注ぐ暖かな日の光。背に流した長い髪は淡い金を,翼は陽炎のような白を、そして瞳は深い青を光に返す。
 私は背中に水の流れを感じながら腰を下ろしている。
 ザァァァ――
 定期的に形を変える噴水。その跳ね返る水はしかし、私の体を透過する。
 ここは昼下がりの公園。
 祝日という事もあって、家族連れがそこかしこに目立っていた。
 暖かい雰囲気が心地好い。
 私はそれを体いっぱいに受ける様に、大きく背伸びした。
 と、私を見つめる『もう一つ』の視線に気付いてふと顔を向ける。
 一人の少年だった。
 青い帽子…確か野球と呼ばれるスポーツの有名なチームの帽子だ。それが目立つ、4,5歳の男の子。
 不思議そうに私を見つめていた。
 彼の黒い両の瞳には、明かに私の『姿』が映っている。
 「私が、見えるの?」尋ねる。
 こくり
 彼は頷く。
 そう,このくらいの子供なら私の姿が見えてもおかしくない。
 彼らの心は湧き出したばかりの純粋な水の様。未だ世の中の穢れを知らず、心に壁のない時期。
 少年は小さく首を傾げて私にこう声を掛けた。
 「お姉さんは…テンシなの?」
 躊躇いがちの彼の言葉。そんな彼に私は小さく微笑む。
 「どうしてそう思うのかな?」
 「だって翼があるから」
 私の背に生える『一枚』の翼が、太陽の光を浴びる様に大きく広がった。
 「でも一枚しかないのよ」
 「飛べないの?」
 「うん」
 「ふぅん…」
 少年は納得したような、していないような顔つきで私の隣、噴水の縁に腰掛けた。
 彼は私の腰に目を止める。
 「テンシの輪?」
 腰に吊るした金色のわっか。それを少年は一瞥して、私を見上げる。
 この時の私はきっと、ちょっと困った笑いを浮かべていたに違いない。
 「天使の輪…だったものよ」
 私は腰の輪に手を振れる。触感はない。それは光の粒子が集ったモノ。
 私は少年の視線に我に返り、再び彼に目を戻した。
 「お姉さんはやっぱりテンシだよ」
 彼は断言。
 「どうして?」私は再問。
 「だって…目がキレイだから」
 私は笑って、彼の頭を帽子の上から撫でる。触感は、ある。
 「私はね、天使になれなかったの」
 「どうして?」心底不思議そうに彼は尋ねた。
 「天使じゃないことをして、今でもそうだからよ…」
 空を見上げる。
 晴れ渡った空は青。幾筋かの白も見える。
 その果てに私はかつての自分を見つめる。
 天使であった頃の自分自身を―――


 「全てのモノを等しく愛しなさい」
 それがワタシ達に与えられた使命なのです。
 ワタシは偉いテンシ様であらせられるところの「らふぁえる」様の右二段目の中ほどの抜け落ちた羽から生まれました。
 そんなワタシの仲間はたくさんいます。
 ワタシの右にいる子は「がぶりえる」様の羽から生まれたそうですし、左にいる子はワタシのすぐ上の羽が抜け落ちて生まれたのです。
 今、そんなワタシ達は地上へと舞い降りています。
 修行を積んで、偉いテンシに成る為に。
 それまで、しばらくはこの天上界ともお別れなのです。
 「じゃあ、マタね!」
 「うん!」
 ワタシは隣の子と別れます。
 いつしかワタシ一人になってしまいました、でも寂しくはないのです。
 だんだんと、ワタシの舞い降りる先の地上界が見えてきました。
 夕方でしょうか、ぽつりぽつりと灯りが付き始めています。
 あ、ここは人間達の街のようです。広い街ですね。
 ワタシは未だ慣れない翼を広げ、減速。
 人間達の安息場と思われる広場に向かって降り立ちます。
 天使降臨!
 ワタシは『井之頭公園』と書かれた広場の中にある小さな建物の屋根に足を付けました。
 ここは以後、ちょっとした聖域になるはずです。そういう決まりなのです。
 でもこの建物…表示がしてあります,なになに?
