天色


曙色

 かたんことん
 カタンコトン
 小さく軽快なリズムが足元から響く。
 大きなリズムは3分おきに駅に止まる横方向の慣性力。
 始発の環状線。
 車窓から覗く東の空は藍色だ。
 視界に映るのは延々と続く黒いビル群。
 その輪郭が少しづつ、白くぼんやりと輝いていく。
 それは登りつつある日の光の仕業か、はたまた眠気に襲われて滲んだ涙のせいか。
 ぼうっとした頭の中に、目的とした車内アナウンスの声が響いてふと我に返る。
 本能的に吊革から手を放し、両開きの扉の前へと進んだ。
 やや両足を突っ張るうちに停車。
 ちらほらと降りる乗客の一人となり、そのまま改札へと足を運ぶ。
 
 駅前の商店街にはいつのころからだろう、昔ながらの商店はなりを潜めて日本全国どこにでもあるチェーン店の数々が並んでいる。
 シャッター街より何倍もマシだ。
 けれどどこも同じで、まるで迷路に紛れ込んだ感覚に陥る。
 いつも明るく騒がしいそれらはしかし、今の時間はどこもしんと静まり返ってまるで眠っているかのようだ。
 駅前の通りが明るいのは、等間隔に並ぶ古く濁った街灯のお陰だろう。
 自分の足音が響くくらいに静かだった。
 明るく、しかし間違いなく夜の暗さを感じるのは、きっと頭上の藍色の空に咲いた満月のせい。
 まだ眠る街を、歩く。
 しんと静まり返った街を、歩く。
 月の光に照らされたこの街を、歩く。
 静寂の帳がおりた商店街の中を、自身の足音を聞きながらいつもの家路に向かう。
 仕事疲れが出てきたのか、それとも家が近いことに安堵を覚えてしまったのか。
 歩きながら、電車の中で感じていたぼんやりとした眠気に再び引き込まれる。
 商店街の左右に続く同じような建物と、合間に潜む夜の闇。
 輪郭が夜に溶けるように、上下が反転するように。
 目に映るもの、耳に聞こえるもの、肌で感じるもの全てがあやふやになっていくような感覚に呑み込まれていく。
 自動的に足を動かしている自分を感じつつ、意識が混濁して夜に呑み込まれていくのを良しとしている自分もいた。
 
 「おはよう」
 凛とした、それでいて明るい女性の声が耳を打った。
 聴覚が、覚めた。
 思わず足を止める。
 こちらに向かって駆けてくる人影がある。
 「おはよーう」
 それに応えるのは、眠そうなくぐもった、これも女性の声だ。
 ちょうど真横の建物から聞こえてきた。
 思わず声の先に目を向ける。
 Mの黄色い文字が目立つファストフード店の閉められたシャッターの前。
 先端に網のついた木の棒――ラクロスの道具を背中に背負った少女に、弓を肩に担いだ少女。
 夜陰を残したこの空気の中、2人の纏うセーラー服の白さに視覚が覚める。
 「うちの学校の朝練、早すぎでしょ」
 眠そうな少女が大あくびをしながらぼやいた。
 「まだ日も出てないし」
 「じゃあ、太陽を呼んでみせましょう」
 弓を持った少女が大仰にそれに応えるや否、肩に担いだ弓を天に掲げた。
 途端。
 「「眩しっ」」
 突然襲ってきた白い光はまるで矢の様に、網膜に突き刺さる。
 思わず声が出てしまい、もう一人の少女とハモってしまった。
 弓を掲げた少女の背後、商店街通りの向こうから丁度太陽が顔を出したのだ。
 「タイミングばっちり」
 得意げに言う少女と、「目が、目が」と某悪役キャラのセリフを呟くもう一人の少女はそのまま駅へと向かっていく。
 「日の出、か」
 暖かな日差しが肌を刺し、熱を伝えてくる。
 全身を包んでいた心地よい夜の闇が溶けていき、意識が目覚めていく。
 その場で大きく体を伸ばす。
 藍色を破るようにしてオレンジ色に染まっていた東の空はみるみる黄色に、そして薄い青へと変化していく。
 朝を感じながら、改めて帰路を目指した。
 
 「おはよう」
 「おはようございます」
 「はよっす」
 日が昇るにつれて行きかう人の数は増え、朝の挨拶があちこちから聞こえてくる。
 人々はまるで血液のように街の中を流れ始める。
 眠っていた街が目覚め出す。
 「おはようございます。お仕事ご苦労さま」
 「おはようございます」
 自宅アパートの前。
 管理人さんと目が合って挨拶を交わす。
 「むしろおやすみなさい、ですかね」
 笑ってそう答えると、管理人さんも笑う。
 「おはようがおやすみなさい、ですか。では夜頑張ってもらっている分、我々はお昼に頑張りますよ」
 手にした箒を立てて言う。
 そんな昼の守護者に別れを告げ、自宅ドアを開く。
 目を瞑っても分かる間取り。
 一発でTVの電源ボタンを押すと、いつもの声が聞こえてくる。
 『おはようございます、6時になりました。めざましニュース、始まります』
 いつものようにそれを聞きながら、眠りの支度を始める。
 おはよう、それは安堵の言葉。
 眠りに就く間、昼の時間は任せた。
 代わりに夜は任されよう。
 いい加減重くなってきた瞼を本能に任せ、一人呟く。
 「おはよう」
 おはようはおやすみ。
 今日一日、よき日となりますよう。

