陽の中の幸せ



 シャ!
 カーテンが全開,同時に強い日差しが差し込んでくる。
 思わず彼は、まるで朝日を恐れる吸血鬼の様に布団の中に潜りこんだ。
 そんな彼を見下ろすのは真っ白なエプロン,片手に箒,そして袖をまくって完全武装の主婦である。
 太陽の光に背を押される様に、彼女の右足が布団のふくらみに向って踏み出された。
 ゲシッ!
 「あなた! 天気が良いんだから起きてください!」
 やや甲高い声は、しかし怒りをこらえるかのような『溜め』が僅かに感じられる。
 「休みの日くらい寝かせてくれよ…」
 布団の中からはそんなくぐもった声。
 「お休みの日くらい、子供の相手をしてくださいな!」
 ドゲシィ!
 女性の振り下ろされた右足は布団の上から適確に男の鳩尾にヒットする。
 「うぐっ!」
 寝床から転がり出てきたのは……
 「わかったよ…ったく」
 ぼさぼさの髪を掻きながら、不精髭を生やした男――藤沢 真理は大きく欠伸をしてダイニングルームの方へと向う。
 「あなた,子供の面倒と庭の雑草取り、お願いね!!」
 「へいへい」
 藤沢は欠伸をかみ殺しつつ、背後で掃除を始める妻に手を振って応えた。


 久しぶりの晴天の下、涼やかな風に抱かれて彼女は眼下を眺めている。
 そこには小さな一軒家。
 庭には、ロシュタリアを中心に分布する初夏に咲く赤い小さな花が垣根に沿って咲き乱れていた。
 そんな庭の芝生の絨毯の上、雑草をちまちまと抜いている中年が一人。
 彼の背にはまだ言葉は話せないだろう,幼子が背負われ、久方ぶりの陽の光を浴びてすやすやと寝息をたてていた。
 「ミーズ姉さん…」
 彼女は一人、呟く。
 風の大神官・アフラ=マーン。
 彼女は私用でフリスタリカに寄った帰りに先達である元・水の大神官邸に立ち寄ったのだが、聞こえてきた会話に、いささか腑に落ちないものを感じていた。
 それはアフラ故に感じるものなのか,それともミーズも含めた一般的に感じ得るものなのか?
 確かめるべく、彼女はそこへと降り立った。


 「おひさしゅう、藤沢センセ」
 声に藤沢は雑草を手にしながら振り返り、僅かな驚きの色を浮かべた。
 「おや、アフラくんじゃないか,どうしたんだ?」
 「近くに寄ったもんやから、顔を見にきたんどす」
 笑みを浮かべつつ、アフラは藤沢の背に視線を移す。
 「ぐっすり寝とりますなぁ」
 「ああ。最近は夜泣きしてなぁ,オレも眠くて眠くて、ふぁぁ…」
 大あくびの藤沢に、アフラの表情は一瞬くぐもる。
 「大変そうどすな」
 「まぁな。でも、まぁ、そこそこやってるよ。アフラくんこそ頑張ってくれよ」
 「ウチなりに、どすがね。ちょっとミーズ姉さんトコ行ってきますわ」
 「ああ。ゆっくりして行ってくれよ」
 連日の仕事の疲れも出ているのだろう,やややつれた感じのある藤沢に、アフラは変わらぬ笑顔を向けて家の中へ向った。


 「ああっ,もぅ、またこんなガラクタ持ちこんで!」
 部屋の奥から聞こえてくる声に、アフラは足を向けた。
 そこには藤沢の持ちこんだと思われるかなり使いこんでボロボロになった登山道具一式と、空の酒瓶が転がっている。
 それを前に、箒片手のミーズが悪戦しているところだ。
 その後ろ姿には、かつての水の大神官という要職の面影は、ない。
 「ミーズ姉さん」
 静かな声にミーズは振り返る。
 「あら、アフラ。どうしたの?」
 藤沢と同じ、ちょっとした驚きの表情でアフラを迎えるミーズ。
 が、かつての後輩の硬い表情を見て、ミーズは椅子の一つに腰を下ろした。
 アフラは藤沢に見せたような笑みの仮面を付けることなく、困惑したような、それでいてやや怒ったような表情を浮かべていた。
 そしてミーズは知っている。
 こんな時のアフラは、彼女の持ち得る知識では解決できない問題を抱えているということを。
 「おっしゃってみなさいな?」
 柔らかな声で、ミーズは言う。
 アフラは頷き、単刀直入に問うた。
 「ミーズ姉さん……姉さんは今、幸せどすか?」
 問いに、ミーズは面食らったような表情を一瞬だけ浮かべる。
 一瞬だけ浮かべ、
 納得した様に頷いた。
 「見て分からないかしら?」
 「……ウチの見たままだと、幸せには見えませんわ」
 「そうかしら? じゃ、残念でした。私はとっても幸せよ」
 微笑みを浮かべてミーズは告げる。
 そんな答えにアフラは眉を寄せた。
 「昔の姉さんは神官として、立派でしたわ。それは同時に充実もしていた生活だったはず。でも今の姉さんはどこにでもいるおばさんやわ。それに生活も大変そうやし…それでも幸せなんどすか?」
 言ったアフラの頭を、ミーズは軽く箒の柄で突ついた。
 「失礼ねぇ,まぁ、貴女らしいけど、ね」
 くすくす笑うミーズに、アフラは憮然。
 「確かに色々大変よ。生活も、育児も、それに主人とも喧嘩するし、ね。でもそれだからこそ、幸せなの」
 「??」
 「大切な人と大切な子を守り、自分を飾らなくて良い、安心できる場所を作る……それって、とっても幸せなことなのよ」
 自慢げに、胸を張ってミーズ。
 「…そうなんどすか?」
 「もっとも、こればっかりはアフラも体験しないと分からないと思うわよ。理屈じゃないからね」
 「はぁ」
 アフラは困惑の表情を浮かべる。が、次の言葉に、
 「で、気になる相手は見つかったの? それともまだ誠くんを狙ってるのかしら?」
 「ね、狙ってなんかいませんわ!」
 真っ赤になった。
 「そう? まぁ、良いわ。ところでお昼くらいは食べて行くんでしょ?」
 「お邪魔やなければ」
 「何を遠慮してんのよ」
 椅子から立ち上がりざま、風の大神官の頭をくしゃっと撫で、ミーズは庭に向って叫ぶ。
 「あなた,お昼ご飯にしましょう!」
 「おー!」
 聞こえくる藤沢の声。
 それに、ミーズの表情が異なる笑みに変わる。
 優しく、穏やかな微笑。
 かつての大神官のそんな横顔を見つめながら、アフラは理屈ではなく、何となく感覚でミーズの言葉をホンの少しではあるが、知ったような気がした。



End...