二人三脚といふこと
駆け続けた先には、きっと求めつづけた人がいる。
アタシはそう信じて、ひたすら駆け続けてきた。
雨の日も風の日も、熱砂が襲い来る嵐の日だって、全ての物を覆い尽くすような雪の日だって。
アタシはただひたすらに、駆け続けてきたんだ。
早く,早く会いたい。だからもっと速く走らなきゃ、と。
アタシはこの日本を2年で駆け抜けた。
見つからなかった。
この国にいないことを知って、大陸に出た。
西から東、そしていくつもの海を渡って5つの大陸を合計5年で駆け回った。
全てを駆け抜けた果てにはしかし、求めていた人はいなかったんだ。
代わりにアタシは、全ての妖の中でダントツの速力を獲得していた。
それは結局のところアタシが目的を達するためには必要なものだったけれど、見つからないと分かった今はもはやどうでもいい能力だった。
能力だけじゃなく、全てがどうでもいいと投げやりになっていた時、アタシはその人間に出会ったんだ。
アタシはカマイタチ。名前は無い。
ついでに7年前から先の記憶も朧げだ。
7年前のアタシは人に造られた妖に操られており、犬神に助けられていなければもしかしたら今でも自我がなくちっぽけなイタチのような生き物として生きていたかもしれない。
犬神に助けられたアタシが覚えていたのは、アタシ自身がカマイタチであるということ。
そして兄と姉が一人づつおり、いつも3人で暮らしていたはずということだけ。
兄と姉はどこかで生きているという確信がある。それは今も変わらない。
だからアタシは自分の足で探すことにした。
助けてくれた犬神は独自の情報網があるらしくアタシに「無理してうろちょろするな」と叱ったけれど、アタシはじっとしていることが性には合わない。
都合良くアタシは風の如く駆け抜けることのできるカマイタチだ。
この足で世界を駆けていれば、いつの日かきっと兄と姉に会えると信じていた。
だからアタシは一心不乱に2人を求めて駆け続けた。
早く会うために、速く、速く。
けれど。
最後の大陸、人間達は「おーすとらりあ」と呼ぶその地。
世界のへそとして有名なエアーズ・ロックでとうとうアタシの足が停止した。
走りすぎて壊れたのではない。
疲れて動かないのではない。
そこで世界の全てを駆け終えたからだ。
ゴール、とも言う。
ゴールを経ても、兄と姉には会えなかった。
ゴールはまだ先なのだろうか?
まだ先だとしたら、アタシは一体あとどこを走れば良いのだろう??
失意の中でアタシは日本に戻り、命の恩人である犬神に会いに向かっていた。
彼は妖の中では七公神の一人と畏怖される能力と経験の持ち主で、別名「ソードダンサー」と呼ばれている実力者なのだ。
彼ならば、これからアタシが何をすべきか教えてくれる!
そんな期待を抱き、アタシは駆けた。そうして久しぶりに再会した彼は、
「散歩行くよー」
「わん」
人間の許で、ただの犬っころになっていた。
唖然とするアタシの前を、人間の女にリードでつながれて尻尾を振りながら駆けていく。
そこには妖気の欠片すらない。完全に普通の、どこにでもいる犬だ。
アタシに気づくことなく(人間のほうは当然だが)過ぎ行く2人を、アタシは呆然と見送るしかなかったのだった。
それからどこをどう駆けたのか分からない。
気が付くと人間達の「学校」という場所にいた。
白い身体を木の枝にもたれて、アタシはぼーっと校庭を見つめている。
視界にはスポーツに興じる16,7の少年少女達。
それを心無く見つめているうちに、アタシはその中の1つが妙に期になり始めた。
グラウンドの端から端。
直線200mあまりに白線が引かれ、一人の少年が駆けていた。
膝は腰の位置まで上がり、腕の振りも一定感覚のリズム。
フォームは悪くない。駆けることに関しては行き着いたアタシが保証する。
そんな彼はひたすら全力で駆けている。
その映像が視界の隅にずっと入っていた。
野球部の少年達が攻守交替する時も、サッカー部の選手達がハーフタイムに入ったり試合が終了する間も。
そう、何度も何度も。
「え…?」
思わず声が出る。妖でもないのに体力がもつ筈が無い。
アタシの視線は彼に注がれる。
彼は一心不乱にトラックを駆けていた。
他に何も見えないように。
ただ、ゴールだけを見つめて。
アタシは彼の向かうゴールに視線を移す。
そこには何もない。白線が途切れているだけだ。
けれども彼はゴールする度に元に位置に戻り、何度も何度もゴールを目指す。
そこに何があるのだろう?
