朝顔は死者を咲かす
足にかかる重さに耐え、一歩一歩踏み抜く。
一歩ごとに鉄製の車体を左右に揺らし、少しでも負担を少なくしようと努力する。
やがて見える一軒屋。
街を見下ろす高台にある邸宅だ。
僕はその玄関先にたどり着くと、前かごに残った1束の新聞をポストに放り込む。
「終わった…」
ほっと一息。
こきこきと首を左右に回して鳴らす。
再び自転車にまたがり、日の出が近い空の下、今度は長い下り坂を走り行く。
汗ばんだ体を朝の冷気が徐々に落ち着かせてくれる。
僕の名は近藤雅道。17才の勤労学生だ。
都会に憧れて実家を出て、住み込みの新聞配達のバイトをしてもぅ1年ちょっとが過ぎた。
だけれど、田舎から飛び出した僕が住むこの町も、実は結構な田舎だった。
ちょっと人生設計に失敗。
「まぁ、いいさ」
頬で初夏の空気を切りながら、僕は新聞営業所にたどり着く前の一息を入れることにする。
登ってきた高台の中腹。
眼下に街を一望できる見晴台が道路の脇に申し訳程度に設けられているのだ。
僕は自転車を滑らせて停止。
同時だ。
薄闇だった空に光が生まれた。
広がる街の向こうに太陽が顔を覗かせる。
日の出だ。
「だんだん遅くなるなぁ」
時間は朝の5時半。
体を包むようにして朝日の熱が僕に一日の始まりを告げた。
「っーーん!」
大きく背伸び。
今日も晴れそうだ。
「さて」
僕はこの見晴台に唯一用意されている古びた自動販売機に歩み寄り、コインを入れた。
「なににしようかな」
昨日はコーラだったから、今日はスプライトあたりを…
ボタンに指を伸ばし、
ふと背中に気配を感じて何気なく振り返る。
うしろ――展望台のガードレールに女が腰掛けていた。
年の頃は僕と同じくらいか、涼しげな薄青いブラウスだけを着込んだ長い髪の少女である。
いつどこから現れた?!
そんな彼女と目が合った。今眠りから覚めたような、そんなぼんやりとした瞳。
「うわっ!」
思わず僕は驚き、ボタンを押す。
がちゃこん
つい押してしまったのはコーンポタージュ。
「うぁぁぁぁ!!」
頭を抱える。
乾いた喉にコーンポタージュ!
無理。
肩の力を落として取り出し口からあつあつの缶を掴んで、僕は再び彼女に振り返る。
「あれ?」
いなかった。眩しい朝日があるだけだ。
僕は女がいたガードレールまで歩み寄る。
そこには咲いたばかりの朝顔が一つ、紫色の花びらに朝日をいっぱいに受けているだけだった。
「疲れてるのかな?」
僕は目をこすってもう一度辺りを見回す。
こんな時間にここにいるのはやっぱり僕一人だ。
ただ一つ言えることは、
「コーンポタージュを買っちまったってことだな」
右手の中のあつあつのそいつを、僕は困った顔で見つめるしかなかった。
新聞配達に日曜日はない。
いつもより広告が多いせいで重たい新聞をようやく配り終えた僕は、長い下り坂で汗を乾かしながら下り坂を愛車で疾走する。
やがて到着するいつもの見晴し台。
昨日よりも心持ち少し遅れて日が昇る。
「今日も晴れだなぁ」
雲一つない藍色に染まる空を眺めながら、僕は自販機に歩む。
今日は間違えないようにスプライトを意識しつつ、コインを入れて、
「あの、おはようございます」
声が、かけられた。
すぐ後ろから。
誰もいないこの見晴台で。
「うぉぉ?!」
慌てて後ろを振り返る。
可愛らしい少女がおずおずと僕に挨拶した…ようだ。
「お、おはよう」
がしゃこん
そんな音は僕の右手人差し指にボタンが当たった感触の直後だった。
恐る恐る取り出し口を見ると、
『おしるこ』
「あああああああああーーー!」
頭を抱えてうずくまった。
ビクリと少女が震えるのが分かる。
「どうなさったんですか?」
困った声で少女がそう問いかけてくる。
「いや、大したことじゃないんだけどね」
僕は頬を引きつらせて、おしるこを手にして立ち上がる。
憎たらしいほどに熱い。
「昨日も同じようなこと、されてましたよね?」
おずおずと問いかけてくる彼女に、僕は改めて視線を移した。
清浄な朝日を受けたその横顔はどこか憂いを帯びた女の子だ。
キレイとカワイイの両方をもっているような、そんな子。
多分、街か何かを歩いていたら声をかけられるだろうし、クラスにいれば男子の人気の的だろう。
とはいえ、どうしてこんな時間にこんな場所にいるのか?
