心地好い関係


 彼女との出会いは、当時の俺としてはとても鮮烈でいて且つ、衝撃的だったと記憶している。
 なお、衝撃的といっても精神的である以上に言葉の示す通りに「インパクト」としての意味ではあるのだが。
 その衝撃で頭に障害が残ってしまったのではないだろうか? この俺がいつまでのこんな損な役割に甘んじているのは……
 あれは忘れもしない3年前の今日、大学の校舎でのこと。
 秋晴れの空の下、校舎の中庭でベンチに腰掛け、大空を見上げた瞬間だった。


 あるはずであろう、突き抜ける一面の青さはなかった。
 あったのは白いブラウスと、そこから僅かに透けて見える女性ものの下着,そしてふくよかと思われる双丘だった。
 彼は『それ』が一体何なのか、理解する事が出来ないままに落ちてきた『そいつ』に潰される。
 「うごっ!」
 くぐもった声と何やら骨がズレそうな致命的な音を鳴らせて、彼は大きく一つ痙攣。
 「ふぅ、危ない危ない」
 彼をクッション代わりにした『そいつ』は一人の女。
 白いブラウスに青いスカートを纏い、長い黒髪の間に覗く額には『一撃必殺』とか書かれたハチマキをしている。
 一見すると良家のお嬢様に見えないでもない彼女はしかし、その内側の活発さを似合わない外見から溢れさせていた。
 彼女は下敷きにした彼に気に止めるまでもなく上を――校舎2階の窓を見上げて右手の中指をおっ立てる。
 そこには殺気だった数人の男女の姿があった。
 「逃がさんぞ、昭島!!」
 2階から飛んでくる男の声に彼女はあかんべーをかまして立ちあがり……
 「え?」
 右手を掴まれていた。
 「何だよ、お前は一体……」
 掴んだのは下敷きにされた男だ。彼の持つ端正な容姿は異性からウケるだろうが、その為だろうか,やや軽薄な感じを受ける。
 空いた方の手で己の首をさすり、彼女の右手を掴んで睨みつけていた。
 「私? 私は逃亡者よ」
 「はぃ??」
 「なぁに涙目になってんのよ,男の子でしょ!」
 彼女はコツンと彼の額を小突き、と、迫り来る足音に目を向ける。
 「チッ! 逃げるわよ!」
 「へ??」
 彼は彼女の思わぬ強い力に引きづられ、うやむやの内に駆け出す事となる――


 あの時は俺が2年、先輩が4年だったか。
 『私を捕まえたら二万!』とかやってたんだよな、アレは。
 俺は思わず己の首をさする。しばらくは首を回せなかったのを記憶している。
 普段の俺ならば相手が女性であろうとブチ切れしていただろうが……先輩の笑顔とノリの前じゃ、うやむやになってしまう。
 今でこそ、なんでうやむやになってしまうのかが分かる。
 俺の気にするようなところは、彼女にとってはどうでも良い、些細なことに過ぎないから。
 ともあれ、それからだった。
 俺が先輩――昭島先輩にくっついて回るようになったのは。
 もっとも気軽に遊んでいられたのは先輩が卒業するまでの1年間だけだったが、その一年は俺にとって、とてもとても貴重なものだった。
 例えば何気なく校舎の屋上で昼ご飯を食べている時……


 「ねー、日比野くん。バンジージャンプってやったことある?」
 「ないっす……って勝手に人の足に縄をくくりつけないで下さいよっ!」
 「嫌よ嫌よも好きのうち?」
 「ちょ、ここは五階……うぎゃぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜」