彼は何に向かって一生懸命駆けているのだろう??
それが知りたくて。
アタシの身体は自然と、ひたすらに駆ける彼と併走していた。
アタシの今のサイズでは彼のかかとくらいの高さしかないが、人の子の駆ける速度程度など上を見上げながらでも何の問題もなく駆けることはできる。
駆ける彼を間近で見ると、その視線はただ前しか見ていなかった。
4回目の併走で、それがちょっと違うことを知った。
10回目の併走で、彼は『前だけを見ようとしつづけている』ことを感じた。
そうして、20回目の併走で。
アタシと彼の目が合ったんだ。
決して普通の人間に見えるはずの無い、妖のアタシの姿。
加えて風のように動けるアタシは、それについては半ば自負している部分もある。
それを、前しか見ていなかった少年の瞳がとうとう捉えた瞬間でもあった。
僕には、見えてはいけないモノが見えてしまう右目がある。
そのお陰で幼い頃からあり得ない怪我や病気、果ては異世界に連れ込まれて神隠しにあったりもしたものだ。
この右目は生まれつき備わっているもので、今でも苦労させられている。
高名な占い師によれば、僕の右目は妖精眼や邪眼、千里眼といわれるものの類であると言う。
この世に在らざるモノや妖怪の類、果ては人の思念までもこの目を使うと「見る」ことができるのだとか。
もっともそれは「鍛えれば」の話であり、その修行は過酷でありかつ普通の生活を送っていては得られないものだと聞いている。
故に僕は「封じる」方法を教わった。
占い師は言う。
「気にしないことです。そうですね、例えば一つのことに熱中してみてください。周りのことが気にならないくらいに」
こう助言を受けたのは中学2年生の夏の終わり。
遊びに行った海で、怨霊に危うく溺死させられかけた帰り道でのことだった。
とは言え、その頃の僕には熱中できると言えるようなものはなかった。
スポーツ少年でもなければ、ルービックキューブを瞬時に解いたりできる文科系でもない。
そこで。
取りあえず、走ることにした。それも短距離。
走ることはいつのまにか得意な部類に入っていたから。何故ならずっと逃げていることが多かったから。
それに全力で走りつづけていると、苦しさで周りが見えなくなっていくから。
だから僕は、短距離走を選んだ。
走って走って走り続け、周りを見ないようになっていった。
そして高校生となった今では、短距離走でレギュラーの座を獲得するまでになっていた。
走り始めてから4年目の夏。
周りを見ないようにしていただけなのに、いつのまにか僕を見る人が多くなってしまった、そんな夏の日。
僕は『ソイツ』と出会ったんだ。
風が頬を撫でる。
茹だった夏の空気を、僕は全力で駆けぬけることで切り裂いていく。
直線200m。
当然のことながら1分もかからない時間の中、僕の意識はただただ先だけを見つめる事ができる。
走りきる!
「うん、良いタイムよ、芳樹くん」
弾む声とともに真っ白なタオルが投げかけられる。
「ありがとう、楓さん」
タオルを受け取り、額を拭いた。走ったこともそうだが、この気温と湿度では存在しているだけで汗をかく。
「まだ走るの?」
「うん」
そう問うてくるのは日向 楓さん。陸上部のマネージャーで僕より学年が一つ上の三年生だ。
「熱中症で倒れるわよ」
ポニーテールの髪を揺らしながら、小走りにスタート地点へと戻る僕に併走してくる。
「大丈夫ですよ、水はちゃんと捕ってるから」
「ならいいけど。でも…」
「集中したいだけだから」
「…そう、ね」
僕の言葉に楓さんは小さく微笑む。
彼女は僕の遠縁に当たる人で、僕の「体質」については幼い頃からよく知っている。
受験で忙しい三年生なのにマネージャーとして付き添ってくれているのも、そんな僕を心配してくれているからだ。
「ありがとうございます。もうちょっと走ったら帰りますから、楓さんは切り上げちゃってください」
「ん……。じゃ、図書館寄ってから帰るから、5時に校門で待ち合わせしよ?」
「はい」
僕の頷きに彼女は微笑み、校舎へと足を向けた。
それを確認してから、僕はスタートラインにつく。
脳内で審判の「よーい」という声を再現。
「どん!」
と、声をイメージしたのと同時、クラウチングスタートから身を起こした、その時だ!