それ以前にいつどこから沸いて出た??
「あの、私の顔に何かついてます?」
「あ、いや。なんでもないよ、あっはっはー」
僕はわざとらしく笑って思考を霧散させる。
「そうですか?」
彼女は小さく微笑むと僕の手のおしるこを見る。
「おしるこ、お好きなんですか?」
「え……」
「ご、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げる少女。
「へ?」
どうやら僕はかなりがっかりした顔をしていたらしい。
「い、いやいや、何で謝るの?! そ、そだ、君は甘いものは好き?」
「え?」
おずおずと顔を上げて彼女は小さく頷いた。
「じゃ、コレをあげよう」
「あ…」
彼女におしるこを押し付ける。
「いいの?」
「いいのいいの! 僕はたまたま他のものが飲みたくなったし」
背を向けて今度こそスプライトを選択。
がしゃこん
出てきたのは間違いなく目的の缶だ。
ほっと一息。
「ありがとう」
呟く彼女を見つめつつ、タブを開けた。
朝日の中、少女は目を細めておしるこの缶を両手で胸に抱いた。
「あったかい」
「むしろ熱いんじゃないか?」
スプライトを一気に飲み干し、僕は空き缶を自販機横のかごに向かってシュート。
かろん
乾いた音を立ててジャストミート。
「さて、行くかね」
僕は自転車にまたがる。
「あ、あの…」
「ん?」
少女は何かを言いかけ、しかし、
「えと…お仕事、頑張ってね」
「うん、ありがとう」
僕は笑って答え、別れを告げた。
彼女の名はリンといった。
朝日が好きな女の子だった。
そんな朝日に負けない明るさを持った子だった。
怒ると静かに怒る子でもあった。
笑うと目が細くなる子だった。
困ると長い髪をいじるクセのある子だった。
ごまかすのが案外下手な子だった。
しかし、隠し事が好きな子だった、そう僕は思う。
それは、夏休みの終わる頃のことだった。
朝顔が枯れ、夏が終わる頃の出来事だった―――
「雅道の夢って何?」
ガードレールに腰掛け、リンに貰った弁当を突付きつつ、僕はうーんと唸る。
「夢、かぁ」
「そう、夢」
隣に腰掛け、彼女はコクリと嬉しそうに頷いた。
「箱根駅伝出場」
即答。
「へ?」
「なんだよ、その「へ」って言うのは」
「足、速いの?」
「速いよ。今の高校もスポーツ推薦だからね」
「へぇ、すごい…」
驚くリンの顔に思わず僕は照れくさくなる。
「必ず出るんだ、だからさ」
「だから?」
「出たら応援してくれよ」
「う、うん」
期待していたリンの笑みと頷きはそこにはなかった。
困ったような、悲しいような頷きだった。
「リン?」
「あ、うん、応援してるよ、応援してるからさ!」
ぎゅっと僕の両手を掴むリン。
「夢をかなえてよ、雅道。必ず、見に行くからさ」
そう言った彼女の両手は、驚くほど冷たかった。
「ただいまー」
「おつかれー」
営業所に戻った僕はいつもよりあわただしい様子に首を傾げる。
「どうしたんですか、社長?」
「ああ。夕刊用に急に広告依頼が入ってな」
「へぇ」
今日の夕方に入れる広告だ。普段は遅くとも受付は前日までなのだが。
「臨時収入でさ」
嬉しそうな社長の顔。相当つんでもらったんだろう。
「ほら、どいたどいた!」
「うぉ!」
先輩が荷物を手一杯に持って僕の横を駆ける。
思わず僕はよろけ、脇に積んであった古新聞の山に倒れてしまう。
ぼすん どさどさ
「「何やってんだ??」」
「ごめんなさい!」
崩れた新聞の山を積みなおしながら僕は謝る。
と、
「え?!」
信じられないものを、見た。
手にした古新聞。
それは去年の7月後半。
3面記事だろう、そこには誘拐事件に関する記事が載っていた。
誘拐されたのは女の子。
名は『竹島 凛』。
色褪せた紙面に写る少女の顔写真は、まったく色褪せないリンの面影だった。
翌日は夜から雨が降りつづいていた。
雨の日の新聞配達はツライ。
カッパを着込んでの自転車は、まるで蒸し風呂の中で運動しているようだから。
だが今日の僕はそのツラさを感じることはなかった。
昨日、学校でも、寝る前までもずっと考えていたこと。
それはリンのことだ。
彼女は一体何者なのか?