空色


 「おはよー」
 ぼんやりとした弟のその声に
 「はい、おはようさん」
 私は弁当を作る手を止めずに返す。
 「寒っ、ストーブつけてよ」
 「寒い方が目が覚めるでしょ。ほら、アンタの分」
 弟の分であるドカベンをテーブルにドカンと置き、私は自分の分をカバンの中へと入れる。
 「じゃ、行ってきます」
 「ほいほい、行ってらっしゃい」
 温まり始めたストーブの前でうずくまる弟の背中に蹴りを一つ。
 私は靴を履きつつ、玄関先に置いた弓を手に外へ。
 ひんやりとした外気が頬を撫でる。
 この季節、日はまだ昇っていない。
 「おはようございます」
 部屋の外、アパートの前の広場で箒をかける管理人さんにいつもの挨拶。
 「おはよう、今日も早いねぇ」
 私から弓に視線を移し、続ける。
 「木にぶつけて虫とか引っ掛けないように気を付けてね」
 「あ、はい、ありがとうございます!」
 応え、朝の運動も兼ねて小走りに家を後にする。
 友人と待ち合わせしている駅前のファストフード店前まで走ると、程よく体が温まる。
 日の出前なのに、ちらほらと人の姿が見て取れる。
 これから出社の社会人や、私のような登校もいれば、夜勤明けで帰宅すると思われる人の姿も見て取れる。
 吐く息が白い。
 白い湯気が藍色の空に昇っては消える。
 私は朝の、この時間が好きだ。
 新しい澄んだ空気が良い。
 活力がみなぎる直前の、静けさが良い。
 おはよう、という言葉を言うたびに自分自身が目を覚ましていく感じが良い。
 おはよう、という言葉を聞くたびに街そのものが目を覚ましていく感じが好きだ。
 小走りの私は住宅街から商店街へと入る。
 途端、街路樹に弓が引っかかり管理人さんの注意を思わず思い出した。
 小走りのペースを落とし、息を整える。
 昼や夜と打って変わって静かな駅前商店街。
 店舗は全てシャッターが下りており、まるでゴーストタウンのよう。
 その一つ、黄色いMの字の目立つファストフード店のシャッターの前。
 眠そうな同級生の姿を見つけた。
 相変わらず、いつも通り眠気が全く覚めていないようだ。
 ピッ
 左手のデジタル時計が時を知らせる。
 それは丁度30秒前の合図。
 「おはよう」
 私の声に、
 「おはよーう」
 くぐもった彼女の声。
 こんな彼女の目をしっかり覚まさせるのが最近の私の仕事だ。
 「うちの学校の朝練、早すぎでしょ」
 大あくびをしながら彼女はぼやく。
 「まだ日も出てないし」
 「じゃあ、太陽を呼んでみせましょう」
 仕込みは出来ている。
 3秒前だ。
 私は大仰に弓を天に掲げて見せる。
 途端。
 私の背中から白い出来立ての光が目の前の彼女の顔を照らした。
 「「眩しっ」」
 何故かそんな声がハモった気がする。
 ともあれ、日の出だ。
 あらかじめ今日の日の出時刻、この場所での角度、全てを合わせてきた。
 「タイミングばっちり」
 「目が、目がぁぁ」
 どこかの悪役のようなセリフを吐きつつ、私は彼女と駅に向かう。
 「目、覚めた?」
 「覚めたというか、目が痛い。眩しすぎてコンタクトがズレたかな?」
 手鏡をカバンから取り出し、自らの顔を映す彼女。
 こん
 「あ」
 今度は肩に担いだ弓が、低めの看板にぶつかった。
 その拍子か、弓に付いていた何かが彼女の手鏡に落ちる。
 「!?!?」
 足が止まり硬直する彼女。
 手鏡に映るのは彼女の固まった引きつり顔、その上。
 黄色と黒のストライプ模様をした、手のひらサイズの8本脚が手鏡に足を滑らせながらうごめいていた。
 「あー、さっき木にぶつけたときに引っ掛けてきちゃったかな」
 私は手鏡の上の蜘蛛をつまんで、近くの街路樹に託す。
 硬直した相棒はゆっくりと私に顔を動かし、
 「っは! 目が覚めたわ、ここ数年で一番に目が覚めたわ!」
 私の右肩にパンチしながら、目に涙を貯めて感謝してくれる。
 「じゃ、明日からは蜘蛛捕まえてくるかな」
 「やったら呪う、ひ孫の代まで呪うわよ」
 ラクロスの柄を私の脇腹に押し付けてグリグリしてくる。
 それを弓で払いのけながら、東の空に視線を向ける。
 刺すようだった朝日はすでに和らぎ、藍色からオレンジ色に変わっていった空はすっかり薄い青色に落ち着きつつある。
 「今日も良い天気」
 「まぁ、まずは朝練を頑張りますかね」
 私たちはそれぞれ小さく伸びをする。
 精一杯良い一日にしよう、そう思える空の色だった。





これは「めざましテレビ」企画のテーマ「おはよう」に投稿した作品です。