みぞれを孕んだ北風が一陣、僕のロングコートを激しく引っ張る。
 年末の忙しさは年が明けてからもリセットされることなく継続し、気がつけば新年も一ヶ月が過ぎる頃。
 仕事で駆け回る僕は得意先から直接自宅への帰路の途上、いつもの駅前から少し歩いたところでふと足を止めていた。
 夜も更けているからか、はたまた寒い夜だからか、駅前の繁華街は人もまばら。
 その一角に、ひっそりと赤提灯の下がった店が一軒。
 曇りガラスのはまった滑り戸の向こうからは、暖かな光が漏れている。
 「呑み屋、か」
 若干の空腹と、なによりも連日の仕事疲れが光に引き寄せられるようにどっと沸いて出てきた。
 そして家に帰っても一人寂しい、冬の空気に冷え切ったアパート部屋を思い出して自然と足が店に向いていく。
 でも家に帰って、プレゼンの資料作らないといけないんだよな。
 思い出すも、身体は自然と滑り戸を左にがらりと開けていた。
 「!」
 一瞬で、僕は『それ』に目を奪われる。
 「らっしゃい」
 一拍遅れての店の主人と思われる、野太い声が飛んできた。
 店は8畳ほどのカウンターのみ。椅子は横並びに6つほど。
 カウンターの向こうには初老の域にある、しかしがたいは良い禿頭の男性が一人。
 店内に流れるのはテレビからのスポーツニュース。
 店の奥の主人の頭上辺りの棚に、14インチのブラウン管を使用した安物のTVが地方局を垂れ流していた。
 客は一人。店の一番奥のカウンター席でコップ酒を傾けている女性。年の頃は20の前半だろうか?
 彼女はぼんやりと、TVを見上げるように見つめていて。
 ただそれだけならば、気にも留めることはなかっただろう。
 しかし彼女には、このときの僕が息を忘れるほどのある意味『美しさ』を備えていたのだ。
 白
 ただただ――白かった。
 僕はその白さに目を奪われていた。
 腰まである白くまっすぐな長い髪。まるで作り物であるかのような、白磁の如き白い肌。
 ブラウンのカーディガンをまとって、眩しいほどの白さを抑えているが、このときの僕には目が覚めるほどの白さが網膜に焼きついたのだった。
 それは普通ではない、後にアルビノ――先天性色素欠乏症という特性だと知ることになる。
 その彼女がゆっくりとこちらを向いた。
 容姿からは不釣合いな黒い瞳が、僕を射る。
 そして赤い唇から僕に向かって、けだるそうにこう言葉を飛ばした。
 「寒いから、早く閉めてくれる?」
 「あ、はい」
 これが僕がこの店『招福亭』に初めて足を踏み入れた瞬間であった。

く蛇を巻く


 「お客さん、どうしたい? ボーっと突っ立って」
 店の主人の言葉に僕は我に返る。
 「あ、すいません。つい」
 「「つい?」」
 返る声は主人に加えて一つ。白い彼女のものが加わっていた。
 返答を求めるその問いに、僕はあまり考えずに思わず答えてしまう。
 「キレイだなぁって」
 答えてしまってから。
 それは本人を前にして、それも初対面の彼女をして言う言葉ではないと気付く。
 「ふむ」
 視線をTVに投げる店の主人と、
 「ほほぅ」
 満足げに頷きつつ、
 「よし、こっちゃ来い」
 「ぇ」
 「こっちきて、隣に座りなさい」
 半ば命令口調で手招きする白い彼女。
 「えーっと」
 助けを求めて店内を見渡すも、他には店主しかおらずに彼は我関せずを装っている。
 まぁ、
 「いいか」
 僕は小さく笑って彼女の隣のカウンター席に腰を下ろした。
 「何にします?」
 まず問うてきたのはTVから視線をこちらに戻した店主。
 厳つい顔つきの彼だが、その瞳には愛嬌が感じられた。
 「瓶ビールを1本」
 「まいど!」
 コップが一つと、栓を抜いた大瓶がカウンターの向こうから渡される。
 「どうも」
 受け取り、しかし瓶ビールの方は隣の女性に横から取られた。
 彼女は屈託なく笑いながら、
 「キレイな私がお酌をしてあげましょう」
 「……じゃ、お言葉に甘えて」
 コップに注いでもらう。彼女は自身の日本酒と思われるコップを持つと、
 「では、出会いを祝して」
 視線をやれば、店主もまた焼酎と思われるものが注がれたコップを手にしていた。
 「「乾杯!」」
 かちん
 3つのコップが触れ合って、硬い音を立てる。
 僕はビールを一気にあおる。
 喉を刺激する苦味と炭酸が、仕事の疲れやよどみを押し流してくれるような、そんな錯覚を思わず持ってしまう。
 「おや、良い呑みっぷりだねぇ」
 隣の彼女が空のコップにビールを注いでくれた。
 同時、店主が突き出しにと小皿をカウンターに置いてくれる。
 「ありがとうございます」
 思わず声に出して礼を言い、小皿を見れば。
 「モツ煮?」
 「どて焼きです。私の故郷の味付けですけど、あったまりますよ」
 笑って初老の店主は言う。
 とろっとした味噌風味のダシに、良く煮込まれたスジ肉やモツがしっかりと絡んでいた。
 どて焼きというと、彼は関西の出身なのだろうか?
 僕は割りばしを手に取り、それを一口。
 甘辛いダシに、脂の乗った肉が口の中でとろけていく。味噌味のダシのとろみが、料理の熱を逃がさずに保っていた。
 「ビールが思わず進みますね」
 僕も笑い、再度ビールの入ったコップを傾けた。
 「お兄ちゃん、この辺で見ない顔だけど旅行者?」
 隣のお姉さんがコップ酒を舐めながら、そう訊いてきた。
 「先週、この街に引っ越してきたんですよ」
 「仕事かい?」
 と、こちらは店主。
 「はい、新しい工場を建てたんで」
 「あー、新しく出来た工業団地のところね」
 なるほどなるほどと頷きながら、隣の白い彼女は続ける。
 「晩飯時に一人にこんな辺鄙な飲み屋に来るってことは、単身赴任かしら?」
 「こんな辺鄙で悪かったな」
 店主のツッコミを聞きつつ、僕は肯定であり否定を返す。
 「独身ですからもともと単身ですし。本社からの転勤ですよ」
 「へぇ、そっか」
 うんうんと彼女は頷きながら、自身ありげにこう告げた。
 「貴方は今日、とんでもない幸運を見つけたのよ」
 「幸運?」
 「そう。この素晴らしい『招福亭』というお店と、そして私との出会い!」
 「……幸運??」
 うん、そこまで自信満々に威張れるほどのもの、かな??
 しかしここに店主の言葉が加わった。
 「言いすぎだとは思うが、しかし人と人との出会いだけは天の采配次第だしな」
 そして彼は言う。
 「まぁ、こんな田舎に転勤になって大変だとは思うが、良いと思えることを一つ一つ見つけていけば、住みやすい所だとは思うよ」
 年上らしい、良い助言として受け取っておくことにした。
 でも確かに。
 こうして仕事以外で他人と言葉を交わせるのは酷く久しぶりに感じるのは間違いない。
 彼女の言うとおり、この出会いは僕にとって幸運であるようにと、思う。
 まぁ、ごたくは良いさ。まずは何を頼んでくれるんだい?」
 店の主人はニヤリと笑みを浮かべつつ、僕の後ろの壁を指差す。
 そこには小さなホワイトボードに手書きのお品書き。
 「そうですね、まずは……」


