この地球は丸いらしい。
しかし、それは果たして事実なのか??
本当のトコロ、ここから見える海の遥か水平線の向こうは大きな滝でそこから下は地獄につながっているんじゃないのか??
だって君は見たことがあるのか? この地球が球体であるという事実を。
え、写真があるだって? それは政府の偽造したものかもしれない、何でも情報を鵜呑みにするのは愚の骨頂だ。
ホントウはこの地球は、大地は、まっ平なのかもしれない。
僕は桟橋に腰掛け、思う。
この穏やかな海の最果てには実際のところ、何が広がっているのだろう?
一直線な水平線を見つめ、僕はいつもの通りにそう考えを巡らせていた。
前回……三年前の小学六年の終わりに決行した、題して『いかだで世界の果てへGO!』作戦は潮の満ち曳きの計算を間違えて隣の島へ付くという痛い目を見たが、しかし僕は諦めた訳ではない。
必ず、この水平線の向こうの世界を覗いてやるのだ。
……そう、思う。
単に空気が美味しいことしか利点のない、こんな田舎の中の田舎である半島から抜け出したいというのが本音ではない。まぁ、ちょっとはあるかもしれないけれど。
でも近々近所に都心へ一直線に行ける空港が出来るから、抜け出そうと思えばここからいつでも抜け出せる。
むしろ航空免許を取って、飛行機を使って海の彼方のその向こうを知ってやろうとも思っている。いかだではさすがに無理っぽいと最近になって思い始めたからだ。
「おぅ、カズ坊。釣れとるか?」
背中からの声に僕は思考を中断して顔を向ける。そこには眠そうな顔をした漁師のギン爺が俺の隣に置いたバケツを覗き込んでいた。
「なんでぇ、全然ダメじゃねぇか」
「まーねー」
垂らした釣り糸を軽く引っ張って、僕は気のない返事。
別に釣ろうと思ってここにいる訳ではないから、これで良いんだ。
そんな僕の返事にギン爺は溜息一つ。
「………またアホなこと考えとるんか? 半年後にゃ、お前さん高校生やろ?」
懐から取り出したキセルに火を当てながら、呆れた表情であろう,爺は呟く。
「大人になりぃ」
「んー、そだね」
「まったく」
爺の話を全く聞いていないことを当然察しているのだが、それを言いたくなるのが老人なのだろう。
と、その時だ。
「あ、引いてる」
手にした竿に力がかかる、これは…………
「大きい?!」
思わぬ力に僕は立ちあがる!
リールを巻き、竿を右へ、左へ。
「大物じゃのぅ」
背後に爺の声を聞きつつ、僕は思いきりリールを巻く。
バシャバシャバシャバシャ
海面が獲物の最後の力に荒れる,かなりの大物――1m以上はありそうだっ!
「それっ!!」
思いきり、カツオの一本釣りの様に引き上げた!
釣り上げられた魚は、己の水を叩く力も伴って宙を舞い……僕の隣、桟橋の上に落ちた。
大物だ,久々の!
僕は木造の桟橋の上でジタバタ跳ねる魚を見て、
「はぃぃ????」
思わず声をあげた,目の前の疑問の塊に向かって。
「おー、そこそこじゃな」
後ろではキセルを吹かせたギン爺が呑気なことを言っている。
「んな……なんだよ、これーーーー!!」
僕は獲物を指差す,とんでもない、信じられないモノに対して。
しかしギン爺の放った言葉は、さも当然といった,むしろそんなに騒ぐ僕の方に疑問を持つような調子だった。
「何って、人魚じゃろ」
遥か彼方のその向こう
「人魚なんか釣れるかーーー!!!」
「?? 何を騒いどるんじゃ、カズ坊。この時期はようけ釣れるがな」
「はぃーーーー?!?!?!」
ちょっと待て、僕。落ちつけ、落ちつくんだ,緑野 和房っ!
人魚なんておとぎ話の中だけだろう? 存在する訳ないじゃないか。
そうだよ、ギン爺も気が動転してアホなこと口走ってるだけなんだよっ!
「この時期の人魚は味噌煮込みにすると美味いじゃろが。特に胸の辺りに脂が乗ってて」
いや、この爺。目がマジだ。
僕は改めて釣り上げた人魚を見る。
上半身は人間,亜麻色の長い髪の間にカラス貝のような漆黒の瞳が覗いている。
胸の部分にはコンブが巻かれ、しかしその下はかなり薄いと判断。
下半身は海色の尾ひれが桟橋を叩いていた。
彼女は僕を見つめる―――唇に針,ってお前は魚のエサを食ったんか?!
