天使の歌声


 ―――彼女の声は私が今まで聞いたどんな声よりも高貴で、涼やかで透き通り、心の奥底まで届く力強さを持っている。
 同時に強く握れば壊れてしまいそうな、儚さと脆さ。
 ありえない矛盾を孕んだ、人類規格外の音律だ。
 私は彼女のそんな素晴らしい声をこう呼んでいる。
 天使の歌声、と―――

作曲家・ホーリィ=マックエイト 



 夕焼け空の下で私は生まれて初めて『歌った』。
 『歌う』という行為をこれほど心地好いと思ったことは、この時期の後にはなかったと記憶している。
 何故、こんなにも『歌う』という行為が楽しかったのだろう?
 今ではその感触を思い出すことは困難だ。
 何故ならば、『歌う』ことを極めてしまったから。
 それはきっと、汚れてしまったということなのではないだろうか?
 私は回想する。
 真っ赤な夕焼け空の下、幼い私は彼の奏でるケーナの音に合わせ、言葉を音程に載せて口づさむ。
 幼い私の声はとても拙く、そしてまっすぐ。
 まっすぐな声の向う先はどこだったのか??
 分からない。
 幼い私の視界には、必ずケーナを奏でる年上の男の子が入っている。
 そう、確か私よりも2,3上の近所の子だった…と思う。
 いつもちょっと大きな彼の背中を追いかけていた。
 この私――新原 明菜が! 世界にその名を知らぬ者のない歌姫である私が追いかけていた,なんとも滑稽な光景だ。
 世界最高峰の作曲家ですら、私に歌を歌ってもらいたくて追いかけてくるくらいなのに,そんな私が追いかける方に回るなんて!
 その部分は思い出したくもない屈辱。
 憮然と、しかし心の隅では楽しく私は何百回と繰り返してきたその思い出を反芻する。
 彼のケーナの音に合わせて、この上もなく楽しく歌った過去の記憶を―――


 朝、私は目覚める。
 今いるのは12畳ほどの私の個室……いや、私の私室だ。
 私は夢現の状態から脱却する為にTVのリモコンでスィッチをON。
 ブゥンという起動音と共に、壁に掛けられた32インチプラズマディスプレイから朝のニュースが流れ始めた。
 画面の中には特徴のない男と女のナレーター。
 その男の方がいかにも『大変なこと』という風にトップニュースを伝えている。
 私のぼんやりした頭の中に、音としての情報が否応無しに入力されて行く。
 「昨日、天使の歌声の異名で知られている日本を代表する歌手・新原 明菜さんが突然の活動休止を事務書を通して発表致しました」
 女性ナレーターの声に、私の意志は覚醒を始める。
 次に男のナレーターが引き継いだ。
 「新原さんのマネージャーであり母である恵美さんのコメントによれば『明菜は未だ学生の身の為、しばらくは遅れていた学業に専念したい』とのこと」
 「早く復帰していただきたいものですね」
 笑い合う二人のナレーターの声に、私は今を完全に思い出した。
 そう、私は歌手を『辞めた』のだ。
 『歌う』ことを辞めたのだ。
 休止ではなく辞めた。
 「ママは信じていないのね」
 ぼそり、呟く。それは仕方ないことなのかもしれない。
 私の名は中村 絵梨。花の高校一年――ジョシコーセーである。
 もっともここ5年ほどロクに学校には通えず、6歳の頃から新原 明菜という芸名で歌声を披露する為に世界を飛びまわっていたのだけれども。
 今、私がいるのは日本での住居となった、とあるマンション。
 歌うことを辞めた私は、今日からフツーの学生として生活するのだ。
 そう、決意した。
 私はベットから身を起こす。
 10月初頭の気温は、やや肌寒い。
 それを堪えて姿見の鏡の前に立つ。
 黒く長い髪は私の本来の色。新原だった頃にカールをかけて染めていた茶色の髪とは大違い。
 化粧台の上に置いていた黒ブチの眼鏡をかける。
 ダテであるそれをかけた私の姿は、自分でも驚くくらいの目立たない女の子だった。
 「これで問題ナシね」
 鏡の向こうの私は、うんと頷く。
 さて、リビングへと向うとしよう。きっとママが昨夜と同じく説得してくると思うけど、それもその内なくなるだろう。
 パパと離婚までして私を歌手として育て上げたママには悪いけど、ね。


