彼がその感情を遠くへしまってしまったのはいつの頃からだったのだろう?


カワラヌカンジョウ



 幼い頃から慣れ親しんだ土地を離れて幾年月が過ぎただろう?
 かつての友は旧友となり、今の土地でも多くの知り合いができた。
 一人、異郷の地へ来て、その地が新たな故郷となる。
 仲間と笑い、語らい、憂う。
 自分自身の居場所を作り、一人の暮らしも慣れていた。
 そんな一人の時、ふと気付く。
 周りが静かなことに。
 改めて実感する。一人であることを。
 それが悪い訳ではない。
 ただその時生まれる感情は、故郷で暮らしていたときに感じることができたものだったであろうか?
 ふと、気付く。
 ではかつては感じていて今は感じなくなった感情があるのではないか?
 「どうかな」
 彼は呟く。
 年とともに周囲は変わり、自分も変わる。
 変わらないものなどありはしない。
 変わらないものなど。


 5/9 母の日
 「あ、もしもし…」
 「あら、どうしたの?」
 電話先から聞こえるのは彼の母の声。
 「珍しいじゃない、アンタの方から電話してくるなんて」
 「う、うん、まぁ」
 彼は戸惑いがちに、答える。
 「どうしたの?」
 電話先から聞こえる母の声は、少し老いたような気がする。
 けれど、その雰囲気は変わらない。
 そう、彼に対する感情は、昔から変わっていない。
 ”ああ、そうか…”
 彼は思う、心から。
 変わらないものもある。
 故郷へ置き忘れてしまった感情があった。
 いつも思っていても、恥ずかしくて表に出せないまま、そのまましまってしまった感情。
 そして忘れてしまっていた感情。
 「あ、あのね」
 「ん?」
 彼は一呼吸置いて、言葉を紡ぐ。
 心を込めて、ゆっくりと、はっきりと。
 「ありがとう」

End...