今でもその時の感動は覚えている。
 世界というモノがどのような形をしているのかなんて、まだまだ知り得ないほど幼かったあの頃だけれど。
 その時の俺は幼いなりに、周囲の世界については知っていたんだと思う。
 だから。
 「どうだ? これが『空』だ」
 聞こえてくる声が、なかなかどうしてひどく鮮明に耳に届いていた。
 俺の視界一面は蒼一色。
 青よりもずっとずっと、ずーっと深い蒼の世界。
 前部操縦席でセスナ機を駆るのは、父の弟。俺にとっては叔父にあたる人だ。
 一面の蒼の世界で、機体は上昇方向へと風を切る。
 耳に届くは風切るセスナの爆音。
 「空の蒼は、一体何処にあるんだろうな?」
 まともに届くはずもない叔父の声は、今思えば不自然なほどに俺の耳に届いていた。
 だから当時の俺は彼の、自問のようなその言葉に小生意気な答えを返している。
 「空の向こうは宇宙だよ?」
 むー、っと彼は不機嫌そうに俺の答えにこう返してきた。
 「そんなのは分かってらい、そーゆーことじゃなくてなぁ」
 「?? この空自体が青いんじゃないの?」
 「そうかー? じゃ、なんで、お前はその青に包まれていないんだ?」
 「え? そんなの……だって、空は空であって、青いのはもともと……」
 なんて馬鹿な質問をする大人だろう?
 幼い俺はそう思いつつも、的確な答えを出せずにいた。
 「空は空だな、うん。じゃあ、この蒼は一体何処にあるんだってことだよ」
 前座からさらに先へ。
 彼が伸ばす両の手の先には、空の蒼。
 伸ばしても伸ばしても、けっして掴むことの出来ない蒼。
 つられて俺も、手を伸ばす。
 僅かに上へを傾いた機体は、眼前の蒼へと絶えず進むが、決して蒼に飛び込めない。
 追いつきそうで追いつけない、蒼の世界。
 ならば、と。
 俺達は手を伸ばす。セスナよりも一歩先へ、と。
 「なぁ、知ってるか?」
 叔父の声。
 彼は後ろに振り返ることなく、ただただ前だけを見つめたままに言う。
 「あの蒼の世界にはな、風が住んでいるんだぜ?」
 「風? 風って、この風?」
 今、セスナの爆音とともに俺の頬を撫でて行く風を指して俺は訊く。
 「そう、それだ。あー、いや、ちょっと違うか、いや、でも同じことかな」
 叔父は首を捻りながら、「さてどうしたものかな?」とか呟きつつ答えに窮している。
 そんな彼を見かねたのか、
 「同じことですよ」
 笑みを浮かべ、優しげな女性は答えた。
 「でもね、風は一人じゃ、あの蒼の世界に帰れないの。なぜなら――――だから」
 「え?」
 彼女の声が、聞こえなかった。
 いや、違う。
 聞こえていたけれど、この時の俺にはそれが理解できなかっただけだ。
 「人は一人じゃ、あの蒼の世界には行けない」
 叔父は言う。
 「風も一人じゃ、蒼の世界に帰れない」
 彼女が言う。
 「でも、な」
 前座から、彼は初めてこちらに振り返った。
 まるで、少年のような笑顔を浮かべて。
 「「きっと2人なら、いつか蒼の世界に行けると思うんだ(の)」」
 彼と、彼女の声が重なった。
 それが、今は亡き彼との記憶。
 思えば、なんと不可思議な事象だろう。
 2人乗りだったセスナ機上、3人で言葉を交わした歪な記憶。


蒼の彼方


 彼は死ぬまで飛行機乗りだった。
 そして空と風に愛されていた。
 太平洋戦争では序盤活躍するも、終戦間近に至っては彼の愛機「のみ」故障が連発。
 もしくは空が大荒れとなり出撃できない事態が続いて終戦。
 彼にとってみれば死に場所が得られず口惜しかったと漏らしていたが、結果だけを見ると彼は『生かされた』。
 その後、再編された軍の戦闘機乗りを経て、引退後は自家用セスナを駆って死ぬ間際まで空で風となっていた。
 反面、俺は違う。
 ただ蒼の世界に憧れていただけの少年はやがて青年となり、叔父の生き方を目指した。
 しかし、蒼の世界で風に成りきることが出来なかった。
 実力不足だ。俺には戦闘機は当然のこと、セスナにしても満足に操縦するセンスがなかったのだ。
 けれど、一度魅了された蒼の世界から身を引くことも出来なかった。
 なにかないのか?
