そこは甘い香りの漂う、一面の花畑だった。
白や黄色や紫や赤…様々な色の花々が自己主張強く咲き乱れている。
そんな花畑を駆けてくる者が1人。
ふりふりなフリルの付いたスカートをはいた、乙女チックな衣装をその身に纏いし、黒髪の美しい凛とした少女。
幸せ一杯の笑顔を浮かべながら、蝶と戯れる彼女は…
Double Cast
「うわぁぁぁ!!」
おぞましいものを見たような悲鳴をあげて、彼女は跳ね起きた。
ロシュタリア第二王位継承者・ファトラはベットの上で荒い息をついている。
そんな彼女の隣で、もぞもぞともう一人の少女が起きあがる。
「どうされたんですか? ファトラさま??」
幼い声の中に何処か安心させる雰囲気を込めて、いつものポニーテールを解いたアレーレは目を見開いているファトラに顔を寄せた。
「…嫌な夢を見た」
「イヤな夢、ですか?」
「ああ、とてつもなく恐ろしい夢だ」
己の掌を見つめながら、ファトラは独白。
そんな彼女にアレーレは身をもたれ、王女の白い耳に唇を寄せた。
「どんな夢を見られたんですか?」
耳朶に残るようなアレーレの声に、ファトラはしばし考え…
「…忘れた」
「夢はしょせん、夢ですもの」
朝日が昇る寸前の薄闇の中で、侍女は微笑む。
「そうだな、たいしたことではない」
王女は目の前のアレーレに顔を寄せ、
コツン
彼女の額に己の額を当てて微笑んだ。
と、アレーレの顔色が瞬時に変わる。
「ファトラ様?!」
「どうした? アレーレ??」
突然の彼女の変わり様に怪訝な顔を浮かべるファトラ。
アレーレは慌ててファトラの額に己の手を当てる。
彼女の小さな手は、王女には冷たくて心地良いものだった。
対してアレーレにとっては…
「大変! すごいお熱ですよ!!」
「熱?」
「お風邪をひかれてるみたいですわ。もぅ、ちゃんと毛布かけて寝ないから!」
アレーレは跳ね起き、ファトラを無理矢理寝台の上に横たえさせると毛布をかける。
「わらわは風邪などひいてはおらぬ。大丈夫じゃ」
再び王女は身を起こそうとして…
「はれ?」
フラリとベットの上に自ら横たわる。
この時、アレーレの脳裏にかつての恐ろしい記憶が蘇っていた。
ロシュタリアを崩壊一歩手前まで落し入れた、王族の歴史に名を残す出来事『ファトラの変』を…
「「なぬぅぅぅ!!!」」
絶叫は2つ,一つはロシュタリアの頭脳であるストレルバウ博士。
もう一つはロシュタリアの武力たるロンズ侍従長の放ったものであった。
彼らの前にはファトラの侍女であるアレーレが青い顔で立っている。
「イカン、イカンぞ、ロンズ殿。このままではあの時の二の舞に…」
「一体、一体どうしたら良いのでしょう? 再びロシュタリアを崩壊の危機へとさらすことになってしまいます!!」
中年と老人は行ったり来たり、立ち尽くすアレーレの前をうろうろしている。
と、ロンズが立ち止まる。
「まずは、そう,まずはファトラ様が風邪で倒れてらっしゃることをルーン陛下に隠しとおさなくては!!」
その発言にストレルバウは立ち止まる。
「無理じゃ。今日はガナン公との謁見がある。ファトラ様が出られない理由を「いつも通り」で押し通す訳には、さすがにイカン」
「それにいつまでも隠し通せるものではありませんし」
絶望の表情のアレーレが付け加える。
「では。では貴公らはこのロシュタリアが崩壊する様を黙って指を咥えて見ていろとでも言うのか!!」
激昂のロンズの前に、いや,突き付けられた「ファトラが風邪で寝こんでいる」という状況を前に沈黙が3人を包む。
それをおよそ三分の時間を経て破ったのはストレルバウである。
