Assassin



 大陸をまるで断ち切るかのように広大な河が横断する。
 聖大河,そう呼ばれるこの大河の向こうには人とは異なる種が生息していた。
 それはバグロムと呼ばれる昆虫の怪物。
 そのバグロムはこの世界に生きる人という種族とはコミュニケートの取れない知的生物群であった。
 バグロムだけではない。
 この世界には竜や怪魚を始めとした幻獣もまた生息する。
 人を寄せ付けない高山,死霊が蠢くとされる谷,果てのないジャングル,そして神の住むと言われる神聖なる神山・マルドゥーン山。
 さらにこの世界にはかつて高度な文明が発達していた。
 先文明は愚かともいえる戦争により、崩壊。
 その崩壊劇は『破滅の七日間』と称され、今でも各地に史跡として,口伝としてその爪跡を残している。
 その史跡として最も名高いもの。それは天空に浮かぶ人工の月。
 『神の目』と呼ばれるその巨大な球体は、旧史においてこの世界を焼き尽くしたとされている。
 それら高度文明の雫は忌まわしきものとされ、封印されていた。
 だが、過去の傷痕は時が経てば消え失せるものばかりではない。
 過去の大戦は、望まざる者達をも呼び寄せたのである。
 邪悪な異世界の種族。
 幻を以て人を惑わせ、戦へと駆り立てる悪しき者達。
 青い肌をもった彼らは幻影族と呼ばれている。
 常に命の危険が潜むこの世界。
 誰が呼んだか、ここはこう呼ばれている。
 神秘と混沌の世界・エルハザードと……



 三日月が天高く、雲一つない黒いキャンパスを星という仲間を伴って照らしていた。
 「おやすみなさい」少女の声が響く。
 磨き上げられた大理石の廊下に、部屋の明りが零れていた。
 「おやすみ,ミュリン」部屋の中から男の声が、それに答える。
 「明日のお祭り、絶対連れて行ってよ!」
 「ははは,約束だからね。久々にリーデルの踊りを一緒に踊ろうね」
 「うん!」
 その答えに満足したのか、少女は金色の髪を月下にさらして、廊下を駆けて行った。
 再びきれいに静まり返った静寂に戻る。
 ここは街を高台から見下ろす位置にある城だった。
 カッ,廊下に一つの靴音が鳴った。
 「何だい? 早く寝ないと明日起きれなくなるぞ」部屋の中,男は椅子を回転させて振り返った。
 「ええ、貴方は永遠の眠りの中へ…」
 「!」男は絶句。
 そこには藍色の髪を持った黒服の女が立っている。
 もちろん、彼の知る顔ではない。
 「誰か!」身の危険を察し、叫ぶ男。しかしその時点で彼は気がついた。
 彼と女のいる場所が城の中ではなく、黒と白の混在した不可思議な空間にいることを。
 「幻影族か…」
 男は相手の正体に気付き、両眼を閉じる。
 次第に感覚が蘇る。ここは彼の自室,彼の城。
 そして傍らには愛用の長剣が置いてあるはずだ。
 手を延ばす。固い感触。
 「残念だが、お前如きに私は倒せん!」カッ,目を見開き、抜刀!
 それに女は微笑を浮かべる。
 「それで私を切ろうと言うの? その大蛇で…」
 男は自らの剣を見つめる。金属の光沢を放つその刀身に小さな鱗が生える。
 「?! 何だと!!」
 刀身は牙を持つ蛇へと変わる!
 クァ,蛇の顎が開かれた!!
 散らばる鮮血。
 蛇の牙が男の首元に噛み付いている。
 「さよなら、貴方の魂の行く末が至福の園であったら良いな」彼に背を向け、女は灰色の空間を歩いて行く。
 「…そんな,馬鹿な…我が娘よ,汝に幸あらん事を」絶え絶えに祈りの言葉を残し、彼は倒れ伏した。
 同時に景色が大理石の室内に戻る。
 そこには自ら剣で首を貫いた男が残るのみだった…



