呼ばれて来てみりゃ、ここは異世界だった。
 「は、ははは。ははははは…」
 僕はただ乾いた笑いを表現するしか、なかったのは許して欲しいところではある。


呼ばれて飛び出て勇者様


 赤土剥き出しの地面には複雑怪奇な魔法円が描かれていた。
 それを取り囲むようにして数人の男女が中心に向いて、現れたばかりの人間を凝視している。
 ある者は驚きに目を見開き、ある者は??マークを顔いっぱいに浮かべて。
 ともあれ、その中心にはこの僕がいた。
 県立箕坂江高校2年2組。出席番号14番は前原 剣。
 学力は中の下,ルックスは……まぁごくごく普通(当社比)。
 詰め襟の学生服を改造することもなく、人畜無害ですよーということを精一杯アピール(特にガラの悪い同世代に)した、どこにでもいる高校生である。
 今日も今日とて、無事に一日を終えて帰路の最中だった。
 それが何故、どうして目の前にこんな光景が広がっているのか?
 まず僕の正面には禿げ頭の老人。人相は悪くて頑固オヤジっぽい奴だ。
 そんなジジイをきれいなお姉さんが背中を支えるようにして後ろに立っている。
 どうやらジジイがあんまり調子が良くないらしい。マラソンでもやった後のように激しい息をついている。
 そして僕の右手には神経質そうな初老の中年オヤジ。
 なんだか無駄に威厳のオーラを放ちまくっていた,身に付けている装飾品なんかを見ても偉い人のようだが。
 他は4人の男。こちらは兵士のようにみな同じ格好,腰に剣を吊るして甲冑を身に着けていた。
 さて、全体的に共通していること。
 服装からして中世ヨーロッパみたいなファンタジーではなく、どちらかというと古代中国のような世界観のようだ。みな和服みたいな……でも異なる正面で合わせる服装だから。
 「良くぞ来てくれた、異世界の勇者よ」
 威厳オーラ放出中の中年オヤジが魔法円の向こうからまず最初に言い放つ。
 あー、僕は勇者なんだー。
 ………って、今時のRPGでこんなセリフ吐く奴いねぇ!!
 「我が名は慧錬。この大国『清』の皇帝なり」
 とりあえず僕は今、取り扱い説明書が心の底から欲しかった。


 清王朝の北部には険しい山々が乱立する。
 その一番奥に不死山と呼ばれる美しくも険しい霊峰が存在する。
 麓は森の緑、霧の中に浮かぶ山肌は青く、山頂付近は雪に白い。
 太古よりその頂には不死の霊薬が存在すると噂されていたが、足を運べる者はいなかった。
 何故なら麓に果てしてしなく広がる森は樹海と呼ばれる地。
 亜人・魔物達の多く住む、人間が立ち入らざる領域であるからだ。
 だがしかし、霊薬の噂はこの一年に妙に信憑性を帯びてきた。
 理由は簡単。
 半年ほど前から不死山を拠点として魔王が発生したのである。
 魔王『紅』――暗黒の肌を持ち、赤い瞳、赤い髪を紅蓮の炎の衣の中に光らせる美しき青年。
 彼の細い腕の一振りで村は塵に帰り、一睨みで人の心は粉々に砕け散ると言われている。
 不死山にて何を発見したのかはっきりとはしないが彼の力は強力で、瞬く間に樹海の魔物を統率,亜人をもその支配下に置き、徐々に清王朝の領土を侵食し始めたのである。


 と、そこまでの説明を僕は魔法円の中から聞いた。
 自称皇帝はしゃべっている間に熱がこもってきたらしく身振り手振りが激しくなり、この話はうんざりした顔の老人によって遮られた形だった。
 「さて、異界の者よ」
 4人の兵士によって無理矢理っぽく後ろへ下げさせられた皇帝を一瞥した老人は僕を見つめる。
 見かけに似合わない鋭い眼光が僕を打つ。
 「この世界とは関係ないお主にこんな事を頼むのはおかしな話じゃが……魔王を討ってはくれぬかの?」
 その後ろでは心配そうな表情を浮かべたお姉さん。
 言葉はないが『助けてください』と言っている…気がする。
 しかし何の力もない僕が魔王なんかを倒せるはずが……いや、待てよ。
 「ねぇ、爺さん」
 「書院じゃ」
 「書院さん。呼び出されたって事は、僕にはなんてゆーか、その、特別な力とかそんなんがあるの?」
 上目がちに僕は書院と名乗る爺さんを見つめる。爺さんは「ふむ」と小さく頷いたかと思うと背後のお姉さんに目配せした。
 え、まじ??
 何の取り柄もない僕に特別な、選ばれた者の力が?!
 無茶苦茶カッコ良くないですか??
 背後のお姉さんはかなり困った顔をしたが、大きな溜息1つ、僕に向かって近づいてきた。
 やがて僕に触れられるほどの位置に来たかと思うと……
 後ろ手に隠し持っていた手斧を振り上げる!!
 「なぬーーーーー!!!」
 お姉さんは女性とは思えないほどの鋭い切り込みで、鈍い光を放った刃で僕の左肩から右脇腹までをざっくりと薙いだのだ!
 「いてててて!!!!」
 思わず叫ぶ,理不尽だ。なんで僕がいきなり死ぬんだ??
 シナリオ書いた奴、一歩前へー。歯を食いしばれーー。
 「痛いで済む傷ではないぞ」
 冷静な、そして醒めた書院爺さんの声に我に返る。
 む……痛くない。
 死に至る傷は痛いと感じる前に、生物としての防御反応で痛覚を遮断すると言うが。
 恐る恐る僕は傷を見てみる。
 「……なんじゃ、こりゃ?」
 僕の斧で叩き切られた傷痕は、まるで崩れたブロックみたいになっていた。
 喩えて言うなれば、そう。よくコンピューターの中に侵入する映画かなんかで、CGの敵を倒したときにボロボロになるモザイクみたいなアレだ。
 そして僕にできた傷のモザイクは瞬く間に修復。服すらも何事もなかった様に元に戻った。
 「まるでホントのテレビゲームみたいだな」
 「どうかな、異界の者よ? その不死という『力』で魔王を討ってはくれぬか?」
 「むぅ」
 これはすごい。
 敵はあくまで生物だが、こちらは何をやっても死なない無敵モード状態だ。
 勝てる、勝てるんでないかい??
 そして書院の爺さんは迷う僕を後押しする決定的な言葉をこぅ吐いたのだった。
 「時給2000円出そう」
 「是非やらせてください」
 ここに異界からの勇者様がこうして生まれたのである。


 書院の爺さんとお姉さん(娘さんらしい)は、元々皇帝の下で働いていた術者だったらしい。
 今は隠居して人里離れた森に住んでいるところを、皇帝自らが足を運んで僕を召喚。
 交渉を終えた僕は皇帝に従い、4人の兵士が守る馬車に乗り込んで森を後にした。
 馬車は程なくして見渡す限りの田んぼへ。
 「へぇ、土地は結構肥沃なんですねぇ」
 季節的に晩秋なのだろう、やや肌寒い。
 収穫を待つ頭を垂らした穂が風になびいている。
 「ふむ。我が清王朝は大陸の中でも雨が良く降るからのぅ」
 僕の前に座る皇帝もまた窓の外を見つめながらそう答えた。
 馬車は小さな村を走り抜ける。
 ちらほらと村の人達が見えた。みな、まるで時代劇に出てきそうな質素な昔の服装だが活気が感じられる。
 馬車が珍しいのか、こちらを指差したり、子供が追いつけもしないのに追いかけてきたりする。
 そして今度は林の中を走る道へ,やがて田んぼ、畑、村……その繰り返しが何回続いた頃だろう?
 「着いたぞ、勇者殿」
 「へ?」
 いつのまにか眠っていたらしい、馬車は大きな宮殿に入っていくところだった。
 堀と高い壁と二重に囲まれた巨大な平屋の建造物。
 中国か、平安時代の身分の高い者が住む建物のようだ。
 外は薄暗くなっている。3時間は馬車に揺られていたのだと思う。
 と、馬車が止まる。
 「さぁ、勇者殿。ようこそ、我が城へ」
 馬車を降りた先に広がっていたのは、博物館の中にいるような豪華絢爛な屋敷だった。


