月下に私と踊りましょう


 北アイルランド地方都市ベイドリック。
 その近郊…
 「相手は人形,一発撃って、それでおしまい…人間じゃないの。遠慮しないで、怖がんなくて大丈夫」
 最近まで使われていたと思われる四階建ての、煉瓦造りのアパルトメント。
 人気のない、ただ血生臭さが仄かに外へと漏れるその建物の中を、ショットガンを片手に背を丸めて恐る恐る歩を進める女性が一人。
 女性…というには若すぎる彼女は警察の制服に良く似た衣装に身を包んでいる。
 肩の腕章には『HELLSING』の文字が入っていた。
 英国王立騎士団『ヘルシング』,英国王室に身を捧げる、伝統ある化け物退治部隊だ。
 そんな,部隊としては精鋭といっても過言はない一団に彼女のような、おっかなびっくり両足を進める少女が所属できるものなのだろうか?
 彼女はぶつぶつとまるで念仏を唱えるかのように同じ言葉を繰り返しながら、やがて一番最初に足を踏み入れた、玄関である階段の踊り場に出た。
 三階まで吹き抜けになったホール状の踊り場は、天蓋に開いた大きな窓から浩々と真円の月が冷たい光を彼女に突き刺す。
 思わず見上げる彼女の瞳は…真紅。
 よくよく見れば通常の人間にしては長い八重歯が形の良い唇からホンの少し覗いている。
 吸血鬼である。
 人間では到底追いつけない動体視力,体力,再生能力を有した夜の一族。人間を食らう、生態系の頂点に位置する種族。
 それが彼女だ。
 もっとも吸血鬼は太陽に弱いわ水にも弱いわ,さらにはニンニクがダメで血しか飲めないという偏食ぶり,果ては主なるイエスへのお祈りも十字架が怖くて出来ないというダメっぷりも必然的にその身に有している。
 彼女は特にそういった弱い部分のみをピックアップしたような,そんな吸血鬼だった。
 彼女の名はセラス=ヴィクトリア。
 ヘルシングの鬼札・吸血鬼アーカードに見初められた栄えある吸血鬼(見習い)である。
 「ほぁ〜、綺麗なお月様…」
 彼女は天上の月の光に理由のない力強さを体の芯に感じながら、視線を前に戻す。
 セラスの使命はこの建物に巣食った猟奇殺人を犯す吸血鬼を『殺す』ことである。
 がたん!
 唐突に、目の前の階段の中途で音がした。
 「で、で、で、出てきなさい!!」
 声が上ずっている。
 がたん,がつがつがつ…
 力強い足音が階段を降りて近づいてくる。
 ジャコッ!
 セラスはショットガンをコッキング,階段を降りてくる一つの人影に狙いを定めた。
 がつがつがつがつ…
 黒いズボンが、見えた。
 次に黒いコート,胸に揺れるロザリオのペンダント…そして、
 両手に黒く光る、二振りの小剣。不精髭と、丸眼鏡の奥に光る狂信の眼光。
 最後に短く刈り込んだノーブルグレイの髪。
 「あ、アナタは…」
 セラスは、絶句。
 姿を現したのは彼女の聞いていた吸血鬼ではなかったのだ。
 「フン,新教の犬のドラキュリーナ…か」
 鼻で笑って一瞥した彼――アレクサンド=アンデルセン――はその視野に呆然とする婦警の姿を捉えたのだった。



 「何だと! あの破壊神父がアイルランドに来ているだとぉぉぉ!!」
 英国はロンドン郊外に建つ伝統を感じさせる広大な敷地を有した屋敷。
 その主と思われる執務室では、驚き八割・絶望二割なアルトな女性の声が響き渡っていた。
 もっともその中に祈るような要素がないところが、彼女の性格を現しているようだが。
 「はい。当局の傍受班によりますと、たまたまカトリックの会合に呼ばれていたアンデルセン神父が単独行動に出たとのことで…如何いたしましょう、お嬢様?」
 あくまで冷静に、主である女性の指示を仰ぐ執事の老人。
 彼の名はウォルター=C=ドルネーズ,このヘルシング家に仕える執事である。
 そして彼の見つめる前で、椅子に身を預け難しい顔をする浅黒い肌を有した女性。
 長い金髪をかきあげ、ある一点をじっと見つめる。
 そこにあるは黒い影。
 影は問うた。
 「何だ、インテグラ?」
 「何だではない、アーカード」
 やや怒気をはらんだ声でインテグラと呼ばれたこの家の主は続ける。
 「このままではセラスは…死ぬぞ」
 最後の一語を迷ったように口にしながら、インテグラは吸血鬼アーカードの反応を待つ。
 だが、彼の反応は彼女の幾筋かの想像とはどれも当てはまらなかった。
 「…アンデルセン如きに滅ぼされる同族などはいらん」
 抑揚なく、あっさりとまるで日常会話をするかのように彼は言葉を放つ。
 「ちょ…アーカード,相手はあのアンデルセン神父だぞ! あのセラスが敵う筈もないだろう?!」
 思わず席を立ってインテグラ。そんな主にか,それともアーカードの態度にか、調度品のように控えるウォルターの眉が僅かにゆがむ。
 アーカードは興味なさそうに視線をインテグラから窓の外,ベイドリックと同じ満月の浮かぶ空に移す。
 その白い面にいつしか薄い笑みを浮かべて。
 「相手は所詮人間…我ら夜の王たる吸血鬼が退くことなど許されまい…そうだろう? セラス=ヴィクトリア」