 「行ってきまーす」
 「待ちなさい、明菜!!」
 追いすがってくるママを背中に、私は玄関の扉を強引に閉めた。
 閉めて、私は一人呟く。
 「ママ、私は絵梨。明菜は私の外行きの『服』でしかないのよ」
 でもママには分からないだろう、この気持ちは。
 だってママは、彼女は、今は明菜の為に生きているようなものだから。
 全てを捨て去りたい,この声も、栄光も、そして逃げ道である過去の思い出も、全てなくして0から始めたいと思う私は贅沢ではないと思う。
 「だから捨てたんじゃないの」
 首を横に数回振り、私は転入先の公立高校に向って駆け出した。
 ただ歌うだけの、それだけの生活ではない……それでいて退屈には違いない世間一般の『日常』へと。


 古びたそのギターにはヤニの臭い。
 でも俺は吸わない。元の持ち主の匂いが染み付いているのだ。
 だけど俺はそれを誇りに思う。
 匂いが染み付いてしまうだけ、それだけこのギターは彼の思いを『音』にして世界に響かせてきたのだから。
 そしてこれからも、今度は俺の為に音にしてくれるに違いない。
 「大島、準備はどうよ?」
 頭上から声をかけられ、俺は顔を上げる。
 そこにはパンクスな金髪男が一人。
 クラスメイトであり音楽仲間でもある仲昌 博一だ。
 「おはよう、カズ。準備は万端だよ。文化祭が楽しみだなぁ」
 ギターを調節しながら俺は笑う。
 仲昌ことカズはその返事に満足そうに頷いた。
 文化祭――そこで俺達はライブをやる。
 カズはベース、後輩にあたる斎藤という二年がドラム,そして合唱部の一年の伊藤さんがボーカルという4人の組み合わせだ。
 4人とも同じ部に入っている訳ではない,今回のライブも俺とカズ、斎藤が趣味で音楽をやっていて、たまたま組んだだけ。
 そこで俺が生徒会副会長である斎藤のツテで我が校の歌姫・斎藤さんを引き込んでボーカルをやってもらう――といった具合である。
 正確なところを言えば、俺がこのギターを思う存分弾きたいという我が侭に三人を引きづり込んだといっても過言ではない
 俺の名は大島 健。高校三年生だ。
 やはり最後の文化祭くらいは何かやっておきたい……そんな仲間の心情を利用しての今回のライブは各方面に色々協力が取れ、トントン拍子にコトが進んでいた。
 「そうそう、カズ。今日の放課後、伊藤さんが時間取れたみたいだから最終打ち合せやるぞ。音楽室も借りられたからな」
 「そか、楽しみだな!」
 心底嬉しそうにカズは微笑む。
 金髪に三白眼という彼の風貌は、笑った時に自称善良な人間は怯えるらしい。しかし俺はこと、音楽に関して微笑むコイツは好きだ。
 コイツは『楽しさ』を知っているから……
 「大島、そろそろセンコー来るぜ。ギターしまっとけよ」
 「はいはい」
 同時、朝のHRのベルが鳴った。