 その日は僕を歓迎する宴を催すと、皇帝は言って僕の背中を押した。
 通されたのは畳敷きの、巨大な一室。
 左右分けられた膳の前には、それぞれに40名ほどがすでに腰を下ろしており、僕と皇帝は並んで上座に腰を下ろす。
 僕の前にはみなと同じく料理の載った膳が1つ。
 異世界だからどんな感じのものかと思ったけれど、高級日本料理のようなメニューだ。
 あぐらをかく格好で腰を下ろした僕に、一斉に視線が集中した。
 ううっ、痛い、視線が痛い。
 隣で皇帝が立ち上がった。
 「皆の者、待たせたな。予言の通り、異世界より勇者殿に参上して頂いた」
 「「おおっ!」」
 どちらかというと喜び側のどよめき。
 そして引っかかるものがある。
 予言??
 「皇帝陛下、これで我が予言の通り、我が国は救われますな」
 右の列の筆頭に並んだ袈裟を纏った中年坊主は得意げに言う。
 ……人相がすんごく怪しい。
 「そうじゃな、我が知聖・考規よ。そなたの予言の通りに事は進んでおるぞ」
 隣の満足げな皇帝。そこに勺をする考規なる坊主。
 馬車の中で聞いたのだが清王朝には配下にそれぞれ特技に秀でた七聖なるものが存在する。
 書院の爺さんは引退前は王朝の知恵袋・知聖という位だったそうだが……この考規が彼の後を継いだと言うことになるのだろうか??
 見た目では権力争いとか大好きで、政治とかには良い働きをしない様に見えるのだが。
 まぁ、若干16歳の僕に人を見る目があるかと言うとそんなことないので、きっと気のせいなんだろう。
 と、その時である。
 「くだらない! 予言など、ただの法螺事ではありませぬか!」
 凛とした女性の声が浮き立った会場に水を打ったように響き渡った。
 「我が国の事はわれらが力で解決する事ではありませぬか? 全くの他人に頼るなど、そこまで自負心がなくなりましたか、父上?」
 声の主は白の上衣と赤い袴を着込んだ巫女姿の少女。
 片手に薙刀を携えて僕と皇帝の正面――遥か向こうの下座で立ち構えていた。
 「そもそも予言など、私欲に目の眩んだ者達が邪魔者を排除する為に仕込んだもの。それを頭から信じておるなど言語道断!!」
 「お控えなさい、妃巫女様。第三皇女であっても、して良い発言と悪い発言がある!」
 立ち上がり反論するのは知聖・考規だ。スキンヘッドに僅かに青筋が浮かんでいた。
 「それは貴方にとっての良い悪いではなくて? 考規」
 「控えなさい、妃巫女!」
 一喝は皇帝。しかし少女は瞳の力は強いままに反論。
 「ここでそこの勇者様が失敗しても、責任は呼び出した前知聖の書院殿。成功すれば予言を推した考規殿一派のもの」
 膳を越え、左右に居並ぶ重臣達の視線に目をくれる事もなく、こちらに近づきながら彼女。
 「前の予言の失敗は、結局失敗した翔巴様とその支持者に巧い事押し付けられましたものね」
 「前の予言?」
 そして僕と皇帝の前にやってきた少女は、僕の言葉に頷く。
 良く響く声とそこにこもる強さの通り、それを概念化したようなきりっとした目鼻立ち。
 きっと僕の世界にいたとしたら、委員長とか呼ばれているかもしれない。
 長い烏色の髪を簡単に後ろでまとめ、手にした薙刀は決して儀礼用ではなく実践用で通じるように鋭い光を放っている。
 「前の予言は『神おわす国の剣の象徴。全てはかの者に任せよ。さすれば道は開かれん』」
 「そして予言が果たされた事によって次の予言が生まれた」
 考規が続けた。忌々しそうに妃巫女がもう1つの予言――すなわち僕の事をそらんじる。
 「『遙かなる壁を越えた勇者,闇を蒔く悪しき者へ光を与えるであろう』 」
 何とも簡潔,何とも単純。
 「そして政を退いても未だに影響力のあり、希代の陰陽術師でもある書院殿に異世界から勇者を召喚させた」
 「それが僕」
 妃巫女は頷く。
 「で、前の予言は結果、どうなったの?」
 妃巫女は眉を寄せ…言いにくいのだろう、一拍を置いてから答えた。
 「我らは国家の武を司る剣聖・翔巴殿へ魔王『紅』討伐を命じました」
 剣聖の下に編成されたのは清王朝精鋭の侍が777名。
 しかし剣聖率いる討伐隊はしかし、その全てが樹海よりの帰らぬ人となる。
 殺されたのか,それとも魔なる樹海に飲み込まれたのか,はたまた紅の闇に魅入られたのか?
 誰もそれを知る事はない。そして以前より勢力の増大を続ける魔王は徐々にその勢力範囲を広げているのだ。
 しんと静まり返る宴会場。
 冷静に考えたら、大人数でかかっていった敵に対して巧く行かなかったのに、僕一人で何ができるのだろう??
 でも、まー。
 たった1つの、それがある故にきっと僕は何処でも大丈夫であろう事実をぼそりと呟く。
 「死なないし」
 「え?」呟きが聞こえたのか、妃巫女は怪訝な顔。
 「いや。まー、引き受けちゃったもんはしょうがないし。僕にできるだけの事はやってみるよ」
 「さすがは異世界の勇者殿! その勇気には感服いたしましたぞ!!」
 芝居がかった、無茶苦茶オーバーな態度で考規の相づち。
 同時に無理矢理この場を盛り上げようとする重臣達――賢いとは思えない反応だが。
 僕は隣の皇帝に視線を移す。
 彼は目の前の娘に一言。
 「こういうことだ。女が政に口を挟むものではない」
 一蹴。
 妃巫女は一瞬、悲しそうな顔をして、そしてすぐに鋭い表情に戻ると一礼。
 その場を足早に後にする。
 活気の戻った宴会場を見渡し、僕は他人のことながらこの国の行く末がちょっと心配になったりした。


