魂は流転する。
 現世を生きた魂は死して後、幽界にてさまよい、天界にて清められ、現世へと戻る。
 それがこの世界の理である。
 それは当然のことで、誰も疑うものはいない。
 だが。
 もしも、もしも死んでしまって、それきりだったとしたら。
 恨みつらみは増すかもしれないが、案外潔い世界になるんじゃないか?
 そう、なんとなくぼんやりとした頭で思いながら、俺は空を見つめている。
 そこは青く、天は高い。
 流れ行く雲は白く、それを見つめる俺の視界は次第に狭くなりゆく………
 「兄貴、兄貴っ!」
 そんなダミ声に、俺の意識は肉体へと戻る。
 「チッ、なんだよ翼徳」
 最高のうたた寝を邪魔され、俺は一気に不機嫌モードへと傾いた。
 上体を起こす。
 ここは校舎の屋上。4月のうららかな一日だ。
 「ほらほら、兄貴。今日から新入生が来やすぜ」
 まばらな不精髭を生やしたゴツイオヤジ顔の1つ下の下級生――翼徳はフェンスに寄りかかり校門付近を指差す。
 そこにはまだノリのついている新しい制服に身を包んだ生徒達・高校一年生の新入生達が列をなしてやってきていた。
 今日の午前中に街中の公会堂で入学式があったのである。
 外の施設を使うのは、ウチの高校は人数が多いため、校内で入学式が行えるだけのスペースが無いためだ。
 「ちったぁ腕っぷしの強いヤツ、いますかねぇ?」
 「さぁな」
 俺は大きなあくびを1つ。再び横になる。
 「さぁな…って兄貴、いつまでもオレら2人で他の学校のヤツラにニラミを効かせ続けるわけにもいかんでしょ?」
 「そーだな」
 隣の高校の呂布と華雄だとか、北高の袁尚・袁譚兄弟だとか。それにそれに」
 「大丈夫だろ、それに今はそんな時代でもないし」
 翼徳の言葉を遠くに聞きながら、俺は眠りに落ちる。
 当然、午後の授業は自主休学。
 「なぁ、兄貴!」
 「うるさい、だったらテメェ一人で新入生物色してこいや」
 「分かったよっ」
 ようやくうるさいのが去り、ゆっくり安心して眠ることができる。
 この4月から、俺は気の休まることがなかったのだ。
 実家から出てきた、翼徳よりもうるさいヤツのせいで―――


