夕涼み


 空が群青色に陰り、ようやく日中の痛いほど照り付ける夏の日差しから大地は解放される。
 数刻前までは突き抜けるようだった青空は今や、星が無数に瞬く星座図と化していた。
 ロシュタリアはフリスタリカの郊外に設けられた天然公園。林を適度に切り開き、林道や広場を設けたこの市民の憩いの場は、少し奥の方ともなると街の灯かりは届かず、未だキツネのような獣や甲殻類などが出現する。
 そんな中を、清らかな小川が突き抜けるようにせせらぐ。幅は5mばかりの浅い水の流れ。
 そしてそれを跨ぐ簡易的な丸太の橋の上でのことだった。
 川面に月の光と神の目の影,そして橋の上から覗く一影が一つ、映る。
 バシャン!
 水の映像は、跳ねた小魚によって乱された。
 その乱れもやがて、、水の流れによって下へ下へと流されて行く。
 川面の映像が元に戻る頃…
 映る人影は一つから二つへと増えていた。
 川面の人影の一つは、隣の人影にゆっくりと振り返る。
 「?」
 隣で同じように川面を眺めるは黒髪の少女。
 濃紺の絹生地であつらえたラフなシャツと同色のスカートをその細めの身に纏い、片手には大きめの瓶を提げている。
 緩やかな風が、二人の間を吹き抜けた。
 後ろに流しただけの長い髪が揺れ、その間から川面に映える黄色い月の光を宿した瞳が覗く。
 「? なんじゃ?」
 瞳が、その方向を変えた。
 同時に端整な顔立ちが月明かりの下、晒される。
 「………ふむ」
 暫し彼女は見つめた後、再び川面に視線を戻した。
 「…ここには良く来るのか?」
 ややハスキー気味な旋律が林の中を流れる。
 「ここに目を付けるとは、おぬしもなかなかじゃの。静かで風が良く通り、何より空気が良い,避暑にはうってつけの場所じゃな。が、もっとも…」
 森の息吹きを吸い込んだ風が、足下をくすぐる様に駆け抜ける。彼女は小さく微笑んで言葉を繋いだ。
 「人の気配がないという利点は今日で崩されたが、の」ニヤリ,不敵な微笑みを浮かべて、彼女は何故か嬉しそうにそう言い放った。
 「ところで、おぬしは何を生業にしておる者じゃ? わらわと同じ目の付け所を持つのじゃ,只者ではあるまい?」
 と、彼女はそこまで言うと、思い出したように続けた。
 「おっと、すまん,普通は尋ねる方から明かすべきじゃな。わらわはファトラと申す。生業は…そうじゃの,ちょっとした会社の副社長,のようなものかの? ん? この歳で副社長はないだろうって? まぁ、モノの例えじゃ,そういう感じのモノということじゃよ」
 苦笑する少女の表情には、普通と変った言葉づかいに伴なって歳不相応な雰囲気も感じられる。その雰囲気はしかし、彼女の気を取り直した言葉で払拭された。
 「では、お主の番じゃ! っと待てよ、わらわが当ててやろうではないか」
 そこまで言うと彼女,ファトラはまじまじと見つめる。値踏みするかのように上から下へ、下から上へと眺め回した後、
 「ガテン系? …ん? ちがうな,ではそうだな…八百屋か? 何? 何故八百屋なのかだと? 何となくそう思っただけじゃ。では…ううむ」
 彼女は人差し指をその小さな顎に当て、虚空を見る。
 その体勢のまま数分が過ぎ…突如動き出した!
