豊かなる大地と穏やかな人々が住まうロシュタリア。
その遥か東方,広大な聖大河をも越えたそこには、同じ空気の中とは思えぬ世界が広がっている。
そこに存在する国の名は、バグロム帝国。
女王ディーバに支配された、虫の支配する荒野である。
大地の真ん中には、主に土を材料とした巨大な建造物が構えている。
人間の技術では真似ることのできない、超弩級の城を思わせる要塞。
それこそがこのバグロム帝国の中心地,女王ディーバの住まう城であった。
聖大河に面したその要塞の隅に、彼はいた―――
誰もスペアにはなれなくて
足元の遥か下に広がる水面に、細い糸が伸びている。
川の流れに沿って吹く風は、案外強い。
細身の彼にならば、ホンの少し風の力のベクトルを変えてやることで、聖大河へとダイブさせることもまた可能かもしれない。
この場合、硬い外骨格を持つバグロムならば「グモ?(何スルデスカー!)」の一言で済むであろうが、この地に唯一の『人間』である彼にとっては、この高さからの水面はコンクリートに匹敵する。
もっとも、そんなことはお構いなしに、彼は釣り糸を水面に垂らしたまま、聖大河の向こうを眺めていた。
まるで対岸にある景色をその目に映しているかのように。
「ご主人様ぁ〜〜」
不意に、風に乗って可愛らしい少女の声が届いてきた。
「どこにいらっしゃるんですかぁ〜〜?」
声は次第に近づいてくる。が、釣り糸を垂らす彼に動きは全くない。
まるで声を風の音と同じと思っているかのようだ。
探索の声はやがて、
「はぶっ!」
同時にゴチンと何か堅いものがぶつかる音。
タタタタタタッ
軽快な駆ける足音とともに、
「ごじゅじんざまぁぁぁ!!!」
涙声の叫びが彼の真後ろで響き渡った。
「ああっ、うるさいわっ!!」
とうとう彼は、振り返る。
東雲高校の制服であるブレザーに身を包み、髪はこの風の中であっても乱れることなく7・3に分けている。
陣内 克彦。バグロム軍の軍師,ディーバの片腕――もとい実質上のバグロムの支配者である。
そして額に大きなたんこぶを作って、大きな瞳にいっぱいの涙を溜めている少女――伝説の鬼神として恐れられている,もとい力はあっても持ち前のドジで総合はマイナスとなるこの娘の名はイフリータ。
奇しくもこの2人こそがロシュタリアが恐れるバグロム軍の(悪)知恵袋と、(制御の効かない)軍事力なのであった。
「で、何だ?」
溜め息一つ、陣内は額をさするイフリータにぶっきらぼうに尋ねた。
「転んじゃいました、テヘ」
陣内はイフリータのコブの上を更に殴り付ける。
「ななな、なにするんですかぁーーー!」
「誰も貴様のたんこぶの事など聴いておらんわー!!」
「じゃあ、何をお聞きになりたいんですか?」
二段になった額のコブを両手で隠しながら、イフリータ。
その言葉に陣内の額に怒りの四つ角がもう1つ、増える。
「貴様はここに何しに来たのだ?」
「え? ええと……」
考え込むイフリータ。
陣内は彼女のその様子から諦めたのだろう,再び釣竿を手にしてその場に腰を下ろした。
彼の隣にイフリータは遠慮がちに腰掛ける。
一際強い風が、イフリータの長い黒髪を上空へと弄んでゆく。
「何やってるんですか? ご主人様??」
イフリータは陣内と釣竿を交互に見比べて、問う。
陣内は先程と同じく聖大河の向こうを見つめたまま無言。
「あの、ご主人様??」
肩を突つく、すると陣内は大きな溜め息一つ。
「釣りだ」
「釣り?」
「魚をこの糸の先の針に引っかけるのだ,そしてこぅ、釣り上げる」
言って彼は、軽く釣り竿を振った。
しかしリールも何もないこの竿で、遥か下の魚を引っかけたとしてもどうやって釣り上げるのかは不明である。
「でもお魚さんが自分から針に引っ掛からないと思います。痛いだけなんじゃないですか?」
「針の先には魚の餌を付けるのだ。魚は餌とは気付かずに食べて、針に引っかかると言う訳だ」
「へぇ、さすがご主人様! すごいですねー」
「そうだろう、そうだろう。ヒャーッハッハッハー!」
別に陣内が釣りを考え出した訳ではないのだが、やはりこの2人には独特の世界観があるようである。
「それじゃ、ご主人様。今夜はカツオの叩きですね!」
「…何故そんな料理を知っている?