 太鼓と金属音が街中に鳴り響く。
 晴天の真昼の街,そこにはいつも以上の活気が満ちている。
 石畳によって舗装された街の通りには隙間を生め尽くさんとする屋台で一杯だ。
 そしてそれを求める群衆,まさに人の海と表現できるほどの盛況振りである。
 その人の海の中を一人の女が軽やかに泳いで行く。
 藍色の髪の女,歳の頃は一八,九であろうか、しかしその雰囲気はどこか何事も達観したような大人びいたものを、彼女を見る者には感じさせるだろう。
 黒いタイトスーツの上に髪と同じ色の服を羽織っていた。
 彼女が泳ぎ着いたのは、街の中心にある噴水。
 この噴水を中心として、この街は放心円状に発達している。
 「ふぅ、すごい数の人っしょ」訛のある言葉で、彼女は呟き噴水の縁に腰を下ろす。
 街中にその満ち満ちる活気を謳歌しようと、人々が闊歩する。
 それを見つめる彼女。その瞳の奥に秘められた想いは、彼女自身,未だ気付かないものだった。
 「それにしてもどっからこんなに集まったんだか」
 「まぁな,年に一度の祭りだ。娯楽のないこの地方はどこもこんなもんさ」彼女の呟きに男の声が答えた。
 彼女は顔を上げる。
 そこには褐色の肌の青年が立っている。ターバンを頭に巻き、背には大きな背負い袋を負っていた。人懐そうな笑顔の中の茶色の瞳に、次第に笑顔に変わる彼女が映っている。
 「久しぶりだな,イシエル!」
 「お久さ,アブザハール!」
 パシィ,二人は右手同士をお互い打ち鳴らす。
 「ところでイシエル,お前…」アブザハールと呼ばれた男は気を取り直してしげしげとイシエルを見直した。
 「? どうしたっしょ? あ、もしかして『しばらく見ないうちに奇麗になったな』とか言うつもり?」笑いを堪えて、彼女はアブザハールに言う。
 「いや,太ったなって思って」
 次の瞬間、イシエルの拳が彼の頬に深くめり込んでいたというのは言うまでもない…



 噴水の見えるレストラント,その窓際で、二人は遅めの昼食をつまんでいる。
 談笑していた二人だが、ふとアブザハールの顔色が曇った。
 「辛い指令をすまないな,イシエル」真顔でアブザハールはイシエルを見つめて言った。対する彼女は不思議そうな表情で彼を見る。
 「辛いって…何が?」フライドチキンを一口,イシエルは首を傾げる。
 ”感覚の麻痺か,それがガレス様の求めるところではあるのだが…辛いな”と、辛いのが彼女を見ている自分であることを知り、軽く一笑。
 「変なの」アブザハールを見、イシエルは呟く。そして窓の外へ。
 5,6歳の子供であろうか、3人位で祭の雰囲気を楽しみながら駆け回っているのが見えた。
 「懐かしいね,アブサハール。あの頃は辛かったけど…その辛さを乗り越えてこうして生きてこれている」子供達の様子を眺めながら、彼女は微笑んでそう言った。
 「辛さか。確かに乗り越えたのやも知れぬ。代償は大きかったが」
 「そうね,何人もの仲間が消えて行って…今でもそれは続いているものね」普段の彼には見られない厳しい視線を外に向けているアブザハールにイシエルは気付き、言葉を言い換える。
 重い雰囲気が場を支配しようとする。
 「お、このチキン頂き!」
 アブザハールの今までにない陽気な声,彼はイシエルの皿から残り1つのフライドチキンを奪い、一気に口の中へと押し込んだ。
 「あ、何するべさ!! なら私はこのポテト頂き!!」
 「てめぇ!!」
 二人争うその外では、噴水広場で瓦版屋が号外を振りまき始めていた。
 その内容に、祭の活気が目に見えて静まって行く。
 号外にはこうあった。
 ”フィリニオン公レオナール,自害か?!”
 フィリニオンとはこの地,すなわちこの国の領主である。
 そしてこの国は隣国・バルバトスと一触即発の状態にあった。
 人々は近く未来に起こり得る悲劇に、今はただただ、祈るしかない。



 夜,最も華やかな舞台であるはずの櫓の回りには人一人もいない。
 ここフィリニオンには櫓を囲んで皆で輪になって踊るというリーデルという踊りがある。祭りには決まって催されるのであるが、すでにこの街には祭の活気は消え去っていた。
 「あっけないものっしょ」静まり返った街を見渡し、その櫓の下でイシエルは隣の男に呟く。
 「分かってはいたが、余り気分のいいものではないな」これから起こる事態を予測し、アブサハールは言葉を吐いた。
 彼はこの街に寄る前に隣国・バルバトスにいたのである。
 何をしてきたのかは、彼の持つ薬瓶のみが知っている。
 行商人,それがアブザハールの職業であり、本性を隠す隠れ蓑である。
 今頃、バルバトスでも号外が配られているに違いない。
 「見出しは”第一王子,謎の心不全”かしらね?」
 「いや、今回はおそらく”狂乱の末の死”だろうな」
 「ふ〜ん」興味なさげにイシエル。
 「普通の人間の俺にはお前みたいに力がないからなぁ」溜め息とともに言葉を吐いた。それにイシエルは頬を膨らませる。
 「私だって半分人間よ」
 「そのお蔭で神官としての力もある,しがない毒使いの俺とはダンチだぜ」下ろした背負い袋をもう一度背負い直す。
 「神官…ねぇ。地の神官は大した術はないんだけどね」街の外に向かって歩き始めたアブザハールの背中を追いかけて、イシエルは続けた。
 「人は限られた力を持ってこの世に生まれいづる。自らの力を知り、多くを望むな,さすればより多くの幸が与えられん」腰に指した棒杖に振れて、イシエル。
 「地の神官の教えか?」
 「あったり〜」
 「忠告としてありがたく拝聴致しましたよ」
 「ちょっと、歩くの早いっしょ!」
 「お前が遅い」
 やがて二人は街を後にした。



