サクラサクラ
3ヵ月前に引っ越してきた僕の家の近くには、桜並木がある。
会社の行きと帰りには必ずそこを通るのだが、一ヵ月前から奇妙なことに気がついた。
朝――まだ薄物ではあるがコートを手放せない、けれどもお昼はむしろ暑い、そんな春間近。
桜の並木通りには頭からすっぽりとフードを被った、分厚いジャンパーを着込む女が立っている。
一番大きな桜の木の前で、身じろぎ一つしない。
気付いた奇妙なことというのは、この女のことだ。
僕の知る限り、僕がここを通る朝と晩、必ずここに立っている。
いつも同じ服装で、僅かに覗く白い口元から女だと分かる、そのくらいの怪しさだ。
今日も今日とて、ぼんやりと道行く人々を眺めながら一人立っていた。
何者なんだろう?
その思いは次第に僕の心の中で大きくなっていき………
そして今朝。
僕は普段は通りすぎる彼女の前で立ち止まる。
「あの」
僕の声に、彼女の肩がピクリと揺れる。
「君は」
続ける言葉に、彼女は顔を上げた。
同時、一陣の暖かく柔らかな風が吹き抜ける。
それは春を含んだ風。
拍子に、彼女の頭全体を覆っていたフードが風にめくられた。
現れるのは、桜色の長い髪を持つ若い女性だ。
朝の日差しを僅かに照り返す、その髪に思わず目を細めてしまう。
いや。
いや違う、僕が目を細めたのは、彼女の髪の色ではない。
再び吹き抜ける春の風の中、彼女は厚い生地のジャンパーを脱いだ。
現れるのは桜色のカーディガンとスカートをはいた姿。
僕は気付く。
彼女の背後、いや、視界全体に広がっていた枝だけだった桜の木々が。
全て桜色に染まっていることを。
視界をまるで襲うように広がった眩しいくらいの桜色。
それは桜が一斉に開花した、その衝撃だったんだ。
「そうか、君は」
僕は彼女の正体を知る。
だから、僕の言葉はここで終わった。
あとは無言のまま、彼女と共に今年一番の桜を見上げるのみ。
おわり