婚姻の世界エルハザード 〜後編
「菜々美殿が動きました」
ロンズから報告が入ったのは日がかなり高くなった頃であった。
「思ったより遅いのう。何をしておったのじゃ?」
「はっ、どうやら弁当を作っていたようです」
「弁当?たかが弁当作るくらいでそんなに時間がかかるのか?」
「いえ、それが業務用の弁当です」
「なんじゃと?」
「ですので昼食用に販売する弁当です。店は閉まっているのですがその前に弁当を山積みにしております。バイトと思われる売り子に色々指示を与えていたようでして、その後菜々美殿は荷物を持って城へ向かったそうです」
説明を聞いたファトラとアレーレだが何とコメントして良いか困っているようだ。
「菜々美君らしい、と言うべきですかな。突然店を閉めると常連に悪い、また稼げるのに何もしないで立ち去る事は絶対にできない。だが弁当を作って販売すれば両方を何とか押さえることができる。さすがエルハザード一の商売人ですな」 ストレルバウがフォローする。
「ま、まあ確かにそうじゃが…これから男を誘って旅行に行こうという女のする事ではないな…」
「やはり菜々美お姉さまにとってはお金が第一なんでしょうか…」
呆れ顔の二人。菜々美の心情は理解できるが納得できないようである。
「とにかく動いた訳だな。姉上はどうじゃ?」
「それが…動く気配は全くございません」
「どういうことじゃ…まさか姉上は人目がない城内で菜々美を拘束しようと言うのではあるまいな」
ファトラの言葉にロンズは目を剥いた。
「ば、馬鹿な!そんな事をしたら後でいくら賠償請求されることか!すぐに止めて参ります!」
慌てて退出しようとするロンズをファトラが呼び止める。
「待てロンズ!まだそうと決まったわけではない。早まるな」
「そうですぞ侍従長。ここはお互い正念場です。対応を間違えた方が失敗する。慎重に運ばねばなりません」
ストレルバウにも諭されロンズは再び席に着く。
「申し訳ございません。つい取り乱してしまいました」 恥ずかしそうに頭を下げる。
「無理ありませんよロンズ様。万一ファトラ様が仰ったような事になったら菜々美お姉さまは喜んで宝物庫に入っていくでしょうから」 同情混じりにアレーレが言えば
「そうじゃな。菜々美の事だ、特大の鞄を誠に持たせて入っていくことだろう」 ファトラも同調する。
「ファトラ様、冗談はお止め下さい。万一そのような事になれば…」 顔が青くなる。
「まあまあ侍従長、ルーン殿下とてそれくらいはお分かりのはず。何か違う手を考えておられるはずですぞ」
ストレルバウの言葉にゆっくり頷くファトラ。
「ロンズ、取り敢えずそなたは城内を見て参れ。誠はまだ拘束されていないようだが昨夜から姉上が動いていないのが気になる。何か見落としていることがあるとしか思えん。何かあるはずじゃ」
「御意に。ついでにそれとなく警備の方も探って参りましょう。余りにも静かすぎますからな」 一礼して出ていく。
「嵐の前の静けさでなければ良いが…」
ルーンの方から動く必要はない、分ってはいるが菜々美をそそのかしたのは昨夜だ。
手紙を渡したことに気付かなかったとしても何かあったと思うのが普通である。
そして菜々美が行動を開始した。
誰が考えても昨日アレーレが接触したことと結びつけるはずである。
にも関わらずルーンサイドに動きがない…考えられることは既にその対処を行っていると言うことである。
しかし表面上城の内外に変化はなかった。
“もしかして姉上はわらわが焦れて動き出すのを待っておられるのか?”
有り得ない話ではない。
動くにせよ静観するにせよ辺りを窺いながらの手探りになる。
そう考える事自体ルーンの術中にはまっていると言えるだろう。
ストレルバウでさえ自信がなさそうだ。
“これはもう覚悟を決めるしかないな”
ファトラはゆっくりと目を閉じてそのまま瞑想に入った。
ロンズが城内の情報を集め、更に菜々美が誠を城から連れ出した事を伝えにファトラの部屋へ入ったときファトラはまだ瞑想中でストレルバウとアレーレは邪魔にならないよう少し離れたところでお茶を飲んでいた。
だがロンズには一瞬ファトラの姿が見えなかった。
目を擦って再度確認すると今度は部屋の中央に座るファトラが見える。
ファトラの気配は見事なくらい部屋と同化していた。
ロンズはファトラの傍まで行き自然と頭を垂れる。
「ロンズか」 目を閉じたままファトラが呟く。
「はっ、遅くなって申し訳ございません。つい先ほど菜々美殿が誠殿を連れて城外へ出ました。それに対し警備の者達は何の反応も見せておりませぬ。手の者に後を付けさせておりますがいまのところ順調でございます」
ファトラは目を開けてロンズを見る。
「ロンズ、菜々美が連れていたのは本当に誠か?替玉と言うことはあるまいな」
「間違いございません。またウーラも後を付いていったようです。門番が確認しております」
「そうか…」 再び考え込むファトラ。
「誠君が城を出るのにトラブルはなかったのかね?」
ストレルバウとアレーレも傍にやってきた。
「特に何もなかったようですな。一番揉めたのが菜々美殿が誠殿を連れ出そうとしたときだと聞いております。そのう…誠殿はファトラ様の事を大層気にかけていたそうでして」
「わらわが病気かと思ってたようだからな。しかし菜々美の前でそんな事を言ったらただでは済むまいに」
「御意、部屋の中で何やら大きな音がしたという報告もございます。一部を目撃した侍女の話によりますと、いやがる誠殿を菜々美殿が強引に引っ張っていきその後をウーラが心配そうについていったとか」
その状況は容易に想像できる。
ファトラの顔に笑みが浮かんだ。
「誠も気の毒にな。万一菜々美と一緒になったら確実に尻に引かれるだろうて」
誠の場合は相手が誰であろうとそうなるのは確実だ。
「ファトラ様、万一では困ります。確実に誠殿の貞操を奪って貰わないと意味がございません」 ロンズが渋い顔で話す。
「そうじゃったな…所で姉上の方は動きはないのか」 平静を装うファトラ。
「御意。全くと言っていいほど城内は静かです。警備の者が多いという他は何も変わりはございません。城外におきましても同じでございます」
「解せぬな…菜々美が誠を連れ出した事を気にされていないとしか思えぬ…ストレルバウ、どう思うか?」
「二つ考えられます。一つは既に対策済みであると言うこと。もう一つはファトラ様が焦れて動かれるのを待っていらっしゃる。このどちらかではないかと思われます」
「対策をとられているとしたらその内容は?」
「この段階になりますと想像がつきません。誠君達は既に城外へ出ております。恐らく町はずれにある定期便の発着所へ向かっていると思いますが彼ら、いや菜々美君を止めることはできますまい。ルーン殿下ご自身が直接現場へ向かわれて説得をするのならともかく、兵士が強引に彼らを止めようとしても効き目は無いと存じます」
