leaflet +
久々にすかっと晴れ渡った、7月の青空。
そんな高い高い海の中で、流れ行き形を変えるひとかけらの白い雲の塊を彼は見上げていた。
ずずず…
お茶を啜る。
パタパタパタ…
庭先の縁側に腰掛け、ぼんやりと見上げる彼の視界が青い空から、ぬっと陰る。
「気持ち良いな、誠」
「そうやね」
見上げたままの体勢の誠を上から覗き込むのは、長いウェーブの掛かった髪を下ろす女性。
ゆったりとしたTシャツに洗いざらしのGパンが、雰囲気に微妙にずれていて似合っている。
逆光に、彼女の表情は陰って見えないが、優しげなその蒼い瞳には青年の微笑が大きく映っていた。
誠の視界が、再び青空に戻る。
青年の後ろで衣擦れの音。彼が小さく目をやると、同じ高さになった彼女の視線と微妙に交わった。
カサカサ、カサカサ…
庭に立つ、青々とした葉をその細い枝に纏う梅の木。
緩やかに大気を流れる、夏の香りを含んだ風に身を任せて揺れている。
「ねぇ、誠」
「なぁ、イフリータ」
同時に、言葉にする。
「先に良いよ?」
「先にどうぞ」
再び重なる言葉。
クスリ,思わず微笑み合う二人。
頷き合い、確認する様に口を合わせる。
「「どこかに行こう!」」
比較的新しめの自転車を前に、二人は対峙する。
妙な殺気が生まれつつある場,まるでそれを観戦するかのようにサドルに白い羽が舞い降りた。
「「最初はグー!」」
その声に驚いたのか、白い小片は青空の向こうに飛び去っていく。
「「またまたグー,いかりや長介あたまはパー、正義は勝つ! ジャンケン…」」
振りかぶる二人の男女。
「「ポン!」」
誠はグー、イフリータはパー!
采配は振り下ろされた。
「じゃ、頑張ってな」
「はいはい…」 誠は深呼吸する様に大きく息を吐く。
赤い自転車。
誠がペダルを漕ぎ、荷台に右向きにイフリータが腰かける。その膝の上にはバスケット一つ。
「しゅっぱつしんこ〜!」
「行くでぇ!」 立ち漕ぎの誠。
ゆっくり、ゆっくり、自転車は加速を付けて行く。
「ん〜、気持ちいい〜」 イフリータは風に髪を泳がせ、大きく背伸び。
いつも誠が登校時に歩く路地。住宅地を横ぎるその道は、自転車という少し高い視線で見下ろすと、いつもとは違って見えるから不思議だ。
「お客さん、どこへ行きますか?」
誠は首だけで後ろに振り返り、尋ねる。
「う〜ん、そうだね…」
イフリータは目を瞑り、流れる夏の風を体いっぱいに感じて考える。
「東雲川,見たいな」
「了解!」
誠は微笑み、ハンドルを右に切った。
やがて自転車は商店街に入る。
スピードを少し落して車道の脇を走る自転車。
「あ、まこっちゃんじゃない!」
歩道をやってくる人影と届く声に、二人は目を向ける。
手を振るのは菜々美と、そして買い物かごを提げたクァウールの二人。
「こんにちわ。誠さん,イフリータさん」
「なぁに? 二人して何処行くの?」
「菜々美ちゃんとクァウールさんの取り合わせって珍しいやないか」
自転車を止め、誠はガードレール越しに二人に笑顔で答える。
「ちょっと買うものがあってね〜」
「フフフ…」 隠し事を共有するかのように微笑み合う菜々美とクァウール。
「?? 何や?」
「で、何処行くのよ、まこっちゃん達は?」
「え、えとな…」
きゅ…
「?」
誠は服の裾が軽く握られているのに気付く。
その意味が分からずに、彼は握る本人に振りかえった。
心配そうな、イフリータの表情。
そこに映るは、今にも消え入りそうな寂しい笑顔と儚さの交錯。
「…そうやね」 誠はそんな彼女に優しい笑顔で答える。
「えとな」
彼は菜々美とクァウールに勢い良く振り返り、
「秘密や!」
ペダルを思いきり踏み込む!