 「ふむ,分かったぞ! お主は流れのストリートファイターじゃな,いいや、皆まで言うな,そういうことにしておいてやろう。…ん? 何じゃ? その不服そうな顔は??」腰に手を当て、憮然としてファトラ。しかしすぐに気を取り直したように橋の柵に背を預けて夜空を見上げる。
 そのまましばらく、ほんのしばらく静かな時間が過ぎ去って行く。
 「お主は…」ファトラの声が風に乗って届いた。視線を向けると相変わらず夜空を見上げたまま、彼女は言葉を紡ぎ始めた。
 「お主はこうして、ぼ〜っとすることは多いのか?」
 無言で答える。
 ファトラはそれをチラリ,目だけを動かして読み取ったようだった。
 「そうか…せわしなく物事を進めるのも確かに効率は良いかもしれん。だが時にはこうして何もしない時間をおくるのも、己を見渡す為に必要な時間かもしれぬの」
 遠くからかすかに時計台の鐘の音が聞こえてくる。夜半を告げる街の声だ。
 「つい今まで,この何もしない時間、おぬしは何を考えておった?」
 衣擦れの音,ファトラがこちらを興味深げに眺めている。
 「?」
 「よもやこんな絶世の美女を隣にして何も考えずに、ぼ〜っとしていたとは言わぬであろうな?」半ば恐喝に近い口調で尋ねる彼女に、返事する。
 「…そうか、ふむふむ。だがな、お主とわらわの時間がこうして重なることは天文学的確率の上に成り立っておるのだぞ」
 「???」
 「…言ってる事が分からぬといった風じゃな。よろしい、説明して進ぜよう」ファトラは姿勢を正して言葉を続けた。
 「例えばお主が怠惰な安眠に費やす一刻と、わらわが人の命を左右する会談を行う一刻,この2つの一刻は等価だと思うか?」
 真剣な表情の彼女の言葉に、無言で返事をする。彼女はそれを見て鷹揚に頷くと再び続けた。
 「確かに刻は全てのものに対して均しく等価に流れる。しかし刻の中身は等価ではないと、わらわは思うのじゃよ」
 ポン、彼女の手の中で軽快な音が鳴る。伴に仄かな果物の香りが漂った。
 「そしてこの刻,お主がこうしてわらわとこの場で出会い、同じ刻の中にいる。これは計算しきれん確率の上で成り立った上での事象じゃ。わらわ一人では成し得ることは出来ず、お主がここに『来る』という意志も必要なのじゃからな」
 彼女はそこまで言うと軽やかに微笑んで、手にした瓶の中身,赤い液体をラッパ飲み。
 「…ふぅ、ほれ、お主も飲め」
 「………」酒瓶を手渡される。葡萄酒か何かであろう,半分以上残っていた。
 「何じゃ? わらわの酒が飲めんと言うのか? そぅ、良い飲みっぷりではないか」満足そうな彼女の声。
 葡萄の香りが口に広がる。癖のない上質な葡萄酒だった。
 「こうして美しい星空の下、風に吹かれて旨い酒と話相手がいる,こういう時間はお主にとっては価値ある刻か? それとも…」
 「……」
 答え、酒瓶を手渡した。
 「ふむ、お主はそう思うか」ファトラは再び酒を一口。飲み干すと同時に大きく、大きく息を吐いた。
 「わらわは偶然にもこうして過ごすお主との時間,まぁ、何だな……」
 ファトラは言いながらこちらに振り返る。月明かりに照らされた彼女の白い肌が、夜の闇に浮かんでくっきりと見えた。
 俯き加減にこちらを見上げるその視線は、アルコールの為であろう,少し上気している様にも見える。
 彼女はゆっくりとこちらに歩み寄り、そして…
 トン
 「?!」
 額を胸に当てる。同時にファトラの柔らかい髪の香りが鼻をくすぐった・
 「…悪くは、ない」彼女はそう、呟く。
 短く、永い時間。
 ファトラは風のように脇を駆け抜け、呆然とするこちらの背に向って声を掛けた。
 「縁があればまた会えるであろう! サラバだ!」
 酒瓶をこちらに投げるファトラ。
 飛んできたそれを慌てて受け取る頃…
 彼女の姿は夜の闇へと消え去っていた。
 風に乗って遠くから深夜を告げる鐘の音が聞こえてくる。
 穏やかな流れを身に宿す小川は、その水面に夜空の下で風に吹かれて酒宴を開く一つの影を映しているだけだった。

End