Are you NEKO?
薄闇の中、目を覚ます。
手を伸ばして枕もとの置き時計を軽くノッキング。
チリ…と鳴き出そうとしたそれは絶妙のタイミングで止まった。
時刻は朝の六時ジャスト。
そして私の思考はクリアランス。
布団を跳ね除け、身を起こす。
そのままの勢いで僅かな隙間から光の差し込む窓辺へ。
ガラリ!
窓を、そして雨戸を開ける。
拓ける視界――目に映るのは朝日の金と、頬に触れた桜色。
庭先の若い桜の木は5分咲きだ。
「うん、今日も良い天気!」
そして。
いつも通りの私の一日が始まる。
袖を通した白いYシャツはパリっとしている。
一昨日アイロンをしっかりかけた証拠。
膝下ぴったりの紺のスカートもまた折り目はしっかり。
ともに学校指定の制服だ。
汚れないよう、エプロンをつけて私は毎朝の日課をこなす。
一階のリビングルームに面した台所に立って、私は一人言。
「今日は……うん、から揚げにしよう」
それと牛肉のごぼう巻きと。
彩りを揃えるために、プチトマトも用意する。
それら料理を待ちうけるのはテーブルに用意した2組の弁当箱。
一つは私。そしてもう一つは。
ピピピッ
鳴る電子音は、ご飯が炊けた証。
「朝ご飯はトーストと目玉焼きっと」
すでに熱くなったフライパンには油は敷いてある。
冷蔵庫から卵を2つ。
片手で2つ、同時に割ると黒いフライパンに白い花びらをつけた黄色い花が2つ咲いた。
それに軽く蓋をして待つこと数秒。
「よっと!」
大皿に盛りつけ、テーブルに添える。
その足で温まったトースターに食パンを2つ。
ちょうどそのタイミングがいつもの時間だ。
パタパタパタ
廊下の外、2階からちょっと早足で駆けてくるスリッパの音。
そして最後に、いつもつまづくか転ぶのだ。
パタパタパタ、ガシャ!
「あら?」
今日は転ばなかったのね,そう驚きと一緒に言葉を発しようとして開かれた扉に振り返ったときだ。
「あぅー、お姉ちゃんーー!」
そんな叫びと共に現れるのは、右肩がずり落ちた大きめなパジャマを着て、ふわふわの枕で頭を隠した愛しの妹君。
でも、清々しい朝だというのに涙目で私に向かって飛び込んで来た。
「ちょ、茜っ! お姉ちゃんは火を使ってるから危ないって!!」
枕で頭を隠しながら、私の胸に顔を押し付ける妹はいつもの通りに……。
うん、可愛い。
怖い夢でも見たのかな?
「どうしたの、茜?」
ふと、視界の隅に動くものが入る。
なんとなく邪魔なそれはしかし、茜が何より最優先事項にある今の私にとってはどうでも良いものだ。
「あのね、あのね…」
「うんうん?」
涙目で見上げてくる茜を、思わず抱きしめてしまいたくなる欲望を押さえつけつつ、私は優しく問うた。
「どうしたの?」
「あのね……あたし……」
茜は恐る恐る、頭に抱えた枕を下に落とした。
ぴょこん
そんな擬音が私の心の中に響く。
愛しの妹の、美しい黒髪の間からは。
黒い猫耳がぴょっこりと生えていたのだった。
だからだから、私は。
「くっはーーー!! 可愛いっ、茜!!」
「にゃーーーー!!」
遠慮なく抱きしめてしまったとしても、何の悔いもないと言えよう。
ふにふに
「ん……」
ふにゃふにゃ
「んんっ」
茜の髪の間に生えた黒いネコミミ。
軽く引っ張ったり、伸ばしたり、揉んでみたりする。
さらさらな毛に覆われたそれには、仄かに茜の体温が間違いなく通っていて、そして紛れもなく『生えて』いた。
「うーん、なんだろうね、これは??」
ふにふに
「ふぁ…お姉ちゃん」
「ん?」
ふにゃふにゃ
「あんまり……触らないで。くすぐったいの…」
頬を赤く上気させて、茜は私の腕の中で呟く。
む、これはっ!!
