ナツソラ



青と緑 (9 years later)

 雲1つない青い空。
 ぎらぎらの太陽が痛いくらいの光を浴びせてくる。
 夏。
 僕はこの季節が大好きだ。
 「夏雄、あんまり遠くに行くなよー」
 「分かってるってー」
 父ちゃんの声にそう答える。
 この季節が好きなのは、僕の名前に入っているからかもしれない。
 夏休み。
 僕は父ちゃん達に連れられて爺ちゃんの家に来た。
 父ちゃんの仕事の都合で、小学1年の夏休みから爺ちゃんのところへ転校することになったのだ。
 爺ちゃんの家は今まで住んでいたところと違って、山もあるし川もあるし海もある。
 僕はとても嬉しいのだけれど、父ちゃんと母ちゃんはなんだかとても忙しそうだ。
 『脱サラ』とか言っていたけれど、よく分からない。
 僕は今日も片手に虫かご、片手に虫取り網を手にして近所の神社に走っていく。
 神社に入った途端、たくさん生えている木の葉のお陰で涼しくなる。
 「ふぅ」
 びゅうと強く吹いてきた風に、僕は気持ちよくて思わず声が出た。
 「わっ!」
 同じ瞬間に違う声がする。僕は辺りを見回した。
 静かな神社の境内。一際大きな木の枝に、麦藁帽子が引っかかっている。
 そしてその木の下には、帽子を見上げる子が一人。
 手を伸ばしているけれど、届くはずもない。
 僕は駆け寄り、
 「取ってやるよ!」
 虫取り網を大きく振り上げながら助走をつけてジャンプ!
 虫取り網の先っぽが麦藁帽子の縁にちょこんと当たり、運良く枝から外れて落ちてくる。
 それはそのまま、木の下の子の伸ばした手に落ちた。
 「あ…」
 その子は驚いた口の形のまま僕に振り返る。
 おかっぱ頭の小さな女の子。
 黒い髪とまっ白な肌が、まわりから切り取られたように見えた。
 「あ」
 「あ?」
 「ありが、とう」
 ぺこりと小さなおじぎをして、その子は僕を見る。
 「虫取り?」
 「うん、セミ取るんだ!」
 僕は答えて、もう片手の虫かごを見せる。
 そこには昨日取ったセミが3匹、じーわじーわと鳴いていた。
 女の子はかごの中のセミを見て、
 「そっか、あそこにもいるよ。違う種類みたいだけど」
 言って指差すのは、麦藁帽子のあったすぐ近く。
 ソイツは昨日取ったアブラセミなんかより、大きくてそれていて…強そうだ。
 「クマゼミじゃん! よく見つけたな」
 僕はゆっくりとにじり寄り、虫取り網をクマゼミの死角から振り上げる。
 ジジジッ!
 「よっしゃ! クマゼミ、ゲットだぜ」
 「わー、すごいね」
 僕は網からクマゼミを取り出して、女の子に差し出した。
 「へ?」
 「見つけたの、お前だし。あげるよ」
 困った顔の女の子は笑って、
 「いらない。セミって一週間で死んじゃうんだよ」
 「え、そうなの?!」
 「そうだよ」
 んー。
 考え、僕は手にしたクマゼミを
 「えい!」
 青い空に、高く放り投げた。
 クマゼミは鳴きながら青い空の中の、緑の木の中へと消えていく。
 「いいの?」
 女の子の声に、
 「一週間で死んじゃうんじゃ、可哀想だしなー」
 片手の虫かごを開ける。途端、アブラゼミ達も鳴きながら青と緑の中へ消えていった。
 「セミ取りに来たのに逃がしちゃうの?」
 「違うことして遊ぶからいいや」
 僕は言って、女の子の手を取った。思ったよりも細くて、冷たい手だった。
 「え?」
 困ったような、でも少し嬉しそうな顔でその子は戸惑う。
 「あっちの池のザリガニ見に行こうぜ、ええと…」
 「みそら。美空だよ」
 「僕は夏雄、行こうぜ、ソラ」
 「みそらだってば」
 この時の僕はまだ知らなかった。
 みそらという名のこの子が、僕と同じく夏休みを期に転校してきた子であったことを。
 なんでも「きれいな空気じゃないと咳が出る」らしい。
 でもこの頃の僕もソラも、名前すら後に覚えるくらいに遊びが優先な頃だったんだ。


