雨のち橋の下


 ザーーーー
 無数の水滴が勢い良く地面に弾ける音が僕の周りの世界を覆う。
 ぱしゃぱしゃぱしゃ
 そんな水を跳ねる音が、まるでホールに響き渡る演奏の中の歌声のようにリズムに乗って耳に届く。
 その様はまるで他人が立てている音のようだ。
 「!」
 駆ける僕は視界の片隅に乾いた地面を見つける。
 ぱしゃぱしゃぱしゃ
 跳ねる音を伴い、本能的に僕はそこへと飛び込んだ。
 渡るはずだった、川にかかる橋。
 その下で僕は弾む息を押さえつけた。
 「ったく、酷い目にあった」
 橋の下、僕は曇天を見上げる。
 「まるで夕立だな」
 急に降り出した雨は休む間もなく、勢い良く空から駆け落ちてきて下校中の僕を存分に濡らしてくれた。
 しばらくすればこの勢いも収まるだろうか?
 ふと川の方に目をやれば、普段はおとなしい流れが苛立ったように茶色のその身を下へ下へと勢い良くくねらせている。
 激しくなりつつある流れを眺めながら、僕は学生服の上着を脱いでバタバタとはたく。
 じんわりと雨水を吸い込んでしまった上着は僕の体温を徐々に奪うが、
 「さむっ!」
 2月という冬の風がシャツ姿の僕を直接的に冷やしてくれる。
 仕方なくしっとりとした上着に再度腕を通す。その時だ。
 ぱしゃぱしゃぱしゃ
 先程まで僕が奏でていたリズムが近づき、やがて「ハァ」というため息とともに途切れる。
 「!」
 「?」
 雨宿り組となったのは一人の少女。
 僕と同じ学校の生徒のようだ。肩までの髪は雨に濡れて烏の羽のように光っている。
 制服もまた僕に負けないくらいに濡れてしまっていた。
 彼女は僕を一瞥。
 偶然、視線が合ってしまう。
 互いにしばらく視線を泳がせ、最終的には僕は川の流れへ。
 彼女は自らの手荷物に移ったようだった。
 がさがさ
 そんな音が彼女の方から。
 「あ…」
 小さな声に思わず目を向ける。
 彼女が鞄から取り出したのは手のひらサイズの赤い箱。
 綺麗にラッピングされたものだった、が。
 赤い包装紙の端が、雨がしみ込んで色が変わってしまっていた。
 「……」
 「…っ」
 彼女の視線が手許の箱からこちらに移りかけたことを感じ、三度僕の視線は川の流れへ。
 がさがさ
 音は続く。
 「はぁ」
 落胆の溜息で音が締めくくられた。
 再度雨の音と、川の流れの濁音が周囲を支配する。
 止むどころか、勢いが衰える気配もない。
 何度も橋の下から空を眺めて確認。
 とてもとても、時間が長く感じる。
 気付けば隣の彼女も、同じように頻繁に空を見上げていた。
 何とも形容しがたい、水の音のみが支配する空気に、多分。
 そう、多分お互いになんとなく居心地の悪さを感じている。
 ぐー
 と。
 水ではない音が身近に生まれる。
 それは雨の演奏会の調和を崩す、下手なシンバルのようなもの。
 ぐー
 「う」
 再度、鳴る。
 僕の腹の音だ。
 あー、なにもこんな時に鳴らなくても。
 確かに昼飯が食堂のうどん一杯じゃ、育ち盛りの僕には足りないけれどもさっ。
 くすくす
 場違いなシンバルに引かれて、ハーモニカが音色を鳴らす。
 「どうぞ」
 言葉に振りかえると、少女が小さく微笑みながら右手を差し出していた。
 そこには小さな箱と、6粒のチョコレート。
 「え、と。良いの?」
 「うん。どうせ渡せなかったし」
 言って彼女は1つを自らの口の中へ。
 「美味しい」
 笑う。
 「じゃ、いただきます」
 つられて僕も笑い、1粒を口の中へ。
 苦味のない、甘い甘いチョコレートだった。
 寒く冷えた体に、それは良く馴染む。
 「美味しいね」
 「ありがとう」
 何故かお礼を言われた。
 彼女は2粒目を、僕ももう1ついただく。
 あれだけ耳に響いてた水の音は、もう気にならない。
 だから、だろうか?
 「渡せなかった、って?」
 「え?」
 僕は口にしていた。1つの問いを。
 彼女が先程呟いた、何気ない一言に対しての問いを。
 「あ、うん…」
 最後の2つを2人で分け合い、彼女は呟くようにして言った。
 「なんかね、ノリというか、そんなので用意しちゃって。でもいざ渡すのかどうかってなると、別にそんなに好きでもないかなっ、て」
 ははは、と自嘲気味の乾いた笑いで彼女。
 「そんなこと考えて、結局渡さない私自身にも『重い女だなー』って思っちゃったりして。あー、何言ってるんだろうね、私」
 ぽりぽりと頭を掻いて、そして
 「結局、バレンタインデーってなんだったんだろうなぁ」
 溜息とともに呟く。
 「んー、まぁ、でも」
 「あっ」
 僕は彼女の持つ空き箱を手にとって、微笑む。
 「美味しかったから、良いんじゃないかな?」
 彼女は呆っとした表情で僕の笑みを受け取り、そして。
 「それも、そうね」
 笑みで答えたのだった。
 いつのまにか雨は止み、雲のはれた西の空には一際明るい宵の明星が冷たい光を放っている。
 こうして雨で切り取られた別世界は終わりを告げ、僕達は個々の時間へと戻って行ったのだった。