日も暮れ、月のきれいな真夜中。
 ロンドン郊外に広大な土地を抱えた邸宅が建っている。
 その長い年月が経過したと思わせる屋敷の地下に彼女はいた。
 「ふぁぁ〜」
 婦警は一つ大欠伸をして、未だに慣れぬ棺桶に片足を突っ込んだ。
 いや、彼女の格好からすると婦警とは呼ばずにセラスと呼んだ方が良いかもしれない。
 いつもの制服はハンガーで壁にかけてあり、彼女は今や薄紫色の大きめのパジャマに同色のナイトキャップをかぶっていた。
 右腕にはテディベアのぬいぐるみなんぞを抱えていたりする。およそ吸血鬼と呼べる雰囲気ではなかった。
 「おやすみな〜い」
 誰ともなくそう呟き、セラスは棺桶の中に横たわり…
 ”おい”
 「ん?」
 声が響いた。
 セラスは上体だけを起こし、あくびに涙を浮かべた目で左右を見る。
 しかしいつもの殺風景なコンクリートの壁が四方に見えるだけだった。
 ”セラス”
 「は、はい!」
 今度ははっきりと聞こえた。忘れるはずもない主人の声に、セラスの眠気は一気に吹き飛ぶ。
 アーカードである。無論、この部屋にいるわけではない。
 主である彼は吸血鬼の能力の一つ『念話』にて彼女の頭に直接呼びかけているのだ。
 「なんでしょう?!」
 ”屋根の上で待っている。来い”
 「は?」
 アーカードはそれだけ言うと一方的に会話を打ち切った。屋根の上,そこは言うまでもなくこの屋敷で一番高いところであり、一般の者が登るような所ではない。
 「何だろう? こんな時間に来いだなんて…」
 セラスはパジャマのボタンに手を掛けながら考える。
 人気のない深夜、月の美しい夜空の下でアーカードと二人きり………
 「お呼びですか? マスター」
 ゆっくりと従者に振り返る黒衣の紳士。
 「え?!」
 彼は無言で彼女の肩を掴み、引き寄せた。セラスはアーカードにきつく抱き締められる。
 驚きに硬直するセラスの耳元に、熱い吐息と一つの言葉が吹き付けられた。
 「私と伴に悠久の時を歩んでくれないか?」
 セラスは次第に体の力を抜き…コクリ、小さく頷いた。
 やがて二人は月の光に見つめられながら口づけを…
 と、そこで頭の中のテープを停止させる。
 数瞬の後、セラスの顔が真っ赤に染まった。考えていた事を打ち消すかのように、ぶんぶんと頭を横に振る。
 「そんな,マスターに限ってそんな感情があるはずが! 恋愛よりも殺戮を取る人だし…でもこんな時間の呼び出しといったら…あぅ〜どうしよ〜,『私の為に味噌汁とか作ってほしい、というかむしろ作れ!』なんて言われたら〜〜」
 一人、ぱたぱたと慌てつつ、何故か卸したての下着に替えるセラスであった。



