Sprinter
少女は泣きながら目を覚ました。
「またあの夢…」
知れずに自身の右足首を両手で押さえている。
白く若い肌には、大きく消えることのない裂傷の痕があった。
彼女から夢を奪った惨劇の、傷跡。
彼女はまるで頭の中に残った過去の映像を振るい出すかのように頭を軽く振り、寝巻きを脱ぎながら洗面所へ向う。
鏡に映るは我の強そうな17,8の少女、だ。
ぼさぼさの長い髪。2年前までは肩までの長さに押さえていた。
「もぅ、無理なんだもの」
寂しく鏡に話し掛け、その行為自体に苦笑い。
夢の為に親元を離れ、1人暮らしを始めたあの頃。
夢が錆びた今は同じ毎日が過ぎ、同じ白い顔が鏡に映るだけだ。
少年は目を覚ました。
本能的にポケットに手が行く。固い感触が指先に触れる。
ナイフ、だ。
臆病者のようなその行為に、彼は思わず唇を噛み締めた。
汚れたシャツの襟元を気にすることなく、彼は安宿の寝台から身を起こす。
いつもの朝が始まり、いつもの苛立ちが彼を支配する。
それはいつもの嫌な夢を見たからだ。
2年前の、彼が堕ちた理由。
鮮やかに、己の力のなさを見せつけられた2年前の現実。
今もまだ、彼は過去の事実に縛られている。
今日も2人には変化のない一日が,始まる。
少女は靴を履き、自身が選んだ変化のない学び舎へ。
いや…変化とは彼ら自身が起こすもの。
待っていて起きるものでは、ない。
スクランブル交差点
一定のリズムで変化する三色に合わせ、人と鋼鉄もまたリズムにのる。
すれ違う2人。
少女と少年の瞳が出合うことは今日もない。
…はずだ。
「ちょっと、あれ?」
誰かが呟いた。
その誰かは2人、3人…広がり行く。
波紋の様に。
誰かが上空を指差す。
「ん…?」
少女は何気なしにその方向を見上げる。
硬直。
それは交差点に面した高層マンション。
中ほどの20階。
「子供? うそでしょう??」
ベランダの柵の外,乳児が4つんばいで歩いている。
「落ち…る…」
いつものリズムが、止まる。
変わることのないのは三色のリズムのみ。
人も鋼鉄も、その全てが動きを止める。
緊張の静寂と、困惑の空気。そして絶望が目の前の展開に広がり…
其を突き破りしは、一つの呼気。
静を動へと変化させる、新しいリズム。
少女は動いていた。
右足が、うずく。
無視。
停止した人の間を駆け抜ける。
”行ける!”
落ち行く目標を目で追いながら、想う,祈る。
一瞬、目標がテープとダブる。
デ・ジャ・ヴュ
一瞬で充分だった。
少女に恐怖を与えるのは。
右足の感覚が、なくなる。
上下の感覚がなくなる。
彼女から夢を奪った黒い車のエンジン音,クラクション。
幾度となくリフレインされた、己の足首を砕かれる音。
幻聴…だ。
視界が、歪む。
”ダメ…走れない…”
「ププ〜〜!!」
響き渡るクラクション,それは現実の音!
誰かが鳴らした、偶然の音。
少女は我に、返る。
”こんな間抜けた、音だっけ?”
場違いな疑問。
同時に恥じる。
くだらないものに恐れていた、そのことに。
再び、彼女は目標を見定める!
動揺は僅か一瞬,けれど短距離の世界においての一瞬は無限。
落ち行く目標に間に合うには無限を覆す力が必要。
偉大なるその力は、彼女が夢を奪われたその日に失われたもの。
”取り戻す!”
覇気
彼女は走る、
走る、
走る、
走る………
子供はあどけない顔のまま、彼女に微笑みを。
腕を伸ばす。
僅かに、届かない!
飛ぶ!!