 なにか、空に存在できるだけの才能が、俺にはないのか?
 探した。
 頭では「そんなものはない」と理解していたが、本能があきらめることを許さなかった。
 結果的にその悪あがきは功を奏す。
 俺は自分では思いもしなかった才を見出すことが出来た。
 そんな俺は今―――
 風になれなかった俺は、蒼の世界で叔父のように颯爽と疾駆することは出来てはいない。
 一歩一歩踏みしめる様でいて、どこか頼りない足取りでこの空に浮遊している。
 そう。
 俺はヘリのパイロットになっていた。
 この国を護る航空自衛隊。もっぱら災害対策でこの空を駆けている。
 空に存在はする。しかし風になることは出来ない。
 一方、彼は風に愛されてた。
 生涯結婚しなかった彼。
 常に傍らにいたあの女性は、彼とともに蒼の世界を駆ける風だったのだろう。
 「蒼の世界に辿りついたかい?」
 彼の三周忌。
 子のいない叔父の墓前で一人、俺は目を開ける。
 雲一つない青空の下、じりじりと夏の太陽が墓石を焼く。
 墓前に備えられたものは菊の花。白い煙を一筋たなびかせる線香の束。
 静かな郊外の墓地でだた一人、俺は顔を上げて墓石に視線を………
 「?!」
 女が、いた。
 少女というには失礼で、女性というには若すぎる。
 長くまっすぐな黒髪は肩口まで。
 細めの瞳は墓石の上から俺に当てられている。
 白い、涼しげなワンピースを着た彼女は、いつの間にか叔父の墓石の上に腰掛けていた。
 罰当たりこの上ない所に座する彼女。
 しかし彼女のその様はまるで、空から偶然ここへ舞い降りたかのよう。
 彼女は俺に顔を向け、しばらく凝視。
 交わす視線。
 やがて
 へ?
 端整な彼女の面に、疑問が顔一杯に現れ………
 あわあわと左右を見る。
 当然、誰もいない。
 「お、おい」
 俺の声にびくっと震えたかと思うと、
 ばっ!
 「へ?」
 今度は驚くのは俺の方。
 女の背から一対の白き翼が瞬時に生まれて、
 ばさっ、ばさっ、ばさばさばさっ!!
 ぎこちなく。
 とてもとてもぎこちなく、空へと舞い上がって行った。
 「あ……」
 理解。
 かつての記憶。
 幼い頃の歪な思いでの中で、彼女が言った言葉を、今ようやく呑み込む事が出来た。
 『風は、人の姿を模した翼だから』
 すでに空高く見えなくなってしまった少女の姿をした翼。
 あれは……風?
 だとしたら。
 なんとも、
 なんとも不恰好で、頼りない風なんだろう。
 そんな風はしかし。
 とてもとても、俺にお似合いに思えたのだった。
 これが、風になれなかった俺と、風らしくない彼女との出会いである。
 それからというもの『彼女』はしばしば俺の前に現れた。
 不思議な事に、俺以外には見えないようだ。
 当初は俺も驚いてはいたが、次第に視界に入るのが当たり前のようになっていった。
 ある時は訓練飛行中の窓の外に。
 ある時は救助任務中の対象者の脇に。
 そしてある時。
 「?!」
 いつもの訓練飛行。雪の積もる高山にホバリング中のこと。
 これまた雪山訓練に入る隊員達を下ろし終えた時だった。
 ガガガ……
 異音が後部回転翼がら発生する。
 同時、水平を保っていた機体がまるで震度7の地震に襲われたかのような衝撃が始まった。
 「なっ!?」
 『どうした、後部ローターが止まっているぞ!!』
 地上から――たった今降ろした隊員達からの無線が響く。
 バランスを取る後部回転翼。それが止まった事によるトラブルだ!
