雪の魔法


 この日、関東では45年ぶりの大雪に見舞われた。
 都内でも45pも積もった雪は交通機関を麻痺させ、人々の動きを奪う。
 幸いだった点と言えば、雪の降り始めが土曜日であり日曜日の朝にはほぼ止んでいたことであろう。
 仕事に急ぐサラリーマン達が極端に少ない日曜日の小雪が舞い散る早朝。
 僕は膝まで濡れたズボンをパタパタさせながら、ガラリとした電車に揺られて職場に向かう。
 都心に近いベットタウンの、駅前のイタリア料理店。
 そこで18歳の僕は働いている。将来自分の店を構えることを夢見て、下積みの修行でもある。
 僕の住むのは都心から近い職場から、さらに山の方へ行った郊外だ。
 電車に揺られること45分。自分の住処よりは雪が心持ち少ない職場の駅前にたどり着き、生暖かくなったズボンをまた冷たく濡らして職場にたどり着く。
 一番の下っ端である僕は一番最初に来て、一番最後に帰る。
 この日も一番最初に来た、つもりだったが。
 「あ、おはようございます」
 「おはよう」
 すでに厨房にはオーナーがいた。
 「早いですね」
 「この雪だからね。早めに家を出たのさ」
 さっさと濡れた服を脱ぎ、調理服に着替えた僕はいつもの作業ローテーションを進めながらオーナーに問うた。
 オーナーはオーナーで仕込みの作業をしていた。4人の従業員で運営しているこのお店は、駅前のアーケード商店街の中にあることもあって結構繁盛している。
 加えてオーナーの料理の腕も確かで、本場のイタリアで5年仕込んできたと聞いている。
 「しかし45年ぶりの大雪って言いますけど、僕が小さい頃もこれくらい降っていた記憶があるんですが」
 すっかり体に染み込んだ下ごしらえの作業を続けながら、僕はソースの仕込みに入ったオーナーに言う。
 「そうかな? それは君が小さかったから、ちょっとした雪もたくさん積もったように見えたんじゃないかな?」
 「そうですかねぇ。一応、公園でかまくらを作って入った記憶もあるんですが」
 「5pくらい積もれば、かまくらくらいは作れるんじゃないかね?」
 「それもそうですね」
 それは遠い記憶。まだ僕が「将来はパイロットになりたい」とかなんとか言っていた、小学校に上がるかどうかの頃だと思う。
 公園で1人、かまくらを作って遊んでいた。でもそのかまくらは、近所のお兄さんに壊されてしまって。
 いや、あれは近所のお兄さんだっけ? 女の人もいた記憶が。
 そうそう、ちょうど今の僕くらいの年の男女だったと思う。壊してしまったので一緒に作り直してもらったんだ。
 作り直したかまくらは、4人で入っても充分に大きくて、中で暖かくて甘い飲み物を飲んだっけ。
 ん? 4人?
 「あー、1人で遊んでたんじゃなかったか。2人だったなぁ」
 同い年くらいの子。男だったか女だったか、正直そんなことはどうでもいい年頃だったから覚えていない。
 ただ近所の子ではなかったと思う。もしもそうなら今でも付き合いはあるだろう。
 会ったのは一度きりだったけれど、とても気が合った思い出がある。
 別れ際に『また遊ぼう』と言ったら嬉しそうに頷いていたっけ。
 「ん? 2人って何がだい?」
 「いえ、何でもないですよ」
 声に出ていたようだ。ぼんやりしていてもしっかり手は動いているのはオーナーの教育のおかげだろうか。
 「しっかし、今日はお客さん来ますかね」
 「どうだろうねぇ」
 緊張感のない声でオーナーは答える。
 結局、残る2人の同僚は電車が止まっているとかで出社できず、さらにこの雪の中を出歩く人も皆無でお昼前には臨時休業となったのだった。