「何か理由をつけてと言うのはどうじゃ。或いは定期便の就航を止めさせるというのは?」
「菜々美君に効くとなると金銭絡みになりますがいまは誠君が傍におります。少々のことでは効かぬでしょう。また定期便を差し止めたところで相手があの菜々美君です。他の手だてを考えるはずです」
「私も博士と同意見です。やはりルーン殿下はファトラ様が動かれるのを待っていらっしゃるのはないでしょうか」
ファトラは再び目を閉じる。
どう考えてもいまから菜々美を止めるのは難しいように思える。
止めることができるのはルーンとファトラ、そしてシェーラ・シェーラくらいだろう。
またファトラに残された最終手段として菜々美に全てを打ち明けるというのがある。
ただしその場合は騒ぎが大きくなろうとも菜々美と誠を駆け落ちさせる事になる。
そして間違いなくシェーラと、更には大神官達との関係が気まずいものになるだろう。
当然ルーンも同じ事は考えたはずだ。
ファトラは目を開けた。
三人がファトラの言葉を待っているかのように注目していた。
「ロンズ、アレーレ、その方ら菜々美を追え」
「と申されますと…」 彼らにとって予想外の答えだった。
「直ちに高速クルーザーを出し菜々美達を収容せよ。収容後彼らを…温泉宿でもどこでもいい、連れて行け。その際騒ぎになるようならロンズはその場に残り事態を収拾せよ。また最悪の場合事実を菜々美に話しても構わぬ」 一気に話すがその言葉には抑揚が感じられない。
「どういうことですかファトラ様。そんなことをしたらシェーラお姉さまが」
「だから構わぬと言っておる。姉上の裏をかくにはそれしかない」
「まさか…既にルーン殿下は動いておられると申されるのですか?」 ストレルバウが驚愕の表情で尋ねる。
「この大事な局面で姉上がわらわの出方を待つというあやふやな事をされるはずがない。必ずや何かの手段を講じておられるはずじゃ。急げ」
「御意」 納得して、というよりファトラの迫力に押されてロンズが立ち上がる。
その時窓の外より異音が聞こえた。
「なんじゃいまの音は?」
「さあ…ですが炸裂音だったような…」 そうロンズは答えてから窓へ向かう。
窓から顔を出したロンズは遠くに黒煙が上るのが見えた。
手に汗が滲み出てくる。
気を取り直し再度確認するが今度は火柱が、離れているため小さいが紛れもなく火柱が上がるのが見え、少し間を置いて再び炸裂音が聞こえた。
ファトラ達の方を振り返ったロンズだが真っ青になっている。
「シェーラか…」 辛うじて口にするファトラ。
ゆっくりと頷くロンズ。
「まさか!?マルドゥーンにいらっしゃるはずのお姉さまがどうしてここに!」 信じられないといわんばかりにアレーレが叫ぶ。
しばしの間をおいてファトラが呟いた。
「姉上しかおるまい…」
「しかし昨夜のうちに御使者を出したとしても早過ぎますぞ」 ストレルバウが異を唱える。
「だが偶然に現れたというのは余りにも都合がいい解釈じゃ。その辺りは姉上に聞くしかないがな」
再び沈黙が場を制した。
ややあってファトラは再度窓の方を見る。
そしてその前に立つロンズを見た。
「ロンズ」
「何でしょうか」
「危ないぞ」
「は?」
次の瞬間窓からアフラが飛び込んで来た。
窓辺に立っていたロンズはアフラの蹴りで壁まで飛ばされる。
「なんやロンズはんでしたか。うちはてっきりファトラはんかと思うて。堪忍な」 悪びれた様子もなくアフラはロンズの方へ軽く頭を下げた。
「い、いえ…姫様が無事で何よりです…それよりもどうしてここへ…」 何とか体を起こして尋ねる。なかなかの根性だ。
だがアフラはそれには答えずファトラの方を向いた。
アフラはファトラに文句を言いたかったのだが、顔を向けたときには目の前にファトラが立っていた。
「アフラ頼む!わらわを連れて逃げてくれ!」 アフラの手を掴んで叫ぶ。
室内はシーンと静まりかえった。
数秒後、我に返ったアフラが問答無用でファトラに蹴りを放つ。
ファトラはバックステップしてそれを避けた。
「ちっ!」 アフラは後方へ下がったファトラを追うように前へ踏み出し今度は正拳を繰り出す。
「なんじゃ一体。わらわが何をしたというのじゃ?」 ファトラは巧みに受け流しながら尋ねる。
「何をやて?馬鹿な事言いなはんな!なんでうちがあんたと駆け落ちせなあきまへんのや!」 そう叫んで更に一歩踏み込み後ろ回し蹴りを放った。
それに対しファトラは
「ストレルバウバリア!」 と絶叫しストレルバウの襟首を掴んで縦にする。
アフラはぼよ〜んとゴムまりを蹴ったような感触を覚えた。
蹴りが弾かれた上にその反動でバランスを崩す。
その隙をついてファトラは手にしたストレルバウを投げつけた。
「ストレルバウクラァッシュ」 同じく絶叫する。
アフラは飛んできたストレルバウを裏拳で叩き落とそうとしたが考え直したのか横に逃げる。
ぐしゃあという鈍い音が聞こえたがそれには構わずアフラは開いたファトラとの間を詰めようと再び構えた。
「アフラ…わらわは駆け落ちと言った覚えはないのだが…」 困ったような表情でファトラが呟く。
「なんやて、さっき一緒に逃げてくれと言わはりましたやろ!」
「あのうアフラお姉さま…ファトラ様の言い方も悪かったかもしれませんが『一緒に逃げる』のではなく『どこかへ逃がして欲しい』と言うことなんですが…」 アレーレが控えめに訂正する。
まあ一緒に逃げて貰えるのならそれに越したことはないのだが…。
いつも様子が違うファトラとアレーレを見比べたアフラは取り敢えず構えを解いた。
「どういうことでおますか?説明して貰いまひょ」 そう言いつつも警戒しているようだ。ゆっくりとファトラ達から離れる。
一方説明しろと言われたもののどこまで話して良いものやら…顔を見合わすファトラとアレーレ。
「アフラ殿…何も訊かずにファトラ様をお連れ願えないでしょうか。どうかお願いいたします」 土下座してまで頼み込むロンズ。
非常事態なのは間違いないようである。
ファトラだけでなくロンズまでもがファトラを逃がして欲しいと言っている…だが正規軍が動いている状況において彼女達の言葉だけでは動く事はできない。
その時、床に倒れていたストレルバウが体を起こしファトラの方を向いて話し出した。
「ファトラ様、アフラ殿はこのエルハザードでも有数の賢者でございます。またその行動は常に冷静沈着。ここは真実を話し援助をお願いするのがよろしいかと存じます」 それだけ言い再び倒れる。
「確かに賢者ではあるが…」 「冷静…」 「沈着…」 疑わしそうな目を向ける三人。
それに対し多少冷静さを取り戻したらしいアフラは頬を紅潮させる。