「要はじゃ。ファトラ様の風邪をすぐに治せば良いだけのこと。症状が軽ければ、『アレ』ももしかしたら起こらぬのではないか?」
「…そう、そうですな。それに賭けるしか…『風邪気味』で治してしまえば、ファトラ様が『あの状態』になる可能性も薄いかもしれませぬな!」
まるで己に言い聞かせるかのようなロンズとストレルバウに、アレーレは申し訳なさそうにこう付け加えた。
「ファトラ様はかなりの高熱にうなされておりまして…3年前の『あの状況』と全く変わりないんです」2人の高官達は声を失う。
ロシュタリア破滅へカウントダウンが、始まった。
「へぇ、ファトラさんがねぇ。あの人でも風邪なんてひくんだ」
「菜々美ちゃん,いくらなんでもそれは失礼やで」
「だってさぁ…先生もそう思うでしょう?」
「オレにふるなよ、菜々美」
困った顔で頭を一掻き、藤沢は苦笑い。
「まぁ、ミーズに卵酒作ってもらったし。あのお姫さんのことだから、酒でも飲めばすっかり治るだろう」
右手に提げた水筒をポン、と叩き彼は微笑んだ。
「センセまでそんな…ファトラさん、結構熱出てて大変らしいですよ」
異世界3人組はそんな会話を交わしながらロシュタリア城を行く。
しばらくするとファトラの自室に辿り着く。
コンコン
誠はノックの後、扉を開ける。
白と黒を基調にした、案外質素な部屋の中央には天蓋のついたベット。
そこで幾枚もの毛布やタオルをかけられて横たわる王女の姿があった。
彼女の傍には姉であるルーンと、アレーレ、ウーラの姿がある。
「容体はどうですか?」
誠の言葉に、ルーンはやや疲れた微笑を浮かべて答えた。
「ファトラは熱が出るときは3日は続く子なんですの。滅多に風邪などひかない分、ひくと今までのツケの様に高熱がひどくて…」
まるで我がことのように胸を痛める第一王女にねぎらいの言葉をかけ、誠はファトラの横に立つ。
ファトラは荒い息を吐きつつ、ぼんやりと誠を見上げていた。いつもは白い頬が真っ赤に染まっている。
誠はしゃがんで、彼女の額に手を添えた。
汗ばんだ感触と、酷く熱い感覚が伝わってくる。
「解熱剤を調合した方が良さそうですね、ファトラさん」
こくり
相当辛いのか、珍しく素直に頷くファトラ。
誠は立ち上がり、藤沢と菜々美に視線を向けた。
「ほな、僕はちょっと調合してくるわ」
「ああ。頼むぞ、誠」
「私も手伝おうか?」
「いや、菜々美ちゃんはファトラさんの様子を見とってや」
「う、うん…」
困った表情を浮かべる菜々美に苦笑いを残し、誠はファトラの部屋を後にした。
翌日…
「やっぱり、普段薬飲まない人には良く効くわ」
安定した呼吸を繰り返すファトラの寝顔は、穏やかなものだった。
そんな彼女の額から手を離した誠は振り返り、寝ずの看病をしていた第一王女に微笑を浮かべる。
「ファトラさんはもう大丈夫やさかい、ルーンさんも休んだ方がええ」
「私は…」
ルーンはうろたえつつ、しかし一旦言葉を切ると、毅然とした態度で誠に返す。
「私は大丈夫ですわ、誠さん。ここは私に任せてください」
「でも一睡もしていないでしょう?」
「実は折りを見て寝ておりましたから…」
誠はルーンを見る。
やや疲れたようにも見えるが、ここを動かないという強い意志が感じられた。
「分かりました。でも無理はしないで下さい。もぅファトラさんは大丈夫ですから、疲れたらアレーレに代わって下さいね」
「分かりましたわ」
誠は肩の力を落とし、ルーンとファトラを残して部屋を出た。
朝日が、眩しい。
ストレルバウを巻き込んでの薬の調合にやはり徹夜をした誠は、大きな欠伸を一つ,自分の研究室へと戻っていった。