妹は関帝美髭公


 日は西の空に沈み、空を僅かな群青色に染め上げている。
 帰路。
 俺は住みつづけて3年目になるアパートへと歩を進めていた。
 その後ろを付いて来る者がいる。
 「なぁ、翼徳」
 「なんでしょ、兄貴?」
 「なんでついてくるんだ?」
 「いやぁ、ちょっとオヤジと喧嘩しちまいまして」
 「そっか、ならそのへんのゲーセンで夜をあかせばいい」
 「冷たいですよー、兄貴ぃぃ!!」
 「寄るな、そして付いてくるな、ターンレフト!」
 そんなこんなでアパートの前についてしまう。
 と、翼徳に殺気が走った。
 「兄貴っ! 兄貴の部屋に明かりがついてますぜ」
 「消し忘れだ」
 「人影もありますぜ!」
 「綾波レイの等身大フィギアだ」
 「……動いてやすけど?」
 「地震でも起きてるんじゃないか?」
 適当に答えながら、俺は玄関の前に。
 問題はどうやって翼徳をここから追い払うかだ。
 絶対に、絶対にコイツを今の俺の部屋に上げてはいけない。
 何故ならばっ!
 がちゃり
 唐突に玄関の戸が開いた。
 「おかえり、お兄ちゃん」
 ひょっこり顔を出したのは一人の女の子。
 艶やかな長い黒髪を後ろに縛り、華奢な身体に卸したての制服を着こんで、その上に白いエプロンを羽織っている。
 円らな黒い瞳は、少し驚いた形をしている。
 俺の後ろにいる翼徳の姿を見出したからだ。
 「あら、この方は?」
 「ぬぉぉ?! 兄貴がっ、兄貴が女を連れ込んでいやがるっ!!」
 「ちっがぁぁーーう!」
 だから翼徳をこのアパートに連れてきたくなかったのだ。
 「え、えーっと、ちょっと違うと思いますよ?」
 彼女は小さく笑って、取り乱している翼徳に告げる。
 ちょっと待て。
 「『ちょっと』っていうのは何だ? 堂々と違うと言え」
 ごす!
 俺は妹にそう言いながら、翼徳に足蹴を1つ。
 「ぬがぁぁ、弁慶の泣き所をっ!」
 「コイツは俺の妹の雲長だ。家賃が浮くとか言いやがって、一昨日からこの部屋に居るんだよ」
 「い、妹さんで?」
 「はい。翼徳さんのことは兄からよくお聞きしています。初めまして、妹の雲長と申します」
 足を押さえながら涙目で見上げる翼徳に、雲長は小さく微笑んで言ったのだった。
 「わざわざ田舎から出てきてまで、俺と同じ学校に通うこともなかろうに」
 「何言ってるの、一人じゃまともにご飯も作れないくせに」
 「そんなことはない。今の世の中は玄関開けたら2分でご飯とか、お湯を沸かせば1分で料理ができる」
 「それをまともなご飯と言うつもり? ちょ、ちょっと」
 ジト目で見る雲長を無理矢理部屋に押し返し、俺は翼徳に一言。
 「そーゆー訳だから。じゃ、また明日な」
 バタン
 戸を閉める。
 それを呆然と翼徳は見送り、しぶしぶ立ちあがる。
 「しゃーない。今日のところは簡雍の家にでも泊めてもらうとすっかな」
 呟き、あっさりとアパートの前を去っていったのだった。
 しかしこの時、俺は気づかなかった。
 電柱の影で一部始終を見守っていた奴が居たことに―――


 翌朝。
 「ほら、お兄ちゃん。さっさと起きなさい、遅刻するわよ」
 そんな声とともに布団を引き剥がされた。
 ぼんやりとした視界の先に浮かぶのは、制服姿の妹だ。
 実家では大人には「よくできた子だ」とか、同級生には「可愛い」だとか言われていたが、俺にとっては口うるさいもの以外のなにものでもない。
 「先に行っとけ、俺はもう少し寝てから行く」
 布団を取り返し、俺は再び眠りに落ちようとする。
 「ダメだったら! もぅ、2年の間にどうしてこんなダメな人になっちゃったの??」
 「うー、これが本来の俺だ。口うるさいオヤジもオフクロもいないからな」
 すると雲長の口うるささは親譲りということだな。
 「………」
 急に静かになったので目を開けてみると。
 「………ばか」
 目に涙を溜めた雲長がいた。
 「もぅ、知らない!」
 「げふ!」
 布団の上から思いきり踏みつけられ、そのまま彼女は部屋から出ていってしまった。
 「……ったく」
 すっかり目が覚めてしまった俺は、仕方なしに上体だけを起こした。
 雲長は2年前と全く変わっていない。
 外見は成長という点で大きく変わったが、その内面は変わっていないことがこの数日ではっきりした。
 だが俺は2年前から変わってしまっている。
 厳しかった親の束縛から、そして今この時期だけのことに違いないが、あらゆるしがらみから仮初めの自由になれたことで。
 しかし変わらない彼女は、同じモノを俺に求めていた。
 束縛されていた頃の俺を、だ。
 「さて、これからどーしたものかなぁ」
 枕の下からタバコの入った箱を無意識に取り出し、そして。
 「…どーしたものかなぁ」
 溜息とともに元の場所に戻したのだった。


