窓から覗ける西の空は、仄かに赤く染まっている。
日の短くなった10月の空は、油断するとすぐに藍色となり薄墨色へと変わることだろう。
残り少なくなった明るい光の射す時間を謳歌するように、生徒たちの喧騒が校庭を中心に沸き立っている。
運動部だ。
地区予選を勝ち抜いた野球部とサッカー部。そして全国大会へと出場が決定した陸上部のエース達が己が力をさらに向上せんと励んでいるのである。
そんな彼らを応援する仲間達。
青春である。
相馬くんと白川さん
しかしこの若者としてあるべき有意義な時間と空間からやや離れた場所が今回の舞台だ。
遠く、陸上部の長距離選手達を応援する掛け声のみが届いてくる、人気のない一角。
「こんなところに呼び出して何かね?」
尊大に彼は問う。
襟章の三本線はこの学校の三年生を示している。
「部長、一生のお願いがあるんです」
彼に対して告げたのは彼女。
胸の章は二本線。二学年である。
お願いという割には、端正なその顔に何の表情も映すことのない女学生である。
「ほほぅ、一生のお願いかね」
興味深げに彼は頷き、机の上に腰掛けた。
リノリウムの床に、流しのついた長机が並ぶ教室。
夕日の差し込む前面窓の右壁とは対照的に、廊下側の壁にはホルマリン漬けのカエルやヘビの標本、そして人体模型が並んでいる。
ここは化学室だ。
授業中は面白くもない空間だが、2人しか見受けられないこの時間は標本が恨めしそうな視線を投げかけてくるようで不気味でもある。
薬品臭い場所だが、今はそれに混じってコーヒーの香りが支配していた。
紙コップに入った2つのコーヒーがブラックのままで机の上に置かれている。
「一生というからには今後これ以降君からのお願いはない、そう考えてもいいくらいのお願いだね?」
「はい」
からかい気味の彼の言葉に彼女はあいも代わらず無表情に、そして即答したことにやや鼻白んだ。
「では言ってみたまえ」
両手を広げて言う彼に、二年生の彼女は一瞬だけ逡巡。
しかし予め決められたセリフをなぞるようにこう告げた。
「部長の名義を貸してください」
「それはできない」
「即答ですね」
彼女の固まった表情は彼の問答無用の返答にあっけに取られた産物であろうか。
彼は回答の理由を、コーヒーを一口啜り、そして足を組んでから述べる。
「当然だ。例え親からの申し出であっても受けるわけにはいかん。そもそもだね、名義とは」
「分かっておりますわ」
彼女は彼の言葉を打ち切って大きくため息。
表に現れるのが珍しい彼女のその表情に興味を持ったのだろう、彼は小さく首をかしげて問う。
「そもそも何故、私の名義が必要なのかね?」
「私が化学部も兼任していることはご存知ですよね?」
「もちろんだ。2年間もこの電脳部にいる君のそんなことを知らないとでも思うのかね?」
両腕を組んで、彼は薄く微笑んだ。
「化学部は今、格下げの危機に瀕しているのです」
格下げとは部から同好会への降格を指す。
降格の理由は大抵、
「なるほど。必要最低限の部員数が5人を切りそうなのだね」
「ええ。先日、部員の一人が親の都合で引越しをいたしまして」
ということである。
「なるほどなるほど、君の言うことはよく分かった」
みなまで言うな、と彼は右手で彼女にSTOPと告げ、
「良いだろう、他ならぬ白川君の頼みだ、化学部に入部しようではないか」
「部長…」
「しかしだ!」
突き出した右手で人差し指を立て、彼は警告。
「私は実行もしないことを実行したことにするという行為が嫌いだ。きちんと化学部の活動もできる限り参加させていただこう」
つまりは幽霊部員的な扱いはしないでいただきたい、ということなのであろう。
その為には自分もちゃんと活動するということを言いたいようだ。
「分かりました」
彼女は小さく頷き、手にした鞄から一枚の紙とペンを取り出した。
「ではここにサインを」
用紙は『入部届け』と書かれている。
いくつかの約定が列挙してあり、最後に氏名記入欄がある。
彼はペンを取り、そこに己の名を書き込んだ。
『相馬 正』と。
「これで良いかね?」
用紙を彼女――白川に手渡す。
白川は彼のサインを一瞥、小さく頷いた。そして言葉を紡ぐ。
「ところで部長。化学部の部長はどなたかご存知ですか?」
「稲城くんではないのかね?」
彼――相馬は僅かな時間を己の脳への検索時間に充て、答えを出した。が。
「その稲城さんが引越しをなさったんです」
「すると今の部長は不在となるのだな」
「いいえ、ちゃんと引き継ぎはなされました」
「ほほぅ、誰にだね」