 緩やかな風が流れている。
 パタン,納戸が開く音に黒衣の紳士はゆっくりと振り返った。
 おずおずと彼に歩み寄ってくるのは一人の少女とも呼べる歳頃の女性。
 白いワンピースに身を包む彼女の姿は、月の明かりに背後から照らされ、アーカードの位置からは体のラインがはっきりと透けて見て取れた。
 「あ、あの、マスター。こんな時間に一体?」
 近づいてくる彼女に、アーカードはやや怪訝に眉をひそめて小さく呟く。
 「こんな時間だと?」
 「はい?」
 「我々は何だ?」今度ははっきりとした口調で尋ねられ、セラスは戸惑いつつも答える。
 「吸血鬼…です」
 「そう、夜族だ」アーカードは呆れた様に肩の力を落とす。
 が、気を取りなおして婦警に一歩足を踏み出した。
 「え?!」彼は無言で彼女の両肩を掴む。
 先程の無駄な想像が、瞬時にセラスの頭の中でリプレイされた。
 ”亜柄御●異柄★得江?!!?(←理解不能らしい) ど、どうしよう?!?! マスターと私の歳の差ってものすごいのに。あ、でも愛に歳の差は関係ないっていうし……そうじゃない!”
 サングラスの隙間から覗くアーカードの瞳が、真っ直ぐセラスの瞳を捕らえていた。
 ”で、でも、マスターなら良いかな………何より私にとって初めての(血を吸われた)人だし……”
 アーカードの彼女の肩を掴む力が強まった。
 ”優しくしてください……マスター……”キュッと目を瞑るセラス。
 そして…
 引き寄せられると思ってばかりいたアーカードの手は、逆に彼女を突き飛ばす!
 「そろそろ飛んでみろ」アーカードの声。
 「へ?!」場違いな台詞に慌てて目を開く。
 セラスは彼女の主人が急速に上昇して行く映像に戸惑いを覚える。
 いや、違う。彼女が『落ちて』いるのだ。
 屋根から突き落とされたのである!!
 「天国に飛んじゃうかも…」
 迫り来る中庭の舗装を眺めながら、セラスは涙目で十字を切った。



一滴の血液



 「やはりダメでしたか」
 「ああ、棺桶で寝ようが、やはり血を吸わんとダメだな」
 「しかし吸わないのだろう?」
 3人の男女は顔を突き合わせて悩んでいた。
 この屋敷の長、インテグラ。執事であるウォルター,そしてアーカードの3名だ。
 話題は言うまでもない,もう一人の吸血鬼・セラス=ヴィクトリアについてである。
 「半年も私の下で吸血鬼をやっていれば、翼で夜空を飛べるはずなのだが」
 「やはり何はともあれ、血液を摂らせることを考えねばなりませぬな」アーカードの言葉にウォルターはそう結論付けた。
 「だが、あの娘にどうやって飲ませる? ありゃ、死んでも飲まんぞ」
 インテグラの言葉に、しかしウォルターはニヤリと死神の微笑を浮かべた。
 「お嬢様、食事療法です。私めに良い方法がございますゆえ…」
 「死神コック・ウォルター…また見れるのか」ニヤリと、これまたアーカードが笑みを浮かべる。
 「…ま、ほどほどにな」
 ヘルシング局長の声には、どこか哀れみが含まれていたと後に吸血鬼は語っている。



