ぼんやりとした湯煙りの間に人影が1つ、見え隠れする。
 ここはロシュタリアの王宮にある王族専用の浴室。
 すなわち国家元首であるルーンとファトラのみが使うことを許されたロイヤルルームだ。
 10m四方はある広大な浴室には滝をあしらった装飾や、森をイメージした木々までもがある。
 その木々の間にキラリ,獰猛な光が宿ったのを湯煙の中の人影は気付く由もない。
 人影は木々に近づいて行く…そしてちゃぷり,そんな音を立てて湯へと浸かった。
 獰猛な,ややピンクがかった光が待ちきれなくなったかのように人影に襲い掛かった!!
 「うおぉぉぉぉ!!」
 獣のような雄叫び!
 完全に死角,人影は驚き、振り返る。
 襲い掛かるは顎鬚か胸までもある老人だ。
 人は彼をこう呼ぶ,学術顧問ストレルバウ博士、と。
 「その柔肌、いただきじゃぁぁ!!?」
 と、最後に疑問符?
 人影に抱き付くストレルバウ。
 彼は抱き付いた体が、思ったより硬いことに首を傾げつつ、恐る恐る顔を上げる。
 「かかりましたな,博士」
 ニタリ,屈強な中年男の顔に、老人の顔が引きつった。
 「ろろろろ…ロンズどのぉぉ???」
 鍛え上げられた近衛隊長は赤ふん一枚,そんな彼に老人はしがみついている。
 絵に、ならない。
 「ぐは!」
 吐血し、ストレルバウは逝った…


The Mirror



 「真実の鏡…ですか」
 「ええ。映った者のありのままをさらけ出した人格である『影』と精神を交代してしまうんですわ」
 誠は言って、床に落ちた己の影を指差す。それは廊下に掲げられた明かりに長く伸びていた。
 「まぁ…それはなんて恐ろしい」
 ルーンは浴室から担ぎ出されるストレルバウをチラリ、横目で一瞥した後に目の前の青年に戻す。
 「ええ、とんだ災難です」
 青年・水原 誠は顔を何故か引っかき傷だらけにしながら大きく溜息一つ。
 「自分が影に押し込められるんです,足元から自分の歯止めのない行動を見るんは辛いですね」
 「誠様も…ご被害に遭われたんですの?」
 ルーンの何気無い質問に、誠の肩がびくり,震えた。
 「………訊かんといて下さい」
 思い出したくもないのだろうか,ふるふる首を横に振って答える誠。
 「誠様もお若いですわねぇ」
 「?! 見てたんですか?!」
 「いえ、想像ですわ」
 言って、ころころと笑うルーンに誠は苦笑。
 「それでその…真実の鏡、でしたっけ? それは今何処に?」
 「僕の研究室で布をかけて保管してありますわ。分析が終わり次第…砕きます!」
 ぎりぃ,強く拳を握り、今までにない気迫を込めて誠。よほど酷い目に、いやおいしい目に遭ったのだろう。
 「取り敢えず最後の被害者の博士も捕まえましたし、これで一安心です」
 「そうですわね」
 穏やかな空気が流れる。
 もっともそれは嵐の前後の静けさだったのかもしれない。
 少なくとも誠にとっては、である。