 若き当主となった少女の前で白熱した議論が展開されていた。
 すなわち隣国である敵対国,バルバトスへと戦いを仕掛けるか。
 今回の前当主、レオナールの死は不自然なところが多い。そもそも自殺する動機がないのだ。
 これはバルバトスによる暗殺と考えるのが自然である,そう幕僚達は言う。
 現に現在、バルバトスに出兵の動きがあると間諜からの報告があったばかりだ。
 しかしである。
 戦争は近辺諸国が互いに締結した同盟によって固く禁止されている。
 その約をたがえた場合、盟主国ロシュタリアから制裁を加えられるのは必至だ。
 だが、当主を殺されて黙っていられるはずもない。
 そして当主に即位したのは一人娘である僅か十二歳の少女だった。幕僚の中にはよからぬ考えを持つものもいる。
 ダン!
 強く長机が叩かれる。
 それに言い争う幕僚達は一斉に沈黙する。
 彼らの視線の先には、上座に立つ、厳しい視線の少女が一人。
 「父の死は未だその原因は不明,バルバトスとの戦を仄めかすことはいらぬ誤解を招きます! もしもバルバトスによる刺客のためであるという結果ならば、ロシュタリアを始めとした同盟国会議にかければ処分は明確になります」
 「しかし!」幕僚の一人が叫ぶ。
 「我々はこのまま指を加えて見ていろというのですか!」
 「何のために我々は存在しているのです!」次々と声が上がる。
 「ではもしも、バルバトスが全く関係なかったとしたら…一体どうするおつもりですか!」少女の叱咤。未だ若くも、その内にある威厳と洞察力は大人と渡り合うことも可能に見える。
 「ですが」
 「くどいですよ,貴方がたは。一番苦しんでいるのは誰だとお想いなのかしら?」再び騒ぎ始めようとする幕僚達をその一言が静める。
 部屋の入口に一人の女性が立っていた。
 その存在を若き当主は認め、席上から深々と頭を下げる。
 「良いのですよ、ミュリン様。私はもう引退した身ですから」我が子を見るような面持ちで、女性は少女の元へと歩み寄る。
 「ですが,ユフィール様」恐縮する少女の唇に、女性は微笑んで人差し指で封をする。
 「なら、元・風の大神官の立場から言わせてもらおうかしら」ユフィールの傍らに立ち、彼女は挑戦的な微笑みで二十人近い幕僚達を見渡した。
 「先日、バルバトス公国の第一王子がこの世を去りました」厘とした澄んだ声が部屋に響き渡った。
 ザワリ,ざわめく。
 「では、やはりバルバトスの刺客が陛下を!」
 「短絡的ね,貴方」白い目を若い幕僚に向けるユフィール。
 「バグロム…か」呻くように、幕僚の一人が言葉を吐いた。
 白髪,白髭の壮年の男。刻まれた皺の奥には戦いで受けた傷もある。
 その彼の発言に三度彼らはざわめく。
 「現在、同盟は微妙な均衡の上に成り立っているわ。僅かな亀裂でも広げたいのは彼らの望むところ…と言うことですか?」
 「良く勉強しているのね,偉い偉い」ミュリンの頭を撫でて、ユフィールは言った。
 しかしその表情は固い。
 「だが、バグロムがそんな戦略的なことを考え付くのか?!」先程、短絡的と言われた若者が怪訝に尋ねた。
 彼の言う通り、知的生物でありながら昆虫並みの頭脳であるバグロムに戦略という言葉は程遠い。
 実際、彼らの戦いは直線的であり、それ故に手強いのである。
 「バグロムに同盟を攻め込ませる糸口を作り出し、同盟を戦乱の渦へと投下する。それを望む者達の仕業だの」白髪の男がその単語を言うことすら汚らわしいように呟いた。未だ、その内容を掴み切れていない者達がざわめく。
 そのざわめきもミュリンの言葉で水を打ったように静まり返ることになる。
 「…幻影族…」