 「転校生を紹介する、入りたまえ」
 お決まりの担任のセリフに、私は教室の扉を開ける。
 教壇に上がり、担任の隣に並ぶ。
 私の身長は165センチ、結構高い方だと思う。しかし担任の中年教師は昔、バスケットをやっていたらしく180ほどある。
 さすがに私は小さく見えてしまう。まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。
 「中村 絵梨です。中途半端な時期ですけど、よろしくお願いします」
 ペコリ、私は軽く頭を下げた。
 クラスメイトはおよそ30人,私を興味深げに見る者は多数、他は机の下に隠したマンガ雑誌を読む者,寝てる者,窓の外をぼんやりと眺めている者,そして私を品定めするかのような視線で何やら点数をつけているらしい男子が数名。
 ”標準点くらいかな?”
 馬鹿げたことを思う。
 新原だった頃、私の容貌は歌声と同様に客観的視点にしても高い評価を受けていた。
 もっとも撮影技術などによって強調されている部分も大きいので、こうして完全に『素』に戻ってしまった時の評価は分からないけれど。
 そんな事を思いつつ、私は担任に指定された席に就く。
 窓際の、真ん中ほどの席だった。
 窓の外にはグラウンドが広がり、朝のHRの為に生徒の姿は見受けられない。
 案外広い校庭だった。
 「よろしくね、絵梨っち♪」
 可愛らしい声は席の前から,視線を向けると人懐っこそうなポニーテールの少女が一つ、小さくウィンク。
 「よろしくね、ええと…」
 「市村 香織よ、かおりんって呼んでね」
 なんというか……このありきたりさを実際に体験するとすごく新鮮に思える。
 私は内心苦笑しつつ、笑顔でそして小声で答えた。
 「うん、よろしく、かおりん」
 小声で囁きあった後、担任の割と長い朝のHRに注意を戻す。
 「……今週末は文化祭だが、余りハメを外さない様にな。文化祭というのは自らの創作活動の結果を示すものであり……」
 ”へぇ、文化祭なんだ”
 知識としては知っている。どんなものかということは、知人の作詞家がよく移動中の飛行機の中で語ってくれたものだ。
 曰く、学生の自己満足の権化、半径10mの世界。
 偏屈な彼はそんなことを言っていたけれど、それはそれで楽しいんじゃないかな?
 気付けば、週末を楽しみにしている自分がいた。


 とんとん拍子にお昼休みに。
 私はかおりんと、彼女の友達でありクラスメイトである伊藤さんと一緒に購買のパンを摘みながら世間話を繰り広げていた。
 「どう思う?」
 かおりんは私に尋ねる。
 話題は新原 明菜の活動休止の件である。
 どう思うも何も、それは私なので答えに困る。
 何せ、当の本人ですら明確な答えがないのだから。
 ただ嫌になって、私はマネージャーである母に『辞める』と告げた。
 歌一色で、無味無臭となった私の生活が嫌で嫌で、たまらなくて。
 「きっと…歌うことに飽きたんじゃないかな?」
 「飽きる?」
 栗色の髪のショートカットの、ちょっと大人びいた女の子――伊藤 朱実は答えに首を傾げた。
 「どんな歌でも一番巧く歌えるようになってしまったんだもの。それに毎日歌っているんでしょう? 私だったら飽きるかなぁ」
 「えー、そう? だったら私、代わってもらいたいなぁ。回りはみんな有名人でしょ? サイコーじゃない」
 かおりんは信じられないという表情で応えたのだった。
 ”有名人も一般人も、何も違いはないけどね”
 「私も代わってもらいたいなぁ」
 「朱実ちゃんも?」彼女の雰囲気からはちょっと意外な言葉に私は多少驚いた。
 「ええ。私、歌を歌うの好きだもの。毎日歌って暮らせたら、きっと楽しいだろうなって」夢見る乙女のように朱実ちゃん。
 「ふーん、朱実ちゃん……歌巧そうだね」
 声の質で分かる。
 「そうだよ、朱実っちはこの学校で歌姫って呼ばれてるくらいの合唱部のエースなんだよ!」
 「エースってアンタ……撃墜する訳じゃないんだから」朱実ちゃんは苦笑。
 「撃墜するじゃない、男子のハートをさ。一部女子もいるけどね♪」
 「へー、朱実ちゃんの歌、聞いてみたいな」ちょっと気になる。
 「わざわざ聞くようなものじゃないよ」困った顔で彼女。
 うん、これはモテるな。恥らった顔が同性である私から見ても可愛らしい。
 「あ、そだ。文化祭で朱実っち、ライブやるんだよ。だよねー?」
 「え、ええ。大島先輩に誘われて…その」
 頬を何故か赤くして朱実ちゃんは頷いた。その言葉にかおりんは意外そうに問い返す。
 「あれ? 大島先輩が計画立案者だったの? てっきり斎藤先輩かと思った。生徒会の副会長だしさ」
 「ん。それもあってけっこう大事になっちゃったんだよね」
 「でも大丈夫? 朱実っちって…なんていうか合唱部って感じの歌が似合ってると思うんだけど」かおりんは心配そうに尋ねる。
 うん、確かに『正統派』って感じだね、この子は。
 「大丈夫よ。だって……同じ音楽だもの。それに」
 「それに?」
 言葉を詰まらせる朱実ちゃんは、何と言葉にしたらわからない,そんな感じだった。それに…
 恥ずかしがっているのか、それとも嬉しいのか?
 「……とっても、とっても楽しそうだから」
 「楽しそう?」
 私は尋ねてしまう。気になることだったから。
 「うん。大島先輩のギターって、楽しいの」
 嬉しそうに言う朱実ちゃん。ギターが楽しいって、どういうことだろう? 面白い旋律でも流れるのだろうか??
 その大島とやらを知っているかおりんもまた、うんうんと頷きながら言った。
 「楽しいっていうか、捉えどころないよね、あの人。全然流行りの曲弾かないし」
 「それはそうよ。大島先輩は自分の音色を奏でてる人だから。素直な音だから、一緒に歌うと楽しいの」
 得意げにいう朱実ちゃんを、かおりんは驚いた様に見つめて言った。
 「……朱実っち、もしかして大島先輩にホの字?」
 「そ、そんなことないわよっ!」
 顔を真っ赤にして反論する朱実ちゃん。
 しかし今の私は、かおりんのように囃し立てる気にはなれなかった。
 ”音楽が楽しい…か”
 朝の夢を思い出す。
 あの頃は何故楽しかったのだろう?
 そして、いつからこんなにもつまらなくなってしまったのだろう?
 ……だが、もぅ、どうでも良いことだ。
 私は歌にはもぅ、興味はないのだから。
 でも何故だか、私は心のどこかにまだ望みを持っているのかも知らない。
 歌を、音を楽しめるかもしれないという―――