「ん!」 イフリータは慌てて誠の腰に腕を廻す。
「あ、ちょっと待ちなさいよ!!」
「誠さん!!」
二人の声を背に小さく聞きながら、誠達を乗せた自転車は颯爽と商店街を突き抜けていく。
「…誠?」 イフリータは恐る恐る、彼に声をかける。
グォン!
オートバイがエンジン音を轟かせて擦れ違う。
「今日はイフリータと二人でいたいから」
グォォ…
トラックが自転車を追い越していく。
「え? 良く聞こえないぞ??」
「な、何でもないわ!」 顔を赤くして、誠はさらに自転車のスピードを上げた。
堤防へと一気に自転車で駆け上がる!
拓ける視界。同時に鼻腔をくすぐる草の香り。
砂利道の堤防の上を自転車で徐行しながら、誠とイフリータは大きく深呼吸。
眼下に、緩やかに川の水は流れ、時々川魚が飛び跳ねて鏡のような水面に波紋を形作る。
青々と背の低い雑草で茂った土手は日の光を照り返し、まるで緑の絨毯の様だ。
ガタンゴトン…
遠く、鉄橋を走る鉄道の音が耳に届く。
ここは街の雑踏から解き放たれた静かな空間。
川幅は20mくらいだろうか。所々で釣れるのか,ちらほらと釣り人の姿や、誠達と同じく遊びにきているのだろう,家族連れが数組見て取れた。
穏やかな時間が、流れている。
「ここらへんで、ちょっと休もうか」 イフリータは髪を押さえて運転手に声を掛けた。
「そうやね」
誠は自転車を止める。
「もっと運動せんとなぁ」 首や肩を廻しながら、彼は土手に腰を下ろす。
ひんやりとした草の感覚が、彼の履くチノパン越しに伝わってきた。
「ねぇ、誠?」
「何や?」
誠の隣に腰を下ろしたイフリータは周りを見回しながら続ける。
「この川沿いの風景って、金八先生が出てきそうだね,僕は声援送りますぅ〜♪とか歌いながら」
「な、何でそんな古い番組の事を知ってるんや??」
「そう言えば、なんでだろう?」
取り止めのない会話,心地好い時間がゆったりと過ぎて行く。
「誠,お腹空かないか?」
「うん、もうお昼頃やなぁ。どっかで食べよか?」
そんな誠の言葉が終わらないうちに、イフリータはバスケットを開ける。
中には水筒と、大きめのランチボックス。
「フフフ…軽食だけど、作ってきたんだ」
「へぇ、用意ええなぁ」
イフリータはランチボックスを開く。中にはサンドイッチが詰まっていた。
「形は悪いけどね」 苦笑するイフリータ。
「そんな事ないわ,ありがたく頂くで」 一つ,手に取り誠は一口。
「…??」
「どうしたの?」 イフリータもまた一つ頬張り、不思議な顔をする誠を見つめる。
「なぁ、イフリータ?」
「ん? お茶?」 コップに水筒からお茶を注ぎ、誠に手渡す。
誠はそれを飲み干し、手にしたサンドイッチを見つめる。
「これ、何挟んであるんや?」
「色んなのだよ」 2つ目を手にしながら、彼女は答えた。
「色んなの…ねぇ」
明らかに糸を引いた独特の匂いを放つ小粒の中身を眺めながら、誠は意を決した様に食べかけのそれを一気に飲みこんだ。
「変なのも仕込んでおいたから、ロシアンな気分を味わえるよ…うっ!」 2つ目を口にして、硬直するイフリータ。
「次からは普通に作ってや…」
「そうする…」 キムチっぽい匂い漂うパンを無理矢理口に押し込みながら、彼女は涙ながらにそう頷いた。
「ホンマ、いい天気やなぁ…」
一片の薄い雲が天頂で輝く生命の炎を薄く隠す。まるで日傘の下の様に、二人は薄い影に入った。
心地好い陽気と満腹感に、誠は緩やかな睡魔に見舞われる。
そんな彼を寝かすまいとであろうか,草が誠の手を、軽くくすぐっていた。
トン
