カラン…
小石が頭上にパラパラ、降ってくる。
背をゴウゴウと音を立てて叩きつけるのは下,谷底から吹き上げる風。
私はほとんど90度の断崖絶壁にしがみついていた。背負うリュックの紐が、肩に食い込む。
どうしてこんな事になっちゃったんだろう??
上を見上げると、ザイルを岩壁に叩きつけている誠様の姿が。
ガラリ、私の掴んでいた岩の出っ張りが、岩壁から唐突におさらばする!
襲いかかる浮遊感!
「きゃぁ!!」
「ア、アレーレ!」
誠様はロープを慌てて掴む!
グン,腰に結んだ命綱が、私のちっぽけな命を現世に食い留めた!
右手一本で私の綱を掴む誠様の顔は、息を止めているのだろうか,真っ赤に染まっている。
「ふぁ、ファイト〜!!」 絶叫の彼。
ググッ、綱が持ちあがる。
それに対し、私は宙ぶらりん状態から自分の体を岩壁に近づけ、新しい出っ張りに手を伸ばす!
「いっぱ〜つ!」 応える様にそう叫ぶ。
ガッシ! 掴み、何とか己の体重の置き場を確保できた。
「もう少しや,もう少しで頂上やで!」
「はいぃぃ!」
空を自由に飛びたいな
ロシュタリアの夏は、限りなく暑い。
冬と呼ばれる季節も半袖で過ごせるのだから、それくらい当然であってもおかしくはないのだけど。
「ふぅ、これでおつかいはおしまいね」
額に浮かぶ汗を袖でふき取り、私は元気な太陽が顔を出す青空を見上げる。
憎たらしいほど、雲一つない、高い高い空。
僅かに風が、私の体を吹きぬけて涼を与えてくれる。
そんな空を、つがいの鳩が駆け抜けた。
「あ〜あ、空を自由に飛びたいな」
ふと呟いてしまう言葉。この空を自由に飛べたら、どんなに爽快だろうか。
「ん、アレーレ,飛びたいんか?」
「ひゃぁ!」
突然の声に、私は飛びあがって驚く。私の顔を除き込む様に、誠様が何やら珍妙なものを肩に担いで首を傾げていた。
「誠様? 何やってるんですか?」
「ちょっと買出しをね。アレーレは城への帰りかい?」
「はい。一緒に帰りましょう」
「そうだね」 優しく微笑む誠様。この笑顔に何人もの女性が騙されている事を,私は知っている。
「ところで誠様,空飛べるんですか?」
私は道すがら、誠様の言葉を思い出して尋ねた。
「え? ああ、飛びたいのなら飛ばせてあげるさかい」
「ホントですか?! 誠様!」
「うん。ほなら明日、飛びにいこか?」
「はい、ぜひ!」
それが始まりだったのよね…
照り付ける暑い光が私達の背を焦がす。
暖かさを内包した風が、汗に濡れる肌を冷やして行く。
「つ、着いたで…」
「ふぅ…」
絶壁を登りきり、私達は岩山の頂上でへたり込む。
藤沢様じゃないんだから、こんな無茶はもうしたくないな。
一息ついて、顔を上げる。
「わぁ」
声が漏れた。
眼下には箱庭のようなロシュタリアの街並み。
人一人一人が、動いているのが見える。でも街の喧騒は聞こえず、下から吹き上げる風がゴウゴウ鳴っているだけ。
そのロシュタリアの向こうには平原、そしてその先でキラキラ光っている帯は…
「聖大河や。今日は天気も良いし、飛ぶには絶好の日和や,ラッキーやなアレーレ」
誠様はそう言いながら、自らのリュックを下ろし、私のリュックの中身を出す。
物干し竿のようなものを組み合わせる。私は訳が分からずただ見ているだけ。
やがてものの数分で、それは三角形の凧のようなものになる。
「あの、もしかしてそれで…」
「そうや、ここに取っ手があるやろ。ここを掴んで風に身を任せるんや」
「…こんなんでほんとに飛べるんですか?」 大きな不安。
でも誠様は自信を持って頷く。
「僕の世界ではこれをハンググライダーって呼んどる。ちゃんと試験飛行もしたから平気や」
「試験飛行…何処でですか?」
「昨日、ロシュタリア城の門の上から」
”高度が全然違うんですけど”
ツッコミたいけど、どうにもなりそうもないので口にしない。
「さ、そろそろ行くで」
「ほんっとうに飛ぶんですか?」 再確認。
「ならここからまた歩いて帰る?」
ほとんど脅迫である,この絶壁、一人で帰れるはずがない。選択の余地は、ない。
「今回ばかりは信じますよ」
「…いつも信じられないみたいやないか」 憮然と誠様。自分の胸に聞いて欲しいものだ。
私はハンググライダーとやらの取っ手を掴む。その私の後ろから抱きかかえる様にして誠様が取っ手を掴んだ。
「ほな、1,2の3で飛び出すで」
「はい」 ゴクリ、唾を飲む。
「1」 誠様の呟き。
「2の」 私は応え、
「3!」
私達は絶壁から奈落の底へと足を踏み出した!
お腹の底が捕まれるような浮遊感。全身の毛が逆立つ。
ぐん
一瞬の落下の後、グライダーの翼は空気の流れをその身いっぱいに受けて、大きく浮上する!
眼下に広がるは半日かけて歩いてきた平原と森。
私達は滑るように青い空を突き進む。
「わぁ・・・」 歓喜の呟き。
風がびゅうびゅう、私の傍らを過ぎ去って行く。
いつも見上げる大空。そこに今、私はいる。
大空に溶けこむような、そんな錯覚に陥る。
やがて風景はロシュタリア上空に至った。
隣を、鳥が飛んでいる。
私を指差す街の人の姿も見て取れた。
グライダーは緩やかに街の上を旋回。
そして、飛び立つ。
街を離れて、ふいに訪れる妙な気持ち。
これって…何だろう?
寂しくて、心細くて、どうしようもない暗い気持ち。
これは…孤独感?
大空の中、この足で歩くのではなく飛んでいることがやはり非現実だった。
そのまま青の中に溶けてしまいそうな、恐怖。
「どうした? アレーレ?」
背中に暖かさ。そして気遣う声。
”そうか…”ホッと溜息。
「アレーレ?」
「大丈夫ですよ!」 微笑んで、私は応じる。
誠様の心配そうな瞳と、交わった。その奥には揺らぎのない彼の意志が映る。
決して空に溶けこんでしまう事なんてない、彼の強さ。
菜々美お姉様やシェーラ様が誠様に惹かれる理由が、ちょっと分かったような気がした。
「ところがな…」
悲痛な誠様の声,嫌な予感がする。
「実は大丈夫やないんや,僕等」
「どういうことですか?」
眼下の景色は猛スピードで後へと流れて行く。墜落するわけじゃなさそうだけど。
「実はな、僕等、ジェット気流に乗ってしまったようや」
「へ?」
自分の声が、こんなにも間抜けたものに聞こえたのはこれが最初で最後であって欲しかった。
結局私達は、聖大河をあっさりと越え、旧バグロム領を見学する羽目になったというのは余談である。
おわり