 その日は結局、2時限目には学校にいた。
 そして3時限目の休み時間のことだ。
 「兄貴っ!」
 「えらいことになったぜ!」
 教室に駆け込んできたのは翼徳と簡雍。
 「なんだよ、お前ら。随分な慌て振りだな」
 「当たり前だろ、兄貴の妹さんが、北高のヤツらにさらわれたんだよっ」
 「んなっ?!」
 俺は椅子を蹴って立ちあがる。
 「オイラの携帯に写メール寄越してきやがった」
 簡雍が差し出した携帯をひったくる。
 そこには後ろ手に縛り上げられた雲長の姿が写されていた。
 数人の北高男子に囲まれ、泣きそうな顔がある。
 「姑息な袁尚や袁譚の考えそうなこった。しかし効果的ではあるな。どうするよ?」
 簡雍が困ったような困っていないような顔で俺に問い掛ける。
 当然、答えは一つだ。
 「乗込むぞ、大事にならないうちにな」
 「「応っ!!」」
 数分後、俺達は孫乾、麋竺、麋芳を連れ、僅か六人で北高へと走る。
 手遅れとならないうちに―――


 お兄ちゃんは変わってしまった。
 2年前、都会の高校へ通うということで実家を出るまでは優しくて真面目な、私の憧れのお兄ちゃんだったのに。
 おかしいと思うところはあった。
 交信が3日に一回の電話から、月に一度の手紙になり、やがて全然答えが無くなったことも。
 だから私は、お兄ちゃんと同じ高校に通うことにした。
 そうすれば一緒に居ることができるから。
 けれど。
 再会したお兄ちゃんは、私の知っているお兄ちゃんではなかった。
 私を疎んじている、そう感じた。
 今朝もそう。
 私にとって、お兄ちゃんは大事な人なのだけれど、お兄ちゃんにとっては私は大事な人なんかじゃない。
 だから。
 「本当にアイツの妹なのか?」
 「似てない、よな」
 「っつーか、誘拐はヤバくないですか? 袁譚さん」
 「なーに、いざとなれば袁尚兄さんになんとかしてもらうさ」
 「なんとかって……何です?」
 「色々と便利なモノがあるんだぜ、俺は詳しくは知らないがよ」
 「怖ぇー、袁尚さん、マジ怖ぇ〜〜」
 知らない高校の男子達が、柱に縛り付けられた私を囲んでそんな話をしている。
 お兄ちゃんはこの都会でどんなことしてきたか分からないけれど、きっとさらわれた私を助けにきてはくれないと思う。
 「でもよ、かなり可愛くねぇ?」
 「だよな、どこぞのお嬢様って感じだよな」
 胡乱な目つきで、彼らは私を品定めするように見つめる。
 やがてそのうちの一人が私に向けて手を伸ばした。
 その時だ。
 「待て!」
 聞きなれた声が響いた。
 「体育用具室とは、随分と古典的だな、オイ」
 「お、お兄ちゃん!?」
 「無事か、雲長」
 男子達の間から見えるお兄ちゃんの顔は、私を安心させる笑顔だった。
 「あ…」
 それは2年前にも見ていた、同じ笑顔。
 「来るのが早いな、楽しむ時間も無い」
 「あってたまるかよ!」
 翼徳さんが答え、殴りかかろうとした時だ。
 私の頬に冷やりとした感触が走った。
 「待てよ、この娘の顔に、一生消えない傷が残るぜ」
 「ぐっ!」
 翼徳さんの動きが止まる。
 私の頬には抜き身のナイフが当てられていた。
 「どうする、兄貴?!」
 翼徳さんの問いに、お兄ちゃんを囲む4人も指示を仰ぐ。
 「………」
 お兄ちゃんは答えない。
 「やっちまいな!」
 「「おぅ!」」
 その声は私にナイフを当てる男子のもの。
 号令に、およそ10人の男子達がお兄ちゃん達に殴りかかっていった。
 「や、やめて!」
 無防備に殴られるお兄ちゃんとその仲間達。
 「やめてよっ!」
 声を張り上げるが、怒声の中に消えていく。
 やがてお兄ちゃんが腰をついた。
 しかしその瞳は私を見つめている、少しだけ笑って。
 私を安心させるように。
 そこに、この高校の男子の放った蹴りがお兄ちゃんの胸を蹴り上げた。
 「やめてー!!」
 叫ぶ私。
 私の中で、何かが首をもたげた。