誠が目覚めたのはその日の昼過ぎのことだ。
起こしたのはたまたま今日、マルドゥーンの大神殿から来訪した三神官である。
「起きたか、誠」
「シェーラさん?」
目ぼけ眼をこすりながら、誠はベットの上で目の前の少女の赤い髪を眩しそうに眺めた。
「すみませんなぁ、誠はん。ウチは寝かしておいて言うてたんどすが」
「おいおい、アフラ! まるでアタイ一人が悪いみたいじゃねぇか!!」
「誠様、暖かいお茶を煎れますね」
「コラ,テメェ、クァウール! 勝手に誠のキッチン使ってんじゃねーよ!」
「まぁまぁ、シェーラさん。ありがとうございます、クァウールさん」
微笑を残して奥へと消えるクァウールを見送って、誠は改めて今度はアフラの方へと視線を移した。
「何があったんです?」
三神官がロシュタリアに訪れるのは珍しいことではない。
しかし誠は、シェーラやクァウールはともかく、アフラの顔色が悪いことに気が付いていた。
アフラはシェーラと顔を合わせ、困った様に頭を掻くと手近の椅子を手繰り寄せて腰を下ろした。シェーラもそれに倣う。
「何があったいうんはウチらが聞きたいことやわ」
「ファトラさんの…風邪のことですか?」
誠の言葉にしかし、二人は首を傾げる。
「まぁ、ファトラのことには違いないんだがなぁ…」
疲れた顔でシェーラ。
「ルーン王女はウチらがここへ来る前にお休みになったそうやから聞けませんどしたが…ファトラはんに何があったんどす?」
「いや、だから風邪をひいていて…でも今朝はもぅ熱は引いていたんですけど」
誠の言葉にアフラは腕を組んで何かを考える。
シェーラもまた「風邪か…」と呟いてなにかぶつぶつ言っていた。
「ど、どうしたんですか、シェーラさん、アフラさん?」
「ファトラはんの様子がいつもと違って…おかしいんどすわ」
「おかしいって??」
まぁ、独特な人ではあるけど,と誠は本人が聞いたら激怒しそうなことを思う。
誠に尋ねられたシェーラは言葉に詰まりつつも、う〜んと唸りながらこう答えた。
「疲れるんだよ、今まで以上に」
「ウチは結構、今の方が良いと思いますが」
「疲れるって?」
誠は首を傾げる。シェーラにとって今まで以上に疲れるとは…そしてアフラが今のままが良いというファトラとは一体…??
「なんとゆ〜か、お姫様って感じなんだよな」
「合ってるやおへんか」
「いや、そぅじゃなくてさ」
漫才コンビのような二神官の会話を聞きつつ、誠は首を傾げる。
”ファトラさんの様子を見に行った方が良さそうやな”
誠がそう思っているているところに、クァウールの煎れたお茶の香ばしい香りが漂ってきた。
そこにはお姫様がいた。
そう表現するしかない。
可愛らしいフリルの付いた白いドレスは、確実に色気ポイントではなく可愛さポイントの上昇に貢献しているし、無意味にきらきらと輝く純真無垢な黒い瞳には『夢』とか『希望』とか、そんな言葉が良く似合いそうだ。
「あら、誠様。昨日はお薬、ありがとうございました」
「いえ、どういたしまして」
頭を下げる彼女に、思わず誠も頭を下げる。
その彼の後ろには三神官が、やはり困った顔で彼女を見つめていた。
「な、誠。変だろ」
「いつものファトラはんとは違いますやろ」
「険がなくなっていますね」
三人の小声の意見に、誠は素直に頷くしかなかった。
「どうなさったんです? ひそひそ話なんかされて…さぁ、立ち話もなんですから、私のお部屋にどうぞ」
「い、いえ,と〜とつに急用を思い出しまして。それでは失礼します!」
「あ…」
バタン!
