白川さんと北上さん


 私の名は北上裕子。高校一年生。
 好きな食べものはアップルパイ。嫌いなものは納豆。
 尊敬する人は聖徳太子、そしてそれ以上に。
 「白川先輩、こんにちわ」
 「あら、北上さん。ごきげんよう」
 濡れ烏のような黒とはこのことを指すのだろう。艶やかな長い髪を後ろに流し、私の声に恐れ多くも振り向いてくれる。
 キリリとした顔立ちの中にある鋭い瞳はしかし、慈愛の色を湛えて私を映し出していた。
 シワ1つ見出せないピッシリとしたセーラー服に身を包んだその御方こそ、私が誰よりも尊敬する白川 玲先輩である。
 「おかえりですか? もしよろしければ一緒に帰りませんか?」
 「ごめんなさい、ちょっと寄るところがあるんです」
 くぅっ、やはりそんな簡単にはいかないか!
 「どちらに行かれるんです? 私、待ちますけど」
 そんな私の申し出に先輩は…あれ、苦笑い?
 「時間はかかるかもしれませんね」
 告げる先輩に並んで歩く私は、その行き先がどこかを知る。
 そしてそれにまつわる校内の噂も思い出した。
 決して認めるわけにはいかない、嫌な噂を。
 「視聴覚実験室ですか?」
 私の絞り出すような苦いつぶやきに
 「あら、よく分かかりましたね、パチパチパチ」
 「そ、そんなっ!」
 思わず出た声に、先輩は拍手の手を止め小さく首を傾げた。
 噂―――それは白川先輩が校内一の奇人で知られる電脳部部長とお付き合いしているなどという、荒唐無稽なモノ。
 私の先輩につりあう人はもっとこぅ……ってか、男になんか渡せるものですか!
 「あ、あの、先輩?」
 「なんでしょう?」
 「先輩はその…電脳部の部長とお付き合いされているんですか?」
 私の問いに、先輩は小さな顎に人差し指を当ててちょっと考え。
 「そうかもしれませんね」
 微笑んでさっくりと。
 いやぁぁぁ!!!!!
 「だ、だめですよ、先輩! あんな変人とそんなことになっちゃ!! 電脳部長と言えばっ……」
 聞いたことのある噂はとんでもないものばかり。見た事は無いけれど、聞いた話によれば罵詈雑言に欠くことのない人物である。
 私は言葉を選んで、いざ!
 と、その私の口に先輩の人差し指が触れて言葉を押しとどめた。
 「北上さん、あなたはよく知りもしない人の悪口を噂だけを宛にして言うような人なのかしら?」
 だ、だって。
 先輩はじっと私を見つめています。
 まっすぐなその瞳は少し怒っているように見えて、それでいて悲しそうにも見えて。
 「………」
 そ、そんな目でじっと見つめられたらっ。
 「わ、分かりました」
 って言うしかないじゃない!
 「…ま、いいでしょう」
 いつの間にやら視聴覚実験室。
 普段はパソコンを用いたプログラムの学習を行う教室だが、放課後は奇人変人として有名な3年C組の相馬章率いる電脳部の活動場所となっている。
 ヤツはプログラムだけに止まらず、電子工学の分野にも長け、さらには白川先輩が部長を務める化学部にも在籍しているのだ。そこからの知識も得て、校内一のマッドサイエンティストの名を欲しいままにしている。
 近づいたら洗脳、もしくは改造されると噂の男のいる教室の扉を、先輩はガラリと何の躊躇もなく開けました。
 私は息を飲みます、先輩を奪った宿敵がここにいるのです!
 そう、そこには!
 ……誰もいません。
 「あら」
 先輩は教卓まで歩き、そこに置かれた紙を一枚手にしました。
 「どうしたんです?」
 私は横から覗き見ると、そこにはこう書かれていました。
 『よくきたね、白川君。いつも頑張っている君に私からプレゼントがある。屋上に来られたし』
 「屋上ですね」
 先輩はクルリと方向転換。
 私はその前に立ちふさがります。
 「ダメです、先輩。きっとロクなことじゃありませんよっ!」
 私の直感が告げています、これは何かの罠だとっ!
 でも先輩、私の肩に手を置いて。
 「北上さん。私の先ほどの言葉、届いていませんか?」
 「で、でも」
 「あの人の言うプレゼント、楽しみではないですか」
 言って先輩は私の横を通りすぎてしまいました。
 右肩に残る先輩の体温を左手で押さえながら、私はその後を追いかけます。
 屋上までの道はすぐでした。
 ガチャリ
 先輩は扉を開けます。
 誰もいない屋上。赤い夕日が空を赤く染め上げています。
 「良く来たね、白川君!」
 朗々たるその声は、貯水タンクの上からでした。
 夕日をバックに、仁王立ちです。逆光で表情は分かりません。
 「部長、そんなところに立っていたら危ないですよ」
 優しい白川先輩は冷静に彼にアドバイス。
 「ハッハッハ、白川君。君は私が案外運動が得意だということを知らないのかね?」
 「それもそうですね」
 「とぅ!」
 ヤツはタンクの上から飛び降り、シュタっと音を立てて私達の前にやってきます。
 マッドサイエンティストを私はまじまじと観察します。
 美形では……ありますが、身にまとうオーラが目に見えるほど普通じゃありません。
 「おや?」
 彼は私を見て首を傾げます。
 「白川君、君の後輩かね?」
 「ええ。かけもちしている文芸部の後輩で北上さんです」
 「ほほぅ、君は案外忙しいのだね。化学部の他に文芸部にも籍を置いていたとは」
 言って電脳部部長は私に視線を移します。
 「ふむ、安心したまえ。私は君をどうこうするつもりはない」
 私の敵意を感じたのでしょうか、彼は穏やかにそう告げました。
 「先輩に何をしようと企んでいるの?!」
 私はヤツと先輩の間に立って、ビシッと指差します。
 電脳部部長は困った顔で首を傾げ、そして「まぁいいか」と呟くと屋上の真中でシーツをかぶっていた何かを指差します。
 「実はこの度、ようやくメーヴェが完成してね。白川君に初搭乗してもらおうと思ったわけだ」
 バッ!