地上50cm
彼女の腕に、確かな感触。
”間に合っ…”
横っ飛びに子供を両手に抱きとめて、そして…
絶句と恐怖!
目の前に、動き始めたトラック一台。
全ての動きが、完全に止まって見えた。
”………死!”
予感する。
再び痛み出す足首。
だが、
子供が腕の中、彼女に笑っている。
恐怖は払拭,そんな暇ではないのだから。
”この子だけでも!”
飛びながら、子供を強く,抱きしめる。
そして
彼女の襲い来る衝撃!
柔らかな、包みこむような暖かい衝撃。
「え?」
思わず声が出る。
彼女が飛び出したベクトルを90度変更させたのは、一人の少年。
ザザァァ…
子供を抱いた少女を抱きしめ、自らの背中からアスファルトに滑り落ちる!
子供の落下の衝撃,少女の駆けた衝撃、その全てを請け負って。
少年のシャツの背中が摩擦に完全に破れた。
少女の鼻を、焦げ臭い匂いがつく。
同時に、
トラックが目の前を走り抜ける。
群集が、安堵を詰め込んだ溜息と喜びの歓声を吐き出した!
「だ、大丈夫?」
少女は少年の腕より抜け出し、子供をその場に降ろすと、彼の半身を起こす。
同時に露になった少年の背を見て、絶句。
背に走る、引き裂いたような二筋の壮絶な傷痕は、しかし古い傷。
「今は………実体のない天使のままじゃ君を護れないと分かったから、翼を引き千切ったのさ」
応える彼の瞳はいつか見た風の色。
前から後ろへと駆け抜けて行く,フィールドで駆ける彼女を包む風の色だ。
トクン
少女は自身の胸に手を当てる。
胸が、熱い。
心音が、良く聞こえる。血が騒いでいるかのようだ。
「そうだ、もぅ分かっているんだろう?」
少年はくすりと、歳相応のにこやかな笑み。
「な、何を…よ」
彼女は分かっている。
しかし言葉となって現実に現れた、一言が欲しい。
背中をそっと押してくれる、そんな言の葉が一枚。
それさえあれば、彼女は一歩前へ踏み出せる。
踏み出せれば、あとは自分自身で走り出せるのだ。
同じ毎日から逃れる、新しい明日への道へ!
「私が何を分かっていると…言うの?」
「君にはどんなことがあっても、走ることしか残っていないって事さ」
ドクン
胸が鳴った。
途端。
空気が、変わる。
世界が、変わる。
知れずに彼女の頬を涙が伝った。
「夢は錆びても時を越えて、魂を輝かせる」
少年は強い意思を瞳に灯す。
今度は護り切る。それが彼の役割…いや彼の決めたこと。
彼の背中の傷跡から光が漏れた。
「君の輝きで、俺は再び天使となるだろう。そしていつも見守ってやる,だから…安心して行って来い」
翼が生まれた。
少女は気付く。
走るのを辞めるのは一人で出来る。
しかし走り始めることは一人では出来ない。
夢を抱いたあの頃。
走る彼女を支えてくれた人達がいた。
父、母、教師、同級生…彼女を取り巻く全ての人。
脳裏に浮かぶ一人一人を少女は瞳を閉じて反芻。
”遅くなっちゃったけど…ありがとう、みんな”
目をしっかりと開く。
最後に目の前の少年に微笑みを向けた。
言葉は、いらない。
少年は彼女を見つめながら、翼を広げる。
少女は立ちあがる。
彼の翼と彼女の両足は躍動感に満ちている。
二人は無言でお互い、強く頷いた。
そして、
少年は上を見上げる。
少女は道の向こうを見つめる。
羽ばたいた!
駆け出した!
ただ微笑みだけを浮かべて、見送る子供。
離れ行く二人。
しかしこの時から二人の道は再び、確実に重なりだしたのである。
これは………
ある都会のおとぎ話