毎朝、あの展望台で会うだけの関係だった。
それだけで、僕は楽しかった。何かを言ってその関係を壊したくなかったのだと思う。
だが、もぅ止まらない。
だから雨が降ってくれて良かったと思う。
きっと今日はいないだろう。
そうすれば僕のこの訊きたいという気持ちは一日を置いて少しは鎮まるかもしれない。
いつものとおり、高台にある最後の一軒に配り終えた僕は、帰り道である展望台の前を通る。
日は昇っているが分厚い雲で空は灰色一色だった。
時折光る稲妻が地上を瞬間的に照らし出す。
「あ」
僕は見つけた。
傘も差さずに雨に濡れて一人、佇むリンの姿。
「何やってるんだ、こんな雨の中!」
僕は彼女の前に自転車を止める。
空ろな目で、リンは僕を見つめてこう言った。
「雅道…夏が、終わるね」
疲れたきった顔だった。その中にはどうしたら良いのか分からないといった色も見て取れる。
「風邪引くぞ、バカ!」
「大丈夫だよ、風邪は引かない」
「……」
僕の差し出したタオルをそのまま突き返す彼女。
そして僕に背を向けて曇って見えない街を見下ろすようにガードレールに両手をついた。
「なぁ、リン」
言うな! 心の中で叫ぶが、しかし自然とこう口を突いて出た。
「竹島 凛、だろ、君は」
ビクリ
リンの体が小さく震える。
「気付いたんだ、そっか」
「昨日、たまたま古新聞を見て、ね」
「そうだよ、私は竹島 凛。一年前に街で塾帰りに誘拐されたんだ」
「どうして…どうして帰らないんだ、いや、普段は君はどうしているんだ?!」
僕は彼女の細い肩を掴み、振り返らせる。
彼女の表情に息を呑んだ。
泣いていたからだ。
雨と涙が混じって頬から顎に流れ落ちている。
「死んでるんだ、私。もぅ死んでるの」
僕の胸に額を押し当て、そう呟く。
「今の私は朝顔の夢。ひと夏で枯れてしまう朝顔なの。だから雅道の夢も一緒に見てあげることができないし、これ以上一緒に笑うこともできない」
「リン…」
「夏は終わったわ」
そっと僕の胸を押して彼女は離れ、ガードレールに腰掛ける。
そこはこの夏、最初に彼女を見た場所だった。
「私は殺されて、悔しかったわ。せめてここに捨てられていることを誰かに伝えたくて…そして私を不憫に思ってくれた朝顔が、私の声を聞いてくれたの」
僕は彼女の隣に腰掛ける。
雨が一段と強くなったような気がした。
「でもいざとなったら、いつのまにか忘れちゃった」
小さく微笑む。
「バカだな、ほんとに」
僕は怒ってツッコミを入れた。
「そうね、馬鹿よね」
リンは空を見上げ、雨をその身いっぱいに受ける。
「雅道とはもっと別の出会い方をしたかったわ」
「もぅ会えない様な言い方だな」
そう言いつつも僕には分かっていた。
もうリンとは会えないことを。
「朝顔が枯れるわ。魔法はきれるの」
「そうか…」
雨の音がひときわ大きく聞こえるような気がする。
「最後に…私の名前を思い出させてくれてありがとう、ありがとうね」
「…後のことは任せておけ」
「うん」
そしてリンはにっこりと微笑んだ。
「さようなら、雅道。陸上がんばんなよ。それと…おしるこ美味しかったよ」
「じゃあな、リン。安心して眠りな」
コクリとリンは頷き、
そして雨が流れるようにして消える。
後にはしおれた朝顔の花が1つ、アスファルトの上にもげるようにして落ちていた。
次の日の朝刊に、展望台の下で一年前に誘拐された少女の遺体が見つかったとの記事が大々的に載った。
犯人は遺体に残された遺留品から、街で評判の悪い少年グループによる犯行であることが判明し、未成年者の取調べが続いているという。
これでリンの無念が晴れたのであれば、幸いだ。
雪が降り出す頃、僕は相変わらず変わることなく新聞を配り続けていた。
いつもの展望台で、今度は暖かい飲み物を買う。
ふとカードレールに視線を向ける。
そこには枯れた朝顔のツタが僅かに残るだけだった。
「きっと来年も」
そう。
きっと来年も、キレイな花を咲かせるに違いない。
そう、思うんだ。
了