 一刻後、僕はすでに出来上がっていた。
 付き出しでも分かっていたが、腕の良い主人の出す美味いつまみ。
 ビールから途中で変えた、この土地の地酒。
 変わってはいるが間違いなく美女ではある、隣の客。
 そして気兼ねなく交わされる会話に、僕は油断していたのだろう。
 ちらりと腕時計に視線を這わせ、ば21時を差していた。
 「ヤバイ、帰らないと」
 「夜もこれからってのに、帰路を急ぐ理由なんてあるのかしら?」
 そういって僕を睨む彼女の目は、蛙を睨む蛇のように束縛性のあるものだった。
 僕はそれを引き千切るように腰を浮かせる。
 「明日のプレゼン用の資料を作らないといけませんので」
 「プレゼンって、お仕事の?」
 「そうです」
 「ふぅん」
 興味なさげに彼女は吐息とともにそう呟き、
 「ところで。アナタがソレをやる必要があるのかしら?」
 「そりゃあ、僕の仕事ですから」
 それに彼女は小さく笑う。同様に店の主人も苦笑いのような笑みを口に浮かべていた。
 「なんですか、2人して」
 「いや、だって、なぁ?」
 「ねぇ?」
 主人と彼女は目を合わせて、そしてそろって溜息。
 小芋の皮をむきながら、主人が僕にこう告げた。
 「個人商店じゃないんだろう? 会社ってのは誰かがいなくても巧く回るようにできてるもんじゃないか?」
 「いや、そんなことは」
 「そんなものじゃない? アナタが社長とか役員さんとかなら話は別だけど、普通の社員でしょ。全部が全部、アナタの目の届くところで行なわれているお仕事なのかしら」
 「そんな訳ないじゃないか」
 「でしょう? アナタと同じような立場の人も大勢いるんでしょう、きっと。で、その人たちはアナタのように家に帰ってまでもお仕事しているのかしら?」
 「……人によっては」
 「していない人もいるんでしょう? なら余力のあるその人に任せてしまえば良いじゃない。全てを自分で背負い込んだつもりになっているだけよ、アナタは」
 「……そうなのかな?」
 「そうなんじゃない」
 「そうかもな」
 隣の彼女のどこか突き放したような口調と、なんとなく相槌をうつ店の主人。
 僕はほろ酔い頭で考える。
 明日のプレゼン資料のことを。
 別になくても。
 いや、明日の会議に別に僕がいなくても、他の誰かがきっと巧くまわしてくれるだろう。
 今の仕事は、僕の生活にとって大きな比重を占めている。
 けれど逆は、この仕事にとって僕の比重は?
 きっと僅かなものだろう。
 そう思い至ったとき、僕はこう言葉を紡いでいた。
 「大将、熱燗もう一本!」


 結局のところ、翌日の会議では若干の二日酔いで頭を痛めて出席。
 当然のことながらプレゼン資料はなく、問題多発。
 がっちり会社から絞られる羽目となった。
 そりゃそうだ、この仕事にとって僕の比重は小さくとも、僕にとってこの事後との比重は大きいのだから。
 仕事疲れに重たい身体を引き釣りながら、その日の夜もいつもの帰路に着く。
 「つ、疲れた」
 電車を降り、精神的にも疲れた僕の目にふと入るのは、暖かな光の漏れる居酒屋。
 その名は「招福亭」。
 思わず足を止めた僕を、真冬の冷たい風が熱を奪うように一陣吹き抜けていく。
 「………少し寄っていくかな」
 月末までに作成しなくてはいけない資料のことを思いつつも、僕の足は帰路から一歩、また一歩とずれていくのだった。

続きますん