ニヤリと心の中で私は笑みを浮かべ、
「嫌よ嫌よも好きのうち?」
ふにふにふにふに
「んんんんっ!」
目をぎゅっと瞑る茜。なるほどなるほど、耳が弱いのか。
ぎゅ
「あ」
「痛っ!」
つい、強く引っ張りすぎてしまった。
茜は私の腕の中から飛びのき、机を挟んでキッチンの向こうから涙目でこちらを伺っている。
「ふーーー!」
パジャマの下から窮屈そうに伸びた尻尾が、大きく膨らんでいた。
まるでネコみたいだ。
「ご、ごめんね、もう痛くしないから」
おいでおいでと手招きするも、
「って、お姉ちゃん! そーじゃなくって。あたし、やっぱり病院いたほうが良いよね? ね??」
ああ、そうだ。
私は決して茜を愛でる為ではなく、ネコミミなんていう奇妙奇天烈なものを調べるためにいじっていたんだった。
「うーん」
私は両腕を組み、
「まずは朝ごはん食べちゃいましょう」
そう、結論付けることにした。
ページをめくる。
書かれているのは独逸語だ。
そして私の両の傍らにはまるで城壁のように外国書籍が詰まれている。
今日で三日目。茜にネコミミが生えてから、あと7時間ほどで3度目の夜が来ようとしている。
「今日も医学書かね、唐沢くん」
「あら、市谷先生。ごきげんよう」
ここは私の通う私立高校の図書館。学長の意向なのか威光なのか、全国でも指折りの蔵書数を誇っている。
その一角で情報をあさる私に、今日も声をかけてくるのは学年主任の市谷先生だ。
まだ20代後半と若年ながらも、巧みな人心掌握術で学年主任の位置を掴み、かつ生徒からの人望も厚い男である。
「しかし文系の君が何故かい? 医学部にでも転向するつもりかな?」
「さぁ、どうでしょうね」
適当に答える。
「妹の茜くんは今日で3日お休みしているようだけれど、大丈夫なのかい?」
「ええ、まぁ」
正直私はコイツが……
「ご両親はイタリアで開かれている学会で、ずっと帰ってこられていないのだろう?」
「そうですね。でも姉妹でしっかりやっていけてますよ」
嫌いだ。
「そうかね? 君は生徒会長だし、多忙だろう。いつでも力になるから、遠慮なく言いなさい」
言って、私の肩に手を置く。
それを軽くいなし、私は思い出したように告げる。
「そうそう、先生。頭にネコミミが生えるような、そんな病気ってありますかね?」
「………は?」
行く先の定まらない右手をふらふらさせながら、市谷先生の目が点になる。
「いえ、なんでもありませんよ。なんとなく思いついただけです」
まぁ、一般の反応はそうだろう。
だから、私は茜を医者には見せていない。
解剖なんてされかねないしね。
「それでは私はこれで失礼します。日が落ちてきましたし、妹も心配ですので」
「あ、ああ」
本を抱えながら告げる私に、市谷先生は思い出したようにこう言った。
「唐沢くん、最近はこの近辺に乱暴な運転をする車が出現するそうだ。ひき逃げ未遂も何件か起こしているようだから、私が家まで…」
「ありがとうございます、ご忠告感謝いたしますわ」
言葉を遮り、早々に私は図書館を立ち去ったのだった。
「お姉ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま、茜」
玄関を開けると同時、パタパタと階段を転びそうな勢いで駆け下りてくる茜は、その勢いで私の胸に飛び込む。
と。
「ん?」
くんくん、と形の良い小さな鼻を私の胸や肩、首許に近づけてなにやら嫌そうな顔をした。
「お姉ちゃんから知らない男の人の匂いがする」
「??」
ちょっと考えてから「ああ」と手をぽんと打った。
「市谷先生ね、多分」
「お、お姉ちゃん、先生と一体何を?!」
「さー、なんでしょうね?」
「……むぅ」
身構える茜の尻尾が右に左にと揺れる。不機嫌な証だ。
「どうしたの? 妬いてるの?」
「違うもん…」
そっぽを向いてしまう茜を思わずぎゅっと抱きしめて、
「冗談冗談。図書館で茜の体調とかを訊かれただけだから」
「ホント?」
「ホントホント」
ネコミミの生えた頭を撫でつつ。
私は猫舌に問題のなさそうな晩御飯を考えるのだった。
真っ暗な部屋の中。
けれど、今のあたしには明かりがついたのと同じに見える。
静かな闇の中。
けれど、今のあたしには隣の部屋のお姉ちゃんの息遣いすら聞こえる。
猫の目と、耳の能力なんだと、そう思う。
実際、よく転んでいたあたしはこの3日、階段でつまづくことすらなくなった。
そんなあたしの身体に猫っぽい症状が現われて今夜で3日目。
「学校…行かなくちゃ、だよね」
思わずため息。
お姉ちゃんとは違って、ただでさえ頭はあまり良くないあたし。
このまま続けば留年だってありうる。
そんなことになれば、海外でお仕事をしているお父さんお母さんはまだしも、お姉ちゃんまで「茜が留年するんだったら私もーー!」とか言い出しかねない。
ううん、きっと言う。
「どうしよう…」
お姉ちゃんには迷惑ばかりかけてしまってる。
今も、そう。
隣の部屋から聞こえる、定期的に紙をめくる音。
山のように詰まれた医学書を、お姉ちゃんが一字一字余すところなくチェックを入れているのだ。
こうしてお姉ちゃんは3回目の徹夜に臨もうとしている。
いつもあたしのせいで、お姉ちゃんには無茶をさせてしまっている。
今回は無茶どころか、無理のような気がするけど。
この身体のことで病院に行くのは躊躇われた。たしかにお姉ちゃんの言う通り、最悪解剖とかされかねない気がするし。
でも。
弁護士を目指しているバリバリ文系なお姉ちゃんが、一人医学書を紐解いてどうにかなることじゃないとも思う。
「じゃあ、どうするの?」
一人、闇の中で毛布にくるまって呟く。
対するあたしは、なにもしない。なにもできない。なにをしたらいいのかすら、踏ん切りがつかなくて分からない。
対して、お姉ちゃんのやっていることは、「どうする?」と問うた時に答えられる一番身近な答えに違いない。やるかどうかは別にして。
あたしには決してできないそれをやってしまうこと―――それがお姉ちゃんの凄いところであり、憧れるところでもあり……。
「やめてって言っても、聞いてくれないし」
きっと、答えは見つからない。
ネコミミの生える病気なんて、あるはずがないもの。
でもお姉ちゃんは見つかるまで、寝る間を惜しんで調べるだろう。
「もぅ」
手で、頭に触れる。
小さな耳がそこにはある。
「消えて、くれないかな…」
壁を挟んで、定期的にページをめくる音を聞きながら。
あたしの意識は闇の中へと沈んでいったのだった。
じゅー
『次は地方のニュースです』
ちん!
