エルハザード,そう呼ばれる世界がある。
 広い、広い世界だ。そぅ、そこから見たら巨大な幻獣も、田畑を耕す農民も、強力無比な英雄も、一介の商人も、馬も羊も何もかも、区別がつかないほどの広さだ。
 そのホンの一角にはロシュタリアという王国がある。
 荘厳にして華麗な、人間の住まいし国だ。
 そしてその目の前に横たわった、巨大な聖大河を挟んでこちらもまた負けず劣らず巨大な国がある。
 人に在らざる知的生命体,バグロムの住まいし大地であった。
 彼らが今回僅かではあるが訪れたのは、その地である。


Platinum
CD Image Short Story/徳間仕様



 「私の世界♪ 夢と恋と不安でできて〜る♪」
 モップを両手に、巨大な建造物の窓を磨く人の姿をした少女の姿がある。
 そこはバグロム領の頭脳部と呼ばれる女王の住む城のはずだ。
 「で〜も〜想像も〜しないもの♪ 隠れてるは〜ず♪」
 鼻歌を唄いながら窓ガラス(のようなもの)を一つ一つ磨く彼女の姿は明らかに人間。
 しかしやっていることは人間業ではない。
 地上450mの高さを『浮いて』磨いているのだ。
 そぅ、中からではなく外から建造物を磨いているのである。
 良く見ると彼女は何か棒のようなものに足を揃えて腰掛けているようだ。
 それをゼンマイと呼ばれる鬼神のみが扱う兵器であることを知るのはごく一部の者だけであろう。
 彼女の名はイフリータ。鬼神と呼ばれる、先エルハザード文明の『兵器』である。
 兵器とは言っても製作者が変わり者だったのか、彼女自身の性格は全くといって良いほど平気には向いていないのだが…
 そして彼女は最近の話であるが、同系機との差別化を図るため、ある人間によって名前が与えられた。
 彼女の『名』はイフリーナ。先エルハザード文明が作り上げた究極の『ぽけぽけ娘』である。
 「空に向かう木々の♪ ように貴方〜を♪」
 モップをくるり,一回転させて彼女は上昇。
 建造物の複数ある屋根の一つの上に出た。
 「真っ直ぐ見つめ〜てる♪」
 ゼンマイから屋根へと降り立った途端、強い風が彼女の長い黒髪を真横に撫でた。
 鼻唄を止め、背後に振り向く彼女。
 広大なバグロム領が眼下に広がる,その向こうには日の光に煌く水平線。
 聖大河である。
 風は東から西へと吹き始めていた。それは季節風という。
 今この時、バグロム領は秋に入ったのだ。
 そしてこの風が遥か西に届く頃、ロシュタリアもまた追う様に秋へと突入する。
 鬼神はしばし目を閉じて、まるで風と会話するかのように髪を流れるままになびかせた。
 「ん?」
 頭上に気配を感じ、上を向いた格好で目を開くイフリーナ。
 白い鳥が、いた。
 逞しい翼を広げた姿は2mはあろうか,7羽が彼女の上空で旋回している。
 一羽が群れから離れ、風に乗って音もなく彼女の前に舞い降りた。
 まだ若いのか,幼鳥の気配を感じさせる白い鳥はまっすぐイフリーナを見上げている。
 「どうかしましたか? 鳥さん?」
 問う鬼神。
 「一休みしても良いかって? ええ、構いませんよ」
 にっこり微笑む彼女。それを合図としてか上空の残り6羽も、ほとんど無音でイフリーナの周りに舞い降りた。
 イフリーナはその場に腰を下ろし、一番最初に降り立った鳥に話しかける。
 「どちらからいらっしゃったんですか?」
 若い鳥は…小さく首を傾げる。どこか困った風にも見て取れる。
 その鳥の真横に別の一匹が歩み寄る。
 群れの中で一番大きい鳥、だ。そして一番老いている様にも思える。
 「ファーランドから…ですかぁ。それはまた遠いところですねぇ」
 ロシュタリア近郊諸国には知られていない地名にも、しかしイフリーナは笑って頷く。
 鳥から何を聞いているのか、ほぅ、だとかへぇ、だとか感嘆が後を絶たない。
 「世界中を旅してるんですねぇ」
 聞き終えた鬼神は、感心して溜息。
 鳥は首を横に振る。
 「…え、違う?」
 首を傾げるイフリーナ。鳥は己の毛繕いをしつつもイフリーナに視線を向けている。