誠は慌ててファトラの部屋の扉を閉めた。
「「フゥ〜〜」」
誰ともなく溜息。
誠は後ろの三人に振り返る。
「…そんな、声まで変わっとるやんけ!」
「きっとアレだぜ,高熱で頭がイカレちまったんじゃ…」
「でもええんやないの? お姫様っぽいし。な、クァウールはん?」
「そうですね〜」
うやむやの内に結論付けようとした4人にしかし、ちょっと待ったコールがかかる。
「いえ、いけません。これはいけません」
言いながらやってくるのはストレルバウ。その後ろのロンズが続く。
「やはり再発しましたな、博士。これではあの時の二の舞ですぞ」
「再発? あの時の二の舞??」
「誠様はご存知ないのも無理ないですわ」
ロンズの後ろからひょこっと顔を出したのはアレーレだ。
「それにお姉様達もご存知ないと思いますわ。でも三年前の大事件『ファトラの変』はご存知でしょう?」
アレーレの言葉に三神官の身に緊張が走った。
「何や、ファトラの変って??」
尋ねる誠に、アフラが記憶の糸をたぐる様に補足する。
「三年前にロシュタリアの政治がおよそ二週間、機能停止した事件のことどす」
「二週間…機能停止??」
誠の呟きにクァウールは頷く。
「原因はファトラ様がご病気になられ、それがルーン陛下にもおうつりになり、結果、ロシュタリアの政治機関の全ての決定権が停止してしまいましたの」
「あん時はここぞとばかりバグロムの奴らに攻めこまれて危なかったんだぜ」
最近のことのようにシェーラは思い出しながら言う。
しかしアレーレは首を小さく横に振った。
「どういうことだ、アレーレ?」
シェーラの詰問はストレルバウが髭をさすりながら答えた。
「実際は病気になられたのはファトラ様のみ。問題は今のファトラ様なのです」
首を傾げる誠と三神官。
「今のファトラ様を…ご覧になられましたな?」
「ええ…なんというか、いつもと結構違ってましたね」
ロンズの問いに誠はなるべく言葉を選びながら答えた。
素直に言えば『まるで洗脳されたみたいに乙女チックになってました』なのだが。
「実はですな…ロシュタリアの王族には、右脇腹には浪漫回路,左脇腹には乙女回路があるのです!!」
どどん!
力説する学術顧問の言葉に、一同は言葉を失う。
この場にGB小○寺とあかほり某がいたら、殺されるかもしれないという恐怖感からかもしれない。
「いつもは浪漫回路のみを起動されて、日々浪漫を追い求めておるファトラ様ですが、高熱にうなされた後は回線がショートするのか、しばらくの間、乙女回路が猛回転致しますのじゃ!」
「んなバカな…」
「いいえ、シェーラ様。3年前のファトラの変は、実はこれが原因なのですよ」
「はぃ?」
シェーラは素っ頓狂な声を張り上げるが、ロンズの表情はいたって真面目。嘘をついているようには思えない。
「どう言うことや、アレーレ?」
「はい。ファトラの変の際はファトラ様は一週間もの間、高熱にうなされました。その間、ルーン様はご自身でずっと看病されて、確かに政治期間は麻痺しました。でも一週間なら良いんです、何とかなりますから」
ここでゴクリ、アレーレは唾を飲みこんだ。
「熱が下がって、しかし後遺症で乙女チックになってしまったファトラ様は、ルーン様にとっては格好の餌食。ファトラ様が正気に戻る一週間もの間、ルーン陛下はファトラ様の治療と称して着せ替えを楽しみ、公務は先に進まずに、その隙を突いてバグロムの侵攻。ロシュタリアは危うく滅びるところだったんですぅ!」
「「んなバカなぁぁ!!」」
誠+3の盛大なツッコミ。
しかしいつもにはない、ストレルバウ・ロンズ・アレーレの沈痛な面持ちに誠達は硬直する。
「もしかして…本当なんですか? 博士??」
「嘘をついてどうするのじゃ? 誠君。そこでじゃ、今我々がなすべきことは、ファトラ様をルーン陛下に会わせない事! それしかない!!」
その時である!
「ひゃ〜っひゃっひゃっひゃ〜〜〜! 聞かせてもらったぞ、全てをな!!」
「お〜っほっほっほ!! さすが陣内殿,戦の機というものをしっかりと把握しておるわ」
甲高い笑い声が二つ,一同は慌てて声の元に駆け寄った。
城の廊下のテラスの向こう,そこには飛行型の大型バグロムに乗った幾つかの人影があった。
「陣内! お前、まだ征服征服とかアホなこと言うとんのか?!」
「アホなどと言うな、水原 誠!! ともあれ、王族二人が使いものにならないという今こそが同盟を滅ぼす絶好のチャンスというわけだな」
飛行型バグロムの上でむやみやたらに胸を張るのは陣内 克彦その人だ。
彼の隣には人型のバグロムの女王,ディーバの姿もある。
「おい、青瓢箪,なんか勘違いしてねぇか?」
おどろおどろしい声は誠の後ろから。
「ウチらを忘れておへんか?」
ぶわり
殺気をはらんだ風がゆっくりと起こり始める。
「「ここでお前達を倒してしまえば、なんの問題もない」」
二神官の言葉が重なった、その瞬間だった。
「いやぁぁ!! おっきい虫ぃぃぃ!!!!」
叫びの元はクァウール。
彼女の両手から、鉄砲水がバグロムの飛行艇に襲いかかった。
同時にシェーラの炎,アフラの風が加勢する。
「「んな?!?!」」
驚愕の陣内とディーバ,慌てるカツヲ。
ちゅど〜ん
派手な音を立ててバグロムの飛空挺は爆裂四散!