 放課後。
 かおりんは所属している演劇部の文化祭出し物の練習に、朱実ちゃんもライブの最終打ち合せとやらに行ってしまった。
 私はかおりんの執拗なほどの演劇部勧誘を笑って断わり、今は学校見学を兼ねて文化祭の準備で忙しい校舎を歩いて回っていた。
 鼻に飛びこんでくる香ばしい香りは、クレープ屋をやるクラスの練習だろう。
 ペンキ缶を両手に持って廊下を駆ける男子生徒をかわし、あちこちで響くトンカチの音を聞きながら、私は突然飛び込んできた音に危うく転ぶところだった。
 音――というより騒音は右手の視聴覚室から。
 そいっと扉を覗くとそこには5,6人の男子生徒がいた。
 各々ギターやらドラムやら、エレクトーンやらをかき鳴らしている。
 ”くぅぅ、うるさい、これじゃただの騒音じゃないの!”
 それぞれがてんでバラバラ,自らのみを主張するだけの音。
 ただ己の意志を押し付ける様にさらけだすだけの、他人には無意味な自己主張。
 ”それでもそこそこ楽しそうにやってるみたい”
 ギターもベースも、そしてドラムも必死に、そして酔うように己の楽器をかき鳴らす。
 ボーカルの男性もまた、声がロクに聞こえてこないにも関わらずシャウトしていた。
 ”一人で楽しくやってるみたいな感じ、ね”
 それを私こと新原 明菜は楽しく感じられなくなってしまった。
 きっと、彼らのように楽しんで、そして楽しみすぎて飽きてしまったんだろうな。
 思わず口元に広がっているのは自嘲の微笑み。
 結局、歌のコトを考えてしまう、愚かな己への。