当然、痛いのだろう。目に涙を貯めて僕を見上げていた。
年の頃は僕と同じくらいだ。いや、同年代の女子よりも大人びいて見えるし、かなりの美人だ、魚だが。
ふと横に目をやると、ギン爺が彼女の胸を見つめて一言。
「あー、脂は少なそうじゃなぁ。仕方ない、刺身にするか? カズ坊」
言って爺は、桟橋に止めてある自分の漁船からナタを取り出してきた。
「う、うぁぁぁぁ!!!」
僕は彼女の顔を掴むと針を手早く外し、海の中へと蹴り込んだ。
どばしゃ!
豪快な飛沫をあげて(胸の薄い)人魚は海へと帰る。
「なんじゃ、リリースするのか?」
「は、ははははは……」
乾いた笑いしか出ない。
「人魚は一年魚じゃから、リリースしても大きくはならんぞ」
ぶつぶつ言いながら漁船へ戻っていく爺の後姿を眺めつつ、僕はともあれ動揺した心を静めるために大きく深呼吸を繰り返すしかなかったのだった。
「むぅ………」
西の水平線がやや赤ばんで来た頃、僕は桟橋を立ちあがる。
頭の中は半時間前に起きた奇妙な出来事で一杯だ。
“人魚……いや、フツーじゃないだろ?? でもなんだ,ギン爺はまるで当たり前みたいに。ボケ……じゃないよな、あの爺さんはそんなヤワじゃない”
一応、前は見ているが心は詮索の海に静めつつ、僕は歩く。
僕の家は海から歩いて30分くらいの高台。
だから途中で『きっと僕もギン爺も夢を見てたんだよ、あっはっは〜〜』と自分自身に無理矢理納得させた頃に起こった次のことは、僕に結局追求させることを余儀なくさせる。
「あ、こんばんわー」
山へと続くさほど大きくない川――しかしここは田舎なので水はキレイだ――にかかる橋に差し掛かったときだ。
僕はサト婆さんが橋の上で川を眺めているのを見つけてしまった。
サト婆さんはギン爺さん同様、このあたりでは顔の広い御老人である。
「おや、カズ坊。釣れたかい?」
婆さんは僕のなりを見て、問う。それに対して僕は無言の苦笑いで答えた。
「ほれ、見てごらん」
婆さんは川面を指差した。僕は視線を下へと移す。
バシャバシャ!!
「あ……」
鮭だ。多くはないが、数十匹の鮭が川を上っていた。
「もぅこんな時期かぁ」
「そうだよ、カズ坊。よく見ておきなさい」
「え?」
妙に神妙な声の婆さんに振りかえる。
「どういうこと?」
毎年変わらぬ、同じ鮭の川登りじゃないか?
「これが多分、最後さね」
寂しく微笑みながら婆さんは背を向けた。最後って……どういうことだ?
「サト婆さん、ちょっとどういう……」
ばしゃばしゃ!
と、川面からひたすら大きな音が聞こえ、思わず顔を向ける。
「げ」
そして硬直。
川面から飛び出すのは海色の尾ひれと亜麻色の髪。
忘れようとしたのに、鮮やかに僕の脳裏に記憶をよみがえらせてくれるソイツは……
「人魚だ」
「カズ坊、人魚の川登りも今年が最後だよ。しっかり見ときなさい」
「って、サト婆さん!! まるで毎年同じみたいにっ?!」
サト婆さんは叫ぶ僕にふと小さく首を傾げると、何を言ってるんだかと言わんばかりに去っていった。
「え、えええ?? 毎年なのか、毎年こんなことが起こってるのか?!?!」
僕は混乱,川を上っていく人魚と小さくなるサト婆さんの背中を交互に見やり………
僕は河原に下りて人魚を追った。
満月のおかげで足元はよく見える。
僕は荒い息をつきながら、山間の小川に沿って歩いていた。
深さは1mくらいであろうか,月明かりに水飛沫をキラキラと輝かせながら鮭が上っていく。
そしてその鮭達の中に、一匹だけ人型が混じっている。
人魚だ。間違いない、僕の釣り上げたヤツだった。
そいつはひたすらに上へ上へと進む。その先に何かを求めるように。
僕はその白い背中を追う。足元が次第に大きな岩となり、渓流となる。
進みにくい、が、僕は引き離されないようにして追った。
彼女が何を追っているのか,海の生物(?)である彼女が何故、陸の奥深くへと進もうとするのか?
おそらくこのまま進めば、川の流れはなくなり彼女は泳ぐことは出来なくなりそして、死に至るだろう。
そんな彼女の姿は何かに似ているような気がした。
僕はそれが何なのか,彼女が何を求めて進むのか,それを知りたいと思うようになっていた。
人魚とは何なのか、それを知る以上に―――
足元の傾斜が結構キツイものになり、本格的な山の中の様相を呈してきた頃だった。
不意に……不意に視界が開けた!