「!?」
遥か右手、グラウンドの端。
道路と校庭を区切る並木の中に、その気配が発生した。
おとなしく気配を殺してはいるが、とてつもなく大きな力をもった『何か』。
そこいらの怨霊や自縛霊など比較にならない、すでに段階自体が異なると思われる力だった。
右目がうずく。
そいつは何かを探しているのか、グラウンドを見つめている。
一体、この力は何だ??
思わず視線を向けようとして、しかし慌ててそむける。
ダメだ、見てはダメだ。気づいてはいけない存在だ。
怨霊にしてもなににしても、こちらが気づかなければ手を出してくることは無い。
彼らは人間が鈍感であることを知っているから。そしてそれ故に興味に対象ではないからだ。
だから僕は、ひたすらに足を踏み出した。
ただただ、ゴールだけを見据える。
周りに何があろうが関係無い。僕は走り続け、ゴールのその先だけを見つめていれば良いんだ。
だから僕は走り続ける。
何本、200mをこなしただろう?
いくら走っても走るのをやめようとは思わなかった。
走ることに慣れた僕の身体もまだ悲鳴は上げていなかった。
そして夏の茹だるような気温と運動量を以ってしても、僕の意識はまだ薄れていかない。
長距離ランナーにはよくある、ランナーズハイの領域に届かない。
理由は、とてつもない力の接近のせいだ。
そしてその力は、いつしか僕のすぐ傍にあった。視線は向けないが、「それ」は僕と併走している。
走っても走っても、いくら走っても、抜くことも抜かされることもなくぴったりと横についてくる。
一体何だ? 僕はコイツに気づいていない。僕はコイツを見ていない。
ただただ走って、ゴールの先を見つめているだけなのに。
ただゴールの先だけに向かって。
……ゴールの先、そこには何があるのだろう?
僕はどこに向かって走っているのだろう?
そしていつまで走り続けるのだろう??
マズイ!!
一瞬、意識が飛びかかった。
何十本目かのゴールを前に、僕は足を止める。
途端に一気に疲労が体を襲った。
思わず白く靄のかかりかけた視線を下に落とす。
そこで―――
目が合った。
リスよりも少し大きな、両手の上に乗るほどの大きさの白い動物。黒い大きな瞳が僕の瞳を映し出している。
その白い身体と同じ位の長さのギザギザの尻尾は、鋼鉄の刀のような光沢と鋭さを持っていた。
見たことの無い、動物だった。
いや。
それこそがずっと感じていた大きな力。
今まで僕が遭遇したどんなものより桁違いな力を持つ『なにか』だった。
少年の瞳はアタシを捉えていた。
普通の人間には見えないはずの、アタシを。
「!?」
本能的に身を隠そうと動こうとするが、しかしそれは叶わない。
何故ならアタシ自身もまた、彼をじっと見つめてしまっていたから。
「あ」
見上げる彼の瞳、透き通るような黒さを持つその右目に異変が生じる。
黒い瞳に映ったアタシの姿が一瞬揺らぎ、淡い黄金色に染まった。
途端、アタシは逆らい難い力に吸引される―――
足元でちょこんと座り込んで、その小動物のような生き物は僕を見上げていた。
邪気の無い小さな瞳には、呆然としている僕の姿が映っている。
と。
右目が疼いた。
それは僕の意思に従わない、本能の力。
自然とまばたきをしてしまうのと同じ、どうしても止められない力だった。
右目の視界が変化する。
一瞬、今まで抑えていたもの全てが解放された、そんな感触。
片目の視界だけが、足元の小動物に急速にズームインされる!
いや、違う。
白い妖が、僕の右目に飛び込んできたのだ!!
「ぐぁ!!」
「うぁ…」
目を通して脳に直接、ソイツは飛びこんできた。
まるで頭の中に自分以外の何かがいる、そんな信じられない状態。
その上で、ソイツは狭い僕の頭の中を右へ左へと大暴れしていた。
「ぐっ」
頭を抑えて僕はうずくまる。響く鈍痛に目を閉じた。
閉じた先、暗闇となるはずの視界に白い獣が突っ込んできた!
避けられない、いや、どう避けたら良いのか分からないっ。
ゴッ!