 「疲れたし、帰ろうかな?」
 そう思ったのは校舎の屋上で風に吹かれてグラウンドでの準備を眺めていた頃。
 私のクラスでは喫茶店をやるらしく、有志で準備がなされている。
 ”今日は良いとして、明日は仲間に入ろっと”
 思って階下に降りようとした、その時だ。
 風に吹かれてソレはやってきた。
 耳に届くその音律――妙に心地好かった。何の抵抗もなく、心の奥底を透過する音。
 知らずの内に、私はそこへと向っていた。
 聞こえてくるのは音楽室だ。
 其処にあることが自然な演奏と、音律と一体化した歌声は、私の心を優しく撫でて行く。
 ”知らない曲だ、そして当然知らない歌”
 音律は奏者ごとに己の意志が込められ、しかし互いにぶつかり合う訳ではない。
 互いの音を認め合い、融合し、更なる高みを目指す向上心。
 それでいてまるでそんな意志は付属物であるかのような、気楽さ。
 そう、これは……
 己の持ち得る演奏力を、純粋なある衝動に任せて放つ行為。
 お互い一緒になって『楽しむ』という、ただそれだけの、一点の曇りなく純化された意志の暖かさ。
 私は気付いた。
 聞こえてくるのは、そう、これは伊藤 朱実の歌声だ。
 私は自分でも知らずの内に、音楽室に足を踏み入れていた。


 俺は空間に身を任せ、そしてそれを味わいながらギターを通して音を奏でる。
 やはり一人で奏るよりも、こうして認め合った者同士、一緒にやるとこの上もなく。
 ”楽しい”
 幼い頃、俺が初めて覚えたケーナを吹いていたあの頃を思い出す。
 近所の住んでいた、妹のような少女がケーナの音に合わせて歌ってくれたっけ。
 あれは楽しかった。今でも忘れない。
 そして他の人と一緒に音を奏でることを覚えた、初めてのコトだった。
 あの少女とは結局喧嘩したまま別れてしまった。
 大きくなって知ったことだが、彼女の両親が離婚したことで引っ越してしまったのだそうだ。
 その頃の俺は、彼女に伝えることがあったはずだった。
 けれど幼い俺は言葉を知らない。
 だからケーナを吹いた。絶交したけれど、伝えなくちゃいけないと思ったから。
 音を通して、去り行く彼女を乗せた車に向ってケーナを吹いた。
 俺の気持ちは、届いたのかは分からない。
 けれど彼女は確かに歌うことが好きだった。だから届かなくとも、きっといつかは分かるはずだ。


 曲が終わる。
 俺達4人は誰ともなく、大きく息は吐く。
 最終の打ち合せは満足の行くものだった。
 「あ、絵梨ちゃん!」
 伊藤さんの声で俺は気付く。
 どうやら観客が一名、いたらしい。
 長い黒髪に黒縁の眼鏡、意志の強そうな少女だった。
 いかにもどこかのお嬢様、といった感じだ。
 「伊藤さんの知り合い?」
 「はい。今日転校して来たんです。中村 絵梨ちゃん」
 「よろしく」
 小さく頭を下げる彼女に、カズが気軽にどもども〜とか言いながら言い寄っていた。
 カズが言い寄るだけはある美人だ、しかしどこか引っ掛かる。
 あの瞳……どこか一歩引いて見ているあの瞳、幼い頃、絶交した彼女のそれと何故か重なった。
 「ごめんね、絵梨ちゃん。私、これから塾なんだ。ええと……」
 「オレ達はまだ練習続けるから、見ていきなよ」
 伊藤さんにウィンクして引き継ぐカズ。
 中村さんは伊藤さんを見て、一つ頷いて微笑んだ。
 「じゃ、私もぅちょっと見ていくね。塾、頑張って」
 「うん、ゴメンね」
 謝り、彼女は最後に俺と斎藤に向って一礼すると音楽室を去って行った。
 ”さて”
 「大島先輩、僕はまだちょっとアレンジしたいところあるからもう一度始めから頼むよ」
 「え、ああ」
 斎藤の言葉に俺はカズを見る。
 カズは椅子の一つに座っている中村さんを見て、
 「どうぞ。私はここで聴かせてもらいますから」
 微笑んで彼女は言った。