「トースト焼けたわね」
その音をまるで合図に、
『昨夜、岸上町で当て逃げがあり、高校生が一名負傷しました』
ぱたぱたぱた
階段からスリッパで、やや駆け足で降りてくる音が近づいてくる。
『この地区では連続してひき逃げ未遂が発生しており、現在警察は警備の強化および犯人の特定を急いでおります』
「物騒な世の中ね」
彼女はラジオから聞こえてくるニュースにツッコミを入れる。
同時。
ぱたぱた、ばたたん!
リビングルームの扉の向こう、階段の最後の段で豪快な転倒音。
「あらあら」
フライパンを片手にした彼女は、やや呆れた表情で扉に向かい、そして開ける。
階段の下、やや大きめな、しましまのパジャマをまとった少女が一人。
廊下に打ち付けたのだろう、額を右手で撫でつつ、涙目で彼女を見上げている。
左肩からパジャマがずり落ち、白く細い肩が目に眩しい。
それはいつもの光景。
彼女が何度注意しても治らない、いつもの少女の日課とも言うべき光景。
だった。
はず。
「茜……ネコミミは?」
はっと我に返り、彼女は問う。
問われた少女は顔いっぱいに??の表情。
やがて慌てて自らの頭を両手で撫でながら、僅かに叫ぶように言った。
「なくなってる?!」
『今朝のオープニングナンバーは―――』
「シッポもなくなってるよ、お姉ちゃん」
「いったいなんだったのかしらね??」
テーブルにつき、向かい合った2人はトーストをかじりながら互いに首を傾げる。
昨夜まで茜に生えていたネコミミとシッポ。
今では、まるでそれが夢だったかのようにきれいさっぱり消えていた。
「とりあえず、これで学校にも行けるね♪」
「大丈夫かしら?」
「大丈夫だって! だからいいでしょ、学校行っても?」
自然と上目がちに問うてくる茜の攻撃に、彼女は内心で満足しながらも難しい顔をする。
「……休み時間ごとに確認に行くからね、良い?」
「うん!」
「分かったわ、でもあまり無理はしないのよ」
「はーい♪」
だが彼女達は知らない。知りようがない。
実はあまり状況は変わっていなかったということを。
晴れた空。
白い雲。
暖かな日差し。
空を目を細めて見上げる私は、思わず。
「こういう日って、ベランダでごろ寝するのに最適にゃ〜〜」
「……茜?」
「っは?!」
我に返る。
右隣にはジト目のお姉ちゃん。
「え、え?! 私、今何か言ったっけ??」
なになになに??
一体、あたし、今何を言ったの?!
お姉ちゃんは真剣な顔で、あたしの両肩に両手を置く。
「茜」
「は、はい」
「もう一日、休んだほうが良いんじゃないかな?」
「だ、大丈夫だよーー!」
あたしはお姉ちゃんよりも心持ち、早足で先に進む。
「心配ねぇ」
後ろでそんな呟きが聞こえてくるが、敢えてスルー。
やがて通学路は住宅地の外れ――右手に雑木林を構える道に至る。
ここをまっすぐに行けば、ほどなくして私とお姉ちゃんの通う学校だ。
そして右手の視界の隅に、小さな土の盛り上がりと大きめな白い石が入る。
あたしは足を止め、それを作った4日前のことを思い出し、小さく黙祷。
その時だ。
「はよっ! 茜ちゃん」
ぽん!