数瞬後、頭の中だけで響く音。
思考の中の僕と、頭の中の何かは互いに、盛大に頭をぶつけ合う。
結果、実世界の僕はコースに身を投げ出して気を失ったのだった。
目が覚めたときは、白い天井が視界に広がっていた。
少し遅れて楓さんの心配そうな顔が覗く。
「よかったぁ、気がついて。どこか痛いところは、ない?」
少しほっとした表情で彼女は問うてくる。
その間にここがどこなのかが分かった。学校の保険室だ。
「あ、ああ。大丈夫…です」
僕は左手で右目に触れる。特に何も異物らしきものは感じられなかった。
あの時。
小さなリスのような妙な動物が、まるで僕の右目に引き寄せられるようにして飛び込んできたのだが。
記憶はそこで途切れている。その原因は頭の奥を強く打撃されたような感触だった。
あれは一体なんだったんだろう??
「ダメよ、いくらなんでも熱中症には気をつけないと。この時期は特に暑いんだからっ!」
腰に手を当て、怒る楓さん。
熱中症?
…そうか、それは否定できない。
僕はあの時、走りすぎていて意識の半分が飛びかけていた。
僕が見ていたと感じていたリスっぽい生き物は、もしかしたら幻覚だったのかもしれない。
あんな奇妙な、それでいて力を持っていると感じる存在は考えつかない。
何より、僕の右目を『見た』怨霊といった類は、この目の力を求めて奪おうとするのだ。
もう一度、今度は右手で目に触れる。
たしかにここに『在る』。
「もしかして、また何か『視た』の?」
楓さんの呟くような小さな声。
それに僕は思わず小さく震えた。
「いえ、よく…分かりません」
「見せて!」
「!?」
楓さんの柔らかな両手が、僕の両の頬を力強く挟み、視線を彼女に強制的に向かせる。
まっすぐな視線が僕のそれと交わった。
真剣な表情の楓さんが、一瞬の後に眉根の力を落とす。
「……んー、特に異常はないみたい。ちゃんとした『黒い瞳』よ」
「そうですか」
告げた彼女の顔。なんとなくいつもと違って見えた気がする。
だから僕は、じっと楓さんの顔を見つめた。
「な、なに? 私の顔に何か付いてるの、芳樹くん??」
そうか、『異常がない』なんてことはない。
「あ、もしかして私の心を観ようとしてる??」
頬を赤らめ、慌てて楓さんは僕から手を放して顔を背けた。
そう、注意すれば人の心が読める僕の右目。
だからこそ、人をあまり見ないように習慣づけてきた僕だけれど。
今、楓さんの心が読めなかった。
彼女の端正な顔立ち、それしか視界に捉えることはできなかったのだ。
それは僕にとっては安心できる状態であり、しかし。
「どうなってるんだ?」
「っ、なっ、嫌よ、ウソだからっ! 今考えてたことウソなんだからねっ!!」
何故か目をそらして僕の肩をバシバシ叩く楓さん。
何で叩かれるのか、僕にはさっぱり理解できなかった。
見えないはずのものが見えない。
それは当然のことだけれど、僕はこの当然の事実に幸せを感じていた。
僕の『右目』が力を失って3日が過ぎていた。
今では僕は、顔を上げて歩くことができる。
まっすぐに前を向いて、目を泳がすことなく進むことができる。
見えないはずのものが見えることで怯えずに済み、かつ見えない故に襲われることもない。
体操服の僕はスタートラインに立ち、ゴールラインを見つめた。
そこには楓さんがストップウォッチを持っていつものように立っている。
その先には澄んだ青空、白い雲。
どこまでも世界は続いている。
「世界は広いんだな」
そんな僕の呟きは、
パン!
陸上部顧問である体育教師の鳴らしたスタートの合図と、
「!」
駆け出す僕自身によってかき消されたのだった。
彼は、まわりから目を逸らすために駆け続けていた。
一心に駆け行く先を見つめることで、周りを見ないように見ないようにしていたのだ。
彼の駆け行く先は、決してゴールではなく、そして終点もない。
何故なら彼は、駆け行く先を求めているのではなく、駆けること自体が目的だったから。
しかしその彼にとっての目的は『アタシ』によって消え去ることになる。
彼の力の原因である妖眼の右目。これはアタシを『捕らえ』ることでアタシの妖力を彼に纏わせ、低俗な悪霊などの影響を打ち払うこととなった。すなわち彼の力に『栓』をしたような感じである。
この代償に、彼の右目は人間にとって「見えざるもの」を感知できなくなったのだ。
結果、これで彼にとって「駆ける」意味は無くなったのである。
それは、今のアタシと同じだった。
ゴールにたどり着いてしまったが故に、駆ける意味を無くしてしまった今のアタシと同じ。
だから、アタシはより彼に興味を持っている。
今の彼は何故「駆ける」のか?