 『TOILET』
 なんだかとんでもない場所に降り立ってしまったような気がしないでもありませんね…でも良いのです。
 ともあれ、さぁ,らふぁえる様の言葉通り、『全てのモノを愛し』ましょう!


 「死ねや、幸村ぁ!!」
 「遅ぇんだよ!」
 バキン!
 「ぐはっ!」
 「舐めるなよ、幸村!」
 「ふん!」
 メキ!
 「おらおら、どうした! ダサすぎんぞ,慶京高校サンよぉ!」


 ワタシの眼下では何やらとんでもない事が起こっているのでございますです(焦り中)。
 …戦争でしょうか?
 メチャメチャ恐い顔の男の人達が、二つに別れて殴り合いをしています。
 20人VS10人くらいですね、でも10人の方が強いのです。
 特に10人の方の先頭に立っている、髪型が戦艦の先っぽみたいなお兄さんが強いですね。
 らふぁえる様よりも恐いです。
 あ、彼がこちらを見ました。でも彼らにワタシの姿は見えないはずなのですよ。
 「どこ見てんだよぉ、幸村ぁ!」
 バキ!
 あ、殴られました。
 「全然痛くねぇよ、ハエか?」
 ドスン!
 すぐに起き上がって反撃です。
 この人達も愛せとおっしゃるのでしょうか? らふぁえる様??
 ワタシなんかが愛するより、わるきゅーれさん達が彼らをヴァルハラへ連れて行ってあげるのが一番だと思うのです。
 だからワタシはここは潔く身を引きます。
 「えい!」
 ワタシは背中の翼を動かします。
 フワリ…
 「ととと…」
 慣れないけれど、何とか飛びあがってワタシは暮れ始める空に身を躍らせました。
 目指すは…人の多い街の中心。
 きっとそこに行けば、私のする事があると思うのです。


 何てたくさんの人がいるんでしょうね。
 そして…ワタシは何をすれば良いのでしょう??
 『次の曲は東京都品川区在住の田中さんのリクエスト…』
 人間達の情報が、目の前の大きなスクリーンに映っています。街頭TVというらしいです。
 それを眺めながら信号機というものの上に腰掛けて、ワタシは途方に暮れています。
 「全てのモノを等しく愛しなさい」
 って具体的にどうすれば良いのですか?
 あ、日が沈んでしまいます。
 野宿は嫌なのです、どこか休める場所を探しましょう。
 探して、それから考えます。
 ワタシは翼を広げます。まだ慣れません。
 「よっ!」
 飛びました。さて、どこか休める場所は…
 カァカァ
 「え?」
 いきなりワタシは頭を突つかれました。
 「え? いた、いたたたた!!」
 黒い悪魔です! 三匹くらいいます,痛い、突つかないでくださいぃぃ!!
 「あ…」
 翼のタイミングを間違えました。ワタシは上空に三匹のあざ笑う悪魔を見上げて、翼を一生懸命動かします,でも焦れば焦るほど、どうにもならなくなって行きます…
 『まっさかさぁまぁにぃ〜、落ちてデザイア♪』
 女性ボーカルの嫌な歌が、さっきの街頭TVから聞こえてきます。
 そして…
 どん!
 「あぐぅ!」
 ワタシは車というモノにはねられました。強い衝撃が私の背中を打ちます。
 どうしてですか? この世界のものは私に触れる事が出来ないはずなのに…
 視界の先に去って行く車の後姿は…霊柩車と呼ばれる物でした。
 「うう…」
 痛む腰をさすりながら、ワタシは立ちあがります。
 そうです、こんな事でくじけていたら、立派なテンシになれません!
 「全てのモノを愛します! 見ていてください,ラファエル様!」
 がぶ…
 「ん?」
 何か足の辺りに感触が…この感触は…痛い!!
 「痛いぃぃ!!」
 「がぅがぅ!!」
 ワタシの足を噛みついていたのは犬さんです。
 「ワタシは食べ物じゃありませんぅぅぅ!!」
 「がぅがぅ!」
 ああ、ここでワタシは命尽きます。
 全てのモノを愛する為に、ワタシは敢えてこの犬さんの食料になりましょう。
 「がうがう!」
 「………痛いぃぃぃ!! やっぱり嫌ぁぁ!!」
 バキ!