予告なく、不意に肩を叩かれた。
「にゃぁ?!」
驚きに思わず声が出る。
目の前には、同じ驚きの表情の女の子が一人。それは……
「なんだ、雪音ちゃんかぁ」
クラスメートの若桜 雪音ちゃんだ。
ほっとあたしは胸を撫で下ろす、けれど。
「茜ちゃん、その、あの……」
「茜…」
目を白黒させている雪音ちゃんと、その後ろであんぐり口を開けたお姉ちゃん。
雪音ちゃんの視線はあたしの頭。お姉ちゃんはあたしの背後を指差している。
「え?」
思わず右手を頭に、左手を背中に伸ばす。
「あ」
右手には紛れもない、ふわふわした毛に包まれたネコミミ。
左手にも、くねくねと動く毛に包まれた物体―――しっぽだ。
え、なんでなんでなんでーー?!?!
お、お、お、落ち着こう、うん。
大きく深呼吸。
すー
はー
すー
はー
「あれ?」
途端、右手にも左手にも、もこもこふわふわな感触がきれいさっぱり消えていた。
「茜ちゃん……あ、あれ?」
目の前の雪音ちゃんは目をこしこしとこすってあたしをまじまじと見つめる。
「あれ? 疲れてるのかな??」
「そ、そーだよー、きっと」
「ふむ、そうに違いないぞ、茜の学友さんや」
お姉ちゃんのフォロー(?)もあってか、雪音ちゃんは狐に摘まれたような顔で首を傾げる。
「ま、まぁ、元気になってよかったよー、茜ちゃん。最近の風邪はタチが悪いよね」
「う、うん、そうだねー」
やがてあたし達3人は学校へ到着。
「じゃ、お姉ちゃん。またね」
あたしは雪音ちゃんとともに東校舎へ。
3年のお姉ちゃんは西校舎だ。
「無理はしちゃダメよ」
別れ際、お姉ちゃんはあたしに耳打ち。
「どうやら驚くとネコミミとしっぽが出るみたいね?」
「うん、そうみたい」
「……落ち着いてね」
「うん、分かったよ」
「なになに、姉妹でなんのお話?」
「なんでもないよー、雪音ちゃん。ほらほら、朝のHR始まっちゃうよ」
「あ、ホントだ」
時計を見て雪音ちゃん。
あたしは彼女の手を取って駆け出した。
視線でお姉ちゃんに『大丈夫!』と答えて。
駆け出していく2人を見守りあたしは思う。
去り際に茜は視線であたしにこう答えた。
『大丈夫……きっと……多分……あー、やっぱりダメなこともあるかも』と。
「大丈夫よ、茜」
あたしは誓う。改めて誓う。
「あなたはお姉ちゃんがきっと守るからっ!」
こうして始まった本日の授業。
大丈夫、あたしはやればできる子だって、お姉ちゃんも良く言ってくれてるもん!
「ところで……そんなに重い病気だったの?」
「う、ううん、そんなことないよっ」
心配そうにあたしの顔を覗きこむ、隣を行く雪音ちゃん。
「そうかなぁ……さっきなんて頭から何か生えていたよーな」
「気のせいだよ、うん、気のせい気のせい」
「んー、そっか」
ツインテールを揺らしつつ、さっぱり忘れた顔で雪音ちゃんは微笑んだ。
この子の性格からして、これですっかり忘れたことだろう。
彼女は若桜 雪音ちゃん。クラスメートで仲の良いお友達の1人だ。
あたし達は昨晩のお笑い番組についてツッコミとボケの深い議論を交わしながら教室のドアを開ける。
「おはよう、茜ちゃん。体調は大丈夫?」
教室に入ると同時、そうあたしに声をかけるのは可愛らしい女の子。
「うん、相馬さん。もう平気だよ」
あたしは笑って答える。彼女は仲の良いクラスメートの1人、相馬 恵美さん。
「恵美ちゃん、おっはよー」
「あ、雪音ちゃん、おはよう。昨日のあの番組、見た?」
「うん、見た見た。今、茜ちゃんとそれ話してたところー」
「あのツッコミはおかしいと思わない?」
「「だよねーー」」
やがて担任の教師がやってきて朝のHRが始まる。
それは滞りなく終わり、今日の一時限目である数学の授業が始まった。
「相変わらず分からないなぁ」
シャーペンのお尻で頬を突つきつつ、あたしは教科書とにらめっこ。
「次、今日は14日だから出席番号14番。この問題をやってみろ」
虚数? なんだろう、それって?? 美味しいのかな??
「ねぇ、茜ちゃん」
遠く、声が聞こえる。
「ねぇ」
不意に横っ腹を何かで突つかれる感触。
「う」
「茜ちゃん、ねぇってば」
それは後ろに座る雪音ちゃんの声。
あたしは思い出したように顔を上げた。
「ん?」
疑問の後、硬直。
クラスのみんなが、じっとあたしを見ていた。
「14番、唐沢!」
鋭い声で教壇からあたしをにらむ数学教師。
黒板には今、教科書とにらめっこをしていた数式が書かれており、解答欄が埋められるのを待って口を開けていた。
「え、えぇ?! あたし?!」
思わず立ち上がり、唐突な驚きと緊張のあまりに声が裏返る。
さらに、
ぴこっ!