「まあ誰にでも過ちはあるもんどす。所でその『真実』とはなんでおますか?兵が町中に溢れてるなんて普通やおへんえ」
「アフラよ、これから話すことは絶対に内密にして欲しい。良いか」 念を押すファトラ。
「内容によりますなあ。いくらなんでも悪事に手を貸すわけにはいきまへんやろ」 慎重に受ける。
「良かろう。正義はわらわに有る。話して進ぜよう」 確かに人それぞれに正義は存在するので嘘ではない。
ファトラはこれまでの経緯を手短に説明する。
それを黙って聴いていたアフラだったが最初だけ少し驚いたような表情を見せたが後は淡々としていた。
「ファトラはんに誠はんと結婚しろと…ルーンはんもなかなか無茶言わはりますなあ」
のんびりした口調で話すアフラに対してファトラは苛立ちを覚えた。
「どうじゃアフラ、手を貸してくれぬか」 ずいっと前に出る。
「なるほどなあ…所でファトラはん、お祝いは何がよろしゅうおますか?」
ファトラの依頼が聞こえなかったかのような返事にファトラ達は驚いた表情でアフラの顔を見る。
どうやら冗談で言ったわけではないらしい。
「どういう意味じゃ。わらわが誠と結婚させられるかもしれんと言っておるのだぞ!」 強い口調で確認する。
「そやからお祝い何にしまひょかと訊いておるんどすえ」 そう言ってアフラはお茶を啜る。
「アフラお姉さま、どうしてそんなことを仰るんですか?」
「そうですぞ。もしそのような事になったらこの国は終わりではござらんか」
「なんでです?誠はんとファトラはん、双方が納得して結婚したんやったら誰も文句を言えんと思いますが。恐らくロンズはんはシェーラ・シェーラと菜々美はんの事を言うとると思いますが、誠はんがファトラはんを選んだ時点で勝負は終わりどすえ」
「ば、馬鹿を申せ!誰も納得なぞしとらんわ!第一誠にはこの話は伝わっとらん」 慌てて否定するファトラ。
「なんでです?」
「アフラ殿、仮に誠殿にこの話をしてすぐに納得されるとお思いか。その前にあのお二人に伝わって混乱は必至。それを避けるためにもここは是非!」 悲痛の表情だ。
「面白いことを言わはりますなあ。そうなると誠はんは一生結婚せんとあの二人に追い回されて終わる事になりますえ」
「いや誠がイフリータを迎えに行くまでの辛抱じゃ。それさえ成れば…後は構わぬ…」
「それもいつになるか分りまへんえ。それに誠はんは独身でなければイフリータを迎えに行けないという訳やおへんやろ」 ファトラを見つめながらアフラは話す。
“面白いお人や。ただのトラブルメーカーかと思うてましたが意外な側面をもっとりますなあ” 少々危ない目つきに変る。
それには気付かずファトラは更に説得を続けた。
「確かにいつになるかは分からん。だがあの二人は必ず再会できるはずじゃ。だから頼む。アフラ、この通りじゃ」 深く頭を下げる。
「ファトラはん」
「なんじゃ」 アフラの視線を感じたのか顔を上げる。
アフラはファトラの目をじっと見つめながら口を開いた。
「あんたはん、誠はんの事をどう思うとりますか?」
一気に顔が赤くなるファトラ。思いがけない質問に咄嗟に答えが出てこない。
「答えて貰わんとうちも判断できんのやけど」 目がきらりと光る。
「わ、わらわは…わらわはあんな軟弱者は好かん!あんな奴と結婚するくらいなら死んだ方がましじゃ!」
「ほう、そうどすか…」 相変わらずファトラを見つめたまま話しかける。
「そうじゃ、誰があんな優柔不断な奴と結婚なぞするものか」 心の奥底を見透かしているようなアフラの視線に戸惑いながらも強く否定する。
「分りました。そう言うことにしておきまひょ。さてと…もう少ししたらシェーラ達も城にやってくるかもしれまへん。その前に移動しまひょか。そやけどファトラはん、先に言うときますが変な事をしたらその場でルーン王女の元へ送り返しますえ」
「わ、分っておる。すまん、恩に着るぞ」
「有り難うございますアフラお姉さま。後で必ずお礼させていただきますわ」
「そんなもん要りまへん!所でファトラはん、行くあてとかはあるんどすか?」
アフラのそのもっともな問いに対しすぐ返答ができないファトラ。
だがその時窓の方を見たロンズが大声で叫んだ。
「ファトラ様あれを!」
その指さす方を見ると十隻以上の飛行艇が城を中心に飛んでいた。
「これではファトラはんを抱えてというんは無理どすなあ。うち一人ならともかくファトラはんを抱えてはなあ」
そう呟いたアフラに対しファトラは何か決心したように顔を上げた。
「ミドーを使う」
「ファトラ様それは!」 慌ててロンズが止めようとする。
「構わぬ。ここから脱出するにはあれしかあるまい」 ファトラは静かな口調で答える。
「ほう、あれがこの国にあったとは。もう現存している機体はないと聞いてましたけどなあ」
「ミドーティエエトゥゴ、通称ミドー。世界最速の飛行艇じゃ。あれならば確実に逃げ切れる」
「ですがファトラ様、あれは操縦が難しくまともに飛んだという話はございません」
現存する機体がないと言われていたのもそれが原因である。
確かに最速を誇るが安定性が悪く飛ばせても着陸できた者はいないと言われていた。
「どうじゃアフラ、そなたならできると思うのだが」
「そうどすなあ…試してみたいとは思うてましたし、まあ操縦間違うてもうちやったら空に逃げればいいだけの話しですからなあ」 無責任なことを言っている。
だがファトラはアフラの手を握り
「頼むぞアフラ。そなたなら絶対に大丈夫じゃ!」 力強く断言する。
「ま、やってみまひょ。所で当然警備がきびしゅうなってると思いますが」
「済まぬが格納庫まで連れて行って欲しい。警備の者はわらわが引き受けるからその隙にミドーを出してくれぬか」
「それは構いませんが、あんたいい加減に手ぇ離し!」
見るとファトラはいつの間にやらアフラの手を撫で回していた。
「えっ!…すまん…癖になっておるようじゃ。注意する…」 さすがにばつが悪そうに謝る。
「今回だけは見逃しまひょ。では行きますえ」 そう言ってファトラの後ろから手を回す。
「ではロンズ達は姉上の元へ行け。そこで可能な限り姉上の動きを妨害するのじゃ。良いな」
「御意。ファトラ様もお気をつけて。アフラ殿、よろしく頼みましたぞ」
「ファトラ様くれぐれも無茶なことはなさりませんよう…絶対にですよ」
心配そうな二人に対しファトラはいつもの調子が戻ってきているようだ。
「アフラも一緒じゃ、心配するでない。必ず姉上を出し抜いて見せよう。ではアフラ頼むぞ」
「はいはい。ではいきまひょか」
ファトラを抱えてアフラは窓から飛び出していく。
それを見送った二人はルーンの部屋へと向かおうとしたが床に倒れたままのストレルバウに気付いた。
そのままにもしておけないので取り敢えず部屋の外まで引っ張り出したのだが