 「きゃいん!」
 痛みが急になくなりました。
 恐る恐る顔を上げると…犬さんは逃げる様にして走り去っていきます。
 どうしたんでしょうね?
 「おい、大丈夫かよ?」
 背中からのその声に、ワタシはびっくりして思わず飛びあがってしまいました。
 べき!
 「ぐっはぁ!」
 拍子にその声の主のアゴと思われるそこに、頭突きを食らわせてしまった様です。
 「ああ、ごめんなさいぃぃ!!」
 ワタシも自ら痛む頭を押さえつつ、うずくまるその人にひたすら謝ります。
 その人はアゴを押さえつつ、顔を上げました。
 まず目に入ったのはラファエル様よりも恐い両の目です。
 次に戦艦の先っぽのような髪型。
 そして…戦いの後のようなあちこちに見える掠り傷。
 一番大きな怪我は口のようです。きっと舌か何かを噛んだのでしょう…
 この人、見た事があります!
 さっき公園で戦争をしていた方です。
 恐い!
 さっきの荒々しい雰囲気を思い出しました。耐えられません。
 と、彼の口の端から血が一滴、零れ落ちました。
 赤い,赤い人の命の源…
 それがワタシの目の前にありました。
 見た途端、目の前の景色が白濁します。
 「はぅ…」
 「お、おい,ちょっとぉぉ!!」
 彼の慌てた声が聞こえた様な気がします。でもそれは気のせいでしょう。
 きっとワタシは目を覚ますこともなく、彼に殺されてしまうのですから…
 ところでどうして彼は私が見えるんでしょう??


 ん〜
 暖かいです。
 まるでラファエル様の羽の一枚だった頃の様です。
 …そうです、私は天使になんてなりたくなかったんです。
 ずっとこうして、ラファエル様の羽のままでありたかった。
 どうして私は天使になってしまったのですか? ラファエル様?
 …でも、ラファエル様の羽であった頃は、こんなことを思いもしなかったでしょうね。
 それではもっと強い天使になればなるほど、私はツラくなって行くのでしょうか?
 「全てのモノを等しく愛しなさい」っていうのは、愛せば愛するほど、私自身がツラくなるのではないでしょうか??
 もしそうだとすると、私はどうすれば…
 …ところで私は今、どこにいるのでしょう?
 あの恐いお兄ちゃんに殺されたのではないでしょうか?
 私はそっと目を開きます。
 あれ?
 私は暖かい毛布に包まれて、布団の上に寝かされていました。
 身を起こして周りを見渡します。
 何だか質素なお部屋ですね。タンスと机と…そして本棚。それだけです。
 本棚にはたくさん本が詰まっています。
 『ピカソ・その真意』『シュールリアリズム』『正しいデッサン』『遠近法基礎理論』
 …難しい感じなのです。それと…
 部屋の隅に絵が置いてありました。キャンパスが数枚、無造作に重ねてあります。
 私は毛布から抜け出し、キャンパスを拾い上げます。
 「わぁ…」
 キレイな景色が描かれていました。極彩色を抽象的に扱った、風景画のようです。
 何だか見ていると楽しい気分になってきます。きっと描かれた方,この部屋の主は心の清い方なのでしょうね。絵というものに純粋に心をぶつける事が出来るのですから。
 「それに私を助けてくれた方でもあるのですね」
 心の清い方は私達を『見る』ことができます。さらに純度によっては『触れる』ことも出来ます。
 私をここまで連れて来れたという事は、聖人君主のような御方でしょう、きっと!
 がちゃ
 不意に一つしかない扉が開きました。
 現れたのは…
 私は硬直しました。嘘ですよね、そうですよ,私が見えるわけないじゃないですか!
 「お、目が覚めたか?」
 彼は笑ってそう声を掛けてきました。見えている様ですね…
 目の前の方は私の頭突きをくらった、喧嘩していた恐いお兄さんです。髪型は戦艦の先っぽ状態ではなく、普通に下ろしているのですがその鋭い目つきは忘れ様がありません。
 と、彼の顔色が変わりました。笑顔が消えます、恐いです。
 「まだどこか調子悪いのか?」
 あれ?