「「?!?!」」
あたしを見るクラスメート全員の目がひときわ広がった気がする。
「あっ!」
あたしは頭と、そしておしりに何かが驚きのあまりに飛び出した感触を知って慌てて押さえ。
がらららら!
突如開かれる教室の扉。
「とぅ!」
掛け声とともに飛び込んでくる人影一つ。
「「?!?!」」
教師を含むクラスメートの視線は一つも残すところなく、あたしからその侵入者へと移動する。
突如教室に乱入するのは……お姉ちゃん?!
いや、違う。
頭にタイガーマスクをかぶっている。
「私はシスタータイガー。正義の茜の味方だ」
「「………」」
シスタータイガーを名乗るマスクマンは、驚異的な速さで黒板に解答を埋めていく。
「わー、素敵」
「いや、茜ちゃん、素敵ってアナタ……」
雪音ちゃんの呆れた声が耳に入った。
シスタータイガーはすべての解答を埋め終えると、あたしに親指を立て、
「はっはっはー、ではまた会おう」
教室から飛び出していった。
その背に向かって数学教師は叫ぶ。
「来るなっ。いや、むしろあとで職員室に来なさい、唐沢の姉の方っ!」
「え、お姉ちゃん?」
「声で分かるでしょうが……」
背後で再び雪音ちゃんの呆れ声が聞こえてくる。
「あ」
そこであたしは気づく。
ネコミミとしっぽが消えていることを。
そして。
クラスのみんなもまた、今の突然の乱入者に意識を奪われ、あたしの変化を忘れてしまっていることに。
二時限目は体育。
「走り高跳びかぁ」
「茜ちゃんは苦手?」
「んー、というか、運動全般が苦手。相馬さんは?」
「私もー」
あたしと相馬さんは顔を見合わせて笑う。
そんなあたし達の前で、
「ほっ!」
華麗な背面飛びを決める雪音ちゃん。
同姓のあたしから見ても素敵だ。
ピッ!
笛が鳴り、
「次」
体育教師の声がかかる。雪音ちゃんの次はあたしなのだ。
「あ、はーい」
バーの高さは150cm。身長160cmなあたしにはかなりキツイ。
身構え、そして走り出す。
とてとてとて
助走は相変わらず力がないのが自分でも分かる。
そしてあたしは、
「よっ!」
跨ぐ様にして……
「「?!?!」」
クラスみんなの視線が集まったのを感じた。
それは驚愕の色で塗りたくったもの。
同様に、あたしもまた驚いていた。
ぽす
マットレスの上に両足で着地。
飛べた。
「そんなバカなっ、160cmをそんな飛び方で?!」
体育教師の叫びのような言葉と、
「え、え、ええ?!」
あたし自身、どうしたら良いか分からずに右往左往する。
その時だ!
「困って呼び出し、シスタータイガー!!」
体育倉庫の方から正義の味方が登場。
こちらに向かって全力で走ってやってきて、
「とぅ!」
高飛びのバーを奪い、
「たぁ!」
バキ
膝の上でバーを叩き折った。
「それではまた会おう!」
びしっとあたしに向かって親指を立ててマスク越しに微笑むシスタータイガー。
駆け去るのその後ろもカッコイイ。
いくらなんでも、あれがお姉ちゃんのはず、あるわけが…。
「……あとで職員室に来なさい、唐沢の姉の方」
体育教師が重く低い声で、小さくなる後ろ姿に向かって呟いていた。
三時限目は古文。
担当のおじいちゃんな先生の朗読が……これがまた。
「ようようなるままにひぐらし」
抑揚のない低い声が響き渡る。
さらに二時限目の運動の後。
これで眠くならない方がおかしいと思う。
加えてあたしの席は窓際。暖かな日差しとやわらかな窓からの風があたしを優しく包む。
抵抗することもなく、あたしはうつらうつらと―――
ああ。
なんていうか、丸くなりたい気分。
と。
不意にあたしは影に入る。顔を上げるまもなく、
「寝るなーー!」
すぱーん!
唐突にハリセンで頭を叩かれた。
「?!?!」
思わず出てしまうネコミミとしっぽ。
その声に、クラスのみんなの視線が一斉にこちらを向いた。
「「?!?!」」
しかしみんなの視線は窓の外。
おそらく屋上からだろう、ロープ一本でその体を縛ったシスタータイガーさんが窓の外にハリセン片手にゆらゆら揺れている。
「学生の本領は学業だぞ、茜」
「あ、は、はい」
「よし、ではまた会おう、はーっはっはっはー」
そのままシスタータイガーはロープをつたってまるでスタントマンのように鮮やかに下へと降りていく。
「授業が終わったら職員室に来るようにの」
おじいちゃん先生が目を細めながら呟くようにして言う。
でもその目はかなり怒っていることに、あたしは気づきたくないけれど気づいてしまった。
4時限目は調理実習だ。
隣のクラスの女子達との合同授業になる。
ちなみに男子達は近くの工場への勤労実習だ。
「さーて、やるぞぉ」
元気良く腕まくりして雪音ちゃん。
実はクラスで一番料理が上手かったりする。
「同じ班だね。頑張ろうね、茜ちゃん」
「うん」
そう言うのは相馬さん。三人一組で今日は『天ぷら』を作ることになっている。
あたしの班は相馬さんと雪音ちゃんだ。
……まぁ、正直、あたしは何もしないで見ていたほうが美味しいものが出来ると思う。
でも何もしないわけにもいかないので、とりあえず油を温めておこうかな、と。
お鍋にサラダ油を注いで…と。
どれくらい入れるんだろう?