 亡き父の柩の前,幼い彼女は悲痛な面持ちで城内の大広間に設置された葬儀の会場で一人、項垂れていた。
 その彼女の傍らに微風が吹き抜ける。
 「ミュリン…」黒い喪服に身を包んだ20代後半の黒髪の女性。手首と足首,そして首筋の白い肌が衣類と対照的に目立ち、整った顔立ちと内在する強い意志は嫌が応にも見る者の心にその残像を残す。
 「私は大丈夫です,ユフィール様」俯いたまま、十二歳の少女は答えた。
 「これ以上、悲しむことはありませんから」赤く腫らした瞳に無理矢理笑顔を浮かべ、顔を上げる。
 「…」元・風の大神官は何も言えない。
 しばらく二人の静かな時間が過ぎる。
 「オリアス,そう、貴方のお母さんが言っていたわ…」そう切り出したのはユフィール。思い出すように中空を見つめている。
 「お母様が?」
 「季節はどうして変わって行くのかなって。どうしてだと思う?」
 「? 時を自らこの身で感じるため…でしょうか?」
 「それもあるわね」目を細め、神官は言う。
 「オリアスは言ったわ。変わり行く季節の中で変わっていくものを見つめるためにって」
 「…」
 「例えどんなに離れていても、季節を感じることで貴方を見ているってね」
 「有り難う御座います」儀礼的にミュリンはそれに答えた。
 「ユフィール様には感謝しております。皆が忘れ掛けている母の命日にわざわざ来て下さって…」言葉が詰まる少女。
 「ミュリン,無理を…無理をしなくて良いのよ」優しさの籠もった言葉。ユフィール自身を良く知る者にはおそらく見せたことのない表情。
 「無理は、していません…」
 二人しかいない柩の前、少女の嗚咽が漏れた…



 バルバトスとフィリニオンの中間にある小さな村。
 その一件しかない宿屋,一階の大衆食堂にて。
 そこに二人はいた。
 清々しいはずの朝、イシエルはアブザハールの渋い顔を見なければならなかった。
 「…何かあったべさ?」陰気が染るのを恐れたか、イシエルはアブザハールから一歩離れる。
 それにアブザハールは憂鬱な顔でコーヒーを飲み干す。
 「ガレス様より指示がきた」小声で呟く。
 それにイシエルの表情は強張る。
 「我々の任務は成功したが、事態は失敗だ」
 「どういうことっしょ?!」
 「戦は起こらぬ,そういう事だ」
 「…私達の落ち度ってこと?」
 「いいや、ただ計画が甘かっただけだ。そしてイシエル,お前に追加の指令がきた」
 「…」
 「フィリニオン公のミュリンを消せ」
 カシャリ,アブザハールのコーヒーカップを置く音が妙に大きく響いたような気がした。



 砂漠を一人、アブザハールは進む。
 天空に浮かぶは月と神の目。
 ”暗殺で歴史は変わるのか?”思う。
 ふと後ろ振り向く。
 ただ彼は友人が生きて帰ってくることを心の底から望んでいた。
 「安心しろ,ただ、お前は生きてくれていれば良い」
 彼の言葉は遠ざかる彼女には届かない…・・