どこに向かい、何を求めようとしているのか??
だからアタシは彼に問い掛ける。
『何故、今の君は走るんだィ?』
手足が軽い。
いつもよりずっと良いペースで僕は駆けている。
300m走という中距離。
自己ベストの記録が出そうな予感がした。
いつもと何かが違う。何が違うのだろう?
手足の軽さと共に、心の重さが消えたような、そんな感じだ。
まっすぐに、ただゴールだけを見つめてトラックを駆ける。
ゴールだけを見つめて……。
ゴールを?
『そうか』
150mを通過したところで気が付いた。
走っていて感じる、今までとの違和感。
それは、今までの僕はゴールを見て走っていなかったんだ。
ゴールの向こう――決して届くところのない、存在しない所を見つめて走っていたんだ。
『何故、今の君は走るんだィ?』
不意に、そんな言葉が頭の中に響いた。
何故、僕は走るのか?
陸上部だから。
違う。
記録を出して地区大会に出るため。
いや、違う。
周りを見ないようにするため。ただ走り続けてずっとずっと先を見つめるため。
いや、それはもう必要がない。
今の僕は、もう周りを見ても大丈夫だから。
では。
では、今の僕には、走る意味は、ない。
彼の手足から力が抜けていくのが分かった。
そう。
そうだろう。
アタシと同じように、走る意味を無くした者はその足を止める。
そうだな。
アタシと君は、似たモノ同士なんだ。
「ガンバレっ! 自己新でるわよ!!」
楓さんの声が聞こえてくる。
自己新。
ソレは僕が走る上でのただの副産物だ。僕にはあまり興味のないものだったはず。
何故走るのか?
問われれば、今はその意味はない。
では。
では、『何故走らないのか?』
アタシは何かが心の中で動いた気がした。
『何故、走らないのか?』
問われたアタシは言葉に詰まる。
走ることくらいしか自慢のできる力のないアタシ。
走るのをやめる理由はあっても、走らない理由は……ない。
なら。
なら、走っても良いかもしれない。
そうだ。
僕には「走らない理由」はない。
そう考えているうちにも、再び手足に力が入るのが自分でも分かった。
走るのをやめる理由はある。
けれど、走ることがイケナイ訳ではない。
『そうさ』
駆けながら僕は、ゴールラインと、楓さんと、彼女の持つストップウォッチと、背後の校舎と、フェンスと、そしてそして。
青い空を白い雲を見つめながら、さらに手足に力をこめる!
今まで遮二無二走ってきた分、これからは周りを眺めながら、のんびり走るのも悪くはない。
『くっくっく………』
愉快だ。
これは愉快な結果を出してくれたものだ、君は。
そうだな、このまま人間のゆっくりとした足並みで駆けて行くのも悪くない。
アタシは彼の中で、久々に愉快な気持ちになる。
確かに彼の言う通り。
駆ける彼の視界は変哲のない、普通の世界だけれど。
けれど今までのアタシは、それをゆっくりのんびりと見ていたことがあっただろうか?
