白亜の城のテラスに注ぐうららかな日差しは、やや傾きかけている。
 眼下に広がる街並みを見下ろすファトラの肌に、やや冷たさをはらんだ風が吹き抜け長く黒い髪を優しく揺らした。
 ロシュタリアの冬は、それでも温暖だ。
 誠達、異世界人に言わせるところの熱帯気候に属するこの地域には年を通して温暖で花が咲き誇る。
 故にロシュタリアに生き、そして死ぬの者は冬を知らない。
 よく無断で旅に出るファトラは冬を知るが、しかし…
 「お疲れ様でした、ファトラ」
 おっとりとした背後の声に、ファトラは慌てて振り返る。
 ロシュタリア第一王女・ルーン=ヴェーナスが芳しい香りを放つポットを載せたトレイを持って微笑んでいた。
 「次の会議までの僅かな時間、お茶にしましょう」
 「はい」
 やや疲れの浮かんでいた第二王女の顔に、目の前の美女と同じ微笑が浮かぶ。
 と、テラスに置かれた小さなテーブルについたファトラはルーンがいつもと違うことに気付く。
 「どうしたの、ファトラ?」
 カップを傾け、ルーンはまじまじとみつめる妹に首を傾げた。
 「あ、いえ……姉上、どこかいつもとお変わりあるように見えたもので…」
 ルーンはふと人差し指を顎に当て…ああ、と手を打った。
 彼女は己の髪に飾る小さな花を一つ、手に取る。
 瑠璃色の、スミレに似た花だった。
 「これではなくて?」
 言ってファトラに手渡す。
 ファトラは花と、ルーンを見比べて合点がいったように頷いた。
 「いつもと花飾りの色が違っていたのですか、なるほど!」
 彼女は花をまじまじと見つめる。
 彼女の知らない、というか花の種類などあまり興味がないので仕方ないのだが、しかしロシュタリアではあまり見ることのない花であることは確かのようだが…
 「これは何と言う花なのですか?」
 お茶の香りを楽しみながら、彼女は問う。
 「ミレイアという高山植物なの。私の大好きな花の一つ…」
 そこまで言って、お茶を一口。
 「高山植物の中でもこの時期にしか咲かないの。どうしてか、知ってる? ファトラ?」
 「さぁ?」
 嬉しそうに話すルーンにファトラもまた楽しそうに耳を傾ける。姉が自発的に話し手に周るのは珍しいことだ。
 「狩人の星座アリラオンに恋した花の妖精が変化したものなのよ。アリラオンは今の時期にしか見えない星座なのは知ってるでしょう? ミレイアはこの時期に備えて好きな人に綺麗な花を見せてあげられるようにずっとずっと頑張ってるの。少しでも近いところで見せたいから、高山植物になったんですって」
 「ほぅ、そんな謂れがあるのですか」
 ファトラは改めて手の中の花を見る。
 透き通るような薄く小さい花弁は6枚,何処か高貴さの漂う瑠璃色はルーンによく似合う。
 珍しい色だが、ルーンが「大好き」というには華々しさに欠けると、ファトラは内心思っていたりする。
 「この花も御用達の商人がたまたま見つけてきてくれて、厚意で贈ってくださったの」
 髪に飾ったミレイアの拳大ほどの束にそっと手を触れながらルーン。
 「この花は珍しいのですか?」
 「ええ。数自体少ないものなの」
 「そうなのですか…」
 と、そんな2人の間を先程ファトラに吹いた風が多めの冷気を帯びて駆け抜ける。
 ファトラはルーンが思わず己の肩を抱くのを見た。
 風はマルドゥーンの方角から。
 「マルドゥーンあたりは大雪でしょうな」
 「雪、ですか?」
 「姉上はご覧なったこと、ありませんか」
 「ええ」
 首を傾げるルーンにファトラは苦笑。
 マイナーな花の謂れをは知っていても、雪を知らないというギャップに思わず口が綻ぶ。
 「白い綿のようなものが雨の様に空から降ってくるのが雪です。白い綿は氷ですので、触ると冷たいのですよ」
 「へぇ……観てみたいわ。でも」
 カップの中の最後の一口を飲み干し、ルーンは立ち上がる。
 「ロシュタリアで降らない限り、私には見る事は出来ないでしょうね」
 この時のやや寂しげに見える笑いは、ファトラの目に焼き付いた。