「私です」
相馬は白川を見つめる。
白川は相変わらずの無表情だ。
だが相馬には分かっている、表面に出ていても分かりにくいだけであり、たとえば今は。
笑っていると相馬は判断する。
「……白川君が化学部の部長かね?」
「そうですわ」
相馬は小さく「なるほど」と呟き、すっかり冷えてしまったコーヒーをまた一口。
「ですから部長は化学部での活動の際には私のことを部長と呼び、私の指示に従っていただきます」
「うむ。確かにそれは正論だな。しかし」
額に指を当て、相馬は白川を睨んだ。
「何故そんなにも嬉しそうな顔をしておるのかな?」
「いつもと同じですよ?」
即答の白川。変わらぬ同じ無表情である。
「どこがいつもと同じなのかね? 大笑いしている人間をおお泣きしていると勘違いするくらいの愚だ」
白川は「まぁ、それはそれは」と言いながら、自身もコーヒーをこくりと飲む。
カップを机に戻し、彼女は理由を語る。
「ここはどこですか、部長。いえ、相馬さん」
「ここは化学室だね」
「今は何時ですか?」
「午後16時28分42秒だね」
「普通は何をしている時間ですか?」
「一般的には放課後と呼ばれている今は、すぐに帰らない者といえば部活動ではないかな?」
「では今は部活時間ですね」
「異論はない」
「化学室にいる化学部の相馬さんは、今何をしていることになるのでしょう?」
「うむ、部活動ということになるな」
「それでは今日の部活動を始めます」
どこから取り出したのか、指揮棒を手にした白川。同じく白衣をいつしか着用していた。
「他のメンツはどうしたのかね?」
「今日はお休みのようです」
「そうか」
相馬は「うむ」とか「むぅ」と感嘆詞をいくつかもらして化学室を見回す。
確かに彼と彼女以外は虫一匹も存在していないように思われる。
白川はこれまたどこから取り出したのか、ビーカーに入った液体を差し出した。
黄色い液体が泡立っている、不気味としか形容できない代物だ。
「今日の活動は、相馬さんにこれを飲んでいただきます」
「これは?」
「私が作った秘薬です。効果があるかどうかの臨床実験です」
相馬はビーカーの中身と白川、もう一度中身を見つめ、
「私が飲むのかね?」
「他に誰か?」
相馬は白川を指差す。
彼女は眉一本すら動かさずに、
「部長命令です」
告げた。
「なるほど、それでは仕方がないな。しかしそれをさせるのならば部活動の前にしてもらうことがあると思うのだが?」
相馬は思い出したように言った。
「何でしょう?」
「新入部員歓迎会だよ。私は君の電脳部入部の時にもやってあげたと思うがね」
「そうですね、では計画いたしましょう」
そこまでだった。
白川は無言でビーカーを差し出してくる。
相馬はただそれをじっと見つめ、そして。
きんこーんかーんこーん♪
チャイムが鳴った。部活を終了し、下校を促す合図である。
「残念だったね、また今度だ」
ニヤリと笑みを浮かべる相馬だが、
「しかしですね、実は部長はもぅ飲まれているのですよ、この秘薬を」
「?」
白川はコーヒーを指差す。
彼は傍らに置いてあった半ばまで量が減っている紙コップの中身を見つめる。
そして白川に視線を移し、
「ふむ、なかなか酷いことをしてくれるのだね、白川君。私は君を信用していたのだが」
「いかなる手段を用いても目的を遂行せよ、これを私に教授なさったのは相馬さんですよ」
「ふむ。なるほどなるほど。それではしかたがないな」
コーヒーの残りを流し台に流し、相馬はやれやれといった風に両手を広げる。
「しかし何の薬なんだね?」
「透明人間になる薬です」
「ほぅ、体細胞の全てを水晶体にでも変換するのかね?」
「それは眼球の細胞ですね、異なりますわ。相馬さんのおっしゃる方法では体内に取り入れた栄養物などは変換されません」
白川の指摘するのは食べ物のことだ。
「栄養物といえば私、このところ毎日シチューでして」
「君の食生活は私には関係なかろう? それよりもどのような方法で透明化させるのかね?」
「この薬は服用者の次元を虚数領域へと変移させるのです」
さらりと言う白川。
服用者である相馬の存在を別次元へと移動させてしまうという――あまりよろしいとは思えない方法だ。
「……ほぅ」
「怖い目をなさるのですね」
「大丈夫だ。薬が効けばこの目も見なくて済むだろう」
「そうですわね、効いてきましたわ」
白川の目の前で相馬の姿が消え行く。
そして相馬が消えた後には、
「ところで白川くん。服は消えないようだね」
動く制服が残っていた。言うまでもなく相馬自身だ。