「マグロの刺し身だとかタイのお頭付きも食べたいなぁ」
不覚にもよだれを垂らしながら、イフリータは今晩のおかずを夢見ていた。
その隣ではようやく静かになった彼女にほっとした陣内が、再び釣りに専念し始めていた。
日が傾く頃、イフリータはとうとうこのセリフを口にした。
「釣れませんねぇ」
「そりゃ、そうだ」
何を言っている? そんなニュアンスを込めて陣内は首を傾げる。
「餌が付いておらぬからな」
「な、なんでーー!?」
引き上げた糸の先には、それもまっすぐな針。縫針が一本くっついていただけだった。
「中国の故事では、高名な軍師である太公望は良く考え事をするのに釣りをしながら色々と思索したと、ある」
「??」
「つまりはそういう事だ。まぁ、いらぬモノは一匹釣れてしまったがな」
イフリータに小さく笑い、陣内は彼の言葉を理解できずに首を傾げる彼女の額を軽くデコピン。
「いたぃ! あ!」
イフリータはハッと立ち竦む。そして、
「ご主人様、思い出しました!! ディーバ様が『ロシュタリアを攻める作戦はまだか?』って聞いてこいって言われたんです、あたし。どうしよう…」
陣内は自信に満ちた表情で彼女に振り返った。
「フン,今日一日、私が何をしていたと思う?」
「釣り…」
ゴメス!
陣内の無言のゲンコツがイフリータのドあたまに炸裂。
「さて、働いてもらうぞ、イフリータ! 今度こそ誠めに、いや、ロシュタリアの連中をギャフンと言わせてやるわ!!」
「ふぇぇ?! あたしもですか?」
「当然であろう?」
「でも…」
イフリータは僅かに溜め息を吐いて、申し訳なさそうに呟いた。
「あたしだと、きっとまた失敗しちゃいます。あたしの代わりにタラさんとか使った方が…」
ゴメス!
「いたぃ〜〜〜〜」
2度目のゲンコツに、イフリータは目に涙を溜めて頭を抱える。
「何を甘えて事を言っている?」
「いえ、あの、また失敗して迷惑をかけちゃうのは目に見えてますしぃ」
「失敗するな!」
「そー言われても…」
「やる前からそんな気持ちだから失敗するのだ!」
「はぅー」
「何より、誰かのスペアになど誰もなれはしない。お前ができることはやはりお前にしかできはしないし、イクラができることはイクラにしかできぬ。せめて自信だけは持て」
「ご主人様……」
「まぁ、お前が失敗してもちゃんと対策は打ってあるからな,今回の作戦は」
「それはひどいですー!」
「ならば失敗するな」
「あぅー」
陣内の後ろを慌てて付いて行くイフリータ。
ふと彼女は思い出した様に愚痴た。
「カツオの叩き、食べたかったなぁ」
「カツオを叩くのか? 存分に叩けば良い」
「カツオさんじゃありませんよー、お魚さんのカツオです!」
「大して変わらんではないか」
「食べられません!!」
沈み行く夕日を前に、2人は城の中へと消えて行く。
長い長い影を残しながら………
了
これは大屋氏にお贈りしたものです。
氏のHP閉鎖の為、こちらに移管致しました。