 雲一つない突き抜けるような青空が広がっている。
 そして足元は一面の銀世界。わずかに車の轍があるので、そこに道路が走っているのが分かる。
 思いもかけない時間に地元の駅に戻ってきてしまった。
 田舎というカテゴリに片足を突っ込んでいるこの駅前は人もまばらで、よくもまぁ遅れることもなく電車を運行させるものだと運営会社を称賛したくなる。
 右を見れば、この雪で臨時閉店している本屋と雑貨店。左を見れば、雪が降らなくてもシャッターが下りたままの店ばかりの寂れた商店街。
 「……帰るか」
 僕は来た時と同じ道をそのまま戻る。
 さくさく。
 さくさく。
 道を踏み固める者もほとんどいないせいもあり、足を踏み出すたびにふくらはぎまで雪に埋まる。
 さくさく。
 さくさく。
 見れば前にも人影一つ。レインコートを着た背の高い女性のようだ。
 さくさく。
 さくさく。
 雪は音を吸収するとか、そんな話を聞いたことがある。
 染み込むような静けさの中、2人の雪を踏みしめる音だけが聞こえる。
 さくさく。
 さくさく。
 やがて僕の住処であるアパートの前にたどり着く。2階建て木造のそこは8台止まる駐車場の向こうに入り口がある。
 駐車場は止まる車もなく、綺麗な雪野原だ。
 そこを目の前の女性が進む。おや、同じアパートの住人だろうか?
 さくさく。
 さくさく。
 と。
 不意に前の足音が消えた。何気なく顔を上げる。
 目の前に手のひらがあった。
 「え?」
 呟く間もなく。
 「このストーカーめぇぇ!!」
 ばちこーん!!
 上げた僕の顔に女性の手のひらがめり込み、わずかに鉄の味を鼻の奥に感じたかと思うと、僕はそのまま後ろに倒れこんだ。
 ぐしゃ。
 背中で何かを崩した感覚があった。
 「「わーー?!?!」」
 そして自分か誰か分からない、子供のような声。
 それが何かを確認する間もなく、僕は崩れた雪の中に埋まった。


 視界の中の白を払い除けると、一面の青が映し出された。
 どうやら僕は雪の中に寝転んでいるらしい。
 時同じくして、僕が背中で崩した雪の何かから2人の子供が頭から雪まみれになりながら這い出して来る。
 「ひでぇよ、せっかくかまくら作ったのに崩すなんて」
 「なに、なにがどうなってるべさ?」
 男の子と女の子。年の頃は5,6歳だろうか? しかし男の子の方はどこかで会ったことがあるような、ないような。
 そしてその後ろでは、携帯電話でどこかにかけようとしているレインコートの女性が見える。
 「警察、警察っ」
 「ちょっと待て。僕が何をした」
 「す、ストーカーでしょ、駅からずっと付いてくるなんて。都会は怖いべさ!」
 なんか変な方言出ているし。
 「僕はここの住人です。それにストーカーに付きまとわれる覚えでもあるの??」
 「……」
 女性は不審げな視線を僕に向けたまま、しかしやがて戸惑いに変わり、そして。
 「えっと、なんかごめんなさい」
 誤解は解けたようだった。が、しかし。
 立ち上がった僕の袖が後ろに引っ張られる。
 振り返れば先ほどの2人の子供だ。
 「兄ちゃん、かまくら直せよ」
 「せっかく作ったのに…」
 怒った男の子と、泣きそうな女の子。
 「あ、ああ。ごめんな」
 「ごめんね、お姉ちゃんも直すからね」
 レインコートの女性も男の子に言ってから女の子を見る。
 「あれ?」
 「どうしました?」
 「いえ、どこかで会ったことがあるような、ないよーな??」
 首を傾げる女性。どこかで見たことのある反応だった。
 視線を子供たちに移す。この辺の子だろうか? もっとも僕は滅多に土日に家にいたことがないので分かろうはずもないが。
 しかし駐車場に入る前、かまくらなんてあっただろうか? 一面の雪野原だったと思ったのだが。
 まぁ、いいか。
 「よっし!」
 僕はパン、と両手を叩いて気合を入れる。
 「せっかくの雪だし、いっちょでかいのを作ってみるか!」