 もしかして…
 「心配、してくれているのですか?」
 私の言葉に、彼は驚きの表情になります。
 「きれいな声だな」
 「そうですか?」
 コクリ、彼は頷きました。しかしぶんぶん頭を横に振って私を睨みます、恐いです。
 「それよりもだ、体の調子はどうなんだ? 車にはねられるわ、犬には噛まれるは、病院に連れていこうにも皆、お前が見えないって言うし、怪我の痕も見えないし…」
 それはそうです。私達天使はこの世界のモノから怪我を受けてもそのうち治ってしまうのですから。
 私は目の前の彼をまじまじと見つめます。
 どうやら悪い人ではない様です、というか良い人ですね。
 目つきは恐いですが、目を閉じて彼を感じると優しい雰囲気が伝わってきます。
 人は見かけによらないものなのですね。初めて見た時の戦争中の雰囲気が信じられません。
 「私は怪我とかしないんです、ご心配かけてしまい、申し訳ありませんでした」
 ペコリ、私は頭を下げます。
 何より一晩の宿がありがたいです。
 「ところで、訊きたいんだが」彼は難しい顔で尋ねました。
 「はい?」
 「お前,何だ?」
 「天使です」
 「天使って、名字?」
 「?? 天使ですけど?」
 「…あの?」
 困った顔で彼は天井を指差します。多分、天界のことでしょう。
 「はい、そうですわ」
 「…どうして他の奴にはお前が見えないんだ?」
 「心の清い方だけが見えるんです」
 答えると、彼は笑いました。とことん笑っています、そこまで笑わなくても良いでしょう?
 「するってぇと、何か? 俺は心が清いのか?」
 「はい」
 私はキャンパスを拾い上げました。
 「これをお描きになったのは貴方ですよ」
 「ああ」訝しげに彼。
 「充分に心が清いと思いますわ。この絵は私が見ても楽しいと思える,天使の心にも理解できる絵ですもの」
 私は微笑んで絵に魅入ります。他のキャンパスも同じような、どこかしら彼の優しさが伝わってくる風景画でした。
 公園で遊ぶ子供。湖の水鳥。稲刈りをする老夫婦…ありがちな風景にそんな日常の生活の息吹が見て取れます。
 そんな絵の右下にサインが一つ。
 『Yukimura』
 「ユキムラ…さんとおっしゃるのですか?」私は彼に視線を戻して尋ねました。
 「ん、ああ」はっと我に返ったようにユキムラさんは頷きます。
 「ユキムラさんは画家さんなのですか?」
 尋ねる私に、彼は苦笑い。
 「なれたら良いな、そう思うよ」
 何でしょう? 違うのですか? やっぱり戦士さんなのでしょうか?
 私はユキムラさんが戦士さんなんかよりも画家さんの方が良いと思うのです。
 やっぱりどんな理由であれ、人を傷つけてはいけないのですよ。
 「どうして画家さんではないのですか?」
 「そりゃぁ…」言ってユキムラさんは立ちあがりました。窓に向かって歩み、カーテンを開けます。
 朝日の強い日差しが、部屋に差し込みます。私は思わずそれを体いっぱいに受ける為に翼を大きく広げました。
 ユキムラさんの視線に私は微笑みを向けます。
 「まだまだ下手だからさ」
 小さく笑って答える彼には他に理由があると思います。隠しているのが分かりました。
 でもそれは私に話したくない事なのでしょう、当然です。
 もしも私が人間のユキムラさんだったら、私のことを変わった女性にしか見えないと思いますから。
 「じゃあ、もっと練習して巧くなれば良いのですね」
 「まぁ、そういうことだね」
 そうですか…
 あ、私はちょこっと良いことを思いつきました。
 私の使命である『全てのモノを等しく愛す』というのを彼の絵の力を使ってみるのはどうでしょうか?
 彼の絵は見る人をきっとホッとさせる物になると思います。だからもっともっと巧くなれば、たくさんの人をもっともっとホッとさせる,ひいては『全てのモノを等しく愛す』る気持ちをたくさんの人に与える事が出来るのではないでしょうか?