「「ヤな感じ〜〜〜」」
どこぞの悪役のセリフを、陣内達バグロム勢は青空の彼方へと消え去って行った。
「あらあら、どうしたんです? 皆さんこんなところで」
のほほんとした声は一同の後ろから。
「ルーンさん…??」
誠が声の主を確認した時には、すでに遅かった。
「「ああああ!!!!」」
一同はそう叫ぶしかない。
ルーンはファトラの部屋の扉を開けている。
そして…
「まぁ!」
部屋の中にいた妹を見たルーンの顔色が変わった。
ファトラの変、の再現である。
「取り敢えず、ルーン陛下もファトラ様も今は公職に就けそうもありませぬ」
うなだれたストレルバウとロンズはそう言いながら誠に何かを差し出した。
それは女装セット一式。
「ぼ、僕が?!」
絶対嫌や! そう言葉を紡ぐはずが、
「これ、この通り!!」
「もうこれしかないのです!!」
「そんな…うぅ〜〜」
三年前にロシュタリアの存続が危ないほどのことが起きた,そう聞かされた誠が断れるはずもなかった。
その日の夜。
「こんな事、いつバレるか分からんわ…」
今までしぶしぶながらもファトラの代役を務めていたときにはルーンの存在があった為に、誠はその場にいるだけで良かったのだが、彼一人となると全く事は変わってくる。
ストレルバウとロンズの支援があるとは言ってもそれはあくまで後方支援。
誠には前線で王族として振舞えるだけの知力も、何より演技力もなかった。
ともあれ今日は何とかごまかしたが、明日はどうなるか分からない。
以前のファトラの変においては、ファトラが上から落ちてきた金ダライにぶつかって正気を取り戻したらしい。
”ショック療法でファトラさんは正気に戻るんやろか?”
しかしながら我が身を守る研究とは言え、今の彼は肉体的のみならず、精神的にも疲れきっていた。
フラフラとした足取りで自室への廊下を歩き…
「まぁまぁまぁまぁ!!」
聞き覚えのある声に、誠の背筋が凍りつく。
ギギギ…
まるで油を差し忘れたロボットのように、誠は声の主に振り返った。
そこには右腕にファトラを抱いたルーンの姿。
「しまっ…」
誠、ルーンに捕捉される。
「これは両手に花ですか??」
「あら、こんにちは、誠様」
「勘弁してぇな〜〜〜」
ルーンの左腕に捕まった誠は、そのままずるずるとルーンの私室へと引きづられて行ったのだった。
その日の深夜、ようやく二人はルーンから解放された。
「ファトラさん、しっかりしてぇな」
深夜の廊下,冷たい月明かりが照らし出すそこを、誠は隣を行く同じ顔の少女に無駄とは思いつつもそう頼み込んだ。
ファトラはしかし、寂しそうに誠に問う。
「誠様もわらわを変と申されるのですか?」
「変…て??」
「ロンズ殿も、ストレルバウ殿もおっしゃっていました。わらわはもっと道徳、理論を踏み外した女性であったと」
「いや、そこまでは…」
”言い過ぎやで、2人とも”,誠は内心、毒づく。
いつものファトラがこんなことを言われれば、おそらくあの二人は一生日の目を見ることなく生き地獄を見せられるだろう。
想像だけして、空恐ろしいものを感じながら誠は自身の肩を抱いた。
「誠様は、以前のわらわの方が…お好きですか?」
「はぃ?」
ファトラの思わぬ質問に、誠は首を傾げて彼女を見る。
冷たい光にあてられた王女は、何処か消え去りそうな雰囲気を有していた。
捕まえていないと消えてしまいそうな、そんな不安感を誠は覚える。
「どっちが好きや、かって?」
コクリ、ファトラは頷く。
誠は数秒、指を折りながらアレは良いけどコレはどうかな?などと呟いた後、笑って彼女に振り返る。
「どっちも同じ『ファトラさん』には違いないから、僕にはどっちが良いとは言えへんよ」
「え…」
