ミレニアム投票記念V
ファジィな痛み
穏やかな昼過ぎの東雲食堂。
お客の掻き込み時であるお昼を過ぎた今、あれだけ騒がしかった店内は外の大通りからの喧燥が届くほどに静まっていた。
初夏の安らぎを感じさせる風が、開け放たれた窓から吹き込み、同じく開け放たれたままの両開きの入り口へと駆け抜ける。
カラン…
グラスの中で氷が溶け、澄んだ音を響かせる。
店内には一人の女性がカウンター席に腰を下ろしていた。だが彼女はこの店の主人ではない。顔見知りの、たまたまついでに留守番を任されたれっきとした客である。
カラン…
窓からの穏やかな風は、彼女のグラスに注がれたアイスティーの香りを身に抱きつつ、ややクセのある髪を揺らす。自らを操る力を持つ彼女を伺うかのように…
カウンターに頬杖をつき、何か考え事をしているのか，風の主は切れ長な瞳を閉じていた。
ふせたまつ毛に淡い影が落ちる，いや…それは気付かないほどの僅かな化粧。
カラン…
やがて瞳はゆっくりと開き、漆黒の鏡に窓の外，晴れ渡った青空が映った。
「…雨が降れば良かったのに」誰にでもない、アルトの呟きが漏れる。
無表情。呟く彼女の表情だ，もともと変化が乏しいのかもしれない。
彼女の傍らには茶色の大きな封筒に納められた資料が無雑作に置かれていた。先エルハザード文明の、とあるテクノロジーに関する文献メモである。
それは知識を司る「風」の大神官たる彼女自らが編纂したもので、このロシュタリアの王城に住まうある若き研究者へ『仕事のついで』に手渡すはずのものだった。
『仕事ついで』に立ち寄った彼女ではあるが、生憎その研究者は他国で発掘された遺跡を調査中とのことで留守。成果もなく、空いた時間をここで過すことと相成った訳だ。
“まったく、雨が降っていればこんな所へ来ることもなく無駄足を踏まなかったものを”
心の中のグチは僅かに彼女の眉をしかめるが、人のいないこの場でも表に明確に現われることはない。
カラン…
“まぁ、ウチに合わせて誠はんが生きとる訳やないから、しかたおまへんが…”
グラスから伸びるストローに唇で触れ、小さな溜め息。
分かってはいるけど、理屈ではない苛立ち。
“まったく”
思った通りにならないことへの、理不尽な苛立ち。
と、香りが変わった。
彼女の髪を揺らす風が逆に吹き始めたのだ。それは座っていて，ゆっくりしていて初めて気付く微妙な変化。
“…なんでウチはこんなにイラついとるん？”
風に流されたのか，急に自分自身を背中から見ているような錯覚に彼女は陥る。
気を取り直す為か、くわえたストローに琥珀色の液体が走った。
“誠はんにこれを渡せなかったから、やろか？”
視線を封筒に移す，答えは否。代理の者に渡せば、それですることだ。
“誠はんに会えなかったから、やろか？”
考える。答えは…
“誠はんに会いたかったのは、この資料を渡す為おます”
ならば、それこそ代理の者に渡せば済むこと。アフラは哀しいかな，自分自身にツッコミを入れる。
“なんで『会いたい』なんて思うんや？ 好きでもないのに”
好きじゃないの？
ぴくり，肩が震える。思うことと常に反対の言葉が、彼女の心に響いていた。
“あ、あんな研究バカ，こっちから願い下げおます。嫌いや”
じゃあ、どうして会いたいの？
“どこまで一人でできるか、見たみたいだけ”
ウチがこうして手伝うたってる，一人やおまへん。
“じゃあ…”
じゃあ？
“………”
全ては曖昧だった。
しかしその濁った曖昧は彼の前にかざすと、サッと透けて彼女に暖かい，キレイな光を与えるのだ。
“好きでも、嫌いでも、どちらでも良いわ”
ストローから唇を離して、再び今度は諦らめの溜息。
濁った曖昧を考えるにつれて，核心と思われる部分に触れようとするにつれて、彼女の心は痛くなる。
ぴりっと紙を破るような、とてもとてもデリケートな、それでいてファジィな痛み。
“ウチは誠はんが好きなんやろうか？”
そぅ，そしてそうじゃない。
“違う，それでいて、別に違わない…”
カラン…
一際大きな音が、グラスを鳴らす。
「こんなとき、何て言えばいいんやろ？」
風の大神官・アフラ＝マーンは無表情にそう呟く。
しかし彼女を良く知る者なら、少し困った，それでいて照れたような、そんな表情をしていると気付くはずだ。
相変わらず軽やかな風が彼女の前髪を揺らし、大通りの雑踏を静かな店内に持ち込んでいた。
昼下がりの穏やかな時間は、まだもう少し続きそうである。
continued in her heart
あとがき
第三位に輝いたアフラさんのＳＳです。
ＰＳＹ・Ｓのアルバムは『Two Hearts』よりNo.5「ファジイな痛み」から。
この曲は好きなのか、そうでないのかはっきりしないアフラにぴったりの歌です。
でも彼女としては好きと言う事を認めるには、ちょっと勝ち目がないんで気付かない振りをし続けてるんでしょうね〜。
てな訳で１位から３位までのSSでした。
今後とも、よろしくお願い致しますね！
2000.2.2. 自宅にて