 「まずい!」
 機体は徐々に高度を落として行く。
 なんだ、なにをマズった?!
 このままでは。
 このままでは、落ちる!?
 落下先には隊員達。雪山故に、彼らの行動は制限されている。
 俺は操縦桿を前へ押し倒す。
 右前方に見える、山麓の比較的なだらかな斜面。
 そこへ軟着陸させる!
 この機体は無事では済まないだろうが、真下の隊員達を巻き込まないで済む。
 「契約、しますか?」
 おずおずと。
 初めて、その少女の声を聞いた。
 「契約?」
 いつの間にか助手席に座した少女に俺は反芻。
 彼女は硬い表情で伝える。
 「契約が成れば、私は常に貴方とともにあり、私の力は貴方の翼となるでしょう」
 言葉を紡ぎながら、白い手を俺に伸ばす。
 胸にその手が触れた途端、一瞬だけ視界が切り替わった。
 広がる無限の蒼の世界。
 それは彼女の想い、彼女の理想。
 「空の蒼……」
 思わず呟く。
 あの蒼に至る。
 あの蒼の世界に行きたい。
 それが、彼女の願いであり俺に求める契約だということを知る。
 故に。
 「いらない、なんとかする!」
 俺は答えた。
 彼女は――風は颯爽と空を駆けるべきだ。
 蒼の世界をもたついて進むのは、俺のようなヘリだけで充分だ。
 俺では、彼女をあの世界に連れて行く事は出来ない。
 言葉に、彼女は困った表情を浮べて消え行く。
 俺は意識を現実に戻す。
 ヘリは高度を落としながら白い斜面へ迫っている。
 回転翼のエンジンを止める、同時。
 「?」
 一瞬、何か下から突き上げられるような感触があり。
 どすん!
 「ぐっ!」
 思ったよりも小さい落下の衝撃がヘリを突き抜けたのだった。
 
 
 
 愛機は積もった雪のお陰か、はたまたこの山麓に常に吹きつづけている上昇気流のおかげか、さしたる損傷もなく回収された。
 後部ローターは根元の部分で凍結が確認され、整備に用いていた潤滑油に不純なものが含まれていたということで結果が出されたようだ。
 愛機ともども運良く無傷だった俺は、
 「どうした?」
 空軍基地にて整備の終わった愛機の下から出て、回転翼の一枚に腰掛る彼女を見上げた。
 翼を出したままの彼女は、空を見上げている。
 赤く染まった夕焼け空。
 それを切り裂くかのように4機の戦闘機が編成を成して訓練飛行をしている。
 「…………」
 それを眺める彼女。
 その瞳は、高く高く遠いモノを眺めるような視線だ。
 だから。
 「これは、あれみたいに高くキレイに空を飛べないぞ」
 ヘリに手を置いて、俺はそう声をかけてみる。
 彼女はゆっくりと視線を降ろし、そして腰掛ける回転翼を優しく撫でた。
 まるでこのヘリが気に入っているかのように。
 「変なヤツだ」
 微笑を含んだ俺の言葉に、彼女は小さく首を傾げたのだった。
 
 
 風という翼である彼女は蒼の世界に至るために、人との契約を望んでいた。
 飛行機乗りであった叔父が、追う者を寄せ付けない『疾風』という名の翼と契約を結んだように。
 では果たして。
 果たして目の前の彼女はどんな類の風なのか?