いっぱいいっぱいに入れておけば良いかな、多い分には問題ないだろうし。
次にコンロに引火。強火でGO!
やがてお鍋の中、油がぐつぐつと煮立ち始めて。
ちょっとこぼれた。
そしてそのまま、
「へ?」
油に引火!
瞬く間に天井にまでとどく火柱の出来あがり。
「きゃーー!」
ぽぽん、とネコミミとしっぽが生える。
隠している余裕なんて、ない。
「ええ、茜ちゃん?!」
「な、なになになにーーー?!?!」
パニックに陥る相馬さんと茜ちゃん。
それは同心円状に教室内に波及して、誰もあたしの変化なんて気づきやしない。
それどころじゃないしね。
って、どうしようどうしよう?!?!
そ、そうだ。
困った時にはあの人を呼ぼう!
「助けて、シスタータイガー!!」
「とぅ!」
天井裏から突然降り立つシスタータイガー。
その全身はクモの巣まみれだ。
「だ、大丈夫?」
「無問題!」
親指を立てて彼女は答えると、テーブルにあったマヨネーズを火柱の立つ油の中に投げ込んだ。
ぼしゅぅぅぅぅぅ
そんな音がして、一気に消火した。
「消えた……」
ほっと一息、それに伴いネコミミとしっぽが消える。
「お手柄ね、唐沢さん」
家庭科の担当教師が同じく安堵のため息をつきながらシスタータイガーにそう声をかけた。
「マヨネーズには高い消火能力があるの。みんな覚えておきなさい」
「「はーい」」
教師の言葉に答えるみんな。
どうやら落ち着きを取り戻し始めたみたい。
「でも」
家庭科の先生はシスタータイガーを眺めて首を傾げる。
「3年生のあなたがなぜここに? それよりも、そのマスクは一体??」
「それでは、さらば!」
身を翻して教室を逃げるようにして駆け去っていく。
その後ろ姿に、
「こら! あとで職員室に来るようにっ!」
定番となり始めた教師のセリフが、背中に投げかけられたのだった。
あわやの火事未遂から、相馬さんと雪音ちゃんの活躍(?)で、どうにか料理の課題も終了。
それなりに満腹になったところで5時限目の世界史の授業へ。
今日はこれが終われば、あとは部活に寄って帰宅。
一日の終わりだ。
ちなみにあたしは文芸部に所属している。
定期的に読んだ本の感想発表会があり、来週にそれがあるのだ。
っと。
本日最後の授業はあたしの得意科目。
お姉ちゃんの…いや、シスタータイガーの出る幕はないはずだ。
「こら、そこで何をやっている!」
廊下からそんな声が聞こえてくる。
「なんだ、そのマスクは……こらっ、逃げるな、待て!!」
二つの駆け足が廊下に鳴り響き、そして小さくなっていく。
聞こえたのだろう、クラスのみんなが何故かあたしを見ていた。
あたしは……窓の外に広がる青空に視線を投げることで現実逃避するしかなかった訳で……。
そんなこんなで、本日の授業はあたしの変調をバラすことなくどうにか終了させることが出来たのだった。
夢を見ている。
あたしがワタシであった頃の、過去の夢を。
ワタシはいつもの巡回コースを歩いている。
そろそろ「彼女」の来る時間だ。
今日は何を持ってきてくれるだろうか?
パンかな?
おにぎりかな?
から揚げかな?
自然、足取りも軽くなる。
右手に雑木林。
左手に「彼女」達人間の住む住宅地。
ちょうどここは、自然と人間達の作り出す文明の境目。
そしてそれはワタシ達にとっても同じこと。
けれど。
ワタシ達には特別な能力がある。
人間ではないワタシ達にある能力―――それは。
人間達の家の1つが、黒いモヤに包まれているのが見える。
そこには確か……そう、時々ワタシを撫でてくれる爺さんが住んでいるはずだ。
そうか、そろそろ『死ぬ』んだな。
旅立つ前に、一度挨拶しておこうと心に決める。
ワタシ達の能力。それは『死の気配を感じ取ることが出来る』こと。
それがワタシ達、ネコ族の能力の1つである。
やがて見えてくるのは雑木林の中に設けられた、ちょっとした広場。
ぐぅ
お腹が鳴った。
ワタシは思わず駆け足。
と。
どん!
重たい、そんな音が耳いっぱいに響く。
なになになに?!?!