「お、重い…重過ぎますぞ博士」 ロンズが根を上げた。
「どうしますロンズ様。ルーン様のお部屋はまだまだ先ですよ」
「仕方がない。我々だけでも向かうこととしよう。博士、あなたの尊い犠牲は決して無駄には致しません」 廊下の片隅にストレルバウを寝かせ手を合わせる。
「博士、長い間お世話になりました。時々は思い出すこともあるかなと思いますから化けて出ちゃいやですよ」 同じく手を合わせる。
その後二人は立ち上がりルーンの部屋へ向かう。
そして床に寝かされたストレルバウ…彼に関心を持つ者は誰もいなかった。
「う〜んいい気持ちじゃ…空を飛ぶのがこれほど爽快なものとは思わなかったぞ」
ファトラはアフラに抱えられているがクルーザーなどと違い開放感を感じているのだろうか、騒動のことを忘れたかの如くはしゃいでいた。
「動いたらあかん。落ちたらいくらあんたはんでも無事ではすみまへんえ」
「すまんすまん。余りにも気持ちが良いものじゃからな。それにしても修行の成果とはいえこうやって空を飛べるというのは羨ましい限りじゃ。こればかりはいくらわらわが欲しても得られぬものじゃからな」
いつになく素直なことを述べるファトラ。
アフラも自然と笑みがこぼれるが
「所でファトラはん、格納庫はもうすぐやけど…人の姿がありまへんなあ」 思いとは裏腹に現実を見つめる。
ファトラもその言葉に現実に引き戻された。
「おかしい…確かに人の姿が少ない…アフラ降りてみよう。罠かも、いや罠には違いないがそれにしても静かすぎる」
また上空を舞っている飛行艇は数を増やしていたが城の上ではなく街の周りを囲むように飛んでいた。
更に小型の艇も見える。普通の船がフリスタリカを出ることはまずできないだろう。
注意深く辺りを警戒しながらアフラは着地する。
格納庫は外れの方にあるだけに普段から人は少ないのだがいまは必要以上に少なかった。
ファトラは周囲を見回してから歩き出す。
「ファトラはんどうするつもりどすか」 アフラが横に並んで問い掛けてきた。
「罠であることは疑うまでもない。しかし突破できない罠なぞ有り得ん。正面から食いちぎってくれよう…アフラ、そなたはここに残れ。大神官がロシュタリアの正規軍とやり合うわけにはいかぬであろう」
「おやファトラはん、うちの事を心配してくれはるんですか。それはおおきに。そやけどうちはあの幻と言われているミドーを見るために歩いています。別にあんたを助けるためやおへんえ」
「そうか…。所でアフラ、恐らく姉上から知らせがあったのだと思うが到着が早くないか。どう考えてもこの時間に着くとは思えないのだが」
「ルーンはんからの使者がマルドゥーンに着いたのは昨夜半どす。火急の用件やと言わはりましたがルーンはんの手紙を見るやシェーラが燃やしてしまいましてな」
「では何が書いてあったかは分らぬのか」
「シェーラの話によればファトラはん、あんたが旅行を計画しとったけどうちらに知らせるのを忘れてしもうた、いまから連絡しても間に合わんやろうと言うことでうちらを置いていくことにした、しかしルーンはんはうちらを置いていくんはまずいと考え一番速いクルーザーを使うて使者を出したと言うことやった」
「なるほどシェーラから見ればわらわとアレーレ、菜々美と誠の二組のカップルで行くように見えたのだろうな…しかしシェーラを使うとは姉上も思い切った手段を取ったものじゃ」 感心したような呆れたような口調で話す。
「多分シェーラは保険やね。菜々美はんをそそのかしたんは夕方やと言わはったけどルーンはんが使者を出したんは昼食後すぐどすえ。ファトラはんが菜々美はんをつこうたときにはシェーラをぶつけるつもりやったんやろうねえ」
「そうか、同盟の宗主は伊達ではないと言うことじゃな…所でやってくるなり揉めたようじゃの」
その言葉にアフラはため息をついた。
「フリスタリカに着いたらすぐに小型艇が寄ってきまして、それが誠はんの所へ誘導してくれたんどす。所が誠はんと一緒にいた菜々美はんの姿を見るやシェーラはすぐに飛び降りていきましてな、そのまま問答無用で」
「方術を使った訳か…アフラ!誠は無事か!」
「気になりますかファトラはん?」 いたずらっぽい顔に変わる。
「ば、馬鹿を申せ。そうではない…昨夜あいつを殴ってしまったからな。完治していない上にシェーラからも吹飛ばされたのでは気の毒であろう」 そっと俯きながら答える。
「ふふふ、誠はんは無事や。ちゃんとウーラが守ってましたえ。そやけどシェーラの二発目を菜々美はんはちゃんと避けたんやけど誠はんは逃げそびれましてなあ、飛ばされたショックで気を失いまして」
「大丈夫なのか?」
「ええ、見たところ外傷はおへん。すぐに兵士がやってきまして担架で運んで行きましたえ。ウーラも一緒についていったんやけど…ファトラはんが命じたそうどすなあウーラに誠はんを守るよう」
「そ、それは…」
「ウーラが口を滑らせたんどす。だけど安心してや、それを聞いたんはうちだけや。誠はんは気絶しとったから知りまへんえ」 楽しそうに話す。
「と、所で菜々美とシェーラはどうしたのじゃ」 ファトラは慌てて話を逸らせようとする。
「ああ、あの二人は誠はんが運ばれたのにも気付かんとやりおうてましてな。周りに害が及ばんよう軍が二人を囲んでおりましたわ。うちはこん騒動の影にあんたがおると思うて連中をほっといて城へ向かったんどすが…まさかルーンはんの夢見が原因やったとはなあ…」 再びため息をつく。
「すまぬな、変なことに巻き込んでしまって」
「貸しにしときまひょ…怪我せんよう気をつけてや。ちゃんと返してもらわんと困りますえ」 そう言って立ち止まるアフラ。
ファトラも立ち止まった。
ちょうど角を曲がった所で格納庫が見えたのだがその入り口付近に十名ほどの兵士が車座に座っていた。
彼らは博打でもやっているのか時折気勢を上げている。
少し前から気付いてはいたが実際に目にすると拍子抜けしそうだ。
呆れたような顔のアフラに兵の一人が気付きリーダーとおぼしき男に声を掛けた。
全員それを合図に立ち上がるが武器が統一されていない。
剣を持つ者もいれば棍を持っている者もいる。
だが彼らの実力は並ではないとアフラは感じた。
「ファトラ姫、お待ちしておりました」 一際背が高い兵士が丁寧に敬礼する。
「また出てきたか優男。今日は非番ではなさそうじゃな」 彼が手にしている剣を見て話す。
「ファトラはん…あん人が優男どすか?」
無理もない。確かに童顔ではあるが身長は2mくらいあり、その手にした剣はブレードだけでも軽く1mを超えている。
「あそこに並んでいる連中と比べればその部類に入るであろう」 武装した兵士達を前にして軽口を叩ける所はさすがファトラと言うべきか。