普通故に、じっくり見ることも無く通りすぎてしまっていた。
もしかしたらこの普通の、何気ない風景の中に、アタシが探し続ける何かがあるかもしれないな。
だから。
『しばし、君と一緒にこの世界を駆けてみようと思うヨ』
「ゴール!」
楓さんの声が後ろに聞こえる。
僕はスピードをゆっくりと落としていく。
やがて足を止め、後ろを振り返った。
楓さんが親指を立てている。
僕はそれに、同じく親指を立てて返したのだった。
一人教室に戻った僕はカバンを手にする。
すっかり遅くなってしまったようだ。僕の他にクラスメートは居ない。
僕のクラスである2−Bは校舎の2階西側にあり、それ故に窓からは真っ赤な夕焼けの光が差し込んで来る。
その眩しさに思わず目を細めつつ、僕は窓に背を向けた、その時だった。
何か、右目から落ちた。
もしもメガネかコンタクトをしていたなら、それが落ちた感じと同一だろう。
生憎、僕はそのどちらも愛用していないので分からないけれど、そんな感じだと思う。
「あ、あれ?」
思わず何かが落ちたと思われる足下を見た。
そこには、
『やぁ』
「!?」
そこには数日前――そう、僕の右目が力を失ったあの日に見た、最後の妖がちょこんと立っていたのだ。
手のひらに乗るくらいの、リスのような、しかし色が白い妖。
まるで稲妻のようなギザギザな尻尾はその身と同じ位の長さがあった。
ソイツが、僕に向かって軽く右手を上げている。
思わず後ろへ2歩下がる僕。
『そんなに怖がること、ないんじゃないかナ』
ソイツは間違い無く日とに聞こえる『言葉』を呟きつつ、僕の目の前に『浮いた』。
「なんだ、お前は…」
『ひどいな。3日もアタシを束縛の上で監禁したクセに』
ソイツは多分…多分笑ったのだろう、大きく裂けた口を軽く歪ませて言った。
「何のことだ」
『君の右目サ』
ぴしっと、ソイツは僕の右目を小さな指で指差した。
『その邪眼でアタシを取り込んだじゃないか』
「取り込んだ?」
『もっとも君自身は瞳の力が大きすぎて制御できていないから分からないだろうねェ』
ソイツはコキコキと軽く首を鳴らしてから続ける。
『アタシを見てからこの3日、君は右目の力を発現できなかっただろう?』
「あ、ああ」
『それは君の邪眼がアタシを力の栓として君の中へ取り込んだからなのサ』
やれやれ、といった風に両肩を落として妖は言う。
「力の栓? 僕の右目が勝手に君を??」
『さんざん逃げ出そうと頑張ったけどサ。がんじがらめに捕まっちゃって無理だと悟ったサ。だから逆にアタシが君にとり憑いちゃったら……』
僕の肩の上に腰掛けるソイツ。
『瞳の方がアタシが逃げ出すことがないって納得したのか、ようやくこうして束縛を解いてくれたって訳』
「ちょ、ちょっと待て!」
僕は聞き捨てならないことを聞いた気がする。
「とり憑いたって、何?! 納得って、僕は何も」
『んー? アタシがいなかったら君の右目は以前の通りに力を戻すと思うけど?』
「そ、そんなこと言われても僕には」
『そうだろうねェ。でも『知らない』ってことにはできないはずサ。この3日間の過ごしやすさを経験してしまった君なら分かるんじゃないかナ?』
「……で、でも!」
『そっか、アタシのこの姿は人間の君にはちょっと見慣れないから怖いかナ?』
肩のソイツはそうからかうように言って、ぴょんと飛び降りた。
空中でくるくると回りながら、リスのような妖怪は僕の目の前で徐々に大きくなって行く。
それも一瞬。
「この姿なら、怖くないだろう?」
目の前に姿を現したのは、僕の胸の高さくらいの背をした小柄な少女。ウチの高校の制服を着ていた。
大きな黒い瞳と、対照的な白い肌が印象的だった。
「人に、なった??」
「アタシの名はカマイタチ。しばらくの間、君と同じ速度で走って行こうと思うヨ」
そう言うと、彼女はにっこり笑って右手を差し出してくる。
「カマイタチ……」
呆然と呟き、自然と僕もまた右手を差し出そうとした時だ。
「芳樹くん、遅いよ……あっ!」
教室の入り口から聞こえてきた声。それは楓さんのものだ。
遅いから迎えに来てくれたんだろう。
「あ、楓さん」
カマイタチを名乗る彼女もまた、後ろへ振り返って楓さんを一瞥。そして挑戦的な笑みを浮かべると、
「?!」
僕にぶつかるように抱きついてきた。
そのまま彼女は僕の胸の中で彼女に振り返りつつ、あかんべーをかましつつその姿が霧のように消え去った。
「なっ?! 芳樹くん、今のは誰!」
「あ、いや、なんというか……カマイタチさん、というか。僕にもよくは知らないんで」
何故か、しどろもどろに答えてしまう僕。
すると消えたときと同じく、唐突に先ほどのカマイタチを名乗る少女が同じ体勢で出現した。
「ひどい、アタシを緊縛プレイで弄んだ挙句に初めて(の憑依)を奪ったクセに。知らないなんてあんまり…」
「んな?! 芳樹くん、貴方一体こんな子供に何を!」
「だ、誰が子供かっ!」
「あー、もぅ、うるさーい!!」
それからというもの、見てはいけないものは見えなくなって厄介事は減ったけれど、うるさい「同居人」が居座ることで別の意味で厄介ごとが増えたのである。
これから僕はどこに向かって駆けていくことになるのか、それは僕自身でもさっぱり予想がつかなかいのだった。
了...?