同時に視線が高くなる。
いくら高くジャンプしても、こんなには高く飛べないだろう、そんな高さ。
やがて視界には地面が一杯に映った。
体は――動かない。
どん
再び音。
横たわる視界。
動かない体。
目に映るのはアスファルトの地面と、白い物体――自動車だ。
はねられたのか??
やがて自動車から人が降りてくる。
ふらふらした足取りの、男。
くさい。
酒くさい男。
そいつの顔は見えない。ただ足しか見えない。
ワタシの前で足が止まる。
「にゃぁ」
ワタシの声が思わず漏れる。
黒い革靴の足が……大きく振りかぶられてワタシのお腹にめり込んだ。
「ぎゃ」
浮遊感。
そして背中から地面に落ちる衝撃。
視界には群青色の空と、暗い色の木々の葉。
「ちっ、へこんじまったじゃねぇか。クソ猫が。飛び出してくんじゃねぇよ」
そんな人間の言葉とともに、唾が吐きかけられる。
バタン
扉が締まる音が聞こえ、やがて車が遠ざかっていくのが分かった。
今になってじわじわと痛みが広がってくる。
あぁ
視界もかすむ。
血がどんどん流れ出していくのが分かる。
体がどんどん冷たくなっていくのが分かる。
そして。
ワタシ自身が黒いモヤに包まれていくのが分かる。
あぁ
そうか。
ワタシは死ぬのか。
悔しいなぁ。
悔しいなぁ。
なんでこんなにも…こんなにも理不尽に殺されなきゃいけないんだろう。
なんでだろう。
人間なんて、大嫌い。
クソっ、クソっ!
心の底から恨む。
遠のく意識の中で恨み続けた。
そんな時、不意に体が抱き上げられた。
暖かな感触と、美味しそうな匂い。
これは……。
かすんだ目を見開いた。
あぁ。
ワタシの視界一杯に映るのは、人間だ。
何か叫んでいるようだけれど、何も聞こえない。
ただ分かるのは、この人間を黒いモヤが包んでいることだけ。
死んでしまえば良い、大嫌いな人間なんて。
ワタシを殺す人間なんて。
けれど。
けれど、ワタシを撫でてくれたのも、ご飯をくれたのも、今こうしてワタシの為に泣いてくれるのも……。
人間だった。
「にゃぁ」
ワタシは鳴いた、泣いた、ナイタ。
ただただ、ワタシが望むことを望みながら―――
―――ゃん、茜ちゃん」
「ん……はっ」
揺り動かされて目を覚ます。
ここは図書館。目の前には文芸部の北上先輩の姿。
「あ、寝てました?」
「ええ、ぐっすりと」
北上先輩は微笑むと、窓の外を指差した。
赤い空だ。
すっかり夕方になってしまっている。
「あんまりにも気持ち良さそうな寝顔だったから誰も起こすのためらってたけど」
先輩は笑って言った。
「でも感想発表会はきっかり来週あるからね」
「あ、はい、ごめんなさい」
「じゃ、私は帰るわね。また明日」
「はい、お疲れ様でした」
気がつけば図書館にはほとんど人がいなくなっている。
あたしは読んでいた本を棚に戻し、帰り支度。
その前にちょっと職員室を覗いてみることにする。
明かりのついた職員室にはお姉ちゃんを囲んで何人もの先生達がそれぞれお説教を同時進行で行っていた。
お姉ちゃんはといえば……あ、耳栓してるし。
「ごめんね、お姉ちゃん」
呟き、そっと扉を閉めた。
まだまだかかりそうなので、先に帰って晩御飯の準備をしておいてあげよっと。
帰り道。
お葬式の列に会った。どうやらお年寄りが亡くなったらしい。
知らない人だけれど、なんだか気にかかる。
なんだったかな??
「あ」
気づく。
右手に雑木林。
左手に住宅地。
そして……さっき、図書館で見た夢。
それはネコの夢。あたしがよくこんな帰り道でご飯をあげていたネコの夢。
「あ、あぁ…」
そうか。
あのネコは、あたしの胸の中で死んだ。
そうか。
車に轢かれて、死んだみたいだった。
そうか。
あの夢はあのネコの死ぬ直前の想い。
あたしは自らの頭に手を伸ばす。
そこには今はない、ネコミミのある場所。
「そうか、そうだよね」
夢を思い出す。
ネコの想い。自分を殺した人間への恨み。
「人間を恨んで、当然だよね」
そうだったんだ。
「ごめんね……」
呟いても、その相手はもういない。
ようやく分かった。
あたしはあのネコの、人間を恨んだあのネコに『呪い』をかけられたんだってことを。
右手には雑木林。
そして丁度、僅かに広くなった場所がある。
そこには小さな盛り土と、割り箸の墓標が一つ。
そう。
あたしが埋めた、ネコのお墓。
「そっか……恨むよね、やっぱり」
今やはっきりと思い出した放課後に見た夢を記憶に辿る。
死に際のネコの想い。
そしてネコの見たあたしは、死の予兆である黒いモヤに包まれていて……。
「あ」
ということは、あたしは近いうちに…?