「風の大神官アフラ・マーン様ですね。私はロシュタリア軍第一師団所属のファルークと申します。お目にかかれて光栄に存じます。所でこれからどうされますか?我々はどちらでも構いませんが」 にやりと笑って尋ねる。
答えようとしたアフラを制してファトラが口を開く。
「アフラは無関係じゃ。それよりもそなたがどういう命令を受けておるのかは知らんがわらわ一人にそれだけの数を揃えるとは我がロシュタリア軍も情けなくなったものよのう」
「私もそう思ったんですがね、ファトラ姫と勝負ができると聞いて八十人以上集まってまいりまして。急遽武闘会を開きやっと十人まで絞り込んだんですよ。本当はもう少し減らしたかったのですがこれ以上制限すると暴動が起きそうでしたし、なんせ受けた命令が『ファトラ姫が現れたら極力お怪我をさせないようにしてルーン殿下の元へお連れしろ』でしたので」
どこまでが本当なのか分らないその口調にアフラはファトラの顔を見る。
だがファトラはそれに応えようとはせず正面を睨んだ。
「そなた達、家族に別れは告げてきたであろうな」 静かに、そしてゆっくりと話すファトラ。
語り終えた後ファトラは一気に駆けだした。
それに合わせるようにファルークも前へ出る。
二人が激突すると思われた瞬間ファルークは跳躍し、そしてその後ろには一人の兵士がファトラへ向かっていた。
だがファトラは止まらず逆に勢いをつけて飛び込んでいく。
一方ファトラの上を跳躍したファルークだが着地してもファトラに向かおうとはせずアフラと向かい合った。
「うちとやる気どすか」 アフラが語気も荒く話す。
「ははは、お相手していただけるのでしたら、と言いたいところですがね、今回受けている命令はファトラ姫の確保です。見物人に手を出すことはできません」 笑って答える。
「確保ってあんた、ファトラはん一人相手にするんにあんな大勢で。あんたらそれでもロシュタリアの正規軍ですか」
激しく叱咤するアフラだが全然こたえていないようだ。
「正規軍だからこそあの人数を揃えたのですよ。下手をするとこれでも足りないかと思っているくらいでしてね」
「何を馬鹿な事を」
ファルークは大声を上げようとするアフラを制してファトラの方を指さす。
アフラ達が話している間にファトラは一人目を打ち倒し二人目と戦っていたが素手にも関わらず優勢であった。
「どうです。お姫様相手にこれだけ集めたのも頷けるでしょう」
「冗談も程々にしい。どこの世界に自国の王女に刃を向ける者がおると言うんどすか」
「ルーン殿下の許可がありますからね。それに本気で向かっていかないとこちらがヤバイ」
「あんたねえ…」 さすがのアフラも絶句する。だがそう言っている間に二人目が倒された。
「早いな、もう二人やられたか…」
「…」
「アフラ様、ファトラ姫が心配だと仰るのなら姫を説得してみてはくれませんか?」
「説得?」
「ええ、諦めて誠君と結婚するよう言っていただけると私も楽ができる」
アフラはこの背は高いがどこか愛嬌のある兵の顔を見上げた。
「あんた何を考えています?」
「特にこれと言って考えている訳じゃあ有りません。ですがお二人の王女は未だ独身でいらっしゃる。女性の身でこの国を指導していくというのは大変な事だと言うのは私にも分る」
「つまり誰か支えてくれる人と一緒になって欲しいと言うことどすか。そやったらあんたが立候補したらどうや」
「はっはっは、私では駄目です。身分が違いますし第一私には妻と子供がいますからね」
再度絶句するアフラ。
「あんたその年で子供までおるんどすか」
「いやぁ良く若く見られますけどこれでも三十二でしてね…おっと四人か…やれやれ私まで回って来そうな気配だな。所でアフラ様、良いことをお教えしましょう。あなた方が目指したあの格納庫ですが、中は空っぽですよ」
「なんやて!中は空?!」
「ええ、何が目的だったかは存じませんがね。昨晩別のグループがどこかへ移したと聞いています。ここにいる者は誰もその事を、いやファトラ様がなぜにここに来たのかも知ってる者はいません。ま、ファトラ姫のご婚礼は最高機密と言うことになってますから知ってる者はほんの一握りですがね」
「あんたはその一握りという事どすか」 やや皮肉を込めて話す。
「ルーン殿下が決められた機密レベルですから通常とは全然異なりますよ…まずいな」
その言葉にファトラの方を見ると、五人目を打ち倒したファトラが相手の棍を奪い取っていた。
「獲物だけは死んでも離すなと厳命していたんですけどね…仕方ないな」
そう言ってファルークはファトラの方へ歩き出し剣を抜いた。
「冗談やおへん!なんぼファトラさんかて無理や。剣を、剣を納めなはれ!」 殆ど絶叫に近い。
だがそれに構わずファルークはファトラと向かい合った。
「やっと出てきたな。手応えのない連中ばかりで退屈しておったところじゃ」 決して強がりではない。
その証拠に周りからはファトラへではなく順番を無視して出てきたファルークに抗議が集中していた。
「すいませんねえ。幾つかのグループに分かれる必要がありましたからここにいるのはせいぜいトップ20くらいの者がメインなんですよ。次の機会にはベストメンバーを揃えましょう」 抗議を無視してファトラと対峙する。
「馬鹿め。次なぞあるものか」 そう言ってファトラは手にした棍で近くに立っていた兵士を、正確には彼が手にしていた剣を打ち上げそれを奪い取った。
「ちょっと軽いがまあ良いだろう。さて優男、覚悟は良いな!」
「そのお言葉そのままお返ししましょう。参る!」
ファルークはファトラの身長くらいありそうな剣を振り上げて突進した。
「ファトラはん!」
両者が激突する前にアフラが方術を放つ。
ファトラは後方へ引きファルークも動きを止めた。
衝撃波が両者の間を駆け抜けその先にある格納庫の扉を吹飛ばす。
「これがあの『真空切り』ですか。凄い威力ですな」 剣を収めてファルークが笑う。
「そのネーミングを使うんやおへん!」 突っ込んでからアフラはファトラの方へ駆け寄る。
「ファトラはん…」 アフラは呆然としているファトラにそっと声をかけた。
格納庫の扉が吹飛び中がよく見える。
中はファルークが言うように空であった。
「どういうことです隊長。あっしらは空の格納庫を守っていたんですか?」 兵の一人が声を上げる。
「そうなるな」
「そりゃひどい。いや私らはファトラ様に稽古をつけて戴いたんで十分元は取れてますがファトラ様は完全なただ働きじゃないですか」 呆然としているファトラを見てその目的が格納庫の中身であったことに気付いた者が抗議する。
「そう言うな。命令に従うのが我々の役目だ。所でファトラ姫、これからどうされますか?」
さすがのファトラもすぐに答えることができない。
それくらいショックを受けていた。
「ファトラはん」 再度アフラが声をかける。