 海に面した巨大な港町がこの清王朝の首都・河京だ。
 海外との貿易が盛んらしく、朝も早くから街の大通りには人と物がひっきりなしに行き来している。
 無論、車などはないので人力車や馬を使った交通だ。左右に整然と立ち並ぶ木造の家屋は古の平安京とか、そんな感じを彷彿とさせた。
 そんな町の景色を目の前に,城の門を背中に。
 僕は朝日に向かって大きく背伸び。
 すっかり旅装束を纏った僕の腰にはやや太身の両刃の剣『斬奸剣』。
 こういった攻撃力の高そうな武器はいろんなイベントを乗り越えて手に入れるような気もするが、旅立ちの段階で木刀とか棍棒を王様から手渡される勇者というのもおかしいものがあるので、これはこれでよし!
 ちなみに防具も、手に入る最高級な物を渡されたのだが、非力な僕には総甲冑は無理でした。
 そんな訳で機動性――何より最終的には山登りをするのだから、動きやすい物を取り揃えてもらった。
 和服に似た厚手のこげ茶色の服は薄手の皮製。なんか剣道をやった後っぽくて臭いが我慢だ。
 「行きますか!」
 両手で己の頬を軽く叩き、僕は冒険への一歩を踏み出した。
 「待ってください」
 いきなり背後から止められた。なんてゆーか、気分台無しだ。
 「はい?」
 振り返る、と、そこには昨夜の少女が一人。
 昨夜と同じ格好に加えて肩には小さな袋を提げている。
 「僭越ながら私もお供いたします、勇者殿」
 「とーとつに仲間GET?!」
 「はぁ?」
 呆れ顔の妃巫女さん。
 早いよ、展開早いよっ! 旅立ちと同時に仲間が、それも王女様だし。
 某暴れん坊王女ア○ーナみたいに腕力ありそうじゃないし…それはまぁいい。
 何より。
 「予言には反対してたんじゃないの?」
 すでに僕は街中に歩を進めながら隣を行く彼女に問う。
 「予言は予言です。赤の他人に最大の敵を任せて、己はのうのうと生きていられるほど、私は精神が頑丈にできていないもの」
 「…言うねぇ」
 苦笑。
 「でも足手まといにはならないでよ?」
 「あら、良く言うわね」
 心外、と言わんばかりに妃巫女さんは薙刀の柄を地面に一際強く叩き付けた。
 「むしろ私が貴方を守って上げる側だと思うけど?」
 「ほー」
 城から離れるにつれ、妃巫女さんの言葉遣いがざっくばらんになっていくのに気付きながらも、僕はあえてツッコム事無く足を進める。
 魔王がいるという、北へ北へと――――――


 旅路。
 僕は筆で描かれた清王朝の地図を見た。
 首都であるここは国の北部に位置する。目的の不死山は親指先程の距離。
 ………近いのか、遠いのか??
 縮尺が良く分からない。
 「もしも舗装された街道であるとして、歩いて10日と言ったところね」
 横から覗き込む妃巫女が告げる。
 「げ、馬車とは使おうか?」
 「北部へは交通が規制されていて、10日に一本くらいだったと思うよ、定期便は」
 「じゃ、馬を買って……」
 僕は懐の財布に触れる。結構な額が入っているはずだ。
 「それでも良いけど……でもまっすぐに魔王のところに行ってさくっと倒してくる気?」
 あからさまに馬鹿にした顔で彼女は問う。
 「倒せないとでも?」
 「無理ね」
 即答。
 まー、そうか。でも僕はこの世界では不死身!
 それを彼女はまだ知らない。だから僕はやや意地悪して問う。
 「それは前に出撃した翔巳って人でも敵わなかったから?」
 その言葉に彼女はジロリ、僕を見て、そして疲れたように溜息1つ。
 「ええ。彼は強かった。剣の一振りで並みの兵士なら10人は倒す事ができる」
 「一騎当千かい!」
 あまりにもオーバーだ。
 「そうよ、剣聖だもの。あの巨岩すら」
 言って彼女は道端に埋まる長さ5mはあるごつごつした岩を指差す。
 「さくっと両断するわよ」
 「……まじですか?」
 僕は岩の前へ。
 こんこん、叩いてみる。
 「堅いな」
 「当たり前でしょ?」
 試しに腰の剣を抜いてみた。
 昼の鈍い日の光を照り返すそれは…重い。
 「うう…」
 振り上げる、重さに思わずよろける。
 岩に剣を振り下ろした。
 がつ
 じーんと、堅いものを打った振動が両腕に伝わった。
 「痛い…」
 ちなみに岩には剣の傷がちょびっと付いただけだ。
 「無理だろーーーー!」
 「無理じゃないもん!!」
 力一杯否定する僕に、彼女もまた力一杯否定。
 お互い荒い息を吐き、そして同時に大きな溜息。
 「…その翔巳って人、怪物だな」
 「違うわよ、付いていった777人の侍もこれくらいできたもの」
 「あー、そうですかー」
 アレだ、きっと物理的なものじゃなくて魔法みたいな技だ、それは。
 「えと、確か『気』って言ってたっけ……」
 「うさんくさっ!」
 暴利を貪る新興宗教みたいだぞ、それ。
 「黙れ、異世界人」
 妃巫女の水平チョップ。
 「まぁ。この清王朝の武の象徴達が向かっていってダメだったのだから、貴方が逆立ちしても無理っぽいわねぇ」
 「同情っぽい目で見るなー!!」
 結構ずけずけ物事を言う女だ。
 僕は剣を収めて先に進む。その後を妃巫女が追う。
 しばらくして。
 「なぁ、一応アンタは皇帝の娘なんだろ?」
 「何よ、改まって。王女様とお呼びっ」
 何気にノリノリにもなるようだ。僕は構わずに気になった事を続けた。
 「一応、大義名分があるにしてもお供も無しに無茶な旅ってのは止められないものなのか?」
 妃巫女が背後で足を止めたのが分かった。
 僕は……足を止めて振り返る。
 「予言は道を開く…ってね」
 顔を上げ、皮肉っぽくいう妃巫女。昨夜もそう言っていたな。
 「それに私は今、結構煙たがられていてね。もしも『帰ってこなくても』、それは心配しなくても美談に仕立て上げられるわよ」
 成功してたら予言は果たされる事になる。
 妃巫女にとって何もしないのが一番良いはずだ、頭が良い彼女にそれが分からないはずはない。
 性格的に、なにより魔王に対して何もしないのが歯がゆかったんだろうと思う。
 けれどそれだけでこんな危険な事をするとは思えない。
 彼女の背を押す何かが、後1つ何かがあるに違いない。
 それを僕は感で察した。
 「翔巳って人、好きだったの?」
 言ってから、ゴシップ好きな奴みたいで後悔した。
 「嫌いじゃないよ」
 寂しい笑みを浮かべて僕の隣を歩き過ぎる。
 今度は僕が彼女を追う形になった。
 「お姉ちゃんの……あ、第二皇女ね。その婚約者だったの」
 前を行く彼女の表情は分からない。
 「お姉ちゃん達とは私は昔からなんか仲が悪かったけど、あの人は私に妹みたいに接してくれたわ。今思うと初めての家族だったのかも、ね」
 家督争い…なんだろうか? それを知った上ならば、翔巳という男は余程の良い奴か、バカかのどちらかだ。
 「だから。古いけど敵討ち…みたいな?」
 振り返る妃巫女。
 そこには何かを乗り越えた笑みが浮かんでいた。
 「そか」
 僕は無意識に、腰の剣の塚に手をやっているのに気付く。
 このゲーム、そろそろ真剣に解いていかなきゃいけないなと、心に誓いながら―――――