 その複雑に絡み合った三つの音律は、どこか幼い頃に聴いたケーナの音に似ていた。
 私はちょっといたずら心が芽生えてくる。
 それはもっと突き詰めれば、嫉妬心なのかもしれない。
 朱実ちゃんを羨ましいと思ってしまった、だから私は自分でも思いがけないほどの行動をしてしまっていた。
 私は立ちあがる。
 3人の奏でる音律に、先程聞いた朱実ちゃんと同じ声を、それも彼女よりも技巧を加えて、歌ってみせる。
 簡単なことだ。朱実ちゃんのいた場所は、すでに私が八歳の頃には通過していた場所なのだから。
 私の声は三つの音に絡んで行く。
 わずかに解ける様で溶けない、微妙な旋律―――
 そして曲は終わる。
 驚いた顔の二人と、そして一人だけ複雑な顔をした男。
 「巧いね、伊藤さん以上だよ」
 「プロになれるよ、マジで!」
 斎藤先輩と、カズと呼ばれる先輩はそう言って私を誉めた。
 しかし私はこの二人のことはどうでも良い。
 ギターを抱えた、朱実ちゃんが憧れる大島という男。
 彼の反応が気になった。
 何故だろう? 朱実ちゃんが認められた様に私も認められたいと思っているのか?
 知らない男に、何故そう思うのだろう??
 「確かに巧いけど……」
 彼は私に問う。
 「何の為に歌うの?」
 「え?」
 「おい、カズ!」
 「大島先輩!?」
 二人の仲間の言葉を気にするまでもなく、彼は続ける。
 「今の君の声は誰かの声にもなれるよ。俺は君の声が聞きたいな」
 「何を…言っているの? 今のは私の声なのに……」
 嘘。
 今のは朱実ちゃんの声に真似た、その数段上のレベルの声。
 彼の言う通り、私の声じゃない。
 だけれど、素人である筈のこんな学生に、そんなこと分かる訳ないじゃない! それも初対面なのに!!
 「私の、私の声が、どこがおかしいっていうんですか、先輩!!」
 頭にきた、図星を言われて頭にきた。
 こんな気持ちは、幼い頃に彼と喧嘩した時以来だ。
 大島は呆れた様に私に言い返す。
 「つまりだ。君の声には心がない。俺達が欲しいのは意志ある声だ。そこには技術や技巧は付属物でしか過ぎない。だから伊藤さんの声を『真似た』君の声は、悪意すら感じる。高慢という名の、ね」
 「私の…私の声が?」
 心がない? 意志がないっていうの??
 「楽器を奏でるだけなら、パソコンでだってできる。それこそオーケストラですら一人で、でだ。同様に君の声は誰にでも出来る声だ。素体が良いだけに、高性能パソコンと同じだな」
 「んな!」
 椅子を蹴り倒す。
 侮辱だった、この私、新原 明菜にここまで言うとは!!
 そしてそれは、私自身が心の奥底で認めて、でも自分自身にも気づかせない為に隠していた事だったから……
 「っ!!」
 私は知らずの内に瞳に暖かいものを浮かべて、音楽室を走り出た!


 俺は溜息一つ。
 困った顔で斎藤が、やや怒り気味にカズが非難の視線を浴びせてくる。
 「まったく」
 俺は気付いていた、そして落胆していた。
 走り去った中村 絵梨の背中を追いかける様に、その場で廊下の向こうを眺めるがすでに彼女の姿はない。
 「昔の君の声は素敵だったのにな、結局あの時のケーナの音は伝わっていなかったし、今でも気づいていないということか」
 自分の無力さを感じた、今はただそれだけだった。