「身に着けているものは消えませんわ。服をお脱ぎになれば完全に透明人間になれますわよ」
「それは御免こうむるよ。例え君の目に映らないのだとしても、人前で裸になるのは痴呆のすることだ」
制服が腕を組んだ。相馬の声で問う。
「しかしだね、君は考えなかったのかね?」
「何がですか?」
小さく首をかしげる白川。
「私がこのまま服を脱いで完全に透明になり、犯罪を働く可能性もあるのだよ」
「そうですわね」
あっさりと肯定する白川は続けて問うた。
「相馬さんはそんなことをなさるのですか?」
「君の人の見る目は非常に確かだ」
制服が溜息をついたのが分かる。
「で、解毒剤はどこかね?」
「毒ではありませんでしょう?」
「毒以外のなにものでもないのではないかな?」
白川は相馬の前を発ち、教卓の方へ。
そこにはビーカーが幾つか並んでいた。
そのうちの1つを覗く。
「あら?」
「どうしたのかね?」
「失敗してしまったようですわ」
無常の言葉が響く。
「…困るね」
「そうですわね」
答える彼女はそうは見えない。
「なお、持続時間は明日の朝くらいまでですわ」
「なるほど。しかしこの姿で家には帰れないな。さすがに両親がびっくりして気絶してしまう。心臓もあまり強くはないからね」
「では今日は友達の家に泊まると電話しておいて、私の家に泊まりますか?」
「君の御両親も驚くだろう?」
「大丈夫ですわ。今週いっぱい、夫婦そろって旅行に出ておりますから」
「では安心だね。と言いたい所だが」
制服がびしっと白川を指差した。
「君はもっと危険意識を持ちたまえ」
「何故です?」
右へ左へと首を傾げる彼女に彼は畳み掛けた。
「一軒家に男女二人。間違ったことが起きてもおかしくないのだよ」
「間違ったことを起されるつもりなんですか?」
「いや、私は起さないが?」
「では安心です。私も起しませんから安心してお泊まり下さい」
「……だが」
制服は肩の力を落としたようだった。
彼女は「でも」と付け加える。
「同じ部屋は駄目ですよ、父の部屋で寝てくださいましね」
「いや、やはり遠慮させていただく」
制服は頑として白川の誘いを断った。
「私にも心友がいる。そいつに泊めてもらうと…」
相馬の言葉はそこで止まった。
目の前の白川がうるうると瞳をうるませていたからだ。
彼女は涙声で続ける。
「うら若き乙女が広い屋敷に1人で過ごすのを、護ろうと思っていただけないのですか、漢として」
制服はしかし、白川の見せた初めてとも思われる表情を一笑に付した。
「まったくもって似合わない演技はやめたまえ、白川君」
自らの顔の部分に白川から受け取った包帯を巻きながら、相馬はチッチッと見えない右手の人差し指を横に振る。
「大方、作りすぎてしまったシチューを腐らせたくないだけであろう? それ以前に毎朝晩、シチューであることに嫌気が差したのが関の山かと思うのだが。違うかね?」
途端、白川から涙の表情が消えて無表情のそれに戻る。
「……よく分かりましたね」
「分からないと思うのかね?」
しばらく無言で見つめ合う2人。
先に視線を逸らしたのは白川の方だった。
「では正式に我が家にご招待いたしますわ、相馬さん。いえ、部長」
「ふむ。ではご相伴にお預かりになろうか」
そして透明人間と白衣の女は立ち上がった。
すっかり暗くなった帰路を2人が歩く。
一人は女子高生。まるで人形のような美しさと、反面表情のなさを有している。
その隣を行くのは白い包帯に顔と手を覆った男だ。
すくなくとも夜道にばったりと出くわしたら、気の弱いものなら悲鳴を上げる可能性すらあるだろう。
「そんなにシチューが減るのが楽しいのかね?」
包帯男はわずかに前を行く少女を見て問う。
彼女は僅かにスキップ気味だったのだ。
「ええ、そうですわ」
くるりと振り向いて彼女。
「私は今夜はようやく他のものを食べることができるのです。こんなに嬉しいことはございません」
「それはそれは良いことだ」
包帯男はそして付け加える。
「まったく君の考えることは分かりやすい。もう少し思慮深くありたまえ」
後ろを向いて歩いていた彼女は、その言葉に足を止める。
「分かりやすいですか?」
「ああ」
男は肯定。
「肝心なことが分かっておられないようですが?」
「何か言ったかね?」
「いえ、何も」
少女の故意的に小さく放った声は、彼女の予測通り彼には届いていなかった。
果たしてどこまでが計画的な出来事であり、これから起こり得るのか¥?
それを知るのは彼女だけであろう。
了