誠の肩に、何かが軽く寄り掛かって来る。
「ん? イフリータ?」
「すぅ…」
静かな寝息と彼女の髪の一房が、誠の頬に掛かった。
草の萌える香り、川の上流から吹いてくる水の香りを乗せた風,イフリータの髪の心地好い香りの3つが誠を包み、吹きぬけて行く。
日傘代わりになっていた雲が、風に吹き散らされる頃,
誠とイフリータはお互い寄り添い合いながら、規則正しい寝息の二重奏を口ずさんでいた。
ゴロロロロ…
「…ん?」
腹の底から響くその天空からの音に、誠は目を覚ます。
いつしか日は陰り、薄暗い雲に青空は覆われていた。
今にも落ちてきそうな重たい雲。
「アカン、イフリータ,はよ起きるんや!」
誠はイフリータを揺すり起こす。
「ん? おはよう、誠」
「ヤバイで、イフリータ,夕立ちや!」
「え?」 ようやく目を覚ましたか,イフリータは空を見上げる。
その瞳にポツリ,何かが落ちてきた。
「もう遅かったみたい」 瞳を閉じたまま彼女は立ちあがり、まるで天からの贈り物を全て受け取る様に両手を大きく広げた。
「…そうやね」 困った様に誠は頭を掻く。
ポツリポツリ、乾いて白くなった土手の砂利道に、黒い点が次々に生まれていった。
ピシャ!
閃光が、暗くなった空に走る!
ザァァァ…
それを皮切りにした様に、バケツをひっくり返した様な雨が二人を打った。
「自然のシャワーだね!」
イフリータは笑顔で言って、全身で雨を受け入れる。水が彼女を経由して、大地へと帰って行く。
「…そうやな、雨いうても水やしな」
そんなイフリータを見て、誠は苦笑。完全に諦めて共に雨に打たれた。
数分後、
嘘の様に夕立ちは収まり、先程以上の青空が生まれる。
水溜りに空の青が映え、葵い世界がずぶ濡れの二人の前に広がっていた。
「もう止んじゃったね」 髪をかきあげ、イフリータは笑顔で誠に振りかえる。
「帰ろか、風邪ひくで」
「すぐ、乾くよ」 Tシャツの裾をギュっと絞りながら、彼女はそれに答えた。言葉通り、突き刺すような日の光がすでに二人の背中を乾かし始めている。
「それとも…」 彼女は続ける。
「私のこの姿で商店街を自転車で走るの?」
試す様にイフリータは両手を広げて誠に尋ねる。
「?…・・!?」
そんなイフリータを不思議そうに見つめていた誠は、彼女の言わんとしている事に気付き赤面。
濡れたTシャツとGパンは、イフリータの体にピッタリと張りついて、その豊かなラインを際立たせていた。
「さってと、誠,今度は誠の番だよ」
パン,Tシャツを両手で思いきり引っ張って水気を払い、彼女は元気良く問う。
「僕の番?」 顔を上げ、誠は疑問。
「そう!」
イフリータは自転車に駆け寄り、叫ぶ様にして言った。その表情は果てしなく楽しげなものに満ち満ちている。
「誠は、何処に行きたい?」
「そうや…なぁ」 乾き始めた髪をかきあげ、灼熱の太陽を見上げながら誠は目を細めて考える。
「そうや!」
服を乾かし得る眩しの元凶から目を離し、イフリータの立つ自転車に駆け寄って堤防の道の先をビシッ,指差す。
「上流へ、上流へ行こうや!」
「うん!」 元気良く頷くイフリータ。
「それじゃ、出発!」
「その前に…」 言いながら身構える誠。
「そうね,その前に…」 イフリータもまた、挑戦的に微笑むと同じく身構えた。
「「最初はグー! ………
夕立ちに一段と活力を与えられた草木は萌え、夏独特の匂いを生み出し空に住む魚に呑まれる。
涼と夏を食らった魚の如き風は、東雲の街から遠くへ遠くへと吹き抜ける。
それぞれの香りを乗せて。
そして再び、この街へと帰ってくるに違いない。