 自室のベットに私は倒れこむ。
 悔しかった。
 悔しくて涙が止まらない。
 どうしてこの私が、あんな素人にはっきりと言われなくてはいけないのだ??
 あの大島という男、私の事なんか何も知らないクセに、どうしてあんな事を言えるんだ?!
 ヤツの顔を思い出す。
 と、それは唐突だった。
 唐突に、過去の記憶が蘇る。
 私が慕った、兄のような人。
 引っ越す前日、彼が私にくれた手紙の存在を。
 私はまだそれが読めなくて、けれど彼から貰えた事がとてもとても嬉しくて。
 「そぅ、手紙!」
 私は身をはね起こす!
 そして押し入れを漁る。
 それはあった。幼い私は宝物にして、小さな宝石箱にそれを隠したんだ。
 薄汚れた封筒。
 私は震える手つきで封を切って、広げる。
 そこには拙い字で、こうあった。
 『えりとはぜっこうだ』
 過去の記憶がフラッシュバック!
 夕焼け空の下、私は怒っていた。
 彼が私を見てくれないから,私の声を聴いてくれないから。
 だから私は歌を巧くなろうとした。
 私を見て。
 私の声を聴いて。
 私だけを、私だけを見て!!
 何て強烈な個性だろう?
 何て我が侭な主張だろう??
 彼の奏でるケーナの音は、周り全てに染み渡る。
 対する私の声は、彼にしか届かない一方通行。
 私が眉をひそめた、あの視聴覚室での学生の練習とどこに違いがあろう?
 そんなある日、私は彼と喧嘩した。
 彼も怒った、そして次の日。
 この手紙を貰ったのだ。
 私はまだ文字が読めなかったけれど、彼が私を見てくれたことが嬉しくて、だからこの手紙を宝物にした。
 その翌日だ。
 彼に会う事が出来ぬまま、私は母と外国へと飛び立ったんだ。
 街を出るタクシーの中で、かすかに彼のケーナの’音を聴きながら―――
 「何だ、結局……」
 ぎゅっと、私は手紙を握り絞める。
 「結局、私は彼に見てもらえなかったんだ……」