 「あにじゃーーーー!!!」
 野太い声が体育館倉庫にこだました。
 腹のそこから響く重低音に、一同は一瞬動きを止める。
 声の主は……。
 「しまった」
 俺は舌打ち一つ。手をこまねいている内に手遅れになってしまった。
 ついに。
 ついに手のつけられない事態になってしまったからだ。
 「誰だ?」
 妹にナイフを当てて事態を鑑賞していた袁譚はきょろきょろと辺りを伺うが、声の主らしきものはいない。
 当然だ。
 その声の主こそ……。
 ぶつり
 何かが切れる音。それは拘束していた荒縄が引き千切られた音だ。
 がっ!
 「ひっ?!」
 袁譚のナイフを持った手が掴まれる。
 その時になって始めて、袁譚は妹に視線を移したのだった。
 白く柔らかな頬に当てていたはずのナイフは、胸まで伸びる立派な髭づらに当てられている。
 「へ?」
 そして彼の腕を掴むのは、まるで子供の太ももくらいはありそうな豪腕。
 「な!?」
 腕を掴まれ、ぶらりと宙を浮く袁譚。
 彼は信じられないものを観るような目つきで「そいつ」を見つめていた。
 身の丈2mはあろうか、筋肉質の体躯に乗る頭は、胸元まである立派な黒髭が垂れている。
 ぎょろりとした黒い瞳は、ぷるぷる震える袁譚を一瞥。
 「ふん!」
 まるで蚊を叩くかのような自然な動きで、ナイフごと袁譚を地面に叩きつけた。
 袁譚はそのままぴくりとも動かなくなる。
 「「だ、誰ぇ〜〜〜?!?!」」
 敵味方双方放つ疑問の声。
 そんな声はお構いなしに、そいつは僕を視界に捕らえると、
 「兄者ぁぁぁ〜〜〜♪」
 一直線に俺に向かって駆けて来た。
 「ぎゃ!」
 「ぐぇ」
 途中、道を塞ぐ格好となった北高の男子どもをまるで木の葉のように払いのけ、踏み潰す。
 そして俺に抱きついた。
 「兄者ぁぁぁ!!」
 耳元響く大きな声と、
 ごきごきごきっ!
 俺の体の中から聞こえる、骨のおかしな音。
 2つの音を聞きながら、俺は意識を失ったのだった。


 目を覚ましたのは見なれたアパートの布団の中。
 そして覗きこむように雲長と、翼徳、仲間達の顔がある。
 「お兄ちゃん、良かったぁ!」
 雲長が抱き着いてくる。
 ぐき
 また骨が鳴った。
 「一体、あれからどうなった??」
 俺の問いに雲長以外、翼徳を始め難しい顔になる。
 「えーっと」
 「なんというか」
 「そのぅ」
 彼らは互いに顔を見合わせ、そして。
 「妹さん」
 「はい?」
 翼徳の言葉に、雲長はようやく俺から身体を離す。
 「どうか」
 「どうか?」
 「どうか姉貴と呼ばせてくだせぃ!」
 「「呼ばせてください!!」」
 「へ??」
 一斉に妹に頭を下げる翼徳達と、目を白黒させる雲長。
 「はぁ……」
 俺は思わず溜息を漏らす。
 そう、俺の名は玄徳。
 やはり世界の理の通り、時代は繰り返すらしい。


おわり