 そうすれば私の使命もきっと果たせる、そんな気がするのです。
 …ズルイ方法でしょうか?
 でも、『全てのモノを等しく愛す』なんてのは他に方法が思いつかないのです。
 「あの…」
 「ん?」
 「私にユキムラさんの絵のお手伝いをさせてください!」
 「は?」
 私の言葉に、ユキムラさんは素っ頓狂な声を上げました。
 「なんでもします。枯れているお花を生き返らせる事も出来ますし、お天気をちょこっとだけ晴れにさせることもできますし、それに…ええと」
 それくらいしか出来ないのです。
 …全然役に立てないですね。
 ぽん
 「あ…」
 頭を軽く撫でられ、私は顔を上げました。
 笑った顔のユキムラさんです。瞳も笑っています。
 何だかとっても、機嫌の良い時のラファエル様に似ていますね。
 「女の子がなんでもするなんて言っちゃいかんぞ」
 「はい…」
 でも見かけだけで天使には性別はないのですけど…
 彼は私の顔をジッと見つめます。深い深い黒の瞳、私は思わず目を背けてしまいました。
 何だか飲み込まれてしまなそうな気がして。
 「天使を、描いてみたいな」
 「え?」
 ボソリと彼は言います。何て言ったのでしょう? 天使を描くって??
 「お前、帰る所はあるのか?」
 私は首を横に振ります。
 「じゃ、帰るところが決まるまでここにいろ。代わりにモデルやってもらう。OK?」
 「は、はい!」
 私は思わず返事をしてしまいました。
 モデルって…
 モデルって何でしょう??


 私がここに来て4日間が過ぎました。
 その間に私は色んなことを学びましたよ。
 ユキムラさんは「学生」なのです。学生というのは勉強をする人の事。
 この国の人はある期間、勉強をしてそれから社会人になるそうです。
 ユキムラさんは学生の中でも「高校3年生」という階級だそうです。
 私達、天使で言う所の「力天使」あたりでしょうか?
 その「高校3年生」という中でも彼は「番格」という称号を持っているそうです。
 学校をシメるとか何とか…多分、天界の守護隊総長のようなものなのでしょうね。
 ユキムラさんはさらに独り暮らしです。家族の住む家からだと学び舎まで遠いからだとか。
 だから私はユキムラさんが帰ってくるまで、ここでお留守番なのです。
 「………」
 お日様の光を浴びるのは気持ち良いですね。
 私はユキムラさんの今描いているキャンパスに目を向けました。
 まだ鉛筆だけですが、少しずつ書き足されています。
 場所は近所の河原。夕焼け雲の下に光を照り返す川面と、土手に腰掛ける私が描かれています。
 モノクロなので夕焼けかどうかは分からないと思いますが。
 ユキムラさんは本当はお昼の明るい時間を描きたかったとおっしゃいますが、お帰りになる時間がこの時間なので仕方ないですね。
 でも今日は人の暦で土曜日ということで、午前中に帰られるそうです。
 ラファエル様のおっしゃる『全てのモノを等しく愛す』に少しずつではありますが、近づいているような気がします。
 とっても、とっても他力本願です。でもコレしか思いつかないのです。
 『全てのモノを等しく愛す』と心では思っています。それだけは自信があります!
 こんこん
 ん?