ファトラは泣いているのではないか?一瞬そう思ったアフラだがファトラはゆっくりとファルークを見上げた。
「姉上の所へ行く。そなた達は格納庫を修復してから持ち場に戻れ。アフラ、済まぬが付き合ってくれぬか」 淡々と話すファトラ。風が吹いただけでも倒れそうなくらい顔色が悪い。
「了解いたしました。ではアフラ・マーン様、ファトラ姫をよろしくお願い致します」
ファルーク以下全員は敬礼してファトラとアフラを送り出す。
アフラは優しくファトラに手を回しゆっくりと上昇していった。
取り敢えずファトラの部屋へ向うが今度はファトラは一言も話さない。
アフラも掛ける言葉が見つからないまま飛翔していた。
部屋が見えた頃ファトラが重い口を開いた。
「済まなかったなアフラ。結局巻き込んでしまって」 やはり元気がない。
「ファトラはん、勘違いしたらあきまへんえ。うちとシェーラを巻きこんだんはあんたやなくルーンはんや。それに一番気の毒なんは誠はんやね。何も知らんとあんたには打たれる。菜々美はんからは強引に引っ張り出される。そしてシェーラから吹き飛ばされていまは…どこやろ?あん時は気にならんかったけどあそこにおった兵隊達は誠はんらを見張っとった訳やろ。と言うことは」
「大丈夫じゃ。怪我が大したことがないので有れば自室で寝ていると思う。姉上が誠を監禁することは有り得ぬ」 力無く話すファトラ。
「そうどすか。所でお部屋に着きましたけどこれからどないします?」 再び窓から部屋に入りながら尋ねる。
「姉上の所へ行く…有り難うアフラ。そなたはシェーラを連れてマルドゥーンへ帰れ。誠の件はわらわが責任を持って姉上を説得する」
“こんな大人しい、素直なファトラはんは初めて見ましたなあ。シェーラや菜々美はんに言うても信じてもらえんやろうけど…ほんま面白いお人やなあ”
「どうしたアフラ?人の顔をじっと見て。何か付いておるのか?」 何も言わずに見つめるアフラに怪訝そうな目を向ける。
「ふふふ…可愛いらしいお人やなあと思いまして」 相変わらずファトラを見つめたまま答える。
「なっ、馬鹿なことを申すな!確かにわらわはエルハザード一の美少女ではあるが大して年も変らぬ者から可愛いなどと言われとうない」 顔を紅潮させながら抗議するファトラ。
「いまのファトラはんやったら誠はんでも落とせるのと違いますか?」 笑いながらからかうような調子で話す。
「馬鹿を申せ!誠とは絶対に結婚はせぬと申しておろうが!アフラ、わらわに喧嘩を売っておるのか!」
「ふふ、調子が戻ったようやね。さ、行きまひょか。うちもルーンはんに文句の一つでも言わして貰わんと気が収まりまへん。ほらファトラはん、そんな所にぼーっと立っとらんと。はよういこ」
「あ、ああ…そうじゃな。姉上には言いたいことが山ほどある。早く行かんと言い終わる頃には夜が明けてしまうかもしれん。行こうかアフラ」
いつもの笑顔を見せたファトラは扉を大きく開けて先へ進んだ。
アフラもすぐに後を追いファトラと並ぶ。
力強く歩く両名は、当然の事ながら廊下に横たわるストレルバウには気付かなかった。
「愛はいつもなんだかミステリー…♪」
ルーンは絶好調である。鼻歌交じりに書類を読みバリバリ処理していた。
「ルーン様、ご機嫌良さそうですね…」 アレーレは小声で隣にいるロンズに話しかける。
ファトラの命を受けてやってきた二人だったが極秘に設置されていた『ファトラと誠様の結婚を実現させましょう実行委員会』も既に解散し現在は残務処理に入っていた。
ルーンも実務を始めており、城の中もいつもと同じ様相に戻りつつあった。
フリスタリカ市内に兵を密かに配置していた事は『演習』の一言で説明され多くの飛行艇を出したことも同様の説明がなされていた。
普通なら納得できないところではあるが誠を巡ってシェーラと菜々美が市街戦を行いそれを兵士達が周りに被害が及ばないよう努力していた事が現実味を帯びたものとなっていた。
特に菜々美達が戦っていた付近の住民からは感謝されたくらいである。
誰もそれに裏が有るとは思わなかった。
ロンズは全てが終わったことを感じ取っていた。
ファトラが敗北宣言を行えばルーンは明日にでも式をと言い出しかねない雰囲気だ。
ルーンが油断している隙をつけば、とも思ったがルーンがそんな間の抜けた事をするはずはない。
アレーレとロンズはファトラを待つ以外何もできなかった。
暫くしてファトラとアフラの来訪が知らされ、侍女に案内されて二人が入ってきた。
ファトラの顔を見てロンズ達は喜んだ。
いつもの力強い、自信に溢れた表情をしていたからである。
ルーンはファトラとアフラを見て優しく微笑んで仕事を中断しファトラ達の前に座った。
「姉上、今日はお話が有って参上いたしました」 深く頭を下げる。
「ファトラ、それよりも誠様の看病をお願いできませんか。先ほど怪我をされて運び込まれたそうです。あなたが傍にいたら回復も早いと思いますよ」 にっこりと笑って提案してくる。
「誠の看病なら菜々美かシェーラにやらせれば良いでしょう。彼女たちなら喜んでやりますよ」 あっさりと一蹴する。
「そやけどファトラはん、シェーラにまともな看病ができるとは思えまへんえ」 アフラから突っ込まれた。
「アフラ!そなたはどちらの味方じゃ!」 ファトラは思わず大声で叫ぶ。
「どっち言われても別にうちは誰の味方という訳やおへんえ」
アフラにそう言われファトラは言葉に詰まる。
“相変わらず食えん奴じゃ” だがルーンと対峙しているのはファトラでありアフラではない。
そう思い直し再びルーンの顔を見た。
「姉上、昨日の件ですがお考え直していただけませんでしょうか。たかがわらわの結婚のためにこの騒ぎです。ここは一つ白紙に戻して再考すべきだと思うのですが」
「騒いでいたのは菜々美様とシェーラ・シェーラ様だけですよ。そのお二人も先ほど温泉場行きの定期便に乗ったという報告を受けています。市内はいつも通り平穏ですよファトラ」
「ルーンはん、シェーラが定期便に乗ったってそれはどういうことどすか?」
「ええ、最初菜々美様は誠様とご一緒だったそうですが、誠様が怪我をされて城にお戻りなったのに気付かなかったそうです。その後シェーラ様とご一緒に誠様をお捜しになったとのことですがその時誰かが間違えて『誠様は先に船に乗った』と言ったようなんです。それでお二人とも定期便の発着場へ向かわれたと聞いています」
ルーンは報告された事をそのまま話すが、その内容はもちろん大嘘だ。
気絶した誠を運び出す際も菜々美達の目に触れぬよう人垣を造り、そして間違った情報を流して彼女らを発着場へ向わせ、更に連絡船ではなく軍用機に乗せたのである。
確実に数日は戻ってこないだろう。
アフラは何となく気付いたようだ。