蒼と白 (2 years later)

 青い空と青い海の境目は特に濃い蒼だ。
 水平線の向こうの空には真っ白な入道雲が浮かんで、波打つ海原にうっすらとその姿を映していた。
 僕は僕と同じくらいの大きさのイルカを膨らませ終わって、全身汗だくだ。
 焼けた砂浜に思わず寝転がり、背中が焼けるように熱くて慌てて跳ね起きる。
 「ナツ、なにやってるの?」
 すでに浮き輪を装備したソラが不思議そうにこちらを見ている。
 『4−2』と書かれた紺色のスクール水着と相変わらず白い肌が対照的だ。
 「遅いよ、さっさと行こうぜ!」
 ビーチサンダルを脱ぎ捨てて、僕は海へと駆け出した。
 「ちょっと待ってよ、お母さんたち来てからでも」
 言いつつソラが付いて来るのを背中に感じながら、僕は海に飛び込んだ。
 僕の父ちゃんとソラの母ちゃんは昔からの知り合いらしい。
 ソラの母ちゃんには「お父さんにそっくりね」とよく言われる。あと良く怒られる、怖い人だ。
 「ねぇ、ナツ」
 「ん?」
 イルカに必死に掴まりながら、ソラが言う。
 「海とプール、どっちが好き?」
 「つまんねぇこと訊くなよ」
 どこかのマリーさんのような返しをしてから、
 「海は波があって楽しいだろ。プールはしょっぱくなくていい。どっちも冷たくて気持ちいいから、どっちも好きだぜ」
 「ナツは嫌いなものないよね」
 「じゃ、ソラは海とプールだとどっちが良いんだ?」
 ソラはちょっと戸惑った顔をしてから、
 「私は、海かな」
 「へぇ。そういや、学校のプールの時間は時々休んでるよな。嫌い?」
 「そうじゃなくて、調子が悪いときだと入れないし。でも海に来るときは調子がいい時だから。それに」
 「? それに?」
 ソラは僕を見て小さく笑うと、
 「えぃ!」
 バシャっと、水を浴びせてきた。
 それからいつの間にかイルカを挟んでの水の掛け合いになったのだった。


灰色と赤 (7 years later)

 いつの間にか青かった空は曇天へ変わり、そして真っ黒になった。
 次に起こるのは逃げようのないどしゃぶり。
 それでも俺達は駆けた。少しでも濡れないようにと、無駄な努力ではあるが駆けた。
 やがて見えるのはバス停と待合小屋。
 俺と、ちょっと遅れてソラが狭いそこへ入り込む。
 先客はいない。まぁ、村はずれのここにいるとしても風変わりな釣り人くらいのものだろう。
 放課後に海と山と川が一枚に納まる風景、なんてのを探して遠出しすぎてしまった結果だ。
 「いやー、まいったまいった」
 「だから早く帰ろうって言ったのに」
 「すまんすまん、だって今日中に描き上げたかったからさ」
 俺の傍らには閉じたキャンバス。秋の文化祭に展示する、美術部の課題作品だ。
 「ソラはどうなんだよ、課題終ったのか?」
 「うん、まぁね」
 俺は作品他道具に忘れ物や雨の被害を被っていないかどうかの確認を終え、濡れた髪をかき上げて溜息1つ。
 「はい」
 「お、サンキュー」
 ソラに差し出されたタオルで顔を拭いた。
 「結局走っても歩いても一緒だった気がする」
 ソラのそんな愚痴に苦笑いしつつ、俺はタオルから顔を上げる。
 不意に目に入るのはソラの姿。
 濡れた制服のシャツはその下の下着の線どころか、彼女の身体のラインそのものをくっきりと浮かび上がらせていた。
 なんというか、育ったなーと思うも慌てて頭を振って考えを払い、視線を逸らす。
 「ん? どうしたの、ナツ?」
 「あー、いや、なんでもない」
 「? なにか隠してるでしょ、何?」
 ぐいとこちらに詰め寄るソラ。むしろお前が隠せ。
 「ちょっと、気になるでしょ」
 「ん。そうだな」
 話を変えよう。
 「ソラは大学、どうするんだ?」
 「私? 私は……まだ一年あるから決めてない。ナツは?」
 「俺は行くよ。せっかくだから東京まで出ようと思ってる」
 「え……、そっか。学校はもう決めてるの? 美術系?」
 「いや、部活は部活だよ。文系で俺の成績でも入れるようなところがあればな」
 「そっか。ナツは東京に出るんだ」
 小さなソラの呟きは、やってきたバスのエンジン音にかき消された。
 待合小屋から出ると空はすっかりと雲が散り、眩しいくらいの夕焼けが西の空に広がっていた。