 夕暮れに差し掛かる頃、街道の向こうに明かりが見えた。
 「宿場町よ。今日はあそこで宿を取りましょう」
 「作戦も練らなきゃな」
 「……作戦ねぇ」
 妃巫女の苦笑いは何を意味しているのか分からんでもないが無視。
 と、街道を不意に2つの影が立ちふさがった。
 「何だ?」
 2mほどの壁…ではない!
 2体の巨漢!
 「鬼よ!」
 いつのまにか僕の背後で叫ぶ妃巫女,逃げ足は早いようだっ。
 正面で僕達を通せんぼするように待ち構えているのは腰ミノ一枚と棍棒を肩に担いだいかつい顔の人型怪物。
 僕はコイツを知っている,よくファンタジーなゲームとかに登場する食人鬼――オーガとかいう奴。
 「よし、初戦には申し分ない!!」
 僕はよろめきながら腰の剣を抜き放って構えた!
 「その根拠のなさはさっぱり分からないけど、とにかくすごい自信ねっ」
 妃巫女の奴が更に後ろに下がった気配があった。
 ……まぁ、分からんでもないが。
 「とりゃーーー!!」
 僕は鬼に向かって飛び掛かる!
 余裕の態度で迎撃する鬼2人。
 一体の棍棒が僕の頭を横殴りにして吹き飛ばし、もう一体の蹴りが僕の下半身そのものを吹き飛ばした!!
 「伝説の勇者、ここに散るっ?!」
 さすがに動揺した声が妃巫女から上がった。
 同様に僕もここまでさっぱり手におえない事に驚愕。
 ゲームバランス無茶苦茶やんけ! もしかして途中でもっと雑魚と戦っておかなくちゃいけなかったのか?!
 風に散り散りになる僕の体は時間とともに瞬時に復活!
 「あ……」
 思わず声を上げた。
 バラバラに吹き飛んだ僕の遺体(?)を無視して妃巫女に向かおうとしていた2体の鬼はそれに気付いてこちらに振り返る。
 僕は頭だけ、地面に落ちていた。
 下半身が鬼に向かって駆け寄り、頭と下半身の間で腰から腕の辺りが剣を掴んでもぞもぞと動いている。
 「「ギニャーーーーーーーーー!!!」」
 鬼達&妃巫女の悲鳴が重なった。
 しっぽを巻いて逃げ出すオーガ達。
 へなへなと腰を抜かす妃巫女。
 そして……
 「もうちょっと右…そこそこっ」
 遠隔操作するように、ようやく上半身と下半身を合体,最後に頭を拾う僕がいた。
 なんとなく分解されたロボットの気持ちが分かったような気がする―――――


 「これは使えるかもしれないわね」
 小芋の煮っころがしをひょいと箸で摘まんで妃巫女。
 「まー、僕の切り札がこれだし」
 ひじきの和え物に舌鼓を打ちながら、僕は茶碗の中のご飯をぱくついた。
 宿場町の、数ある宿のうちの1つ。
 その食堂で僕達は晩御飯を摂っていた。
 お客の数は言うまでもなく少ない,魔王がなんだと騒がれている昨今、この方面へと旅するのは無謀と言えるのだから仕方あるまい。
 「死なないっていうのが勇者の唯一の能力ってことね」
 唯一は余計だと心の中でツッコミながらも、僕は黙々と箸を進める。
 「でもそれだけじゃ、魔王に拮抗できる力には当然なり得ないわ……ああっ!!」
 まじめな顔でそう呟いた彼女は、最後にオーバーとも思えるリアクション。
 「私の大好物の煮っころがしがぁぁ!!」
 「へっへっへ,贅沢育ちのお姫様はこれだからトロいんだよ」
 箸に摘まんだ最後の小芋を僕は口の中に放り込む。
 「誰がトロいのよー!」
 「あ!」
 言ってひじきの和え物の盛られた皿を妃巫女は強奪,一気に口の中に流し込んだ。
 「食べ方が卑怯…もとい下品だぞ!!」
 「あー、おいしー」
 リスのように両頬を膨らませて妃巫女。
 僕の非難を無視,むしろ神経を逆なでする態度だ。
 「そうくるとは……でや!!」
 「ああっ! 若鳥のから揚げがっ,ちくしょーー!」
 「のぉ! 僕のあんかけサラダがぁぁ!!」
 とても醜い争いは、しばらくの間続いたのだった。


 日本茶の香しい香りに心を落ち着かせる。
 この世界は不思議だ。異界のはずなのに何故、日本茶があるのだろう??
 まぁ、異世界だから。と、そんな説明で自分自身を納得させつつ。
 「魔王打倒には仲間が必要だ」
 前向きな意見を述べてみたりする。
 「そりゃそーでしょう。私達2人でどうにかなると思ってたの?」
 隣でお茶を啜りながら妃巫女が冷淡に言った。
 僕は付け加える。
 「少なくとも……飯くらいは落ち着いて食う事のできる、信頼のある仲間だな」
 「あー、それは確かにそうね」
 ずずず……
 ずずず…
 お互い無言な時間がしばらく続く。
 「食事と信用についてはこれからゆっくり築き上げていく事にしよう」
 「そうね」
 「で、だ」
 僕はコトリと湯飲みを机の上に置いた。
 「この辺で腕利きの戦士とか、そういうの聞かない?」
 「さっぱり」
 ずずず……
 ずずず…
 結局、北へ至るまでの道で僕の戦いに対する免疫力アップ、及び腕利きの戦士の情報収集を行う―――今後の決定事項はその2点に、今夜のところは留まる事になった。