ファトラの白い頬が仄かに紅く染まる。
「あの…」
「ん?」
「以前のわらわは、誠様のことはお好きだったんでしょうか?」
おずおずと問うファトラに誠は、
「それは…」
考える。
思い出される記憶。蹴られたり、殴られたり、変態呼ばわりされたり…
「ないと思うで」
即答。
「じゃあ、われわは…」
ファトラは真摯な瞳で誠を見て、言った。
「やっぱり以前のわらわとは、違うと思います」
「違う? どうして??」
「だって誠様のことを……今のわらわは誠様のことを胸が痛くなるくらい、好きなのですから」
伏せ目がちに答えるファトラ。
そんな彼女の告白に、誠は己の心音を耳の傍で聞いたような錯覚に陥った。
彼は混乱する。
”何言っとんのや、ファトラさん! 我に返ったら僕、殺されるかもしれへん”
被害者妄想にビクビクしている誠の手に、暖かいものが触れた。
「え?」
ファトラの手だった。
彼女は立ち止まり、両手で彼の左手を握り締めている。
「ど、どないしたの? ファトラさん??」
「私、怖いんです」
「怖い?」
「以前の私って、どんな人だったんでしょう? もしも私が以前の私に戻ったとしたら…今の私は消えてしまうんでしょうか??」
「ファトラさん…」
彼の手を取る彼女の手は、同じ顔を持っていても誠のそれよりもずっと小さく華奢だった。
瞳に映る感情は、いつものファトラとは異なりひどく弱々しい。
ファトラであって、ファトラではない。一体誰なのか?
それがはっきり分からない彼女自身が、一番不安に違いない。
誠はファトラの問いに答えることは出来なかった。
しかし、気が付く。
彼女の両手が小さく震えていることを。
「あ…」
それを知った途端、彼は我知らずの内にファトラを抱き寄せていた。
「誠様…」
彼の胸の中で、次第にファトラの震えが収まって行く。
「ありがとうございます」
小さな声は彼の腕の中。
ファトラが目を瞑って誠を見上げている。
”そう言えば、菜々美ちゃんが言うとったっけ”
誠はふと、思う。
”人って自分に似た異性を好きになるらしいって…ちょ、ちょっと待て、僕!! 僕は自分そっくりな子を好きになるほどナルシストやないで! 好きなのはその人の人格であって…”
無意識の内に誠の唇が、彼女のそれに近づいて行く。
”って、今のファトラさんが好きなんか、僕?!”
そんな内心のやり取りなどいざ知らず彼の唇が、薄くルージュを塗った唇まで近づく。
あと二センチ、一センチ…
「「何やってんだ(のよ)!!」」
ゲシィ!!
ごちん
「「痛っ!!」」
衝撃は誠の後頭部。
物陰から飛び出した菜々美とシェーラのダブルキックが誠を襲い、その衝撃はファトラへと頭突きという形で伝わった。
「ん、わらわはこんなところで何やっているのだ??」
額を押さえて夜空を見上げるファトラ。
そんな彼女の前では、
「ちょっと、シェーラ!」
「うるせ〜よ、菜々美!!」
「イタタ…越前裂きせんといてやぁぁ!!」
まるで浮気現場を押さえられたような誠の姿がある。
「ふっ…全く」
ファトラは己の唇に触れる。
目にも止まらぬ短い時間の感触を思い出しながら、そっと目を瞑った。
彼女の休養の日は、ようやく終わりを告げたようである。
翌日。
「ふっふっふっふっふ…この薬をこうして、と。ふふふふふふ………」
ファトラとの頭突きで回線が切れたのか,誠は危ない精神状態になってしまったが、もともと変態を見る目で見られていたために大して周囲への影響は出なかったそうな…そして、
「「わしらが一体何をした〜〜!!」」
何故かファトラの独断により、地下牢送りとなるストレルバウとロンズの姿があったが、特に気に留める者はなかったそうな………
了