涼を得に
見上げれば青い空。
すっきりとした透明感をどこまでもどこまでもその身の内に宿した、高い高い空だった。
その青のキャンパスの中に所々、アクセントとして白い雲が浮かんでいる。
そしてそんな天から降り注ぐのは、容赦のない夏の日差し。
力強い7月の太陽光は、じりじりと地上を焼き上げていく。
そう、これはまるで漫画で描かれるような、典型的な夏の空だ。
「暑い」
独り言が漏れる。
しかし自ら発したその音は、周囲に響き渡る蝉の音にあっという間に飲まれて消えていった。
「みーんみーん」やら「じーじー」や「かなかなかな」といった有象無象をBGMに、僕は重い足を進める。
首筋から流れた汗が、身に纏った紺色のしじら織り甚平にあっという間に吸い込まれていく。
すでに背中は自らのそれを吸い込みずっしりと重い。
「暑い」
二度目の独り言が漏れた。
今日は日曜日。時間は午前9時。
昨夜は仕事帰りに行きつけの居酒屋で深酒を決め込み、それがまだ残っている。
本来の休日であれば自らの城である所の六畳一間のアパートで昼間で惰眠を貪るところだが、今日に限ってはそうは行かなかった。
ギラギラ輝く夏の太陽――そう、原因はこの猛暑である。
「今時クーラーがないのは自殺行為だよなぁ」
僕は呟く。
差し込む朝日はすでに致死レベル。夢の中でフライパンの上で炒められる夢を見て目を覚ました次第だ。
8時の時点で部屋の温度が38℃を突破した段階で、僕は部屋を飛び出した。
だが、娯楽のないこの田舎町で暑さから避難しようにも行く場所がない。
当てもなくアパートを飛び出たは良いが、結局のところフラフラ歩きながら夏の日差しを全身で浴びる現在に至る。
「しかたない、郊外にあるAE●Nにでも行くかなぁ」
車の影すら見当たらない県道を歩きながら、僕は進む道のはるか遠くにあるであろう大型ショッピングモールを思う。
まっすぐに伸びる県道のアスファルトが熱せられ、ゆらゆらと陽炎が立ち上っていた。
左手には青々とした田んぼが広がり、右手には土手と川が流れている。
山麓に位置するこの田舎で、唯一良かったと思えるのが川の綺麗さだ。
前に住んでいた河口の町では、夏は川の水が暖められてひどい匂いだったものだ。
ほんの少し回顧して現実に戻った頃、右手には橋が現れる。
そして僕はそこに見慣れないものを見て思わず足を止めた。
天の青と、地の緑。
水面に映るのは白い雲と土手の草の緑。そして橋の欄干。
その間にあるのは、白いワンピースを着た黒髪の女の子だった。
「え」
年の頃は中学生か、もしくは子供っぽい高校生か?
橋の中ほど、欄干の上に立っていた。
目を瞑る彼女はほんの少し上を――空と大地の間にある、遠く見える山々に顔を向けており。
背中からの夏風に長い髪が揺れ、閉じた目が開かれた。
髪の間に覗く黒い瞳は一瞬、その遠くの山々を見て、そして橋の袂にいる僕を見て。
流れのまま、彼女の足許へ。
その位置からは10mほど下の水面へと向けられた。
「あ」
次の瞬間、僕は思わず暑さを忘れて彼女の立つ橋の中ほどへ向けて駆け出していた。
風の吹かれた木の葉のように、白いワンピースの女の子は橋から飛び落ちたのだ。
ばしゃん!
水の弾ける音が聞こえる。駆け出した僕は一拍遅れて、彼女の飛び降りた橋の中ほどにたどり着く。
「おい、大丈夫…?!」
欄干から身を乗り出して下を、水面を覗いた。
思わず声が止まる。
ゆらりと流れる水面には、白い少女が大の字で気持ちよさそうに浮かんでいた。
白く薄い生地は澄んだ川の水で半透明となり、うっすらと彼女の肢体を浮かび上がらせている。
まるでこの世の暑さとは縁のないような、その涼しげな姿に僕は呆けて見てしまう。
「どうしたの、お兄さん?」
こちらに気付いた彼女は立ち泳ぎになり、こちらを見上げた。
「涼しそうだね」
笑って問う僕に、
「えぇ、お兄さんも『こっち』にきたら?」
水の中から彼女が持ちかける。
「いや、でも」
ずぶ濡れで帰るのもなぁ、と思ったがすでに汗でずぶ濡れなのに気付く。
大人気ないな、とも思うが周りに人がいる訳でもない。
何より、僕は涼を求めてアパートを飛び出した身。川に浮かぶ彼女は確かに涼しそうだ。
「そうだなぁ」
断る理由は一つもない。
僕も先程の彼女と同様に欄干に立つ。
眼下の水面はやはり10m程下にある。一歩を踏み出すにはそれなりの勇気がいる。
「どうしたの? 怖いの?」
「そ、そんなわけあるか」
答える自分の声が僅かに上ずっているのが分かった。
幼い頃はこんな遊び、むしろ進んでやっていたと思うんだが。歳とともに無茶振りができなくなったということか。
しかし。
眼下でこちらを見ている少女を前に、情けないところを見せるわけにはいかない。
「行くぞ!」
気を取り直し、自ら言い聞かせるようにそう呟き、両足に力を入れた時だ。
「君、何をやっているのかね!」
突如右足首を捉まれて、飛び出しかけた勇気が再び引っ込んでしまった。
「え…」
振り返れば、そこには一人の警察官。
「危ないから下りなさい」
「…はい」
僕は欄干から下りた。
先程まで高揚していた冒険心が急速に縮んでいく反面、羞恥心が急激に増大していく。
「何をしようとしていたのかね?」
「あの、えっと」
僕は睨む警察官の視線から逃れるように、眼下の水面に視線を逃がす。
あれ?
「どこ行った?」
少女の姿が、ない。
「どこ行った、とは?」
「いえ、つい今まで女の子が川で泳いでまして。というかその子が気持ちよさそうに飛び込んだんで、僕もつい真似してみようと…」
言葉の最後は羞恥心に小さくなっていく。
しかし僕のそんな気持ちはよそに、警察官の表情が険しくなる。
「何だって?!」
「??」
中年を越え、やや老域に差し掛かった彼は慌てて橋の下を見下ろし、そして橋の反対側に回って同様に水面を見下ろした。
僕が見たのと同様に、少女の姿はない。
警察官は厳しい目で僕を見る。
「女の子が飛び込んだと言ったね」
「は、はい。それで僕にもやってみたら?って」
「それは『飛び込んだ女の子』が言ったのかね?」
「えぇ。水の中から涼しそうに」
警察官の彼は厳しい目のまま、僕を土手周りで川べりまで連れてくる。
「何か気付くことはないかな?」
「はぁ?」
目の前にはさらさらと流れる川。
澄んだ水は透明度が高く、川底まではっきりと見える。
そう、はっきりと。
「あれ?」
僕はそこで不可解な点に気づいた。
「あの、おまわりさん。この川って、深さは…」
「一番深い中心部でも、晴天時は30cmにも満たないのだよ」
「……じゃ、じゃあ僕の見たのは??」
ただ一つ、はっきりと言えることがある。
もしも僕が橋の上から川に向かって飛び込んでいたら―――川の水を赤く赤く染めていたことだろう。
間違いなくありえた、そんな未来予想図を僕は脳裏に刻み込む。
相変わらず夏の日差しがギラギラと地上を焼き付けている。
だがそれを受ける僕は、どうしようもない薄ら寒さに身体を震わせていたのだった。
確かに涼は満喫できた一件である。
了(涼)