真夏の雨


 膝を、青く茂った草がくすぐる。
 一人の青年が延々と続くと思われる、ただっぴろい草原を必死に駆け抜けていた。
 季節は日の光が燦燦と照りつける夏,時は午後3時。
 草の間を駆け抜けてゆく風には湿った感がある。
 駆ける青年の鼻孔を、青い草の香りと蒸したような水の匂い,そして生ぬるい海水の下でとうとうと流れる冷水のような涼しさが付いてきた。
 やがて彼は草原を刺し貫く街道を踏みしめる。
 土の柔らかさではない、人々が踏みしめ固めた感触。
 そこで一息。
 肩で息をする彼はいつしか雲の陰に入っていた。
 突き抜けるうような晴天はまるで嘘のように、不意に生じた厚い雲によって覆われている。
 青年は肩から提げた大きめな鞄を持ち直す。その拍子に中の荷物,奇妙な形をした草が一株、落ちた。
 「やっぱり間にあわへんか,どこかに…」
 彼はそれには気を止めず、キョロキョロと辺りを見渡す。
 あるは膝の高さしかない草々,そして…
 彼のこれから向おうとする反対側,ちょっとした丘になった高台に一本だけ、大きな欅の木がこの街道沿いに佇んでいた。
 距離にして200mばかりか。
 ゴロロロロ…
 遠き雲の彼方から、大空の唸り声が聞こえてきた。
 ポツリ
 青年の頬に生暖かい何かが触れる。
 ポツリポツリ…
 街道の乾いた灰色の土に、転々と染みが広がって行く。
 「ひとまずあそこに待避や!」
 彼は欅の木に向って、一目散に駆け出した。



 彼女は大きく溜め息を吐く。
 「ウチもボケたものやわ,命より大事なものを置きっぱなしにするなんて」呟き、自虐的に一人微笑んだ。
 ひたすらに歩くが、目的の地は未だに見えない。だが、彼女の記憶が確かならばもうそろそろのはずだった。
 「ん?」
 ふと、その歩速を0にする。
 今まで彼女に嫌がらせのように降り注いでいた真夏の日差しが、急にその勢いを落としたのだ。
 湿った風が、彼女の薄い夏着を揺らした。
 天を見上げる。
 見上げたその黒い瞳に、大気の熱を十分に吸い込んだ水滴が一粒、落ちた。
 「夕立…?」
 彼女は大きく肩を落として、周りを見渡す。
 あるのはとても身を隠せそうもない背の低い草々ばかり。それが果てしなく彼女の四方に広がっているだけだ。しかし…
 「!」
 遙か遠く,道の伸びる先に一本の大木が立っているのが見えた。
 なだらかな登り坂の果てに立つ木,あの麓まで行けば、目的地はきっと一望できるだろう。
 彼女の歩みは、落ちる水滴の数に合わせて次第と加速して行った。



 ポスッ!
 青年は肩に担いだ鞄を根元に置いた。
 懐から白いタオルを取り出し、顔を拭う。
 雨足は今ではバラバラっと言った程度だ。
 「ふぅ」大きく息を吐き、木の幹に背を預ける青年。
 そして足下の鞄を見遣った。
 「ここまで遠出すれば、結構珍しい薬草があるもんやなぁ」感心したように呟く。
 鞄の中を成果に一人、満足げに微笑んだ後、彼は顔を上げる。
 徐々に強くなる雨足。
 高台になっているこの欅の木の下では、遠くに大きな都市が一望できた。
 ロシュタリアの都である。
 やがてその都は雨のカーテンによって白くぼやけ霞んでいった。
 バシャバシャバシャ…
 不意に雨の中、駆ける足音が青年の背後に徐々に近づいて聞こえてきた。
 彼は振り返る。
 バシャ!
 草原の唯一の屋根に、もう一人の訪問者。
 二つの視線が、絡み合う。
 「誠はん?」
 「アフラさん?」
 ザァァァァ…
 雨が、本格的に大地を叩き始めていた。



 僕はタオルをアフラさんに投げ渡す。
 「ありがとぅ、誠はん」
 僅かに微笑み、彼女は塗れた髪を拭き始める。
 僕はそんなアフラさんを眺め…慌てて視線を背けた。
 「奇遇ですなぁ,誠はん。こんなトコで一体何しおってん?」
 いつもの、訛りを帯びた言葉が聞こえてくる。
 「え…えと、薬草の採集です。つい夢中になってもうて、これに引っ掛かってもうた」
 僕は彼女を見ずに、天を指差す。
 「それは災難でしたなぁ」しみじみ、彼女は言った。
 「アフラさんは一体どうしたんですか? こんなところで雨に濡れて」
 その言葉に、何故か分からないが、一瞬の緊張が走った。
 「い、色々と…」捻り出すような、苦しそうな言葉が返ってきた。
 「と、ところで,そこに何かあるんおますか?」
 不意に訪れる話題の転化,伴なって僕に近づく気配。
 触れるか触れないかのすぐ傍で、アフラさんは僕の視線の先を見つめた。
 そこには雨に打たれる街道の土があるだけ。
 「? 誠はん?」怪しむ声。
 「い、いえ,何かを見ている訳じゃなくて」僕はアフラさんに向き直り、沈黙。