 その時まで、俺はただ彼女は風である事しか思っていなかった。
 ヘリの外は横殴りの雨を孕んだ暴風が吹きつけている。
 背後には濡れた体を震わせる救出された者達と、疲労困憊の隊員達。
 彼らの仕事は終わった。
 俺の仕事は折り返し地点が始まったばかりだ。
 彼らを安全に送り届けて初めて、任務が達成する。
 ゴゴン……
 腹の底から響くその音は、この空域を統べる雷雲からの怒りの声。
 ヘリは暴雨の中、もどかしいほどに遅く遅く進む。
 雷雲の腕に抱かれつつ、ようやくその範囲を外れようとした時だった。
 「「?!?!」」
 ヘリの中の全員が、息を飲んだ。
 俺を含めた全員の視界が白く染まったのだ。
 それが何だったのか、もっとも早く理解できたのは操縦桿を握っている俺だった。
 落雷?!
 視界の隅で、輝きながら落下して行く銀翼が見えた。
 ヤバイ。
 声には出さない。
 それは間違いなく、主回転翼の一枚であることを。
 「「きゃーーー!!」」
 後ろからの悲鳴は、ヘリが蛇行とそれに伴う落下を始めた事から。
 「お、おい、どうした」
 「大丈夫」
 隊員の一人の声に、俺は答える。
 大丈夫?
 そんな訳はない。どうして飛んでいるのかが不思議なくらいだ。
 しかし。
 なんとしても。
 なんとしても。
 なんとしても後ろの彼らを無事に!
 暴れる操縦桿を掴む力をさらに強く。
 それが俺の使命。
 空を優雅に疾駆する戦闘機に、まるで及ばないこんな速度でも。
 地上に生きる人々と蒼の世界の橋渡しとして生きる俺の矜持。
 彼らは、彼らの世界にきちんと送り届けなければ、蒼の世界に申し訳が立たない。
 だから。
 「契約をお願いしたい」
 助手席に当然のように座る彼女に、そう言葉を紡いだ。
 「叔父のように速くは飛べない俺だが、君が力を貸してくれるのなら」
 揺れるヘリの中、彼女は俺を静かに見つめる。
 「ゆっくりでしかないかれど、いつか君を蒼の世界の彼方へ連れて行こう」
 そう言葉をついた途端。
 「「?!」」
 とてつもなく強い上昇気流がヘリを下から突き上げた!
 「ゆっくりで、何が悪いの?」
 いつしか助手席から姿を消した彼女は、ヘリの下から問うてくる。
 やがて視界は暗雲から雲海の上へ。
 それはヘリでは余程の好条件でしか到達できない高度だ。
 「雨が止んだ?」
 「わぁ、きれい」
 「青空?」
 「雲の上に出たのか??」
 後ろからはそんな声が聞こえてくる。
 そして、
 「ゆっくりだからこそ、彼方への道が見つかるかもしれない」
 告げる彼女。
 蒼の世界はヘリの外、頭上に広がっている。
 操縦桿から右手を離し、思わず手を伸ばしてしまう。
 当然、蒼には届かない。
 届かないが、ここまでは来れる。
 次は、さらにこの先に行けるだろう。
 「そうだな」
 俺は答える。
 「見つけよう、きっと」
 その為に、まずは眼下の雷雲の向こうへ抜けて、自らの責務を全うする。
 「それじゃ、よろしくな」
 「こちらこそ」
 嬉しそうな声が聞こえてきた。
 まだまだ時間はかかると思うが、いつかきっと蒼の世界に辿りついてみせる。
 それは俺一人でも、彼女一人でもできることではない。
 2人でようやく、出来るかもしれないこと。
 彼女は上昇気流。
 ただ上へ上へ昇る事にかけては他の追随を許さない、俺の風だ。
 焦る事はない。ゆっくりでいい。
 天上の蒼の世界は、いつまでも変わることなく存在しているのだから。