“あん単細胞が…少しは考えんと脳味噌が退化しますえ” 頭を抱えていた。
ファトラもルーン言うことを額面通り受け取ったわけではないが、誠はルーンの手の内に、シェーラと菜々美は遙か彼方へ追いやられた事に変りはない。
いまやファトラの味方はアレーレとロンズ、そしてストレルバウしかいない…もはや城の内外に味方はいなかった。
また仮にアフラが味方してくれたとしても彼女は大神官であり賛成ならばともかく下手に反対する事は内政干渉になりかねない。
ファトラは持てる能力の全てを持ってルーンに対抗したつもりであったがそれも蟷螂の斧に過ぎなかったことを悟った。
「ですのであなたの結婚式についてゆっくり相談する時間はありますよ」
結婚についてではなく式の相談である。
確かに勝者はルーンであり敗者であるファトラにそれなりの要求を出す権利はある。
しかしファトラは他のことならまだしも誠との婚姻に関しては譲る事はできなかった。
「姉上」 顔を上げルーンの顔を見る。
「何ですかファトラ」 静かに答えるルーン。だがその瞳からは強い意志がが感じられた。
「姉上、わらわは…わらわは…」 ルーンに圧されている訳ではない。だがファトラは言葉を続けることができなかった。
それに対しルーンはいつものようにファトラを優しく見つめている。
ファトラは言葉を出せないままルーンの方へ近付いていった。
手を伸せば届くくらいの位置まで来てファトラはようやく声を出すことができた。
「姉上…お願いです、再考して下さい。他の者との結婚ならば考えましょう。ですが誠だけは…お願いです姉上…」 目に涙を浮かべながら訴える。
「ファトラ、あなたは誠様のことを嫌いではないはずです。なぜそこまで嫌がるのですか」
「いーえ嫌いです。あのような者は大っ嫌いです。ですから姉上…お願いです。誠を自由にして下さい。そのためならわらわは何でも致します。ですから…」
ルーンはファトラの顔を何も言わずに見つめた。
何となくルーンはファトラが誠に対し好意を持っていると思ってはいたが、それ以上の感情を抱いていた事には気付かなかった。
ファトラの気持ちはよく分る…だが姉として何とかしてやりたいとも思う。このままずっとその気持ちを内に秘めただけで終わらせるのは余りにも可哀想だ。
だがファトラはルーンにすがりつくようにして懇願する。
「お願いです姉上。誠を…誠をイフリータの元へ行かせてやって下さい。イフリータは一万年も誠を待ち続けているのです。お願いです。わらわはこのような形で誠と結婚したくないのです」 それだけ訴えるとファトラはルーンの膝で泣き出した。
「ファトラ…」 ルーンは優しくファトラの髪を撫でるがさすがにちょっと困ったような顔をしている。
しかしルーンの願望とファトラの想いはある意味一致しておりまだ交渉の余地はある…。
そう考えたルーンの元へアフラが近づき耳元で囁いた。
「ルーンはん、ちょっとよろしいやろか」
「何でしょうかアフラ様?」 手はファトラの上に置いたまま顔だけ向ける。
「ルーンはんがファトラはんに結婚を勧めるんはファトラはんの子供と一緒に遊びたいからやと聞いておりますが?」
「ええその通りです」
アフラはため息をついてから話を続ける。
「良いですかルーンはん、いますぐファトラはんと誠はんが結婚したとしても子供が産まれるのは一年も先どすえ」
「一年後…」 ファトラを撫でていた手が動きを止める。
「それに走ったり、ちゃんとした会話ができるようになるまで更に二,三年、つまり三年から四年以上も先の話しになりますえ」
「四年以上…」
「そうどす。それにルーンはん、いまファトラはんが誠はんと結婚しはったらファトラはんはいつも誠はんにべったりでルーンはんの所に余り来なくなるかもしれまへんえ。そして赤ちゃんができたら今度は子供の事で手一杯、ファトラはんが手ぇを抜くとは思えまへんからなあ。そうなったらますますルーンはんから縁遠くなるのと違いますやろか」
ルーンはアフラに言われたことを検討する。
そして膝の上で嗚咽しているファトラを優しく抱き起こした。
「ファトラ…もう泣かないで下さい。あなたの気持ちはよく分りました。この件はその時期が来たら再検討を行う事とし、今暫く様子を見ることに致しましょう」
「本当ですか、姉上!」 涙でくしゃくしゃになった顔を上げる。
「ええ…すいません。あなたがそこまで想っていたとは知りませんでした。その時期が来るまで無かったことにしておきましょう」 ルーンはファトラの涙を拭いながら笑顔で話す。
「有り難うございます。本当に有り難うございます」 ルーンの手を握りしめ何度も頭を下げるファトラ。本当に嬉しそうだ。
それを見ていたアレーレ達だったがアフラとルーンの会話が聞こえなかったので一体どういう理由でルーンが心変わりしたのか分らない。
「ねえロンズ様、アフラお姉さまはルーン様になんと仰ったのでしょう」
「分らぬ…だが取り敢えずはロシュタリア存亡の危機は回避されたと言うことになる」 ぐっと唇を噛みしめるロンズ。彼はルーンが言いたいことを理解していた。
『その時期が来たら』 ロンズはその言葉を反芻する。
「この次はこうは行かぬだろうな…」 誰に言うでもなく呟く。
「えっ、なんて仰いました?」
アレーレの問いには答えずロンズはルーンに対し片膝をつき一礼してから退出する。
「所でファトラ、お願いがあるのですが」
「何でしょうか姉上。わらわにできることならば何なりとお申し付け下さい」 笑顔で即答する。
「ええ、先ほどお話しした通り誠様は怪我をされています。菜々美様とシェーラ様はすぐにお戻りになりませんしあなたに看病をお願いしたいのですが」
「分りました。わらわにお任せ下さい。明日にでも歩けるようビシッと気合いを入れてやりましょう!では失礼いたします。行くぞアレーレ!」 結婚話が白紙になったということで疑うということを忘れたらしい。喜んで出ていった。
アレーレも首を傾げながら後を追う。
ルーンは微笑みながらファトラを見送った後アフラの方を向いた。
「あのうアフラ様、お願いがあるのですが」 やや控えめに口を開く。
「うちにですか。言うときますがうちはルーンはんの趣味に付き合うつもりはありまへんえ」 アフラは以前シェーラからルーンの趣味について聞かされていた。
「いえそれはまたの機会と言うことで、今回は菜々美様とシェーラ様についてなんですが」
「いやまたのやのうて永遠にして欲しいんどすが…。所でシェーラについてとは何ですやろ?」 ちょっと顔を引きつらせながら尋ねる。
ルーンはアフラの耳元に口を寄せてから話し出した。
「…なるほど…そういう事なら引き受けてもよろしゅうおす」
「有り難うございます。ではご面倒お掛けしますがよろしくお願いしますね。恐らく一週間以内には戻られると思いますので」 そう言って軽く会釈する。