川の流れは唐突に途切れる,小さな池となっている。
川の流れの在るべきところには巨大な水門たる5mほどの真新しいコンクリートの壁が立ちはだかっていた。
その壁から突き出た何本ものパイプから水が流れ出している。
「これは??」
僕は呆然と、川を断ち切るコンクリートの壁を見つめ、そして川面に視線を移す。
そこには鮭達と、そして人魚が一匹。
彼らが上るべき道は、ない。
サト婆の言葉が頭の中に不意に蘇った。
『これが多分、最後さね』
「こういう、ことか」
ギリと己で唇を強く噛むのを知る,コレはなんの為の水門なのだ??
と、僕は一つの視線に気づいた。
川面から顔を出して、人魚がこちらを見つめている。
彼女は右手を水面から出し―――
人差し指を水門のその向こう,水の流れの原点であるその向こうを指差した。
僕は理解する。
彼女は僕なのだと。
海の彼方のその向こうを目指す僕,水の流れの原点のさらにその向こう、陸の果てのその向こうを目指す人魚。
だから僕は………右手を彼女に差し出した――――
水に濡れたシャツの背中。
そのシャツ越しに人間と同じ体温が伝わってくる。
僕の首に回された細い腕は小さく震え、耳にかかる吐息は次第に小刻みに、荒いものへと変わる。
「もう少し、だと思うぞ」
僕は人魚を背中に担ぎ、山の斜面を登って行く。
背中の彼女はやはりエラ呼吸がメインなのか、空気中ではかなりきつそうだ。
すでに足元には川は無く、ごく普通の岩と木々の生える山の中だ。
鬱蒼と茂っていた木々は次第に薄くなり、月明かりが冷たい光を投げかける量は増えて行く。
斜面―――最後と思われる落ち葉の敷き詰まった柔らかな土に足を取られながらも、僕は登りきった!!
拓ける視界,降り注ぐ月と星の光。
頬を撫でる優しい風はある臭いを運んできた。
それと供に急速に眼下に広がる景色は………
舗装されたアスファルトの巨大な道と、幾台もの什器。油の臭いが鼻につく。
これは話題の、建設中の空港だ。
それを一望できる高台状の場所に僕達はいた。
「これが、川の流れを堰きとめて……」
そしてさらに川の原点をも潰してしまった。
人魚の努力は水泡に帰した訳、だ。
僕の夢である海の向こうのその向こう、それに続く道を進むために僕は使うであろう空港は、代わりに彼女や鮭の道を塞いでしまったのだ。
悔しいやら、悲しいやら、恥ずかしいやら,僕はとにかく苦しかった。
「なぁ」
僕は背中の彼女に声をかける。
気づいた。
彼女は全てを潰している空港など見てはいない。
遥かに上,夜空を見上げている。
僕は彼女をその場に下ろして、隣に座る。
人魚は僕に軽く微笑むと、両手を広げてまるで星空そのものを抱くかのように星を、月を見上げた。
その姿には、探していたものをようやく見つけた探求者の達成感がにじみ出ている。
「そう、そうか」
星明りに輝く彼女の姿を見つめ、僕は呟く。
僕は分かっていなかったようだ。
彼女が探していたのは水の――川の原点のその向こう。
すなわち空、果てはそのさらに上位。
星空に一番近いこここそが彼女の望んでいたゴールに、きっと最も近いのだ。
人魚は広げた両手を胸に,そして目を伏せて一時の黙祷。
彼女は顔を上げて僕を見る。
穏やかな顔だった,そして先程までの苦しそうな息遣いも存在しない。
まるで死を前にしたかのような、そんな雰囲気すらあった。
彼女は優しい瞳で、声にならない言葉を発する。
そう、人魚は声を持たないことはおとぎ話でも詠われている。
しかし彼女の唇の動きは音にならずとも、僕の心に伝わっていた。
感謝と、そして挑戦の念を含んで。
『次は貴方の番です、和房さん』
そして――――
人魚は死んだ。
昔、オレの爺さんは宇宙飛行士だったらしい。
んでもって、婆さんは人魚『だった』そうだ。
全く馬鹿馬鹿しい。いくらオレが小学二年生だって、そんな嘘は嘘だって分かる。
ってか子供扱いし過ぎだよ。
宇宙飛行士ってのは当時は凄かったらしいけど今はそうでもないから信じても良い。
でも人魚ってなんだよ、人魚って! そんなのいるかよっ!!
……とは言いたいけれど、見ているだけで恥ずかしくなるほど仲が良い二人にそんなこと言えるわけも無く、オレは笑って驚いてやった。大人だなぁ、オレ。
爺さんの田舎に遊びに来たオレは、特にやることも無く美味い空気を吸いに外へ出た。
キングオブ田舎だ、ここは。何十年も変わっていないそうだ。
オレは川にかかる橋の上で川面を見つめていた、と。
「あ、鮭だ!」
季節は秋,まさか生で鮭の川登りを見られるとは思わなかった。
数は多くは無いが、数十匹の鮭を眺めながらオレは……
ばしゃばしゃ!
「?」
一際大きな川面を叩く音に視線を向ける。
と、そこには――――
了