黒と光 (8 years later)

 3年ぶりの帰郷は社会人3年目のお盆休みだった。
 近所の神社で催される夏祭りに、俺は久々に会うソラと一緒に回っていた。
 「しかし変わってないな、ここは」
 「そう? 近所に大型のショッピングセンターもできたし、去年はコンビニもできたわよ」
 「……変化といえば変化か」
 墨色の生地に幾羽もの白い鳥の描かれた浴衣を着たソラは、昔と変わらない白い肌に、長くなった黒い髪を一つに結い上げている。
 「そういうナツは変わったの? あんまりそうは見えないけど」
 「そうか? どこか都会っぽくなってないか?」
 「ないない」
 笑うソラも、最後会った3年前と変わらないように見える。
 どん!
 唐突に大きな音が響く。
 「お、花火が始まったな」
 「毎年、スポンサーも増えて花火の数は増えているのよ」
 「へぇ、そこは変わってきてるな」
 大輪の花を見上げながら、僕は言う。
 「変わらないものなんて、ないと思う」
 ぼそりと隣でソラが呟いた。
 「変わってないっていうのは、変わりたくないってことだと思う。変わるのが怖くて、先に進めないだけ」
 「ソラ?」
 隣の彼女を見つめる。
 ドン!
 一際大きな、最後の花火が彼女の白い顔を赤と黄色に染め上げた。
 俺を見上げる彼女のそこには、俺が今まで見たことのない諦めと寂しさが映っていたような気がした。


 帰路、夜空を見上げると都会では見えない天の川が夜空を二分してくっきりと走っていた。
 俺とソラは天の川の真下で、ちょうどその中頃を歩いているような感じだ。
 これまで歩いてきた天の川は当然一本であり、空の向こうへ続くその先ももちろん一本だ。
 「なぁ、ソラ」
 隣を行く幼馴染みにそう声をかける。
 「なに、ナツ?」
 いつもどおりの返答。変わらないが、それは確かに彼女の言うとおりいつかは変わるのだろう。
 だから、変わらないものを得る為にも、俺達は変わらなくてはいけない。
 「東京に、来ないか?」
 自然と言葉がついて出た。
 ソラの歩みが止まる。
 俺も立ち止まり振り返る。星空の下、ソラの白い顔がくっきりと見えた。
 そこには困ったような、でも少し……


青と緑 (Unknown)

 雲1つない青い空。
 ぎらぎらの太陽が痛いくらいの光を浴びせてくる。
 夏。
 この季節は大好きだ。
 「あんまり遠くに行くなよー」
 「分かってるー」
 息子を連れて実家に帰省した。
 虫取り網と虫かごを振りかざしながら、近所の神社の境内へセミ取りにいくその後ろ姿にデジャブを感じる。
 そう言えば、
 「あの時、俺はソラに出会ったんだっけ」
 この夏空の下、様々な出来事を経験し、そしてこれからも。
 「時代は繰り返す、なんてね」
 彼女の声が耳に届いた。


It continues to the next generation.