 私は音の方向に目を向けました。
 こんこん
 窓に黒い鳥さんがいます。私を撃墜した、あのカラスさんです。
 ちなみにこの間、ようやく仲良くなれました。今では友達なのです。
 「はいはい?」
 私は窓を透過して、顔を出します。
 「かぁ!」
 「え?!」
 カラスさんは言いました。
 「あ、案内してください!」
 「かぁかぁ!」
 バサリ
 二つの羽音が重なります。
 私はカラスさんの後を追って、ようやく慣れ始めた翼を広げました。
 「幸村さん…」
 私は祈ります。それが心の歯車のズレの始まりだったとしても、後悔はありませんでした。


 幸村さんは一人、違う制服の方々に囲まれていました。
 その数…20人。
 私はカラスさんの案内の下、私が降臨した建物の上に降り立ちます。
 人気のない公園。
 幸村さんは苦い顔で違う制服の人達の一人を睨んでいます。
 「よくもまぁ、一人でのこのこ来たなぁ、幸村ぁ」
 睨んだ相手、幸村さんよりも大きくて強そうな男の人は何だか友好的ではない笑みで言います。
 「そういう条件だろ」クールですね。
 「ま、そうだな」言って彼は後ろを見ます。
 そこには羽交い締めにされた女性が一人。
 おとなしそうな子です。制服を見ると幸村さんと同じ学校の生徒の様ですね。
 彼女は冷たい目で全員を見つめていました。
 「相変わらず汚ねぇな、テメェは。人質とはな」
 「勝ちゃ、良いんだよ」
 パチン、彼は指を鳴らします。
 それを合図に、幸村さんに向かって全員が殴りかかりました。
 幸村さんは…
 「どうしてですか?!」
 殴られるままです。初めてここで貴方を見た時、とても強かった。
 そして恐かった。
 でも今は、戦いの牙を剥いていない。殴られるままです。
 「かぁ」
 「え?」
 人質…って言っていましたね。私は女性に目を向けます。
 彼女は掴まれたまま、しかし興味なさげに事を見つめていました。
 「あの方が掴まっているから?」
 「かぁ」
 カラスさんは頷きます。
 どうしましょう?
 私はどうすれば良いのでしょうか?
 どうすれば幸村さんを助ける事が出来るのでしょうか??
 ラファエル様なら雷を使う事が出来ます。でも私にはそんな力はありません。
 花を咲かせる事が出来ても、目の前の人を助ける力はありません。
 やがて指を鳴らした男の人の合図で、幸村さんを殴る手が止まります。
 幸村さんは皆の囲む中、倒れていました。全身ボロボロです。
 「その子を…そろそろ離してやれ…」
 蚊の鳴くような声で彼は言いました。
 指を鳴らした男の人は目で合図すると、女性を解放します。
 女性は幸村さんを一瞥。
 「関係ないのに巻き込まれちゃたまらないわ,塾に遅れちゃうでしょ」
 「すまないな」幸村さんは苦笑いです。
 女性はそのままその場を駆け足で離れて行きました。
 どうしてですか?
 どうしてあんなことを言う方の為に、貴方がこんな目に遭うのですか?
 「よくもまぁ、お前はあんなのの為にここに来たな」男の人は呆れた様に言いました。
 「関係者だったら…それこそ一人で来ないさ」笑って幸村さんは答えます。
 やがて幸村さんの視界から、彼女の姿が完全に消えました。
 「さて、仕上げだ」再び地面に伏したままの幸村さんへの包囲が縮まります。
 『全てのモノを等しく愛す』
 そんなこと、出来るのでしょうか? 私はさっきまで出来ていると思っていました。
 でも…
 私は…できません!
 幸村さんを人質を取ってまで倒そうとする卑怯な人達。
 助けられたのに、巻き込まれたと言って逆に罵る人。
 それに、ここの騒ぎは近所の民家や道路に聞こえているはずです。
 なのに、みんな知らん顔です。
 『全てのモノを等しく愛す』
 私は愛せません!
 そんな人達に向ける心を、幸村さんに向ける心と同じ位置に置きたくない!
 バサリ!
 カラスさんが飛び立つ音で、私は我に返ります。
 「幸村さん…」
 彼は立ちあがっていました。顔には不敵な笑いと、そして瞳には強暴な光が宿っていました。初めてここで会った時の、彼です。
 彼を囲む人々からどよめきが上がります。
 「人質を逃がすのが、早かったようだぜ」彼は笑って言います。
 彼を囲む、その内の一人が殴りかかりました!
 幸村さんは放たれた正拳を脇に流し、カウンターの裏拳をお腹に叩き込みます。
 一撃で男の方は倒れました。
 それを拍子に、一斉に幸村さんに殺到します!
 正拳、裏拳、振り向きの肘の一撃、後ろ廻し蹴り…
 まるで輪の中を、踊る様に幸村さんが動きます。その一挙動毎に人が倒れて行きます。
 「ぐわ!」
 やがて幸村さんと駆け引きをしていた男の人が、両手掌底を胸に受けて私の立つ建物の壁に激突! そのまま意識を失いました。
 それをきっかけに、男の方々はざわめきます。どうやらリーダー格のようですね。
 彼らは大慌てで退散して行きました。
 すごいです!