 なにもしないまま、私は文化祭を向えた。
 逃げ道だった過去の思い出も、今では苦いものでしかない。
 私は彼に嫌われていたのだから。
 彼を私は、健兄ちゃんと呼んでいた。けれどももぅ、そんな事はどうでもいい事だ。
 全てを捨て去ったはずなのに、それで私は全てから解き放たれると思ったのに、今ではただただ心が痛くて重い。
 一体、私は何がしたいのだろう?
 一体どこに行こうとしているのだろう??
 そんな、答えのない問いを心の中で呟きながら一人。
 私は文化祭を観て歩いていた。
 そんな私の耳に音が届く。
 数日前に聴いた音だ。どこか引かれるその音へ、私の体は自然と反応していた。
 校庭の一角で、4人はライブを開いていた。
 風に乗って走る旋律は、私のささくれ立った心を優しく包みこむ。
 暖かな、とても暖かな何かを、心の中に残してくれる。
 私はけれど、奏者達を観る勇気がなかった。
 私をここまで突き落とす原因となった、大島と言う男を見たくなかったから。
 けれど、音に誘われ、私の視線は自然とステージの上の彼を見る。
 瞬間、彼と目が合った。
 私は視線を外せない。
 純粋で、まっすぐで、それでいて優しい彼の瞳。
 私は思い出す。
 ”彼だ、健兄ちゃんだ……”
 昔から変わる事のない瞳。安堵を与えてくれる深い深い瞳。
 同時に届く彼らの音。
 それは私の心の奥底に、届く。
 真っ黒で嫌な、汚い物ですら分け隔てなく包みこみ、受け入れてくれるような、そんな音律。
 奏でる彼らは実に楽しそうだ。
 聴いている観衆も、心地好さそうだ。
 朱実ちゃんの歌を通して、私は知る。
 私の悩んでいた事、その全てが途方もなく小さなコトであることを。
 だって、歌を歌うことに、意味なんかないんだから。
 そんなものを求めることがおかしいんだ。
 ただ、己の内から来る欲望のままにある者は音を奏で、ある者は歌声を放つ。
 理由などない、本能のままの魂の叫び。
 ただの叫びではない。相手を想い、同時に知り、楽しみを共有し合うことで得られる安堵と心の共有。
 それはとてもとてもシンプルな、人間としての行為だ。
 そして装飾のない歌声と音は、直接人の心に届く。
 それは自明の理。
 理由がないものに理由を求めて聞く者などいる訳ないから。
 「そうか」
 私は呟く。
 「これが『楽しい』ってことなんだ」
 頬が熱くて、右手で拭ってみた。
 涙が伝わっていた。
 純粋に、無造作に心に触れられたことによる涙。
 心からの声に優しく包まれ、得られた安堵と喜び。
 彼は――健兄ちゃんは私を見ていなかったんじゃない。
 ちゃんと私を見ていてくれた。全てを見ていてくれたんだ。
 私はそんなことに気付かないで、私だけを見て欲しい、なんて我が侭を言っていただけ。
 健兄ちゃんだけじゃない。
 皆、私のことは見ていてくれている。私のことを知っていてくれている。歌を通して、健兄ちゃんの気持ちが流れこんでくる。
 ”何が天使の歌声か,私ってばこんなにも鈍感”
 昔からそうだった。健兄ちゃんはこうして意思を伝えてくれていたんじゃないか!
 思い出す。私が初めて歌を歌ったのは、彼のその意図をケーナの音の中に読み取ったからと。
 だから私は歌で答えた。
 聴く者全ての意志と意志を混ぜ合わせ、お互いに知り合う。
 だからあの頃は楽しかったんだ!
 そんなことに気づいたことが発端。
 私の中で『それ』は首をもたげた。
 ”おかえしをしてあげなきゃいけない、ね”
 私は『それ』を教えてもらった。だからもっと『それ』を感じていたいし、そしてそれ以上にもっと沢山の人に『それ』を知ってもらいたい。
 教えてくれた人達にもっともっと『それ』を感じてもらいたいから……
 私を止める者なんていない、いや、このライブ自体、あらゆる人の中にあるはずの内なる声を覚醒させるきっかけだ。
 だから私は欲望のまま、かつての私がそうしたように―――
 ステージに上がった。
 『それ』――言葉にすることは億劫だ、言葉という縛られた文句にすることなんて出来るはずがない――を、私の微力でさらに高く広げることが出来るのならば、やらないことは罪にすらなるはずだから。
 僅かに戸惑った朱実ちゃんに歩みより、彼女の歌声に合わせて私の感性は、四人の音にもっとも似合う私自身の声を放つ。
 一瞬、会場がシンと静かになった。
 驚きと、私の声の正体に気付いた戸惑い。
 だけど、私はそれを恐れない。
 何故なら、そんな些事はどうでも良いから。
 健兄ちゃんがギターを奏でる。
 彼の音を補完する様に、カズ先輩が、斎藤副会長が、そして朱実ちゃんが己の中から本能のままに、互いに思い、思いやる音を紡いで行く。
 そして私も、私の心に従い、天使の声を放った。
 会場に歓声が、先程以上の歓声で満たされる。
 歓声は聴く者の魂の雄叫び。
 私が歌うのと同様、理由なき本能の行為。
 飾りなく、まっすぐに裸と裸の意志をぶつけ合った私達は―――
 一体となった。



 ―――彼女の声を聴いて、私は思い知った。
 言葉とは未熟なものだと,音律もまた未熟なものだと。
 そしてかつて私が彼女の声を『天使の歌声』と評したことも、あれも間違いだ。
 彼女の歌声もまた未熟だったのだ。
 大切なのは要素要素ではなく、それを一つにまとめて始めて評価されるべきである。
 放たれる声が美しいだけでは天使の歌声などではない。
 聴く者の心に自然と透過し、そして何か分からない暖かいものを残して行く。
 形のない暖かな何かを受けた者は、きっと隣人を愛するだろう。
 争いではなく、相互理解を誘発させる彼女の今の歌声こそ……
 今の歌声こそ、天使の歌声と言えるはずだ―――
  

作曲家・ホーリィ=マックエイト