 木々の葉は赤く染まり、そして散り行く。
 そこだけを見れば、ありきたりの秋の季節だ。
 しかし現実は異なる。着々と北にある霊峰・不死山から伸びる魔王の勢力にこの大地は脅かされつつあるのだ。
 僕はほんのちょっと、視線を上に上げてみる。
 木々の間に覗くのは、遥か遠くに見える蒼い影。
 日本で見る事ができる富士山そっくりの、そして目的地でもある不死山の姿だ。
 「なんとなく、冷えてきたかな」
 先日の宿場町で購入した外套の胸元を合わせて僕は呟く。
 「この世界に来て、もぅ4日かぁ」
 なんとなくセンチメンタルになってみたり……
 「あほぉ!! 何やってのんのよぉぉ!!!」
 背中から飛んでくるヒステリックな女の声にそれは邪魔された。
 溜息を吐きながら振り返ると、そこではパニックに陥った小鬼(コブリンというらしい)達に殺到されている妃巫女の姿がある。
 「何って……下半身の再生を待っているんだけれど」
 今の僕は普段の等身の半分。腰から下は先程、小鬼達にフクロにされた為、ぼろぼろになってしまったのである。
 現在、僕の隣でブロックを積み上げていくかのように再生中だ。
 それを見て小鬼達は恐怖にパニックとなってしまい、今の状況。
 この3日間、こんなことばかりで僕の右手に握られた斬奸剣は土や岩しか叩いていない現状である。
 ……このまま敵を倒さないままにボスに辿り着いてしまいそうで恐いぞ。
 「あー、もぅ!!!」
 妃巫女は両手に構えた薙刀を横に振り下ろす,同時に3つの悲鳴。
 一度に断ち切られた小鬼が3匹、その場に骸となって転がった。
 「南無〜〜」
 散り散りになって逃げていく残りの小鬼達を見送りながら僕は呟いていた。
 そこへぷりぷり怒りながら妃巫女。
 「あー、もぅ! ほんっとに相手を驚かせるしかできないのね!!」
 「そんなに誉めるな……」
 「誉めてねぇ!!」
 僕の言葉が終わる前にツッコまれた。
 「アンタなんかが、その斬奸剣を持つくらいだったら翔巳が持っていた方がどれだけ……」
 ぶつぶつ呟く妃巫女に僕は首を傾げる。
 「なぁ、この剣はそんなに威力があるの?」
 「ええ。もっとも持ち主の心技体が優れていないとなーんの意味もないけどね」
 「なるほど。まさに僕が持つのにぴったり…」
 「んなわけあるかー!」
 後ろ頭をど突かれた。
 「と、冗談は置いておいて」
 「冗談にしては痛いけど……」
 「……その斬奸剣は持ち手の心の強さに強く影響されると伝えられているの」
 プイと視線を逸らして妃巫女は続けた。
 「それを持つ者がどれだけ相手を滅ぼしたいと願うか……その思いの強さに応じての破壊力が生まれる。けれど」
 「その破壊力は強ければ強いだけ、持ち主に跳ね返る打撃力が大きい、とか言うの?」
 「なんでそれをっ?!」
 びっくりした顔で妃巫女。
 ……定石ですがな、その手の話は。
 「でも使いこなせなけりゃ、意味はないけどねぇ」
 下半身の修復を終えて僕は剣を鞘に戻す。
 その時だ!
 がさり……
 背後の茂みがざわついた。
 「「!?」」
 身構える僕と妃巫女。
 茂みから姿を現したのは……
 ずんぐりむっくりした体格の、真っ白なひげを胸の辺りまで伸ばした大斧を担いだ老人。
 背丈は僕のへその辺りまであるだろうか?
 しかし、子供と呼べるものではない。むしろ人間以上にがっしりした体格に見える。
 「土竜族…」
 かすれた声で妃巫女。
 「土竜族?」
 「ええ。人ではない、妖精に近い種族よ。でも妖怪とも異なるから亜人とも言われているわ」
 土竜族――ドワーフと他国では呼ばれているらしい――彼はいかつい顔をニタリとしかめて僕達にこう言った。
 「そなたが最近、妖達を騒がしていると噂の不死人か」
 「え?!」
 僕の事らしい。
 「ゆ、有名なの? 僕は??」
 それに彼は深く頷いた。
 「首が飛んでも生き返り、叩き潰しても死にやしない。清に住む妖なら、誰でも知ることとなった噂じゃ。奥様達の井戸端会議にも、妖の子供達の間の学校の怪談にもなっておるくらいじゃ」
 ……有名になるのも考え物だ。
 「で。アナタはその噂の人族の勇者様を倒しに来たって訳?」
 薄く笑って妃巫女。かなり恐い。
 おそらく想像力豊かな彼女の事、それに付随する自分の噂がろくでもない事を思って頭に来ているのではないだろうか?
 土竜族のおっさんは妃巫女をチラリ、見て……そして視線を外す。
 「え……ちなみに私の噂は??」
 「そ、そんなことよりも!」
 おっさんは僕に向かって叫ぶ,妃巫女の詮索を避けるかのように。
 「ねぇ、私には噂はなかったの?! ちょっと、どういう噂なのよ、ねぇ!!!」
 土竜族のおっさんは妃巫女に胸座を掴まれて、ガクガクと首を揺すられる。
 「はぅ、噂も何も……特に噂などはっ」
 「嘘おっしゃい! 私の目を見て言いなさいっ!」
 「言えません、ごめんなさい、ワシからはとてもとても……」
 「むきーーーー!!!」
 首を絞められる形となった土竜族のおっさんは、そして気を失う事となった。
 ちなみに首がほとんどない事で有名な土竜族の首を絞め落とした事で、妃巫女の妖達の間での噂はさらにエスカレートしていくだろうと……思う。


 「ワシの名はヴァルダ=マーナ,樹海の暴れ斧使いと聞けば分かるじゃろう?」
 ふるふるふるふる
 残念ながら僕と妃巫女は同時に首を横に振った。
 ってか、名前、なんて言った??
 顔で笑って背中で泣いている土竜族が目の前に。
 「えと、我流打さん?」
 妃巫女は暴走族みたいな当て字で言う。まぁ、会話では文字表記されないから良いのかもしれないが、これは文化の違いというやつなのだろう。
 「私達に何の用?」
 妃巫女の問いに、ふむ,彼は頷き、続けた。
 「ワシは魔王『紅』を倒そうと思っておる。そこでお主等の力を借りたいのだ」
 一際大きく、森の木々の葉擦れの音が聞こえたように思う。
 この我流打が、魔王の手の者でない証拠はない。はっきり言って得体が知れない。
 そんな奴と一緒に行く事ができるだろうか?
 しかし、体格といい、肩に担いだ馬鹿でかい斧といい、戦力には十分なりそうだった。
 「一つ、聞くわ。その答え次第で一緒に行くかどうかを決める」
 神妙な面持ちで、妃巫女が我流打に問うた。
 そして彼女は僕を見る。僕は深く頷いた。
 ゴクリ
 我流打の唾を飲む音。
 「質問よ。アナタは私達と一緒に魔王に臨んで、どうやって戦うつもり?」
 それに土竜族は深く頷き、僕と丸い人差し指で指差す。
 「そいつを盾……ってか、おとりにして」
 「合格!」
 「なんでやねーーーーん!!!!」
 しかし僕の意見は尊重される事なく、妃巫女と我流打は深い握手を交わしたのだった。
 こうして土竜族の戦士・我流打が仲間に加わった。


 街道はすでに街道らしさを失っている。
 樹海を貫くこの通りは、魔王発生以前はそこそこの交通量があったそうだが、今ではその面影もなく樹海に飲まれようとしていた。
 僕がこの世界に来て6日目。
 我流打のお陰で僕が盾,我流打が攻撃,妃巫女が癒しという構図ができつつある。
 ……こんな情けない主人公は存在して良いのか? ってかゲームバランス滅茶苦茶やん!
 そう愚痴をこぼしても良い頃、僕達は寂れた村を発見した。
 かつては宿場町であったのだろう,しかし今は魔王配下である魔物のせいであろう、所々破壊された、全く活気のない村だった。
 「ここが最後の宿場じゃろう。今夜はここでゆっくり休んで、明日からの樹海入りに備えるとしよう」
 我流打の提案に僕と妃巫女は頷く。
 村の中央通りを僕達は歩く。すれ違う人はいない,しかし崩れかけた家々からは人の気配がする。
 こちらを覗き見るような、脅えた視線だ。
 「??」
 「どうした、妃巫女?」
 「ん…これは?」
 彼女はその場にしゃがみこみ、足元の土に指で触れた。
 赤茶けた大地だ……いや。
 「血痕じゃな?」
 我流打の言葉に小さく頷く妃巫女。
 その赤茶けた染みは、ここから村の中心まで広がっている。相当量の殺戮が行われた結果だ。
 導かれるように僕達3人は村の中心へと向かう。
 程なくして辿り着いたそこには、破壊された噴水らしきものと、そして……
 「翔巳?!」
 妃巫女の乾いた呟き。
 甲冑に身を包んだ1つの石像が噴水に足をかけて立っていた。
 両手にそれぞれ1本づつ刀を携えた二刀の青年の彫像が。
 「翔巳…って?」
 憎々しげに虚空を睨む青年の像はまるで生きているかのようだった。
 それに駆け寄り、触れる妃巫女。
 「……石化の呪い、ね」
 忌々しそうに彼女は呟いた。
 「それも強力な…」
 「生きてるの?!」
 「ええ」
 頷く妃巫女。それは……ラッキーだ!
 翔巳という剣聖の強さは何度も彼女に聞かされている。
 この数日で我流打も申し分なく強いことは分かったが、いかんせん、戦力的に圧倒的に足りないだろうと思っていたところだ。
 「よし、ここはちょちょいと石化を解除だ!」
 「……」
 しかし苦い顔の妃巫女。
 「?? どうしたの?」
 「いえ……翔巳がここに1人でいる訳ないでしょう?」
 「?」
 「他に777人の猛者達も同行していたと聞いておる」
 こちらは我流打だ。
 僕は自然と足元を見た、そこには血の染みとなった赤黒い土。
 「ここで全滅させられたのよ、魔王にね」
 「こやつ、1人を見せしめのように残して、じゃな」
 僕は翔巳の事を知らないし、住んでいる世界も違うから考え方も予測できない。
 でも2人はこう思っているんだろう。
 指揮官であった彼一人、生きて戻る事など、決してできない。
 むしろ死んでしまいたいと思うに違いない、と。
 だけれども…
 「できるんだろう、妃巫女。我流打の傷も跡形もなく嘘臭い魔術で治せる君だ,石化くらい」
 だが彼女は返事をしない。
 「翔巳のこの石化の呪いを解くと同時に、彼が死に急ぐのならそれで良いじゃないか」
 「?!」
 驚きと怒りの背線で妃巫女は僕を睨んだ、構わず続ける。
 「それを決めるのは彼自身だ。敗北を受け入れて、なお魔王に立ち向かうっていう選択肢もある。でも」
 僕は身動き1つしない彫像を見つめた。
 美剣士と呼ぶにふさわしい、かつ勇ましい姿だ。
 むしろ僕よりも彼の方が勇者らしい。
 「でも、今の彼は、それすらも選択できない」
 妃巫女は軽く首を横に振り、そして僕に薙刀を押し付ける。
 両手で彼の心臓辺りに触れた。
 「アンタなんかに説教されるとは思わなかったわ,癪だけれど……翔巳だから、きっと彼にふさわしい選択をすると信じるから」
 呪を紡ぐ妃巫女。
 彼女の両手からは柔らかな光が点り、それはやがて翔巳の胸を中心に全身に広がって行く。
 ぱきん
 硬いものが割れた、そんな音が静かな村に響いた。
 「……っ」
 膝を折るのは妃巫女。荒い息を吐いてうずくまる。
 その前では立ち竦んだまま、抜き身の刀を構えた青年がいた。
 「……………くっ!」
 からん
 彼の両手からそれぞれ刀が落ちる。
 「くそぉぉぉぉぉ!!!」
 翔巳の怒りに満ちた叫びが暮れ始めた空に響き渡った。
 その余韻が森の奥に消える頃、彼は冷静さを取り戻して跪く。
 彼の目の前には呼吸が戻り始めた妃巫女。
 「ありがとう、俺に機会を与えてくれて」
 「翔巳……」
 軽く彼女の頭を撫で、翔巳は僕と我流打に向かって一礼した。
 「俺は清の剣聖・翔巳。魔王に向かう君達の剣の1つとなりましょう」
 その振る舞いの1つ1つが洗練されていて圧倒された僕達は、慌てて頭をぺこぺこ意味もなく下げていたのだった。