 夜陰に紛れて、彼女は進む。
 この城に忍びこむのは三度目だった。
 一度は王妃の暗殺,二度目は先日の王の暗殺,そして今度は新たな当主の殺害。
 ”ミュリン…ね”先日の少女の姿が思い出される。
 何一つ悩みも苦労もなく育つ少女,飢えや暴力からは遥かに離れた場所に住む彼女。
 イシエルの同じ年頃とは全く反対だ。
 それ故に命を狙われる。
 ”どっちが良いとも言えないわね”しかしイシエルにはミュリンという少女に対しての憐憫の感はない。だからといって憎しみや羨みがある訳でもない。
 全くの別世界の人間なのだ,そしてそんな人間が消えたところで何の感慨もない。
 猫の如きしなやかな身のこなしで、彼女はミュリンの寝入る私室に足を踏み込んだ。
 ”あんな事のあった後なのに、護衛もいないなんてね”失笑。
 ベットに一つのふくらみを発見したイシエルは懐から短刀を取り出し、音もなく飛び掛かった!!
 瞬間、不自然な大気の流れ!
 「クッ!」圧倒的な風に押し戻されるが、イシエルは身を捻って見事に着地する。
 「暗殺者,幻影族ではないのか?」ベットの上で立つのはターゲットとは異なる女性。
 「チッ! 厄介な」イシエルはこの時点で彼女が風の神官であることに気付いていた。
 戦うか逃げるか…イシエルは前者を選んだ。
 ”退くとき,それは死っしょ!”長たるガレスの顔が脳裏に浮かぶ。失敗した者はもはや必要のない者だ。
 特にこういった任務を与えられる者は顔がバレてしまえばそれで終わり,組織に害しか残さない。
 イシエルは額に意識を集中する。
 幻影の展開,強力なその力は風の神官を包み込んだ。
 「ほぅ,幻影族ではないとすると…ハーフか、お前」大して臆した風もなく、風の神官は感想を漏らす。
 その風の神官の視界には幾人ものイシエルの姿が映っていた。
 彼女らが一斉に短刀を振り下ろす!
 「風よ」小さな言葉を紡ぐ。
 神官の中から真空の刃が同心円状に生まれ、まっすぐに飛ぶ!
 「「「ぐはっ!」」」刃に貫かれ、全てのイシエルが膝を付いた。
 刃はそのまま幻影を,建物すらも切り刻んだ。
 ゴゴン!!
 破壊音が響く。
 続いてそれを聞き、騎士達が駆け付ける。
 「うっ」膝を付いたイシエルは駆け付けた騎士達の中に金色の髪の少女がいるのを認識した。
 すぐさま、短刀を放つ!
 しかしそれは途中で風に絡まり、床の上に乾いた音を立てて落ちた。
 「貴方が暗殺者…」ミュリンは呟く。
 それをイシエルは地が溢れる傷口を押さえて睨つける。
 「私は貴方に殺されない。私にはこの国を導かなくてはいけないもの。もしも私の命を奪ったとしても…」若き当主は彼女を囲む騎士達を見上げる。
 「私の代わりは幾らだっている。そう帰って伝えなさい!」芯のある、幼いがしっかりとした口調でミュリンは叫ぶようにして言い放った。
 ”…仕方無いっしょ”イシエルは腰に指した棒杖を手にする。
 「大地よ…」呟き。
 大地が振動する。幻影ではない!
 建物がその振動に耐え切れずに崩れ出した。
 「これだけは覚えておきなさい!」イシエルは崩れ行く建物を背に、ミュリンに,ユフィールに向かって叫ぶ。
 「貴方に代わりがいるように、私にも代わりが幾らだっているってことにね!」
 轟音を立てて崩れる城の一角。
 砂煙に紛れて、イシエルの姿は消えて行った…



 「そうか」青い肌の美青年はそう、一言呟いた。
 彼の前には一組みの男女が膝を付いている。
 イシエルの言葉を一部始終聞いた彼は大いに笑い出した。
 「ガレス様?」傍らにはべるこれもまた美少年が訝しげに彼を見上げる。
 「フィリニオン公ミュリン,末が楽しみではないか。それが分かっただけでも収穫はあった」言い放ち、ガレスは背を向ける。
 「アブザハール,お前の願いは聞き届けよう」
 「はっ!」青年はそれだけ言い残すと少年を伴って二人の前から姿を消した。
 張り詰めた空気が僅かながら消え、2人は安堵の溜め息を吐く。
 「怪我は大丈夫か? イシエル?」立ち上がり、アブザハールは彼女に尋ねた。
 「ま,ね。でも何なの? 願いって」
 「さぁな」言って、アブザハールは舌を出す。
 「ちょっと、教えなさいよ!」
 「いずれ、分かるさ」
 子供のように言い合う二人。そして彼らもまた、その場から姿を消した。


 この後、アブザハールはイシエルの代わりに名もなき鬼神となり、彼女に牙を向くことになる。




あとがき

 これは時間的にはOVA1の前の話,イシエルが大神官となる前の時間と設定してあります。
 笑いがなく、一応シリアスなこの内容、これは主人公である地の神官イシエル=ソエルのキャラクター自体が基本的にシャレのないものだからだと思います。
 彼女は幻影族という人に恐れられる存在との混血でこの世に生を受けました。
 そんな彼女がそうやって生きてきたのか,おそらく人間の間でも,幻影族の間でも苦しみながら育ってきたのでしょう。
 今回はアブザハールという逃げ口を用意してありますが、最後にはああなっちゃいますし(^^;
 でもエルハザードという世界でこういう話をしていますが、実際、多いのではないでしょうか? こういう境遇の方って。もちろん現在だけではなく、過去も含めてです。
 そんなイシエルに幸せが訪れる日を願って、筆を置きたいと思います。