 「風に全てを委ねて、今日から明日へと旅をされてるんですか…なんか素敵ですねぇ」
 隣の若い鳥が、顔を上げた。
 「え、ロシュタリア?!」
 彼らの向かう先は風に聞けばロシュタリアということになるだろう。
 イフリーナは、しばし戸惑いながらも、おずおずと彼らに告げた。
 「あのぅ、もしもロシュタリアの王宮へ寄られることがありましたら伝言をお頼みしたいんですけど…」
 若い鳥が、彼女を見上げる。
 「水原 誠さんっていう人がいるんです。その人にもしもお会いできたら…」
 老いた鳥は、若い鳥の背を軽く突ついた。若い鳥は慌てて鬼神から老いた鳥に視線を移す。
 「…ダメ、なんですか?」
 老いた鳥が、ジッと彼女を見つめた。
 「はぃ…私、飛べます」
 傍らのゼンマイを握り締め、イフリーナ。
 彼女はしばしの沈黙の後、首を小さく横に振る。
 「ダメなんです…私はご主人様の御命令がないと勝手なコト、しちゃいけないんです。ロシュタリアに黙って行くなんて、出来ません」
 若い鳥と老いた鳥,そして残る渡り鳥達は彼女を静かに見つめた。
 イフリーナは、どこか悟ったような,全く以って彼女らしくない表情で小さく呟く。
 「それは私が鬼神だから、なんですよ」
 首を小さく傾げる若い鳥と、残る渡り鳥。
 対してただジッと彼女を見つめる老いた鳥。
 老いた鳥との間にどんな会話があったのか、途端イフリーナの頬が朱に染まる。
 「え、そ、それは…ええと…」
 どもる鬼神。彼女の姿を黒い小さな瞳に映す老いた鳥。
 「はぃ、好き…です」
 やがてイフリーナの口からそう、漏れた。
 鳥達は彼女にどこか柔らかな視線を向ける。慌てて鬼神は続けた。
 「でも、私は人間じゃありませんから…鬼神ですから…」
 語尾は掠れる。俯く彼女。
 「え…好きと思う気持ちが弱いのかって?」
 不意に顔を上げるイフリーナ。瞳に不安が揺れている。
 やがて老いた鳥を前に両の瞳が大きく見開かれた。
 「命令で誠さんを殺せ,なんて言われたとしたら? そんな……出来…ま…」
 答えにしかし、詰まる。
 老いた鳥は視線を彼女からずらし、己の毛繕いを再開した。
 「…自分の気持ちを信じるん…ですか? それだけで……越えられないものなんてない,そう言いたいんですか?」
 幼い鬼神はそぅ、老いた鳥に問いかける。
 ちらりと、鳥とイフリーナの視線が合う。
 「想いが全てを変えてゆくなんて………私にそんな力があるんでしょうか?」
 彼女の問いに対する答えは、ない。
 「鬼神である私に…」
 問いかけるは己自身。その行為そのものが限界のない可能性の顕れ。
 そして彼女の答えは、
 「ちょっと来い! イフリータ!!」
 唐突な男の声に、イフリーナははっと顔を上げる。
 「さっさと来んか!」
 「あ、は、はい〜!」
 主人の声に、慌てて立ちあがるイフリーナ。
 同時に渡り鳥達もまた大空へとその翼を広げ、聖大河の向こうを目指して飛び行く。
 最後に羽ばたくは、彼女の前で休んでいた2羽の老若。
 彼らは同時に、初めて甲高い歌い声をあげた。
 それは背中を押すような、えも言わぬ力強い声援。
 「まずは一歩から,ですか……。分かり…ました!」
 見る見るうちに小さくなって行く刻の旅人達に小さく手を振り、イフリーナは建物の中から怒鳴る様にして呼びつける声に、駆け足で向かって行った。
 この翌日、彼女の姉達がこの地を訪れることとなるのは偶然…であろう。



 エルハザード,そう呼ばれる世界がある。
 広い、広い世界だ。そぅ、そこから見たら巨大な幻獣も、田畑を耕す農民も、強力無比な英雄も、一介の商人も、馬も羊も何もかも、区別がつかないほどの広さだ。
 その広い世界には広いからこそ、様々な物語がある。何せ、そこにいる人の数だけ物語があるのだから。
 彼らはその世界を風に道を聞き、飛び続ける。
 まるで物語を小さなその黒い瞳に出来るだけいっぱい納めようとするが如く………