 壊れた噴水の縁に腰掛けた翔巳は、その時の様子を語った。
 彼と777人の猛者達は正確には魔王に倒されたのではない。
 魔王が放ったと『思われる』魔物達に倒されたのだ。
 倒されたという表現はおかしいかもしれない。
 圧倒的な力の差と、あらかじめこの地にばらまかれていた毒水のせいで侍達はほぼ無力化。
 そこを村人達を巻き込んで魔物達に蹂躪されたのだ。
 魔物達は村を荒らすだけ荒らすと森の奥へと立ち去った,そこにはどうも本能的な衝動しか見て取れなかった。
 「だから『思われる』なのね」
 「ああ」
 彼は頷き、続ける。
 魔物達を撃退、もしくは自然と散らせた後、彼は現れた。
 赤い月を背に、魔力に満ちた赤い髪の青年。
 魔王『紅』である。
 彼は僅かに生き残った侍を、それこそ指先一つで止めを刺して残った翔巳をまるで記念とばかりに石像にしたのであった。
 「勝てるのか……強すぎる」
 僕は唖然。レベルが違い過ぎはしまいか??
 「勝つ為にここまできたのじゃろ」
 「次は…勝ってみせる」
 我流打と翔巳。
 僕は妃巫女に視線を移してみる。彼女はおそらく僕と同じ表情……大丈夫か? という色を浮かべてこちらを見つめている。
 と、その時になって気が付いた。
 僕は、いや僕達は遠巻きに囲まれている事に。
 包囲を形成する一人がこちらに走り寄ってきた。
 右腕を包帯で吊った、僕の世界で小学生になるかならないかの男の子。
 彼は恐々と僕の隣の妃巫女を見上げ、そして問う。
 「あの紅い人を倒してくれるの?」
 妃巫女は頷きかけ、しかし僕に視線を向ける。
 つられるように少年の視線もこちらを向く。
 僕は…力強く、大きく頷いて微笑んだ。
 「ああ。僕はこの国の皇帝に呼び出された勇者だよ。きっと倒してみせるよ」
 少年と同じ視線にしゃがみ、答える。
 彼は嬉しそうに笑った。
 「お願いだよ、勇者様! 父ちゃんと母ちゃんの仇を、絶対にとってね!!」
 「え……」
 仇…って、この子は。
 「あ、ああ。取ってみせる、よ」
 僕は少年の頭を撫でた。
 僕の手に伝わるのは、彼の感触――さらさらした髪の感触と、それ越しに伝わる体温。
 違和感があった。
 僕の手に伝わるのは、紛れもない現実の感触。
 けれど。
 僕は、僕自身はどこか別の場所にいる錯覚がする。
 現実を現実として捕らえられない、そんな錯覚だ。
 そんな物思いに更けることはしかし、できなかった。
 「お願いします!」
 「勇者様!」
 「翔巳様っ!!」
 「魔王をこの地より祓ってください!」
 「家族の仇をっ」
 包囲――村人達のそれは僕達に一気に収束した。
 彼らの声を聞きながら、思う。
 勝てるのか???


 そろそろ中ボスとか出てきても良い頃だと思う。
 不死山5合目。
 「思い返せば、今まで『魔王の手下』とかそんな魔物に会わなかったなぁ」
 僕はふと思い出して呟いた。
 魔物には会った,しかしそれは統制の取れたものではなく、不死山から立ち込めているといわれている瘴気の影響で突然変異した動物のなれの果てや、従来の魔獣達だ。
 そういったものが増えていることが魔王の勢力が広がっていると噂される一端のようにも思える。
 ともあれ、
 「あ、飛竜っ!」
 妃巫女の叫びに空を見上げる,そこには直滑降でこちらに向かう身長10mはある竜の姿。
 迫り来る牙に僕は真っ二つに裂かれる!
 その間に翔巳と我流打のそれぞれの一撃が、竜の命を奪った。
 最後に妃巫女が僕の再生を早める癒しの呪を口づさむ。
 と、まぁ、こんな嫌なチームワークが出来上がっていたのだった。
 主人公の見せ場がないのは、おかしいと思うのです。