瑠璃色の雪



 「何をやっている? 誠??」
 「あ、こんにちは、ファトラさん」
 誠の研究所を訪れたファトラは、その乱雑さに仰天する。
 綺麗に装丁された色鮮やかな箱があちらこちらに積まれていた。
 「何じゃ,これは?」
 「菜々美特製、クリスマスプレゼントよ!」
 そんな荷の間から元気な声が響いてくる。
 ファトラは瞬考。
 年末にクリスマスという行事をこのフリスタリカに昨年広めたのは菜々美だった。
 在庫一掃などができると、フリスタリカの商店街も意気投合し、今年も赤と白に城下町は彩られていたが…
 要は誠に梱包作業を菜々美が手伝わせている,と考えていいだろう。
 ファトラは荷を避けながら、誠に接近。
 ベットの隅に空いている一角を見つけ、腰を下ろした。
 「しっかし…暇なのか? 誠」
 「そんな訳ないでしょ! 忙しいんだから冷やかしなら出てってよ!」
 返ってくるのは菜々美の声。しかし山積みの荷物の向こうからなので姿は見えない。
 対する誠は肩の力を落して力なく笑っていた。
 「どないしたんです? ファトラさん?」
 「うむ、夏に作ってもらった「かき氷製造装置」というものがあるだろう?」
 「ええと…ええ、確かありますけど」
 「それを巨大化して雪を降らせられまいか?」
 誠は梱包の手を止め、考える、が。
 「降らせてどないするんです?」
 「姉上が雪を見たこと、なくてのぅ」
 「降らせることが出来ても…それは偽物ですよ」
 誠の言わんとしていることに、ファトラの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
 「……そうじゃな、確かにそうだ」
 「まこっちゃん! 無駄口叩いてないでさっさと片付けてよぉ、明日までなんだから!!」
 「はいはい。すみません、ファトラさん」
 苦笑いの誠にファトラは微笑み、ふと作業台の上に設置された実験装置に目が行った。
 「何じゃ、あれは?」
 何か薬品を合成しているような、そんな装置だ。装置の末端と思われる部分にビーカーがあり、青い液体が溜まっている。
 「ああ、あれは博士に頼まれたモンで、植物の成長を促進させる薬品や。でも強力過ぎたんか、ばけものみたいに成長しすぎてしもうて…失敗作や」
 「ほぅ…面白い」
 ファトラは数刻前に姉から受け取った高山植物を懐から取り出す。
 生命力の弱いこの植物に使ったら……案外、丁度良い成長をするのではないだろうか?
 「貰っていいか? 悪いようにはせん」
 誠はそう言ったファトラを見つめる。
 そこにいたずらの色は見えなかった。むしろ紳士的な瞳の色故にだろうか。
 「ええで」
 笑ってそう言っていた。



 夜も更けたテラス。
 月は厚ぼったい雲の為になく、暗闇が辺りを満たしている。
 足下からの街の明かりがほんのりと、ファトラの顔を赤く染め上げるだけだ。
 ファトラは青い液体の入ったビーカーに昼間のミレイアの花を一輪、浸してその場に置く。
 ………
 ……
 …
 「何も起きんのぅ」
 ぽりぽり、頭を掻く。
 青い液体の中で瑠璃色の花弁がゆらゆらと揺れるだけだ。
 しばらく彼女は待ったが何も起こらない。
 仕方なしに彼女は欠伸を一つ残してその場を去った。
 同時に。
 風が夜空の雲を割る。
 零れ落ちた月明かりと僅かな星明りに、瑠璃色の小片は冷たく晒された。



 翌日も王族達は忙しかった。
 朝から始まった会議は、幾つもの議題を経て晩に及ぶ。
 「やっと終わりましたな、姉上」
 「そうですね。後は稟議書を纏め上げるだけですね」
 「そんなものは明日で構わないのでは?」
 「今日出来る事は今日の内にやっておくといいのですよ、ファトラ」
 「ううっ…」
 と、そのファトラの袖を引っ張る者がいた。
 「何じゃ? アレーレ?」
 慌てて走ってきたのか、侍女のアレーレが息を僅かに切らせてファトラを見上げていた。
 「お耳を,ファトラ様」
 「ふむ」
 アレーレの耳打ちに、ファトラの顔に喜色が浮かぶ。同時に、
 「姉上、良い物をお見せします!」
 「ファトラ?」
 姉の手を掴み、ファトラは駆け出した。
 向う先は、姉妹の憩いの場の一つである昨日のテラス。



 テラス全てを覆い尽くす様に、瑠璃色の花が咲き誇っていた。
 惜しむらくは、夜空があいにくの曇り空な為に色が映えないことだった。
 しかし白亜の城の一角を瑠璃色に染め上げるほどのミレイアの花は荘厳さを感じさえする。
 「これは…すごいわ」
 「よもや一晩でこれほどとは…」
 2人の王族はテラスに出て呆然と呟いた。
 スッキリとした甘い香りがわずかに鼻腔をくすぐる。
 「ファトラ…」
 ルーンは傍らの妹に視線を移した。
 「ありがとう」
 極上の笑み。
 「いえ…わらわも驚いているくらいですから…」
 ゴゥ!
 突として、風が吹き抜け始める。強い風だ。
 それを契機に空気が変わる。熱帯気候故に変化の乏しい僅かな秋の空気から、知覚出来ないほど薄い冬の空気に。
 風の影響か、厚ぼったい夜空の雲が割れた。
 ルーンは上空から降り注いだ冷たい光に、思わず空を見上げる。
 「狩人の星座アリラオン……」
 星が冷たい光を投げかけてくる。
 強くも弱くもない風は2人の間で吹き続けた。
 風は瑠璃色の小片をその身に纏い、星に向って飛び行くように舞いあがってゆく。
 探し当てた想い人に駆け出す様に。
 やがてその身から落ちた小片は2人の降り注ぐ。
 まるで…
 「瑠璃色の雪…か」
 手のひらに乗った半透明な瑠璃色を見つめてファトラは呟く。
 決して溶けることのない瑠璃色の雪は、アリラオンとミレイアの再会を祝福するかのように、いつまでも,いつまでも降り続けた。


End...