ラムネと赤



 「うひぃ〜、冷えるねぇ」
 呟きながら古風な木造建築の玄関である引き戸から顔を出したのは短髪の青年。
 彼の手には洗面器。中には下着とバスタオル、石鹸といったお風呂セットが詰められている。
 早足の彼が向かうのは距離にして5mばかり。
 お隣の同じく古い木造建築だ。
 とは言え、普通の家ではない。
 広い土地面積を占め、その中心には巨大な煙突が一本立っている。
 そう、銭湯である。
 彼は入り口ののれんをくぐると、つっかけていたサンダルを靴箱に放りこみ、鍵である木の小板を抜き取って『男湯』の扉を開く。
 「おばちゃーん、今日も冷えるから来たよ」
 慣れた態度で、男湯と女湯の中心にいる番頭にそう声をかけた彼は、見慣れた筈の番頭の顔を見て凍りついた。
 「あら、今井センパイ。いらっしゃい」
 そこには50を越えた隣のおばさんではなく、同年代にしか見えない三つ編みの女の子がいる。
 彼の通う高校と同じ制服の上に、どてらを纏っていた。
 彼女は彼を一瞥、特に興味なさそうに視線の屋や上にあるテレビ画面へと視線を戻した。
 「……なんで恵美ちゃんが?」
 唖然と問う彼に、彼女は再び視線を戻し、
 「320円になります」
 「ん、いや、そーじゃなくて。どうして番頭に恵美ちゃんが座っているのかなって??」
 「北上先輩のお父さんもお母さんも風邪で寝込んじゃってるそうです。先輩はお湯炊いたりで忙しいからって、番頭やってくれってお願いされました」
 北上というのはこの銭湯の経営者であり、当然彼の――今井家のお隣さんでもある。
 「裕子がか? 確かに恵美ちゃんは文芸部の後輩なんだろうけど、なにも番頭を手伝うことは」
 だったら俺が手伝ってやるのに、と言いかけて、
 「北上先輩は今井センパイだけにはぜーったいに手伝わせちゃいけないって言ってましたよ」
 「あー、俺だとセクハラするしなー、うん。盗撮とかもやりかねないよね?」
 「ええ、そうですよねー」
 「って、するかーー!」
 「しないんですか?」
 真摯な目で問われ、
 「……多分」
 彼は目を逸らした。
 「で、でもさ。客としては恵美ちゃんが番頭だとなんてゆーか、それ、アレじゃん?」
 「大丈夫ですよ」
 恵美は今井にニッコリと微笑みかけ、
 「粗末なものには興味ありませんから」
 笑顔が笑顔だけに、とてつもない言葉の暴力が今井にヒット。
 思わずのけぞった彼は、
 「くぅっ。ならば…見せてやろう、この俺のモスラをっ!」
 おもむろに服を脱ぎ始める。
 そんな彼に、彼女は冷静に右手を差し出した。
 「入浴料3200円になります」
 「……なぜ10倍?」
 彼の疑問を無視し、
 「もしくはここにあるコンクリブロックでセンパイの命を差し出すか、ですね?」
 「俺の命って3200円程度?!」
 「北上先輩からは邪魔な客や頭の変な客やグズグズな今井センパイが来たら、こう言って追い返せといわれましたので」
 「なんだよ、グズグズって?! いいよ、もぅ。静かに入るからっ」
 「最初からそうしてください」
 320円を受け取った恵美は、本当に興味がないようでようやくテレビ画面に戻ったのだった。


 「ふぅ、良い湯だったよ」
 「ありがとうございます……?」
 番台に100円を1枚、彼は置く。
 恵美はTシャツ短パンでバスタオルを肩にかけた今井を見て、首を傾げる。
 正確には彼の手にあるビンを見て、だ。
 「それ……ラムネ?」
 「ん。風呂上りのラムネってのも良いもんだよ。牛乳も良いけどね」
 この北上湯にはビン牛乳の他に定番のコーヒー牛乳、フルーツ牛乳、プ○ッシーなど湯上り用の飲み物が用意されている。
 その中にラムネも置いてあるのだった。
 「冬にラムネというのも不思議なものですね」
 「そうかな? 恵美ちゃんは冬は飲まない?」
 問われ、彼女は縦に首を振る。
 「私は…やっぱり夏のイメージしか」
 今井はラムネの瓶の中のビー玉を巧く中の凹凸に引っ掛けて一気飲み。
 ビンを番台に置いた。
 「ふぅ、夏祭りに飲むくらいかな?」
 「ええ、そうですね。北野天神社の夏祭りで……」
 言って、恵美は懐かしそうな目をした。
 「私、ラムネを初めて飲んだのって、ここに引っ越してきた年……小学1年生の時なんです」
 「へぇ、良く覚えてるね」
 「引っ越してきて、お兄ちゃんと北野天神社の夏祭りに行ったんですけど、はぐれて迷子になっちゃって」
 「あー、結構人いるからねぇ」
 「はい。それで私、引っ越してきたばかりなのもあって、帰り道も覚えてなくて、それで泣いちゃったんです」
 番台に置かれた空瓶を手に取り、彼女は軽く持った手を振った。
 チリンチリンと中のビー玉が澄んだ音を立てる。
 「知らない人ばかりで、それがどこまでも続いていて、お兄ちゃんも見つからなくて、すごくすごく怖かったです。でもそんな時」
 チリン
 ビンを番台に戻し、彼女は目を細めてラムネのビンを見つめた。
 「年上の男の子かな? 泣いてる私に声をかけてくれたんです」
 「迷子か? って?」
 「ええ、多分そうです。私、怖くて怖くて、なんて声をかけられたのかあんまり覚えていなかったんですけど」
 今井の出したラムネ代の100円を棚にしまいながら彼女は続ける。
 「その男の子が、ラムネを一本くれたんです」
 「へぇ」
 「でも私、開け方が分からなくて……男の子に教えられた通りにやったら中身が吹き出して顔にかかって」
 恵美は思いだし笑いをしながら、
 「涙かラムネか分からなくなって、泣き止んだのを覚えています。あの男の子には感謝しないと、ですね」
 「ふぅん。それから?」
 「それからお兄ちゃんも見つかって、無事に家に帰れました。ビンの中のビー玉は今でも私の宝物なんです」
 「そっか……」
 今井は乾いた笑みを浮かべながら、彼女に背を向けた。
 「でも不思議なんですよね」
 言葉に、彼は止まる。
 恵美は再びラムネの瓶を手に取り、中のビー玉を見つめる。
 「ビー玉って透明のはずなのに、私の持っているのはうっすらと赤いんですよ」
 「へ、へぇ」
 その話題はそこで終わり、恵美はテレビへ、今井は着替えに戻る。
 恵美は知らない。
 その男の子が今井だということを。
 そして。
 「記憶って、美化されるものなんだなー」
 彼は着替えながら、右の額に触れる。
 彼の指先はうっすらと古く白いひとすじの傷跡をたどる。
 それはかつて、ラムネが顔にかかって激怒した女の子にビンで殴られた跡。
 ビンは割れ、中のビー玉は彼の血で染まったのを薄れゆく意識の中でうっすらと覚えている。
 そこまで思い出し、彼は寒くは無いのに僅かに震えつつ、ジャンパーまで着込んで銭湯を後にしたのだった。

おわり