『眠りの秘密』
著者:元
「ねぇ、蘭東さん?」
「何かしら、田波君?」
新神楽オフィス,車がなければ唯の置物な姫萩嬢を指差し、唯一の男性社員は鬼のような速度で電
卓を弾くOLにそう、声を掛ける。
「どうして姫萩さんはあんなに眠れるんでしょうね?」
「あら、知らなかったの?」
シャシャ! ペンを書類に走らせながら、蘭東は顔だけを田波に向けて逆に問う。
「知りませんよ,蘭東さん、知ってるんですか?!」
ガタリ、立ちあがり彼は驚きの眼で彼女を見つめる。
ふぅ、大きな溜息を吐いて蘭東はペンを置き、椅子に背を預けて呟いた。
「そっか…田波君もそろそろ知っていて良い頃よね。この娘の悲劇を…」
彼女は悲しみに満ちた視線を、眠り姫に向けて続ける。
「教えてあげるわ、悲劇の始まりを,全ての戦いの始まりを、ね」
ゴクリ
田波の唾を飲む音が、やけに大きくオフィスに響いた気がした。
「あの頃、私達はバリバリのレーシングチームだったわ」
「レ、レーシングチーム?!」
「ええ。あれはル・マンの耐久88時間レースのこと…」
遠い瞳で虚空を見つめる蘭東。
「ライバルのハウンドと黒猫,私達との三つ巴の戦いだったわ」
「化け猫もデスカ!?」
「夕は、88時間を不眠不休で走り抜いた…化け猫の破壊工作や、ハウンドのお色気(男)作戦を
も突破してね」
「はぁ…」信じられない物を見る様に、田波は今だ眠る姫萩を見つめた。
実に男っぷりな居眠りだ。
「結果は優勝,でもその代償は大きかったわ。88時間の不眠不休は夕の体を蝕んでいたの。それ
以来、彼女は一日20時間以上眠らないといけない体になってしまったわ」
「…そうだったんですか」納得顔の田波。
そう、神楽という会社は彼女の体質を受け入れて、居眠りも仕方ないと考えているのだ。
なんと素晴らしい会社だろう!
「嘘に決まってるでしょ」
「へ?」
「ったく、気付きなさいよ,そんなだからハウンドの女に手玉に取られるのよ! ほら、この計算しておいてね!!」
書類の束を呆然とする田波に投げつけ、再び今度は請求書の計算に入る蘭東。
「…嘘、ですか。そうですよね,俺、素直だから成沢さんにも騙されるし…」
何故か、まるで子猫の様に妙に背中を小さく丸めて田波は計算機を叩く。
「ぐぅ…」
今日も、いつもと同じな姫萩嬢の安らかな寝息が小さく響いていた。