 シーツがめくられたそこには、綺麗な流線型の白い翼が一機。
 某ナウシカに出てきた、滑空飛行するグライダーを模した想像上の機体だ。
 「って、飛べるんですか、コレ?!」
 「私の技術と理論によれば飛べない理由などありはしない」
 「飛行テストは?!」
 「この機体は体重50Kg未満の女の子が対象なのだ。なによりテストなど必要無い。問題無く飛ぶからな」
 「そんな無茶な!」
 ってか、何よ『体重50Kg未満の女の子』ってのは!
 「そんな飛ぶかどうかも分からない危なっかしいものに、先輩を乗せられるものですか、ねぇ?」
 先輩に視線を移すと、いなかった。
 白い機体に目を戻すと。
 「先輩! 危ないことしないでください!!」
 メーヴェに手をかけていた。
 私の言葉に「何故?」と言わんばかりに首をかしげている。
 「先輩にこんな危ないことさせられません!」
 「大丈夫ですよ、飛びますから」
 笑みを浮かべながら自信を持って告げる先輩に、私は頭痛を覚える。
 きっと先輩は洗脳されてしまったに違いない。
 こんな先輩にした電脳部部長をキッと私は睨みつけ、そしてメーヴェに手をかけた。
 「テストは私がします! 私が安全だったら先輩もどうぞ」
 こんなもの、飛ぶわけが無い。
 先輩は電脳部部長に視線を向け、ヤツはやれやれといった風に肩の力を落とす。
 「困ったものですね」
 先輩もまた一言、私に対してだろうかそう呟き、機体から離れる。
 私はメーヴェに乗り、そして機体を見る。
 白いそれは映画の通りに2本の取っ手と、手を据える部分にボタンが1つ付いていた。
 「北上くん、そいつはジェットエンジンを搭載している。離陸にはそれを用いたまえ。基本的にはグライダーと同じように」
 ヤツの言葉を聞かずに、私はボタンを押した。
 シュドッ!
 そんな音とともに、私は後方への急速なGと、取っ手への握力を感じる。
 気がついたときには、空だった。
 ボタンから手を離すと、加速が止まる。
 上に赤い空、下に校舎と、私を見上げる先輩と電脳部部長。
 頬を撫でるのは高空を駆ける冷ための風だ。
 フワリと、一瞬重力が消失し。
 私は風の中を滑空した。
 「ひぃぃぃえええええぇぇぇ?!?!?!」
 飛んでいる。
 見下ろす町は間違い無く私の住む町。
 空はいつも視界に入る空。
 けれどどちらも今は見たことの無いものに見えた。
 感じたことの無い新鮮な感覚が、風とともに体を駆けぬける。
 体を軽くひねると、ひねった方向へ機体は向かう。
 私は校舎の上空を一周。
 「すごい」
 私は今、空を飛んでいる。
 白川先輩が慕う、電脳部部長。
 もしかしたら彼は、私の思っているほど悪いヤツではないのかもしれない。
 空と一体となって、私はふとそう思ったのだった。


 そのころ地上では―――
 「行ってしまったな」
 「そうですね」
 「実は1つ問題があるのだが」
 「何ですか?」
 「着地方法がまだ確立されていないのだよ」
 「ああ、やっぱりそうでしたか」
 「ふむ、白川君。今の発言に疑問を投げて良いかね?」
 「はい」
 「やっぱりとは? 知っていて彼女を乗せたのかね?」
 「はい。彼女は私を怒らせましたから」
 「ほほぅ、それは興味深い」
 相馬は視線を上空のメーヴェから隣の白川に移して呟く。
 「私以外に君を怒らせることができる人間がいたとはな」
 「間接的には、部長が起因なのですけどね」
 「? それはどういうことかね?」
 「そんなことより」
 白川はさらりと議題を変える。
 「そんな問題のある機体に、部長は私を乗せようとしたのですか?」
 「君だから乗ってもらおうと思ったのだよ」
 小さく微笑み、相馬は答える。
 「何とかするだろう、君ならば」
 「それもそうですね」
 そして言葉は止まる。
 2人は再び空を見上げた。
 そこには帰り道を失ったカモメのように、まだことの次第に気付いていない北上が空を縦横無尽に飛び回っていた。