アフラも挨拶を返し退出した。
後に残ったルーンは少しだけ残念そうな表情を見せたがすぐに執務に取りかかった。
それから数日間ファトラは誠の看病に明け暮れた。
「すんません、ファトラさん」 ベッドの中で申し訳なさそうに頭を下げる誠。
「気にするでない。それにしてもたかだか手首の捻挫なのにまだ完治しないとはそなたはエルハザード一の軟弱者じゃのう」 笑いながら答えるファトラ。
「足も少し捻ってますからそれとの相乗効果で治らんのとちがうやろか」
「馬鹿め、そんなことがあるか。しかしウーラがちゃんと守ってくれたにも関わらず怪我をするとはそなたは相当の間抜けじゃな」
「まぬ…だけど僕、ファトラさんが包帯の巻き方とか知っとるとは思いませんでしたわ」 仕返しとはいえ命知らずな事を言う誠。
「確かにわらわは病気なぞしたことがないから病人の扱いは知らぬが、幼い頃から武道を習っておったお陰で怪我、特に打ち身とか骨折の治療なら得意じゃ。一つ試してしんぜよう。アレーレ!」 パチンと指を鳴らす。
「はい!ただいま」
誠は後悔したがもう遅い。
アレーレに体を押さえつけられてしまった。
「さてと…先ほどの生意気な言葉はこの口から出たのかなあ」 そう言って顎の間接を外す。
その後、声にならない悲鳴が響いていた…。
怪我の完治に予想以上の日数がかかっているのはファトラのせいかもしれない。
何とか誠の怪我も治り、一人で歩けるようになった頃ようやく菜々美とシェーラが戻ってきた。
誰も彼の部屋には近付かなかったため何があったのかは不明だが再び誠はベッドに釘付けとなった。
菜々美とシェーラが一生懸命看病しているように見えるが完治するまで相当時間がかかりそうだ。
ファトラは誠に同情しつつも
「美少女を二人も侍らせての闘病生活とは羨ましいのう」 と話していた。
そんなファトラがベッドでのんびりくつろいでいた時アレーレが血相を変えて飛び込んできた。
「ファトラ様大変です!ルーン様のご機嫌がすっごく良いそうなんです!」
「何!…アレーレ、逃げるぞ。場所はどこでも良い。この街から逃げるのが先じゃ。早う準備いたせ。荷物は最低限で構わん!」 慌てて指示を出すファトラ。
アレーレも急いで鞄を用意する。
数分後ファトラはアレーレと共に部屋を飛び出した。
先を急ぐファトラの前に現れたのはアフラである。
「遅うおますなファトラはん」 にやりと笑う。
「ア、アフラ、どういう事じゃ遅かったとは…まさか!」 一気に顔色が変った。
「ふふふ、みんな待ってますえ」
「みんな?」 怪訝そうな表情を見せるファトラ。
「そうや、菜々美はんもシェーラも、そして誠はんも待ってますえ」
「どういう事じゃ?」 ルーンが含まれていない事に安堵しつつも警戒は緩めない。
アフラはそっと近付いて小声で話す。
「先の騒動なあ、あれはルーンはんとファトラはんのいわば姉妹喧嘩みたいなものやろ。うちらはそれに巻き込まれたと言う訳や。シェーラ達は真相は知りまへんが相当怒ってましてなあ。ファトラはんが旅行の計画をすっぽかしたんが一番悪いと言うことに落ち着きまして」 そこまで話してくすりと笑うアフラ。
「あ、あれは姉上がでっち上げた事であろう。わらわに責任はない」 力弱く抵抗するファトラ。
「ええんどすか?本当の事を言うても」 アフラはファトラの目を覗き込む。
“くくっ…” 逃げ道を探していると傍を担架が通った。
見ると上にはミイラのようなものが乗っている。
「なんじゃそれは?」 気になったのか掴まえて尋ねてみる。
アフラも同様らしい、話を逸らしたことについては何も言わない。
「はい、先ほど廊下で見つかりまして、服装からストレルバウ博士ではないかと思われます」
「ストレルバウ?そう言えば最近姿を見なかったがこんな姿になっておったのか」
「ええ、もう駄目かと思われましたがロンズ様が水に漬ければ元に戻ると仰いますのでお庭へ向かうところです」
「待て、そんなことをしたら池が汚染されてしまう。そうじゃな、少し遠いが聖大河まで持って行ってくれぬか。あれだけ広ければ問題ないであろう」
「かしこまりました」 敬礼して兵士達は去っていく。
「やれやれ、ストレルバウも何をしておるのか…困ったもんじゃのうアレーレ」 意味ありげにアレーレを見る。
「そうですわねぇ。修行をされていたのかもしれませんが人の迷惑も考えて欲しいですよね」 それに気付きアレーレも大きく頷く。
「まったくじゃ。それではアフラ、またな」 そう言って踵を返そうとするが
「ファトラはん」 後ろから肩を抱かれた後、耳元に声を掛けられる。
「な、なんじゃ?わらわは忙しいのじゃが…」 思いっきり声がうわずっている。
「うちはあんたはんがルーンはんに泣いて頼んだことも、そしてその内容もちゃんと知っておるんどすえ」
「ぐ…」
「いまやったら宿泊費に食費、それとシェーラの酒代だけで済むと思うんやけど」 にやりと笑う。
その表情にアレーレはくらりと来たがファトラはそれどころではない。
「待て、酒代は却下じゃ。それと宿は以前のように安宿で構わん」 アフラの方を向きまくし立てる。
「これ以上時間が掛かるようやと菜々美はんから日当を請求される羽目になりますなあ…菜々美はん何日商売できんかったやろうねえ」 そう言って再び笑うアフラ。
アレーレは目をハートにしてアフラを見つめ、ファトラは力無く頷いた。
「ではファトラはん、行きまひょか」 ファトラの腕を取り歩き出すアフラ。
「ああ〜ん待って下さいよう。お姉さまぁ私とも腕組んで欲しいですぅ」 アレーレが後に続いた。
「失礼致します。先ほどファトラ様がお出かけになられました」 部屋に入るなりロンズは報告する。
「そうですか。あの子の事だから慌てて出ていこうとしたのでしょうね」 微笑みながらルーンは答えた。
「御意。アフラ様との遭遇にかなり焦っておられたご様子でした」
「そうですか。アフラ様には後始末をお願い致しましたが本当に綺麗に収めて戴きました。戻られたらお礼をしなくてはなりませんね。アフラ様のサイズを調べておきましょう」
「御意」
「それから時期が来たら忙しくなると思いますがその時は宜しくお願いします」
「承知しております。その際はこのロンズ、身を挺して事に当たる所存でございます」 低く頭を垂れる。
「苦労を掛けますがお願いしますね」 ルーンはゆっくりと頷く。
「もったいないお言葉でございます。では私はこれで」
執務室を退出するロンズを見送った後ルーンはテラスに出た。
フリスタリカを逃げるように離れていくクルーザーが見える。
「その時が早く来ると良いですねファトラ」
ルーンはそう言って優しく微笑んだ。
婚姻の世界エルハザード 完