 硫黄の臭いが充満する。辺りには緑はなく、黒い岩や石が散らばるばかり。
 僅かに空気が薄い気がするここは不死山頂上。
 辺りには霧が立ち込め、遥か下に口開く噴火口からは現在進行で煙が昇り、紅いマグマが見て取れる。
 活火山なのだ、不死山は。
 結局僕達は魔王に組する者の抵抗らしい抵抗を受ける事なく、この地に辿り着いた。
 「どこだ、出てこい! 魔王!!」
 「今度は油断せぬぞ、紅!」
 僕と翔巳の叫びが霧の中に染み渡って行く。
 程なくしてその霧の中からうっすらと紅い染みが生まれた。
 「?!」
 僕達は各々構える。
 紅い染みはやがて人型を取り、そして実体を持った。
 紅いマントに、魔道師のようなぞろりとした紅い服。
 赤よりも紅く長い髪を背中に流し、唯一白い肌である顔は翔巳とは正反対の属性での美が伺える。
 男でありながら、そこに漂うのは魔性の美だ。
 そして閉じられた両の瞳が開く。
 その瞳さえも、真っ赤だった。それがニヤリと笑みの形を作る。
 「ようこそ、ここまで来てくれた。お茶でも呑むかい?」
 気さくな、それでいて油断できない気配を伴って彼は――魔王『紅』は僕達に言った。
 「ふざけるな! 何がお茶かっ!」
 激昂する翔巳。そりゃ、無理もない。以前に全滅を食らっているのだから。
 そんな彼をまるで無視して、魔王は僕に囁くようにして言った。
 「何故、僕を倒そうとするのかな? 僕は何も悪い事をしていないのに…何故殺そうとするんだい?」
 「ふざけるな!」
 叫ぶ翔巳に魔王はまるで無視。
 紅い瞳をじっと僕に向けて回答を待っている。
 僕は……
 「貴方が魔王だからだ。何もしていなくとも、存在事体が許されないものがある」
 「なかなか酷い事を言うね」
 「僕もそう思うよ」
 心底嬉しそうに微笑む魔王に僕はしかし、笑えない。
 彼は何もやってはいないのだろう,あえてやったとすれば、自分に襲い来る翔巳達の大軍団を、毒とはびこる魔獣を以って絶滅に追い込んだ事。
 それもまた、彼自身生き延びる為の手段でしかない。
 正当防衛なのだ。
 だが、彼の存在は周囲に瘴気をもたらし、それにより魔獣や魔物が活性化する。
 生まれながらの存在悪なのだ。
 そしてそれを、魔王自身も受け入れている。
 「嬉しいよ、異界からの勇者くん。そこのところで悩まれたりでもされたら、単に元の世界へ強制送還させるところだったよ」
 「「?!」」
 僕も、仲間達にも戦慄が走る。
 彼は前知聖・書院の行った秘術が使えるという事を言っているからだ。
 「僕は魔王。魔王『紅』。世界を紅蓮に焼き尽くす、炎の化身なり!」
 叫び、彼はマントを翻した!
 光が僕の胸を駆け抜ける!!
 「?」
 怪我はない。
 「魔王が魔王として勝つのか、勇者が勇者として勝利するのか,決着をつけようじゃないか」
 「望むところ! お前を倒す!!!」
 斬奸剣を構えて僕は言い返す。そこで魔王は嬉しそうに頷いた。
 「ああ。しかし君の『不死』ってのはズルいからね。さっきの光でその特性は無効化させてもらったよ」
 「え??」
 魔王が一歩前に出ている僕に駆ける,まるで風のような素早さ!
 背中にぞくりとした寒さを感じ、僕は後ろへ,仲間達のいる後ろへと飛んだ!!
 ひゅん
 空を切る音と、
 ずしゃ
 僕が一番後ろにいた妃巫女の隣で尻餅をついた音。
 「このっ!」
 「そりゃ!」
 接近した魔王に翔巳と我流打が、それぞれ双剣と大斧を打ち込む!
 が、それを魔王は華麗な身のこなしと、手にした勺杖を駆使して全てを避ける。
 「だ、大丈夫……っ!?」
 僕を見下ろす妃巫女の顔色が青く変わった。
 「どうし…痛っ」
 右の頬に僅かに痛みが走る,思わず手で触れてみるとぬるりとした。
 目の前に濡れた手を出してみる。
 赤い液体に手は僅かに濡れていた。
 ……血、だ。
 「ひっ!」
 思わず喉の奥から悲鳴が出掛かった。
 血は、僕の命そのものだ。
 これまで僕は、これを流す事無く戦いを見てきた。
 敵が流す血を,仲間が傷ついた際に流れる赤い血を。
 けれど、僕には無縁だった。
 無縁ある故に、僕は相手を傷付けるほども力がなく、その為に相手に流させた事もなかった。
 自分だけは死なない、ゲームのような実感の無さ。
 しかし今は―――
 死ぬはずのない世界で、死が身近に迫っている。
 「勇者よ、私を倒すのだろう? 何を惚けているんだ,さぁ、立ち上がれ!」
 魔王が2人の戦士の攻撃を避けながら僕に叱咤。
 「勇者と魔王の対決だ。掛け値なしの命のやり取りだ,もちろんお前は、それを承知で私を倒すといったのだろう,私を魔王と呼んだのだろう??」
 僕はいつしか小さく震えている自分自身を知る。
 踊る様にして攻撃をかいくぐる魔王を見つめ、その光景がまるで映画のように感じた。
 「アンタはここでじっとしてなさい! 私が守るから!!」
 「え…」
 妃巫女が言い、僕を守るように前に立ち塞がった。
 「邪魔だよ、君」
 魔王が軽蔑しきった声で勺杖を振るう,それは距離があるにもかかわらず、衝撃波の刃を生んで僕の前の彼女を切り裂いた!
 「妃巫女!」
 僕が伸ばした手は、しかし彼女を掴めない。
 白い上衣をじわりと赤く染めながら、彼女は僕の前に立ったまま。
 こちらに振り返る事なく、前を、魔王を凝視する。
 彼女から散った赤い血の飛沫が、僕の手の甲にポツポツと赤い染みを作っていた。
 僕の頬から流れる血と、同じ色の、同じ価値の血、だ。
 不意に麓の荒れ果てた宿場町を思い出した。
 そこで出会った両親を殺された少年。
 そう、『殺され』たんだ。
 それは眠る前に聞かされるおとぎ話のような、空絵事ではなくて彼にとっての真実。
 寝ても醒めても決して覆される事のない事実。
 その彼に誓った。
 「魔王を倒す」
 と。
 目の前の妃巫女は戦っている,己の国の為に。
 翔巳は戦っている,今は亡き仲間達の為に。
 我流打は戦っている,己の目的に従って。
 魔王もまた戦っている,己の生存を賭けて。
 全ては現実,ゲームではない。そう、ゲームなんかじゃないのだ!
 僕は勘違いをしていた。
 それは安全な所にいたから気付けなかった間違い。
 僕はこれまで誓った,少年にも、そして魔王に対しても。
 「倒す」
 すなわち命のやり取りだ。
 奪われるのが恐ければ、奪わなければ良い。
 奪わなければならないのなら、奪われる覚悟が必要だ。
 僕は奪う事を選んだ。
 大変な世界に足を踏み込んでしまったと、思う。
 何でまっかな他人の為に自分の命を懸けてやらなくてはならないのだろう?
 何かこの世界の勇者だ、何が平和を守るだっ。
 僕には何の関係もなかったじゃないか。
 そうなんだ、なんの関係もなかったんだ。
 けれど、関係を持ってしまった。
 「「ぐぅ」」
 声が重なって聞こえた。
 勺杖と、抜き身の右手を血の染めた魔王と、その場に膝を付く翔巳と我琉打。
 気丈に、こちらには魔王を来させまいと身構える妃巫女。
 僕は思う。
 勇者とか、この世界の平和なんか知ったこっちゃない。
 けれど、こいつらは僕の大切な仲間だ。
 少年との約束も、ある。
 全てをほっぽりだして、この場から逃げる事もできる。
 でも。
 僕は自らの命を賭して、この手を汚して魔王の命を奪ってでも、全てを解決したい。
 そう、強く強く、願う。
 どくん
 力強い脈動が聞こえた。
 どくんどくん
 それは僕の右手から。
 右手に握った斬奸剣から。
 僕は立ち上がる。
 右手に剣を、心に打倒の強い意志を構えて。
 立ち上がる。
 妃巫女に対して勺杖を振り上げた魔王の動きが止まった。
 その顔に歓喜の表情が浮かぶ。
 「おおお……うぉぉぉぉぉ!!!」
 斬奸剣を小脇に抱え、僕は魔王に向かって突撃をかける!!
 「だめ、今のアナタは不死身じゃないのよっ!」
 妃巫女の横を通り過ぎる際に、返答の代わりに小さく微笑む。
 「この、お馬鹿っ!!」
 彼女の叫びは背中に,声と一緒に援護魔術が僕にかかる。
 一段軽くなった体で、揺れる視界の中、魔王を捕らえる。
 奴もまた勺杖を振りかざし、こちらの到達を待っていた。
 勺杖には圧倒的な破壊の力がこもっている事が素人の僕にも分かる。
 と、
 「ぬぅ」
 魔王の注意が不意に横へ。
 飛来した2本の刀を勺杖で弾く! 刀は粉々に消し飛んだ,翔巳の援護だ。
 僕にはそれだけで充分だった。
 斬奸剣が慌てる魔王の胸に迫る。
 破壊力を失った魔王の勺杖は、斬奸剣の剣先が触れると同時、ばきんと鈍い音を立てて折れた。
 勢いは止まらない。
 「うぉぉぉぉ!!!」
 「くぉぉぉぉ!!!」
 魔王の左胸に斬奸剣の剣先が食い込んだ,真紅よりもずっと赤い液体が溢れ出す!
 「滅びろぉぉぉ!!」
 僕の叫びと心の声に応じ、斬奸剣から衝撃波が走る!
 それは直接、魔王の胸に届き、
 「ぐはっ!」
 彼は後ろへ――噴火口付近まで吹き飛んだ。
 僕は慌てて立ち上がる、が、斬奸剣に生気を吸い取られたかのように目眩がし、再びその場に倒れ込んでしまった。
 「く、くそぉぉ!! こんなものが僕に効くかぁ!!!」
 魔王の声が聞こえる,僕は地面にはいつくばったまま、視線を向ける。
 胸から血を流した魔王。
 そしてそこに走り込む……我流打?!
 「何を?!」
 「やめなさい、おっさん!」
 妃巫女の叫びは留め金にはならなかった。
 大斧を打ち捨てた我流打はよろめく魔王にしがみつくと、走り込んだ勢いそのままに噴火口に魔王もろとも飛び込んだ!
 「まー、一緒に行こうや」
 「やめろぉぉぉ!!!」
 能天気な土竜族のおやじの声と、悲痛な魔王のそれは灼熱の胎動の中へと消えて行き―――
 ごごん!
 地面が身じろぎするように動き出した。
 「動ける?!」
 「なんとか……」
 妃巫女に肩を貸してもらって立ち上がる。
 その傍らには脇腹を押さえた翔巳が、活動を始めた噴火口を睨んで一言。
 「終わった、な」
 「いや」
 僕は否定。
 「翔巳は剣聖なんだろ,これからが始まりだ。だから……」
 「この場はさっさと撤退ね。我流打のおっさんには悪いけど」
 嬉しいような悲しいような、複雑な顔で妃巫女。
 頷く僕も、きっと同じ顔をしていたのだと、今になってそう思ったりする。