 たった独りで退けました!
 幸村さんは彼らの姿が見えなくなるまで、その場で鋭い目を向けています。
 私は彼の下へと飛び立ちました。
 同時に…
 「っつ…」
 「幸村さん!」
 彼はその場に倒れ伏します! 私は慌てて抱き起こしました。
 「? 何でここに?」
 傷だらけの顔で、彼は私を見つめます。黒い彼の瞳に恐いものはもぅ消えていました。
 私は彼の埃と血がついた頬を軽く撫でます。
 「どうして?」私は逆に胸につかえていた疑問を呟きました。
 「どうしてこんな事をするんです? こんな事をしても誰も貴方を認めてくれないのに…それどころか邪険な目で見つめられるだけなのに…」
 私もそうでした。
 ワルキューレに任せておけば良い、そんな事を思いました。
 「そんな事は関係ないよ」
 彼は苦笑。
 「やりたいからやっている、ただそれだけ」
 半分嘘です。
 彼の心の悲鳴が聞こえます。
 彼は強いです。でもその強さの分、弱さがあります。
 その弱さは絶対に誰に見せないでしょう、彼自身の強さ故に。
 「さて、絵の練習をしなくちゃな」
 彼はそう言って、よろけながらも立ちあがります。
 そんな彼を見上げる私を見つめ…笑いました。
 「何を難しい顔してるんだよ」
 「い、いいえ!」
 歩き出す彼を、私は小走りに追いかけます。
 埃だらけの広い彼の背中に一縷の弱さが見えました。
 彼を癒してあげたい…
 全てのモノに向ける愛を、この人一人だけに向けてあげたい!
 「? どうした?」ちょっと困った声で幸村さん。
 私は無言で彼を背中から抱き締めます。重たい、負の感情が私の胸に流れ込んできます。
 「重たい…」
 流れ来るそれを、私は心の光で中和します。全部は無理です。
 でも少しだけでも、ホンの少しだけでも彼を分かってあげたい。
 彼だけを癒してあげたい…
 その想いは抜き抜けた風に乗り…


 風が、吹き付けた!
 「全てのモノを等しく愛すのが天使。特定の一人だけを愛するのは天使とは呼べぬ」
 心を揺るがす声が、背後から。
 「ラファエル様!」
 私は驚き、幸村から離れ、背後に振りかえった。
 眩しいくらいの光を背負って、懐かしいその方は私の前に立つ。
 三対の雄雄しい翼,威厳に満ちた相貌。
 私はその前で、力が抜けて行くのを感じる。
 幸村もまた私の後ろでごくり、息を呑んだ。私が見える彼にもラファエル様の大きさが伝わっているはずだ。
 「我が羽の一枚へと戻るが良い!」
 ラファエル様のその言葉に私は心が凍った。
 恐怖…だ。
 ラファエル様が恐ろしいのではない、今の自分が消えてしまう事が恐ろしかった。
 もぅ幸村と会えなくなってしまう、そのことだけが恐い。
 「さぁ、我が手を掴め」
 差し出されるラファエル様の手。私は…逆らえぬ力に体が動く。
 嫌だ。
 そう、嫌だった。
 私はただ一つの感情,恐怖の原因に全てを託して心の限り叫び声をあげた!
 「嫌です…私はここにいたいんです。幸村をずっと見ていたいんです」
 それは蚊の鳴くような声。
 しかしラファエル様を前にして、良くそこまでの力が残っていたものだと思う。
 ラファエル様は僅かに眉をしかめ…
 「させるか、この羽野郎!」力強い声は後ろから!
 すかっ…
 大上段の蹴りは、破壊力をそのままに透過する。
 「んな!」
 蹴りを放った彼,幸村は慌ててその相手を振りかえる。
 当然のことながらラファエル様はまるで空気の如く、そして幸村自体を空気の如く無視すると私に手を伸ばす。
 「あ…」
 「待ちやがれ!」
 相変わらず幸村の手刀はラファエル様を透過,当たり前だ。人間では高貴すぎるラファエル様に触れることなんて出来やしない。
 ラファエル様は私の首を掴み、左手一本で軽く持ち上げた!