ぐぉん!
唐突に聞こえる、すぐ背後でのエンジン音!?
驚いて振り向けば、ものすごい勢いで突っ込んでくる無灯火の乗用車。
白い、見覚えのある車だ。
「あ!」
これはネコを轢いた車。
そして轢かれたネコを追い討ちを掛けるように蹴飛ばした運転手の顔が、フロントガラス越しに見えて気付く。
”避けられないっ!”
”危ない!!”
2つの心の叫びがあがる。
途端、全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、反射的に体が動いた!
ぐぉん!
車が通りすぎる。
たった今、あたしのいた場所を踏み越えて。
そしてあたしは遥か頭上の、雑木林から伸びる木の枝の上にいた。
「え?」
頭にはネコミミ、そしてお尻からのしっぽはちょっと興奮して膨らんでいる。
薄暗い時間だというのに、周りは明るく見え、さらには狭い路地を蛇行しながら爆走していく乗用車の傷跡一つ一つすらはっきりと見えていた。
夜目が効いている??
”良かった、守れた”
「へ?」
心の中で呟かれる小さな言葉。
それはあたしではない、ワタシの声――あたしに憑いたネコの声だ。
「どういうこと?」
呟く問いに、あたしは自らの腕を見た。
「黒いモヤが…」
消えている。
”これで、安心。眠れる”
消え入る心の声に、あたしは声を荒げて問う。
「どうして?!」
どうして?
貴方を殺した人間を、あたしを恨んでいたんじゃないの?!
”どうして?”
問いがそのまま返される。
”どうしてアナタを恨まなきゃイケナイの?”
不思議そうな、そんな小さな声。
「だって…」
”好きな人、守れた。死んだから守れた。だから”
小さな声はさらに小さく、遠くなる。
”だから、ワタシの死、無駄じゃ、ないよね?”
「無駄とかそんな…違うよ、そんなことじゃないんだよっ。貴方はっ」
自分でも何を言いたいのか分からなかった。
ただ、声が遠くなるごとに、体からネコの力が消えていくのが分かる。
”それじゃ…さようなら”
だから、あたしは。
「待って」
呟き、枝の上で立ち上がる。
「もぅ少し…もう少しだけ、あたしに力を貸して」
”?”
あたしは視線の先、路地裏を相変わらずありえない速度で走りつづける車を睨む。
「誰も、二度とこんな思いをしなくて済むように、ね」
その願いは、消えつつあったネコミミとしっぽが再び実体化したことで聞き届けられたことが分かった。
そしてあたしは夜空を駆ける。
枝から屋根へと。
屋根から電線へと。
駆ける駆ける―――空には三日月ときらめく星々。
夜に紛れて疾駆するあたしに気付くものは天上のそれらくらいだ。
弧を描く路地裏通りを直線にショートカットして、あたしは爆走する乗用車の前に回り込むことが出来た。
電柱の上からやってくるその車めがけて。
ドン!
ボンネットの上に降り立った。
「?!」
フロントガラス越しで、赤ら顔の中年男が目を白黒させている。
信じられないものを見る目つきであたしを指差し―――あたしは彼を一瞥してから大跳躍。
走る車から再び電柱の上に飛び乗った。
背後で過ぎ去る車は蛇行したまま、やがて。
ガシャン!!
鈍い音を立てて、T字路の壁にぶつかって止まったのだった。
今日も袖を通したYシャツはパリッと仕上げ。
クマさんの刺繍の入ったエプロンをかけ、火にかけたフライパンでベーコンを炒める。
『警察は岸上町で相次いでいたひき逃げ未遂事件で昨夜、自損事故を起こした男を逮捕しました』
「あら、捕まったんだ」
チン!
背後でトースターの音が響く。
食パンが焼きあがった証拠だ。
『男は常習的に飲酒運転を行っていたとされ、余罪について追求する見込みです』
「へぇ」
パタパタパタ……
廊下の外、2階からちょっと早足で駆けてくるいつものスリッパの音。
『また男は、事故後に病院へ搬送された際に『ネコミミの女子高生が降ってきた』などと破綻した供述をしており……』
パタパタパタ、ごしゃしゃ!!
階段の途中で転がり落ちる音が聞こえた。
やがて少ししてから、
ガシャ!
リビングルームの扉が開く。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう、茜」
大きめのパジャマをまとった茜は、長い袖で目に浮かんだ涙をこしこしと拭きながら食卓へ。
「今日はどこぶつけたの?」
ベーコンを皿に取り分けながら、あたしは問うと、
「右足の小指」
答える茜は、椅子に座ってその辺りを撫でながらメソメソと答えた。
痛みに目が覚めた彼女の頭には、今日も小さなネコミミがちょこんと乗っかっていて。
「ああ、もぅ、可愛いっ!」
「にゃーーーー!?」
遠慮なく抱きしめてしまったとしても、それは姉の特権と言えよう。
おわり