 時間的には3時間ほどかかっただろうか?
 途中に雪合戦やら雪うさぎを作ったりと、関係ないことをやっていたのがいけなかったかもしれない。
 割と暖かかった気温が、日が傾き始めた途端にぐっと下がり始める頃にかまくらは完成した。
 雪を積み上げ、押し固めて、スコップで中をくりぬく。そんな合っているのか間違っているのか微妙な、豪快な手段で出来上がったかまくらは、入ると案外暖かいものだった。
 「ふぅ、やっと仕上がったか」
 「お疲れさま」
 レインコートの女性が両手に缶コーヒーを持ってかまくらに入る。
 「思ったより広いですね」
 「苦労しただけありました」
 苦笑いの僕。
 「頑張ったもんね」
 「ねー」
 子供の2人はそう言って笑い合う。
 「じゃ、これはご褒美ね」
 彼女は手にした缶コーヒーを僕らに手渡す。250ml缶の、黄色い素地に黒文字のパッケージ。
 人肌程度の温かさだけれど、雪を触っていた僕の手にはかなり熱く感じられる。
 「いただきます」
 言って僕はプルタブを引いて口をつける。
 それは缶コーヒーにしては甘すぎるくらいに甘く、冷えて疲れた今の体には染み込むような旨さだった。
 同時、その味は過去の記憶とシンクロする。
 「あれ、え? これって、ひょっとして??」
 缶を下ろして前に座る子を見る。今の僕には背が高めの幼い女の子に映っているが、幼い頃の僕の視線だと男と女の判別がついていないと思う。
 隣の男の子に視線を移すと。
 「ヤバイ、そろそろ帰らないと」
 「わたしもー」
 2人は不意に立ち上がり、かまくらの外へと駆けだした。
 「ちょ、ちょっと待って」
 伸ばす僕の手は空を切る。
 2人が飛び出していくかまくらの外は、真っ赤な光で埋まっている。
 2人を追うようにして、僕もかまくらの外へ。
 「え?」
 夕焼けの光が眩しい。冬の空とは思えないほどに澄み渡ったそれは、赤い光で僕を照らしている。
 そして2人の子供達の姿は、煙のように消えてしまっていた。
 後には赤い光を受けてきらきらと光るかまくらが残るばかり。


 かまくらに戻ると、レインコートの女性が小さく笑って待っていた。
 一人戻った僕に、彼女は尋ねる。
 「二人は、いました?」
 僕は小さく首を横に振って、彼女の前に腰かけた。
 それを待ってか、彼女はこう語りだす。
 「私、今は美容師見習いで都会に出てきてますけど、実家は岩手の山の奥の方なんです」
 缶コーヒーで両手を温めるようにして続ける。
 「過疎地だったこともあって、当時から子供は少なくて。幼い頃はよく一人で遊んでいたものですよ」
 甘いコーヒーを一口。僕もそれに倣うように一口。
 「でもある時、同い年の男の子と遊んだ記憶が強烈に残っています。とても気が合ったんでしょうね」
 どこかで聞いたことがある話だ。
 「その男の子の名前も、どこに住んでいるのかも分かりません。小さい頃って名乗り合ったりしないもんですしね」
 小さく笑う。確かに、と僕も笑う。
 「じゃあ、2人でかまくらを出たとき、男の子が何を言ったか分かります?」
 僕は彼女に問う。
 もしも、これが。
 これが僕の予想することだったとしたら、それは。
 「えぇ、もちろん。『また遊ぼう』ですよね」
 とてもとても不思議で、素敵なことなのかもしれない。
 「そっか……改めて初めまして、かな。それとも久しぶり、かも?」
 10年余りを経ての自己紹介。
 再会を祝す盃である缶コーヒーは、温めなおす必要もないだろう。
 真っ赤な西の空には、あの頃と同じ宵の明星が変わらずに輝いていた。