 ウチは誠はんに貰ろうたタオルで、雨に濡れた髪を拭きながら返答に戸惑う。
 “言えへん,ロシュタリアの神殿に風のランプを忘れたから取りに来ただなんて…”
 「い、色々と…」そこまでしか言葉はでない。
 ?
 そんな折り、誠はんはウチとは正反対の方を見ながら話していることに気付いた。
 何かあるんやろか?
 ウチは誠はんのすぐ傍で、視線の先を見た。
 …何もない?
 「? 誠はん?」
 「い、いえ,何かを見ている訳じゃなくて!」誠はんはウチに向き直り、そこまで言うと顔を真っ赤にして言葉を止めてしまう。
 今度の誠はんの視線は、ウチ自身を見ていた。
 フイ
 誠はんはまた、何もない空間を見つめる。
 「?? 誠はん?」一体彼はどうしたのか??
 ウチは困ったように頭を掻き、雨で濡れて体に張り付く夏着に手を掛ける…
 はて、体に張り付く…?
 ウチはゆっくりと視線を下に落とす。
 ?!?!
 声にならない叫び,ウチは欅の木を挟むように誠はんの反対方向に逃げ出した!!
 誠はんは何かを見ていた訳じゃない,ウチを直視できなかっただけ。
 そぅ、雨に濡れた薄い夏着は体にピッタリ張り付いて、ウチの体のラインをはっきりと浮かび上がらせていたのだ,よく見ればほとんどセミヌードである。
 な、ウチは何やっとんのや?! どうして気付かへんの? 誠はん…はっきり見たんやろな…
 身の内からの心音が、耳に大きく届く。頬が熱い。
 どうしようもない不安と焦り,そして何よりも大きい恥ずかしさが込み上げてくる。
 ウチはそれらをギュっと胸に抱いて、背を木の幹に預けた。



 目の前の光景に言葉を失う。
 アフラさんは気付いていない,だからといってはっきり言おうにもどう言ったら良いのか…
 アフラさんはいつもの切れ長の瞳を雨で湿らせて、不思議そうに僕を見つめている。
 彼女の吐息が届くか届かないかの微妙な距離。
 塗れてやや乱れた髪は、普段はなかなか感じることは出来ない彼女の持つ艶やかさを引き出しているかに見える。
 結いの解けた髪の一房が、アフラさんが首を小さく傾げた拍子にその胸元に落ちた。
 絹越しに見える肌色。
 僕は慌てて顔を背ける。
 「?? 誠はん?」
 声が、僕の耳をくすぐった。
 そして数瞬後、
 アフラさんは慌てて駆け出した。
 「ふぅ」
 僕は改めて、背を木の幹に預ける。



 ザァアァァァアァ…・
 雨足の強さは収まらない。
 雨音だけが、ウチらの間を埋めていた。
 なにか、何か喋らんと…
 そんな焦りが、ウチの心を急かした。
 何を喋れば?
 薬草のこと? それともシェーラとのことでも…
 奇妙な緊張が大木を挟んで張り巡らされていた。
 なにか、そう、何でも良いから話題を…
 「あ、あの…」
 ウチの声が、他人のものに聞こえる。
 「はい?」誠はんの声や。
 ピシャーン!!
 轟音は後に。天に光の線が走り抜けた!
 ゴロゴロゴロ……
 後を引く天の叫び。ウチは頭にあった何もかもを忘れてしまう。
 「…なんでもありゃおまへん」
 言葉尻りは雨音に消え去った。



 「…なんでも…」アフラさんの言葉はそこで雨音に消えた。
 どうしよう。
 僕は焦る。
 耐え切れない緊張感が僕達二人の間を走っていた。
 何か喋らんと…
 ゴメン、謝るべきか,それとも最近神官のお仕事は忙しいですか?と話題を変えてみようか…
 考えれば考えるほど、どうしたら良いのか分からなくなってくる。
 どうしよう。
 どうしようか。
 とにかく声を掛けよう!
 「ア、アフラさん? あの…」
 「はい?」はっきりとしたアフラさんの声。
 そこまで言って、頭の中が真っ白になる。動悸が早くなり、息苦しい。
 心音と、雨の音が耳に大きく届いた。
 一瞬の沈黙が、酷く長く感じられる。
 何も、言えない。
 「…なんでもあらへん」僕は消え入りそうな声でそう呟くしか出来なかった。



 どうしよう。
 彼は思う。
 どうしよう。
 彼女は思う。
 天から大地に降り注ぐ恵みは、現われた時と同じく急激にその勢いを衰えさせていった。
 どうしよう。
 彼は推考。
 どうしよう。
 彼女は思案。
 二人は背に木を挟んで、互いの存在を認め合っていた。
 近くて遠い、二人の心。
 こうしよう。
 彼は決定。
 こうしよう。
 彼女は決断。
 顔を上げる二人を、欅の木は黙って見下ろすだけ。
 「「あの!」」
 重なる声。
 重なる言葉。
 重なる気持ち。
 「「!!……」」
 再び、短くて長い沈黙が二人を包む。
 唐突に雨音という雑音が消えた。
 二人の横顔を、夏の日差しが照り付け始める。
 「雨、止みましたね」
 「良い天気やわ」
 自然と紡がれる言葉と言葉。
 そして、
 「ふふふ…」
 「ははは…」
 どちらからとでもなく、笑い声が上がった。
 共に見上げるは澄み切った青い空。
 言葉を交わすでもなく、二人の心は今の空のように曇り一つなく通じ合っていた。
 「さて、行きましょうか,アフラさん」
 「ええ!」
 同時に、もたれていた木から離れる。
 涼を含んだ風が二人を優しく包み、そして吹き抜けた。
 今日もロシュタリアの空は、高い。

Fin