 「アンデルセン神父?」
 恐る恐る婦警は尋ねる。もっとも尋ねられた彼は周知の事実を答える必要もない,一歩また一歩、目の前の彼女に向かって歩を進める。
 セラスは彼の持つ剣――儀式洗礼の施された小剣――にくすんだ赤い色がこびりついているのに気が付いた。
 「あの、もしかしてここにいた吸血鬼を退治してもらえたんですか?」
 「そうだ」
 ニタリ,笑みを浮かべてアンデルセン。
 その答えにセラスの態度は、アンデルセンには予測し得ないものだった。
 「ありがとうございました」
 ペコリ、頭を下げる。
 アンデルセンは怪訝な顔で足を止め、月下の彼女を見つめた。
 人を脅かす人でない者,それは彼の滅ぼすべき相手。
 そして付け加えるならば、プロテスタント――彼にとっては異教――の者。
 敵である。
 彼の両手のそれぞれ構えた剣に力がこもる。
 「よしっ、これでここも平和になりましたね」
 「平和…だと?」
 気楽に言った彼女に、アンデルセンは訝しげな目を向ける。
 「そうですよ。人を襲う吸血鬼を倒したんでしょう? 一件落着では…ないんですか?」
 アンデルセンの目の色にあからさまな殺気を感じ、セラスは思わず一歩後ろに退いた。
 「ドラキュリーナ,お前に問う」
 両手の剣を交差させて、アンデルセンは神託を下すかのように厳かに尋ねた。
 「お前の言う平和とは何だ?」
 「安全に暮らせること…です。無闇に戦うことじゃないと思います」
 即答。
 「フン」
 対し、神父は失笑。
 「平和とは平和平和と口で言うだけで手に入るものではない,戦って、殺し、殺されて始めて手に入るものだ」
 「アナタ…本当に神父ですか?」
 額に汗し、セラスはショットガンを構え直した。
 「お前の言う平和と、私の言う平和は同じモノではないということだ。己の思う平和を実現したいのならば…敵対する全てを滅ぼしてから平和と声高らかに叫ぶが良い!!」
 二本の剣が、月光を照り返して牙を剥く!
 セラスは向かい来る神父の特攻を凝視,普段は見えないはずのイスカリオテ精鋭の動きが、何故か見えた。
 体の奥から沸々と湧き上がる不思議な力…それは夜族を祝福する月の魔力であることを彼女は後に知ることになる。
 “右!”
 身を捻る,左のわき腹の制服がはだけ、うっすらと血の滲んだ白い肌が顕になる。
 「痛みを知って、始めて他人に優しく出来る…そう言いたいんですか!」
 右手だけでショットガンの引金を引く,近距離の射撃はしかし、アンデルセンの右手の剣の刃を打ち砕いたに過ぎない。
 続けざまに神父の左手の剣が婦警の背を狙う。
 それをセラスはショットガンの銃身を左手に,振り上げて銃床部分で彼の剣を叩き上げる!
 「む!」
 ジャコ!
 神父の左手から小剣が、放物線を描いて後方へと弾け、飛ぶ。
 同時にセラスの持つショットガンのローディングは成された。
 「そんなの、間違ってます! 人を傷つけて、殺して…そんなんじゃ、新しい恨みが生まれるだけです!!」
 「それはお前の考え方だ」
 再び右手にショットガンを持ちかえる婦警。
 懐から剣を放つ神父。
 速度は同一!
 ガゥン!!
 至近距離でみぞおちにショットガンの衝撃を受けた神父は後ろへ3m、吹き飛ばされる。
 対し、婦警は細い喉に剣を一本生やしていた。
 「ッツ!」
 ズルリ,
 セラスは目に涙を貯め、剣を引抜いた。祝福を施された剣は彼女の喉を,塚を掴んだ掌を焼く。
 がらん
 床に剣は落ちる。セラスは前方,胸に穴を開けながらも平気で佇む異宗派の神父を見つめた。
 “勝てない…”
 「フン,やるではないか、お嬢さん。見かけとは違う、意思の強さだ。強い奴は嫌いではない」
 ニタリ,狩人の目が光った。
 セラスはショットガンを構える,残弾は二発。胸ポケットに五発…
 だがその必要はなかった。
 「お嬢さんの言う平和,次に会い見舞える時までもっと堅固に、もっと強くしておくのだな」
 突として背を向ける。セラスはその背にショットガンを…撃つことは出来なかった。
 「また会おう,英国の誇り高き女吸血鬼よ」
 アンデルセンは結界の札を一枚、引き千切って玄関から去っていく。
 バタン
 閉じた両開きの玄関の戸を、セラスは見つめる。
 「次は…かぁ」
 吐息一つ。
 彼女は頭上で輝く月を見上げた。
 いつしかその紅い瞳に強い意思が宿っていた。



 「アーカード!」
 詰め寄る主に、黒の貴公子は穏やかな瞳を向ける。
 「んな?」
 当惑するインテグラ。アーカードは思い出すように言葉を綴った。
 「どうしてセラスを同族に迎えたと思う?」
 挑戦的でもない、知っているか知らないかだけを問う単純な問い。
 インテグラは小さく首を横に振った。
 「強いからだ」
 一言。
 説明すら許さぬその一言を放ち、彼はインテグラの何か言いたそうな顔を見ることなく、再び窓の外の月を見上げる。
 遠く、彼の眷属が見上げるその月を。


Fin