 「ぐはっ!」
 喉が潰れ、息ができない。
 私を見下ろすラファエル様の瞳は冷たい。
 「お前はもはや天使でもなく、我が羽の一枚にも戻れもしない」
 宣告。
 「堕ちる事もその純粋なる魂が許さず、行為は天使にもなれぬ…」
 私の首に込めた手に力が加わる。
 白濁しかける意識を失わない様、私はキッとラファエル様を睨みつけた。
 「くそ!」幸村は私を下ろそうとラファエル様の腕を掴むが…さわれない。
 「逃げ…て、幸村…」
 私は必死の表情の彼に最期の言葉を放つ。私の次は、きっと彼だ!
 ラファエル様は感情のない瞳で私を睨み、
 「半端者は天を駆ける事、許されぬ」
 背中に走る激痛!
 ラファエル様は私の左の翼を空いた右手で掴み、思いきり引き千切った!
 「ああぁぁ!」喉から空気がほとばしる!
 羽が舞い落ち、風に溶ける。
 頭上の金の輪が重力に従い落下、足元に音もなく転がり落ちた。
 片羽になった私を、ラファエル様は呆然とする幸村に投げつける。
 「おい、しっかりしろ!」
 「…幸村…」
 私は彼に抱きとめられた。背中が痛い。
 天使によって受けた傷は、決して治ることはない。
 「貴様!」
 幸村は唇を噛み締めてラファエル様を睨みつける。
 そんな彼にラファエル様は軽蔑の視線を投げかけて一言。
 「そんな天使にも堕天使にもなれぬ半端者など、我等が眷属ではない。好きにするが良い」
 鼻で笑い、ラファエル様はその姿を消した。
 途端、場の空気は普段の公園に戻る。
 私が舞い降りた時よりも静かな、誰もいない夕暮れの公園へと。
 「大丈夫か?」
 厳しい目で幸村。私は無言で頷く。
 結局、ラファエル様は私を殺さなかった。何故かは分からない。
 幸村に害を与える事も、なかった。
 …とにかく助かったのだ。
 安堵と伴にどっと疲れが出てきた。このまま彼の腕の中で眠ってしまいたい。
 暖かい、彼のこの腕の中で。
 しかしその前に…
 「ね、幸村?」
 「何だ?」
 「私…天使じゃなくなっちゃった」
 手を伸ばし、足元に転がった天使の輪を拾って彼に告白。
 「だからどうした?」少し怒った風な彼。
 そりゃ、怒るよね。私、天使失格で、わっかも落ちちゃったし。
 「ごめんね。天使じゃない私なんて、意味ないよね」
 ガン!
 「痛!」
 軽く頭を殴られた。顔を上げると完全に怒った顔の幸村がいる。
 でも恐くなかった。
 安堵。
 私は苦しいくらいきつく彼に抱き締められる。
 「関係ないだろ、そんなこと」耳元への言葉。
 「ん…」
 その苦しさを大切に,大切に心に抱きつつ、私は眠りに落ちていった。
 次に起きる時、私はきっと彼だけの天使になっていることだろう―――


  「あ、お母さん!」
 私の隣に腰掛けた少年は急に駆け出して行った。
 見ると仲の良さそうな夫婦が一組。
 彼は私に手を振ると、二人と一緒にその場を去っていった。
 「全てのモノを等しく愛しなさい」
 かつて尊敬していた彼の言葉を思い出す。
 それは私にはちょっと荷が重たかった様だ。
 しかし、今でもそれに負けないくらい一人の人を愛している。
 相変わらず私を見つける『視線』。
 優しさを込めたその視線は私の姿をキャンパスというもう一つの世界へ塗りこんで行く。
 私は彼に微笑みかけ、一枚しかない翼を大きく広げた。
 今はもう、飛べないけれど、この一枚の翼は私の誇り。
 彼だけの天使たる、私の私である証…





この作品は緒方 青氏にお贈りしたものです。