 すでに夜も更けている。誠は暗い廊下を手にしたランプ片手に自室に急ぐ。
 「さて、さっさと分析を終わらせて処分せんとな」
 己の研究室に戻った誠は、机の上のランプに火を灯した。
 明るくなる石造りの部屋はいつも通りだ。ただ今日は机の隣に布が被せられた姿見の鏡が一つ、立てかけられている。
 それだけが普段と違うはず、だった。
 「さて、と」
 椅子に腰掛け、机に向い、
 ず…
 衣擦れの音に、誠は鏡とは逆の位置にある寝台についと視線を向けた。
 「んな!」
 思わず椅子が後ろに倒れそうになる。その拍子に鏡もまた倒れそうになるが何とか机にしがみついて持ちこたえた。
 「何やってるんですか! ファトラさん!!」
 誠は寝台で上体をもたげた薄着の女性をまともに見れずに、叫ぶ様に言った。
 眠たげな黒い瞳で誠を眺めるファトラは、熟睡していたのか,やや乱れた髪をぽりぽりと掻きながら、寝台にかけておいた自身の上着だけを適当に羽織って欠伸一つ。
 「何って…眠いから寝ておったのだが」
 「ど〜して僕の部屋で?!」
 ファトラは、ん〜、とも、む〜、とも言いつつ目をこすり一言。
 「暇だから遊びに来たんじゃ,しかし待てども帰って来ぬからつい、な」
 「遊びに…はっ!」
 誠は慌てて後ろを振り向く,あのファトラがこの鏡を見て手を出さないはずがない。
 ”すでに鏡の術にかかっておるんかも?!”
 もしそうだとしたら色々な意味で大変だ。
 本能だけで行動するファトラ…脅威以外の何物でもない!
 「…でもこの人、いつも思った通りのことしとるしなぁ」
 「何か言ったか?」
 「いえ、何も」
 ファトライヤーは地獄耳だ。
 「しかし遅い帰りだな。それに…」ファトラは寝台から立ちあがり、誠の椅子の背に手をかける。
 「何があった? 傷だらけではないか」
 「っつ!」
 右の頬に走った引っかき傷に彼女はそっと触れる。白い掌に赤いモノがかすかに移った。
 「………消毒くらいしておけ,ええと…」
 ファトラは乱雑とした棚に歩み寄るとその中を引っかきまわし…目的のものを見つけた様だ。
 何らかの試薬瓶の様である。
 「あ、それは実験に使う…」
 「成分は同じじゃろ」
 同時に持ち出した脱脂綿に試薬の中身―透明な匂いのある液体―を染み込ませ、誠の頬にペしっと叩きつける。
 「★○▲★▲■○?!」
 声にならない声を上げる誠。
 ファトラは面白がって、べしべしと擦り込み続ける。
 「んがぁぁ!! もぅ止めやぁぁ!!」
 「きゃ!」
 目に涙を溜めて、誠は彼女の両手を掴んだ。
 彼の顔の数センチ前に、驚いた顔のファトラがある。消毒液として用いた試薬の匂いに混じって、どこか懐かしい香りがした。
 「あ、えと…」
 慌てて視線を下へと逸らし…
 薄着の間に覗く彼女の胸の麓が目に入り、硬直。
 「どうした、誠?」言葉とともにクスリと微笑み。
 「ちょ、ファトラさん?!」
 唐突に、誠に抱えられる様にしなだれかかるファトラ。
 「!」
 その体勢のまま彼と唇を一瞬、重ねる。
 「逢えるかどうか分からないモノの為に、目の前のすぐ手に入るモノに手を出さないというのは、バカだと思わんか?」
 誠の耳元に囁くファトラ。
 彼は慌てて彼女の手を放した。
 消毒液を含んだ脱脂綿が、床に落ちる。
 溜息とも、苦笑ともつかない吐息を一つ残し、ファトラは誠から半歩離れた。
 「けれど、わらわはそんなバカが好きだからこそ、こうしてお前の前にいるのだろうな」
 寂しい微笑みがランプの光に揺れる。
 「ファトラ…さん?」
 ”違う!”
 「鏡にやっぱり触わっとったな,ファトラさん!」
 叫ぶと同時。
 ランプに照らされたファトラの影から、手が伸びた。
 「くっ!」
 ファトラは足を掴まれ、苦悶の表情を見せる。
 手はやがて両手に,ファトラ自身を己の影に沈めて行く。
 「や、やめ…誠、助けて!」
 ファトラは怯えきった表情で半身を影に沈ませながら、誠に手を伸ばす。
 「戻りたくない! あんな狭い影の中に!!」
 誠は右手を差し出す。
 ファトラの表情に喜びの色が浮かび…そして、
 誠の掴むは影から伸びる手!
 絶望の色に変わった。
 誠は一気に影から伸びた手を引っ張り上げる!
 ずるり
 そんな音がした。
 引き上げられたのはファトラ。
 同時に交代する様に沈んだのもファトラだった。
 「「はぁ」」
 しばらく2人は肩で息をする。
 「ったく、あんな恥ずかしいわらわが世の中に出なくてほっとしたわ」
 額の汗をぬぐってファトラは小さく笑って呟いた。
 何気に足下の影をげしげしと蹴っている。
 「よく…自力で戻って来れましたね」
 「恥ずかしさのあまりに、な」
 「まったく、ファトラさんも根っから人が悪いんやな。僕をからかわんといてな」
 「からかう為だけに,笑う為だけに唇を許すほど、わらわは安くはないわ!」
 唐突な一喝。
 誠は目を丸め、ファトラは叫んでしまってから僅かに顔を伏せる。
 沈黙が、支配する。
 「本当に好きな者だけに、わらわは許すのだ」
 ボソリ、小さく小さく呟く王女。
 「え、何か?」
 「何でもないわ!!」
 2度目の一喝,誠はあまりの声の大きさに思わず耳を押さえた。
 「アレが本心なんじゃよ」
 聞こえていないのを確認して、呟くファトラ。
 彼女は僅かに微笑み、唇に残る感触を軽く人差し指で撫で独り、反芻した。



 翌日。
 「学問とは良いものじゃな、誠君」
 「博士、なんか一気に老けてません?」
 ロンズの悩殺ポーズの影響で、本心に大ダメージを負った老人から色欲が(一時的に)消えたのは、色んな意味で研究の参考になったとかならなかったとか………


End...