 繰り返す気はないが、貴重ではあった。何度か命を落としそうにはなったがな……。
 突拍子もないことを平気でしでかす先輩に、俺は憧れを持っていたのだと思う。
 自由の風を纏い、楽しく微笑む彼女を見ることが、俺は嬉しくて仕方がなかった。
 好きな事をして退屈を嫌う先輩の性分は、きっとこの世の中では生きにくい性格に違いない。
 窮屈な世の中すら笑って弾き飛ばせる活力に、俺は惹かれていた。
 そして俺もまた、彼女の傍にあって共に窮屈な世の中を笑ってやろうとしていた一人だったんだろう。
 けれど……先輩が社会人となってからは俺は、彼女の哀しそうな顔しか見ていない。
 今も、俺の隣で先輩は泣いている。
 彼女のこんな表情を見る事が出来るのは、しかしこの世に俺だけだということを知っている。
 先輩の家族であろうと恋人であろうと、決してこの表情だけは見せる事はしない。
 『俺』だからこそ、見せてしまう顔。
 だから嬉しい様で、しかし哀しい。
 彼女にとっての俺の存在はとても深く、それ故に動かし難いものだから。
 俺にとっての『彼女』の存在も似たようなものなのかもしれない。
 と、思う。
 同時。
 彼女にこんな哀しい顔をさせたくない。
 その為には?
 思えば初めて出会ったあの時から、俺が掴んだ彼女の右手に引きずられていた。
 だが掴んだのは俺だ。
 俺が引っ張っても…良いんじゃないか?


 日比野くんにはいつも、こんな情けない姿を見せている。
 いつからだろう、私がこんなに愚痴っぽくなったのは?
 いつからだろう、フラれたくらいでこんなにも落ちこんでしまうようになったのは?
 いつからだろう、心の中で彼にもたれるようになったのは?
 私はこんなに弱い人間だったんだろうか?
 だが、これだけは言える。
 日比野くんとこうして話している時だけは、昔の気持ちを思い出せるということを。
 今日もまた、私は彼に昨日フラれた話を漏らしている。
 それを少し微笑んで聞いてくれる彼は、昔と変わらない。
 それで私は私を取り戻せる。
 思えば彼との出会いは衝撃的なものだった。
 衝撃的といっても、『インパクト』という点においてだが。
 しかしあの時が初めてだった,右腕を掴まれたあの時、初めて私は『捕まった』。
 それから、彼が私の心のどこかを占めるようになったのは確か。
 時に出来の悪い弟のように,時に信頼できる仲間に……
 そして、今は。


 「ねぇ、先輩。俺なら先輩をこんな風に泣かせたりしないよ」
 彼は笑って言う。
 さりげなく言ったつもりなのだろうが、意を決した言葉であることは彼を良く知る彼女には分かっている。
 彼女には彼の笑い顔が揺らいで見えた。
 目を瞑り、彼女は彼の胸に手を置いて……優しく押し退ける。
 「ありがとう」
 瞳から一雫の涙が頬を伝い、彼女は微笑んで続ける。
 「君に逃げたら、もぅ私の逃げ場がなくなっちゃうもの」
 「俺に逃げてくる日は、来るのかな?」
 「私は来ないで欲しいな」
 「うーん、酷いねぇ」
 「知らなかったの? 好きな子には酷い女なのよ、私は」
 クスリ,彼女に微笑みが生まれた。
 残酷なほどに優しい、穏やかな微笑みが。


 俺達はお互い心の奥底で気付いている。
 お互い、とうの昔に好き嫌いという枠を通り越している事を。
 それ故の、近づきすぎると壊れてしまう、繊細なガラス細工のような関係を。
 それを壊し、作り直す事は出来ても、作り直したものはありきたりな――とてもとても陳腐なものになってしまうということも。


 私達は悟っている。
 世の中がどんなに変わろうと、決して変わらないモノが心の中にはあるということを。
 それは変えようと思えば変わる形なきもの。
 けれど、変えてしまったら決して元には戻らない事を知っている。
 微妙なシーソーの上で成り立つ、波打ち際に建つ砂の城のようなモノ。


 俺は
   私は
 一歩も踏み出せず
   一歩も退きはしない
 それは臆病なのか
   それとも利口なのか
 いつまでかは分からないけれど
   まだしばらくはきっとこのままでしょうね
 …って、まったく酷いな、先輩は
   だからいじめっ子なのよ、私はっ!


そんな2人は
Friends ? or Lovers ?

BGM : ALBUM 『Verge』