変わりゆく風
3/14のその日は、冷たい風が吹いていた。
日は長くなったとは言え、グリコのネオンが灯り出す夕暮れ時には、どんよりと足下を流れ行く道頓堀の真っ黒な水に沿って真冬の風が、吹く。
だが阪神タイガースが優勝した際に飛込みまで起こったこの橋――通称・ひっかけ橋――では、ストリートミュージシャンを始めとした若者達が一芸を以ってして集い、己の気持ちを様々な形で表現する。
それを見物するこれまた若者達。
未だ春を感じさせない真冬の風はしかし、彼らの熱い気持ちを冷やすには及ばない様である。
そんな活気付いた大阪の名所の一つであるここに、何の変哲もない一組のカップルがいた。
橋の上、男は女の肩に手を置く。
女はつぃと、首を傾げた。
「どないしたん? そんな真剣な顔見るのは久っさしぶりやで,クソでもひねってきたいんか?」
しん…
確かにその時、世界から音が消えた。
半径50cmの世界に、ではあるが。
1・2・3
と、3秒きっかりの静寂が訪れ、そして消える。
男はふるふると首を横に振り、再び彼女を見つめる。
そして…意を決したかのように口を開いた。
「結婚しよう、勝美」
しん…
再び半径50cmの世界に瞬間の静寂。
女――勝美は僅かに困った顔をして、彼にこう返した。
「なぁ、康祐」
勝美は彼の手を払い,彼がしていたのと同じようにポンと、肩に手を置いた。
「ウチ、婚約しとるで」
「なんですとーーー!!」
男の悲痛な声が、道頓堀に木霊した。
と、そんな2人を何かのパフォーマンスと勘違いしてか,見物人達が一人、また一人と遠巻きに囲み始める。
「一体…だ,誰と?!」
「インドのマハラジャや」
「ムトゥ?!」
「毎日歌って踊る日々が待っとるで〜」
「お前、音痴じゃないか,そりゃヤバいだろ!」
「六甲下ろしは世界標準規格ってヤツ?」
「疑問形かよっ!」
「あとは山川 豊が唄えりゃ、エエんよ」
「んなバカな!」
「ったく、東京モンは相変わらずノリが悪いわな」
「10年前から大阪住んでるオレをまだ、東京モン言うか?」
「その言葉遣いがムカつくんやわ」
男の額に怒りの四つカドが生まれ…しかしふと我に返る。
「……話をそらすなよ、勝美」
「そらしてへんよ」
勝美の言葉を無視。
「一ヶ月前、お前はオレに渡しながら言ったよな。『いい加減、はっきりせぇよ!』って。だからオレは…」
「だぁぁぁぁ!!」
勝美は腕を振り回しながら叫び、康祐の言葉を止めた。
その勢いのまま、彼にズィと詰め寄る。
「ウチはあの時、アンタに自信持てって意味で言うたんや,こんなホワイトデーなんかにかこつけんと、仏滅とか13日の金曜日とかにでも告ってみぃや! 後ろから背中押されんと、相変わらず何もできんのかぃ!」
そこまで捲くし立てる様に言った勝美は、はぁはぁと肩で息。
康祐は一瞬の後、ポツリと呟く。
「…仏滅ってのは、ちとヤだな」
「……それもそうやね」
「「て、コトじゃなくって!」」
申し合わせた様に2人は目に見えない何かを道頓堀に投げ捨てて、
「康祐みたいなボケ相手にしとったら、ウチはいつの間にか行き遅れやで」
「そっか…」
康祐は肩の力を落とし、懐を探る。
取り出したのは小さな箱。
「何や、ソレ?」
「勝美の欲しがってたシャネルのリング,給料三ヶ月分だよ。でもこれももぅ、意味はないな」
「え…」
勝美は凍りつく。
康祐が遠投の体勢に入ったからだ。
道頓堀に向って振りかぶって…
「ちょっと…」
投げた!
「アホーー!!」
「なにぃーー?!」
彼の手から離れた指輪の箱はその口を開けて、中の銀色のリングが、たゆたう川の流れの上で舞った。
追いかける様に橋から身を乗り出して手を伸ばす勝美。
その思いもかけない行動の勝美を、慌てて追いかける康祐。
一人の男と、一人の女と、銀色のリングが道頓堀に舞った。
どぼん!
どぼん♪
……落ちた。
「「おおおっ!!」」
どよめく観衆。橋の縁に2人の姿を確認し様と、人の壁が出来た。
波紋の残る水面,それはやがて。
「「ぶはっ!」」
川面が乱れ、顔を出す2人。
「アホー!!」
開口一番、女の声が木霊した。
「捨てることないやろ! もったない!! 質に入れれば一ヶ月分くらい戻ってくるわ!」
「あ、そ〜か」
勝美の手に握られた銀のリングを取り返そうと、康祐の手が伸びる。
が、
「貰えるもんは貰うとく」
「こらこらこらっ! そういうもんはインド野郎に貰えよ!!」
取り戻そうと康祐の手が伸び、それを勝美は水の中,泳ぎながらかわして行く。
「三倍返しやろ!」
「オレはお前に給料一ヶ月分のものなんて貰ってねぇぞ!」
「…相変わらず男のクセに言うことが小さいわなぁ」
「いいから返せよっ!」
「ヤ!」
言って勝美は手にした指輪を己の薬指に…嵌めた。
「取れるモンなら取ってみぃ!」
指輪の嵌った手を水面から出して康祐に向って振りながら勝美。
彼はそんな彼女の挑戦的な言葉にムッとした顔になったかと思うと、しかし小さく笑った。
そのまま川面に己の体を預ける。
「…どうしたん?」
尋ねる勝美に、しかし康祐は星の見え始めた空を見上げながら軽く手を振った。
「もぅ、いいや」
「どないして?」
彼の隣に泳ぎ着き、勝美は首を傾げる。
「お前が一度でも嵌めてくれたんなら…もともとそのつもりで買ったんだし」
「康祐……」
「インドでも元気でな」
微笑む彼に、
「うらぁ!」
顔面にエルボードロップ!
「ぐぶぉ!」
康祐は道頓堀に深く沈む。
「所詮、アンタのウチへの想いなんてそんなもんかぃ,この打てない川藤ぉ、もしくはスランプの薮がぁ!」
ザバァ!
彼女のすぐ目の前で勢い良く立ち昇る水柱。
「!?」
勝美の息が、一瞬止まった。
その時のキスは、ドブの味がしたと後に2人は語っている。
橋の上の観客達からは野次と拍手と冷やかしの,しかしどこか暖かな声援が、堀の中で抱き合う2人にいつまでも降り注いでいた。
夜風がズブ濡れの2人を包み込む。
僅かに暖かな、春の息吹きを含んだ風に変わっていた。
その中で、
「あ、あれ? ……抜けへん」
勝美は薬指のシャネルのリングを抜こうと、もがく。
それを康祐は困った顔で見つめて呟いた。
「もしかして指輪の大きさ間違えたかも…」
「ど、どないしよう」
「そのまま結婚指輪に、ってのはダメか?」
ピシィ!
勝美のツッコミが康祐の額にクリティカルヒット。
「でも、抜けんかったら……ホンマ、責任とって貰うで」
笑う。
3/14のその日は、暖かい風が吹き始めた日だった。
了
この作品は緒方 青氏にお贈りしたものです。