 それからのことは何だかあまり覚えていない。
 魔王が消滅した事で平和が戻ったかというとそういう訳でもなく、野盗や魔獣なんかは相変わらず各地に跋扈しているそうだし、妃巫女の心配する通りに国の中枢部も国という名の妖怪が巣食っている。
 何より活動を再開した不死山による地震で各地に被害が出始めていたりもした。
 剣聖位に復帰した翔巳は頑張っているが、大きくて歴史のある国に限ってそうきれいになるものでもない。
 ともあれ、今回の一件は『見事予言が達成された』として評価されたようだ。
 そのお陰で妃巫女の立場は悪くなっているそうだが、そこらへんはまぁ、僕が口出せるものではない。
 なんとかフォローとして駆使した勇者としての立場も、魔王が消えてしまうと同時にたいしたものでもない目で見られるようになった。
 この世界にこれ以上長居するつもりはないので構わないが、あからさまなのが人間としての醜さを感じずにはいられない。こんなのを相手にしていく妃巫女が結構可哀相と思いつつ……
 「では、良いな?」
 「ええ。お元気で」
 書院と彼の娘、そして妃巫女の3人を見送りに、僕は魔法円の中に立った。
 翔巳は公務に追われてこれなかったそうだ,去り際にしきりに謝っていたのが彼らしい。
 「なに笑ってるのよ?」
 「いや、なんでも」
 僕は憮然と問う妃巫女に苦笑い。
 翔巳と言えば、彼は結構驚いていた。
 旅の間の,言い換えると僕と一緒にいる際の妃巫女の態度や言葉遣いにだ。
 普段、コイツは非情におしとやかで、言葉遣いも優しげでお姫様の見本らしい。
 多分、今まで猫かぶってきた反動なのだろうが……。
 一度で良いからそんな妃巫女を見てみたかったが、結局見れず終いなのが心残りだ。
 「ここで別れを惜しんで泣いてくれるくらいの器量があれば、ねぇ?」
 「さっさと帰った帰った」
 シッシッと彼女。どうやら思考が言葉に出ていたらしい。
 「行くぞ!」
 書院の呪に応じ、魔法円の縁からは光が溢れ出てくる。
 光の向こうに妃巫女がいる,浮かない顔でじっとこちらを見つめていた。
 やがて光は目も開けていられないほどのものになって行き……
 「ああっ、時給2000円だったよねっ!!」
 思い出す!
 が、遅い。
 僕の意識は光の海に沈んでいったのだった。


 目が覚めたら、いつもの寝床の中だった。
 「……夢?」
 眠気眼をこすって起き上がる。
 そのまま洗面所へ。
 鏡に映る、ぼーっとした己の顔を眺めて、そして眠気が吹き飛んだ。
 右の頬に張り付いているバンソーコー。
 それは魔王に受けた傷だ。
 「夢じゃなかったのか……」
 頬を押さえ、僕はしばし夢のような現実を回想した。
 しかし朝の慌ただしさの中、それはすぐに中断する事になるのだが。


 朝のHRは、いつにもなくざわめいていた。
 何でも、このクラスに転入生がくるらしい。
 それも可愛い女の子というのだから、男達は色めき立つと言うものだ。
 僕にしても、どんな子かを隣の奴と話していたばかりである。
 ガララ…
 扉が開く。
 そこに中年おやじのあだなで親しまれて(?)いる担任教師が登場。
 教卓に付き、ごほんと咳払い1つ。何か大切な事を言うときの癖だ。
 「えー、この時期には珍しいが、転入生を紹介する。仲良くするように。入ってきなさい」
 ガララ…
 再び戸が開き、そこにクラス中の視線と興味が集中した。
 もちろん僕も我先にと入ってきた子を見て、
 「「おおー」」
 歓声の多い中、僕は絶句。
 『彼女』はつかつかと教卓まで歩み寄ったかと思うと、黒板に自分の名前を書き、そして天使まがいの微笑みをこちらに向けてこう言い放った。
 「大部分の方、初めまして。生野 ヒミコと言います。時給2000円の為にこの学校へ転入しました、よろしくお願いします」
 自己紹介の後半は僕にしか分からない事だ。
 にもかかわらず、クラスのみんなは、ただただ歓声を上げるばかり。
 見かけに騙されおって……
 「まー、いいか」
 この世界は命の危険などほとんどない。
 そんな、この世界においては当たり前の事を思い返して、僕は軽く彼女に手を振ったのだった。


It's a Fablic another story.