 翌日のヘルシング隊員達の食堂。
 額に大きなバンソウコウを張った婦警は、何故か給仕を務める老人を怪訝に見つめていた。
 「あの、ウォルターさん? 何を企んでいるんですか?」
 「別に何もありませんよ。単に給仕が休みを取ったので、代わりに私がやっているだけです」
 英国紳士はそう言って小さくお辞儀を一つ。
 「そ、デスカ。ま、いいや。私、A定食お願いしますね」
 席に座ってセラスは彼に告げた。
 「了解しました。特別コース1つ!
 「ちょっとぉぉ!!」慌てて婦警。
 「私めのオゴリでございます故」笑ってウォルターはたしなめる。
 途端、セラスの顔色が喜色に変わった。
 「え、ホントですか? ラッキー」微笑む彼女。
 そんな彼女のテーブルの上にカクテルグラスが置かれた。
 「食前酒にございます」
 赤い液体が注がれている。セラスは首を傾げ、それを一口含んだ。
 …何やら生臭い匂いと、強いアルコールが舌を刺激する。
 「マムシの生き血酒でございます」
 「ぶふぅぅぅ!!」それを赤い霧にして吐き出すセラス。
 「な、な、な、何を飲ませるんです! ウォルターさんぅぅ!! 精力強くして何させるつもりデスカ?!」
 「では次は前菜を」
 「聞いてくださいよ!」
 コトリとセラスのテーブルの上に小皿が置かれた。
 仄かに赤い色のソーセージにソースがかかり、レタスなどのサラダが添えられている。
 「子牛の血のソーセージ・独逸仕立てでございます」
 セラスはフォークとナイフで切り分け、口に運ぶ。思ったよりも上品な味が口の中に広がった。
 「へぇ、おいしい…」
 「主采のレバニラ炒めでございます。赤飯にてお召し上がりください」
 「………」いきなりジャンルの変わった内容に彼女は動揺。
 ”レバニラ炒めに赤飯? 多国籍料理なの?!”
 戸惑いながらも食しつつ、最後の皿を給仕は置いた。
 「デザートは鳩の血のプリンです」
 「なんか赤とか血とかばっかりですね〜」不信の色を瞳に宿しつつ、セラスはしかし血のプリンを口に運ぶ。
 濃厚な香ばしさと、透き通るような喉ごしは逸品だった。
 「ごちそうさまでした。美味しかったです」
 「では最後にドリンクをどうぞ」
 「………ウォルターさん??」
 セラスは目の前のそれに唖然とする。
 ウォルターが置いたのは輸血パック。AB型だ。
 「ささ、そろそろこれが欲しくなってきた頃ではありませんか?」
 「いりません!」
 「我慢は良くないですよ」
 「してません!」
 「体は欲しがっているでしょう?」
 「他人が聞いて誤解するような表現しないで下さい!!」
 ”なんか変な料理かと思ったらこ〜ゆ〜ことだったの………”セラスは溜息一つ。
 「手ぬるいぞ、ウォルター!」
 「「?!」」
 突然上がった声に、セラスとウォルターは振り返る。
 アーカードを従えたインテグラがつかつかと歩み寄ってきた。どこか物陰から覗いていたのであろう。
 「そんなものではダメのメのメだ! 私が究極の血の料理を作ってやる」
 言いながらインテグラは厨房へと入って行く。
 「お、お嬢様! イカン!」
 「イカンって??」 
 「第一級緊急事態と判断。状況A「クロムウェル」発動による承認認識…
 「ま、ますたー??」
 「警報を鳴らせ! お嬢様を止めろ!」
 二人の様子に慌てる婦警。ヘルシングがバレンタイン兄弟によって壊滅に近いダメージを受けた時ですら、これほどまでの緊張感はなかった。
 「もう遅い! 全員緊急退避!!」ウォルターはその場を逃げ出す。
 「ちょ、どうしたんですか,マスター!」
 「知らんのか?」
 形を変えつつあるアーカードはセラスを一瞥する。
 「では教育してやろう。本当に吸血鬼が恐れる事態というものを…」
 言い残し、アーカードは小さなネズミに細分化。それは周囲に散らばり…
 「?? 逃げた??」
 いつしか食堂にはセラスしか存在しなかった。
 「痛!」
 「?」
 厨房からの聞き慣れた声に、セラスは早足で向かう。
 「インテグラ様、どうしました?」
 「切ってしまった」
 苦笑いを浮かべ、制服の上からエプロンを着たインテグラは右手を振る。
 持参していたのか,ニンジンの絵柄の入ったエプロン姿の彼女はいつもはない妙な家庭的な雰囲気を醸し出している。
 「もぅ、気をつけてくださいよ」
 セラスは厨房の棚に置かれた救急箱を取り出すと、インテグラの手を取った。
 すらりとした形の良い人差し指に、一筋の赤い線が走っている。
 「浅いですね」
 言ってセラスはインテグラの傷を軽く舐める。
 「あ…」
 「どうしました?」
 「いや、なんでもない…」
 慣れた手つきでバンソウコウを巻くセラスに、インテグラは僅かに頬を赤らめて微笑する。
 「でもインテグラ様、何作ろうとしてるんですか?」
 「ん? ヘルシング家に伝わる逸品をな。暇なら手伝え」
 「はい」
 そして二人の女性の談笑と、料理の音が静かな屋敷に響いていた。



 その夜、吸血鬼にも、死神にも、ついでに傭兵にも忘れられない恐怖の時間が襲い掛かったという。
 結局セラスは今まで通りに血も飲めず、空も飛べなかったというのは言うまでもない。